旧市街の大通りにその鬼はいた。筋骨隆々たる身体を軽々と操りながら、鉄塔に留まって街を見下ろしている。

未だ夕餉の時刻である帝都は、薄暗闇に覆われているものの人通りが多い。そんな日常の中に突如現れた恐ろしい形相の鬼は、人々を恐怖の渦へ落としていった。

現八がその身体に宿すのは、妖を喰らう鬼だ。人間にとって無害な存在である筈なのに、彼らは容貌が恐ろしいというだけで鬼を迫害する。

異形と見れば何であれ断罪しようとする浅慮さと独善性は、名前にとって忌むべきものだ。だが、鬼そのものを生んだのは人の意思である。人がいなければ、鬼のみならず神さえも存在し得ない。鬼を生んだのは人であり、鬼を生かすのもまた人なのだ。

名前に出来るのは、これ以上騒ぎを大きくしないこと。先程から、微弱な怪異すらも現八の気に当てられて活発になっている。人々の畏怖の感情に加え、雑鬼たちの力も吸い取ってしまえば、現八の中に眠る鬼の魂が強大化し、心臓を喰い破る可能性だってあった。

名前は隣を走る信乃、背後で必死な形相をしている古文吾にちらりと目を遣った。犬と魂を折半する荘介は、その身を犬に変化させて先頭を颯爽と走っている。

現八との距離はまだ遠い。名前の診療所は旧市街の外れにあるのだ。大通りの中心で街を見渡す鬼の元へ辿り着くには、まだ幾分か時間がかかりそうだった。

「信乃、現八は迷いなくあなたを狙う筈よ。いつ交戦しても構わないように街外れまで誘導できる?」
「おー、別に問題ないぜ」
「余計なお世話かもしれないけれど、怪我をしても私がいるから安心して頂戴」
「了解。あと名前、一つ確認したいんだけどいいか?」
「どうぞ」
「あいつは確かに鬼だけど、……ヒトなんだよな?」
「ええ。信乃や荘介や古文吾、それから私と同じ。笑って泣いて誰かを愛することしかできない、人よ」
「ん、それを聞いて安心した。それじゃ行ってくる」

信乃は迷いを吹っ切ったように瞳を明るくさせて、軽やかに跳躍した。人の波で足止めを食らうことを避けるため、屋根を伝って一気に近付こうとしたのだろう。止める間もなくその背中を小さくさせていく信乃に苦笑してから、名前は足を止めて荘介に叫んだ。

「荘介、信乃のことを頼んだわよ」

走りながらワンと大きく吠えてくれた頼もしい姿に頷いてから、名前は古文吾を伴い踵を返した。
西には大きな川がある。信乃からすれば村雨がその名の通り最大限に力を発揮でき、笙月院からすれば怪異を焼き払おうが証拠隠滅しやすい場所だ。
予想通り西へ向かった現八と信乃を見て、名前は笑顔のまま古文吾を振り返る。

「古文吾。私を抱えて飛んで頂戴」
「……はいはい、分かりましたよ」



犬田家の実家は、帝都の郊外にあった。木造平屋のしっかりとした造りで、和室洋室どちらも完備済みの素晴らしい環境である。
名前は毛布に包まりながら、古文吾が作ってくれた雑炊を黙々と口に運んでいた。口にする度、冷えきった身体に優しく熱く染み渡っていく。

今は、ちょうど日付が変わったくらいの夜分遅い時間だった。三人の診療をしただけでこんなにも疲労が溜まっているのは、確実に川へ飛び込んだためだろう。名前はそこまで柔な身体をしているつもりはない。

結局、鬼となった現八は信乃を襲い、その最中に笙月院の僧達と遭遇した。青蘭が従えた僧達は数多の弓矢を放ち、それが信乃を庇おうとした荘介に刺さってしまったのだ。信乃はそのまま川へ転落した荘介を追いかけ、弓矢に追い込まれた現八もまた身を沈めることとなった。

どうやら青蘭は標的を現八から信乃に変えたようで、鬼など目もくれず村雨を手に入れることに躍起になっていた。

青蘭は、本妻の子供ながら尾崎家を追われた過去を持つ。妾の子であった弟を蹴落とすために力を欲していたのだとすれば、雷鬼を狙うのは妥当な判断だろう。実際に今の現八は、尾崎の五狐すべてを喰らう程の妖力を秘めている。

