四獣神家の屋敷で一泊した後、信乃と荘介は名前に連れられて旧市街の古那屋を訪れていた。女学校の見学に行く浜路には要が付き添ったため、行く宛も無かった彼らは快く名前の提案を呑んでくれたのだ。

「あ、お前! この間の欠食児童!」

信乃を見るなり大声で叫び出した古文吾を見て、名前はぱちぱちと瞳を瞬かせた。いつも通り古那屋の客間にいるため多少声を上げても問題はないが、これが玄関先だったら女将にどやされていただろう。

「二人とも知り合いだったの?」
「あー、まあ色々あって一緒に飯食ったんだよ。それで名前、こいつが昨日言ってた?」
「ええ。古文吾、こちら犬塚信乃さんと犬川荘介さん。兄が後見人を務めていて、昨日から屋敷に滞在しているの」
「どーも」
「よろしくお願いします」
「信乃、荘介。こちらは古那屋の跡取り息子の犬田小文吾。鬼よ」

ぴしりと空気が凍る音がしても、名前は気にせず微笑んでいる。その後、誰も発言しないことに対して首を傾げながら、一人で呆れたように眉を下げる少年を見遣った。

「信乃は薄々感づいていたでしょう? 古文吾がただの人間じゃないって」
「そりゃ何となくは分かってたけど! いきなり正体明かされるとは思わねーだろ!?」
「ついでに言っておくと、私には妖狐の魂が宿っているわ。半人半妖の不老不死人間よ。少し信乃に似ているわね」

名前は自らの掌を軽く額に当て、一瞬にして狐の耳を頭から生やした。一級品の毛並みを誇るそれをひょこひょこと動かしながら、唖然としたように口を開く三人を順々に見回していく。

「……まさか、こうもあっさり暴露されるとは思わなかった」
「あら。信乃、気を遣わせてごめんなさい。でも私に対してその必要は無いわよ。むしろ遠慮される方が不快だわ」
「今のでよーく分かった。で、結局俺らを引き合わせた目的は何なんだよ?」
「簡単よ。協力してほしいことがあるの」

瞬く間に頭の耳を消し、名前は真剣な表情を宿して普通の人間に擬態した。

「ねえ信乃、荘介。朱雀門に人を喰らう鬼が出る、という噂を知ってる?」
「ああ、それなら大通りで何度か耳にしたぞ。なあ、荘」
「ええ。帝都に来た初日には既に聞いていたと思います。余程広まっている噂なんでしょうね」

名前は満足そうに頷いて、表情を強ばらせる古文吾を横目に口を開く。

「それなら話が早いわ。その鬼の正体は、古文吾の兄で憲兵隊長を務める犬飼現八。───人を喰らう度胸なんてない、臆病な雷鬼よ」
「雷鬼……?」

信乃が呟くと同時に、ぴんと糸が切れたような音がした。名前は弾かれたように顔を上げて襖に目を遣ると、掌を音の出処に向けて翳す。

名前が妖避けのために張っていた結界に転がり込んできたのは、尾崎の五狐が一人、金狐。常には無い程に強ばった表情は、緊急事態が起こったことを示している。

「金狐、何があったの」
「名前さま、要からの伝言です。早急に屋敷まで戻ってほしいとのこと。浜路殿の顔に、傷が」

一切の表情を削ぎ落とし、名前は頷いた。今にも飛び出しそうな信乃と荘介を目で制しながら、淡々と状況確認をしていく。

「要は笙月院へ向かった?」
「いえ、浜路殿に付き添っています」
「それなら安心ね。私もすぐ戻るわ。……古文吾、こちらから呼び出したのにごめんなさい」
「いいって、気にすんな。俺もこれから実家の手伝いしなきゃいけねえしよ」

古文吾は、昨晩名前が話した少女の名を覚えていたらしい。屈託なく笑ってくれたその優しさに甘えてから、名前は懐から小さな包みを取り出した。

「金狐、これが傷薬よ。お願いできる?」
「はい、勿論でございます」
「水でよく洗い流してから、傷跡に沿ってこの軟膏を塗ってね。その後、ガーゼで患部を覆って決して乾燥させないように。到着したら私が処置するわ」
「承知いたしました。それでは失礼します」

瞬く間に古那屋を飛び出した三人の背を見て、古文吾はただ深く息を吐き出した。

「尾崎の五狐に、名前さまね。……ったく、あれ以上一体なにを抱えてんだか」



「明日の晩、笙月院にお邪魔しましょう」

浜路の治療を終えた名前は、自身の診療所に呼び寄せた男性陣の前で高らかに宣言した。突飛に思えるその言葉に驚愕の表情を示したものはおらず、中でも古文吾は悔しさを堪えるように拳を強く握る。信乃と荘介は冷静な瞳で名前を見返していた。

「それって、さっき言ってた犬飼現八って奴に関係あんの?」
「ええ、信乃。その通りよ。笙月院に捕らわれた現八を連れ戻すために協力してほしいの」
「協力つっても、俺に出来ることなんて限られてるだろ」
「あくまで私がお願いする立場ではあるんだけれどね。でも信乃、これは貴方自身のためでもあるわ」
「信乃のため……?」

剣呑な表情を見せた荘介に、名前は頷く。

「笙月院の僧、青蘭。現八を捕らえているその男は、貴方の正体を知っている」

警戒心に満ちた空気の中、古文吾は一人でやんわりと苦笑していた。名前は不器用だ。相手を思い遣ったが故の発言をしたとしても、物言いが端的すぎて誤解をさせてしまうことが多い。単純に言葉が足りないのだ。傍から見ればもどかしくなる程に。

言葉を選ぶように沈黙を続ける信乃と荘介を見てから、古文吾は先陣を切るように声を上げる。

「名前、何でそんなこと分かるんだ?」
「古文吾、貴方は気付かなかった? 金狐が来る前に、私の結界を破ろうとする羽虫が何匹か飛んでいたのよ。要の証言も得たから確信したわ。あれは青蘭の使い魔ね」
「だからって、信乃を狙ってるとは断言できねえだろ?」
「いいえ、奴は感づいている。でなければ浜路ちゃんを狙った理由が説明できない。あの羽虫にそこまでの知能が無かったと言えばそれまでだけれど、よりにもよって要の前で手出しするなんて有り得ないわ。弱い虫ほど、強大な敵の前からは逃げるものよ」

黄金色の瞳に暗く澱んだ色を宿し、名前はうっすらと微笑む。信乃はその様子を真っ直ぐ見詰めながらも、物怖じせずに堂々と問い掛けた。

「それで、結局俺は何をすればいいんだ?」
「何も難しいことは無いわ。現八の身に巣食っているのは、妖を喰らう雷鬼。もしもその性質が暴かれたとしたら、今帝都で最も妖気を発している者を追いかける筈なの。もちろん四獣神家の獣神は除いてね」
「成程な。そりゃ俺を選ぶわけだ」

妖刀村雨は、犬塚信乃の腕に宿る退魔の剣だ。命尽きる運命であった筈の信乃に、生を与えた存在。名前の大切なひとを貫き息絶えさせた諸刃の剣は、この明るく優しい少年の身体に巣食っている。

「五狐を退けた貴方の強さは信頼しているの。でも、協力があるに越したことはないと思って」
「事情は分かった。その現八って奴が鬼になる前に救出するのが第一目標。もし間に合わなければ、俺たちで協力して迎え撃つってことだな?」
「そうよ。流石理解が早いわね、信乃」
「……なんだよ。子供扱いしやがって」

信乃の柔らかな頭を撫でながら微笑んでいた名前の表情が、次の瞬間張り詰めたものへと変貌した。

その場の誰もが、背筋が粟立つような、背骨に氷が差し込まれたかのような不快感と危機感を感じていたことだろう。それは、いくら日常的に妖が蔓延る帝都であろうとも存在してはいけない強大な妖気。急速に膨れ上がるその気を発する正体は、間違いなく雷鬼だ。

自分の言うことを聞かない現八に痺れを切らした青蘭が、とうとう強硬手段に出た。そう考えるのが妥当だろう。

「まったく、……本当に堪え性のない男なんだから」

笙月院の僧達に、あの鬼を扱いきれるとは思わない。すぐに現八は帝都に解き放たれ、妖を根こそぎ喰らい尽くすだろう。妖が持っていた悪意をその身体に蓄え、魂を汚く濁らせて。そうなれば、人間としての精神がその重圧に耐えられず、鬼として生きることになる可能性だってあった。

そんなことはさせない。これ以上、あの繊細で臆病で愛に飢える男を傷付けさせたりはしない。

───ねえ現八。もう一度だけ、貴方の口から聞かせてほしい。永遠に私のために生きると言ったその言葉を、私は信じているから。

名前は不敵に微笑み、背後を振り返る。さあ、作戦開始だ。