しかしそれは、妖刀村雨の力には到底及ばない。妖狐として最上位に位置する、空狐の神通力すらも削り取る程に圧倒的な妖力。それはどんな兇悪な怪異すらも無力化し、破滅に追いやれる程の力だ。

だがそれは、過去の学友や血を分けた弟にすら私怨を向けるような矮小な男が扱いきれるような代物ではないというのに。

鬼のまま傍の森で息を潜めていた古文吾は、名前を抱えながら川へ潜り、三人を救出することに成功。そして人目のつかない場所で話し合った結果、郊外のこの家に来ることを決めたのだ。

此処には古文吾も現八も時折宿泊しており、名前も遠方の診療帰りに寄ることがあった。見知った所であるため身体も落ち着かせやすい上に、環境的に周囲を気にせず暴れ回れる。何より料理の具材が揃っていると聞いたら、これ以外の選択肢など無かった。

居間の壁に身体を預けながら、名前は空いた器を片手に床に座り込んでいた。扉を開けて顔を出した古文吾に向けてひらひらと手を振り、隣に座るよう促す。

「少し様子見てきたけど、全員ぐっすり眠ってたぞ」
「ありがとう。古文吾も少し休んだ方がいいわ」
「あー、そうだな。すまん」
「一番の功労者はあなたなんだから、もっと堂々とふんぞり返ればいいのに。……私は今回、現八を怒る資格が無いんだもの」
「名前、……あのさ」

どこか言いにくそうに、古文吾は口を濁す。普段ならば怒るところだが、名前は黙って先を促した。

「兄貴のこと、どう思ってる?」
「あら。随分と踏み込むわね」
「俺は、名前にも現八にも幸せになってほしいんだよ。……特にお前は肝心なことだけ何も言ってくれないからな、こうして聞くしかないだろ」
「優しいのね、古文吾は」
「お節介なだけだ。それに、誰にでも優しいわけじゃねえよ」
「うん、分かってる。……本当はね、少し怖いの。きっと私はこれから先、現八を傷付けてしまうから」
「それは、姉貴のことか?」

現八が死んだという知らせを受け、誰とも知らぬ子供を身篭ってしまった沼藺。その事実を伏せると決めたのは犬田夫妻で、同調したのは名前だ。

現八は未だに、沼藺が自分の死に絶望し川へ身を投げたのだと思っている。だが実際のきっかけは、現八が生きているという知らせだったのだ。

不貞行為を知られてしまうという恐怖は、少なからずあっただろう。だがそれ以上に沼藺を突き動かしたのは、きっと現八を信じきれなかったという自分自身への失望だったに違いない。

すべて見た名前は知っている。犬田沼藺は常に孤独だった。現八と交わした約束すらも疑ってしまう程に、他者から愛されている自信を持てない人だった。だから沼藺にとって、死は終わりではなかった。自身を全てから解放できる唯一の手段だったのだ。

ただ寂しかった。一人でいたくなかった。その感情を、名前は知っている。

「私は、今の現八になら沼藺さんのことを話しても大丈夫だと思うわ」
「ああ、俺もそう思う」
「だからこの不安は、私自身の問題なの」
「それは、俺が聞いてもいい話なのか」
「……本当にくだらないのよ。聞いたら笑われちゃうわ」
「笑わねえよ。現八も俺も、お前を笑うなんてこと絶対にしねえ」

古文吾は、痛い程に真っ直ぐな瞳で名前を見た。それから僅かばかり困ったように目尻を下げ、いつものごとく柔らかく笑う。

「だから、現八のこと信じてやってくれ」

名前は心臓を針で突かれるような痛みを覚える。結局は自分も、現八の想いを信じきれていなかったのだと痛感したのだ。



現八が眠る寝室へ滑り込むように入ってから、名前は布団の傍らにそっと腰掛ける。庭に続く襖は開いており、月明かりが均整のとれた肉体を照らし出していた。はだけた胸元から覗く鎖骨や胸板は美しく、無防備に投げ出された手脚は逞しいながらも引き締まっている。

右頬の牡丹に指を滑らせると、温かな温度が伝わってきた。生きている。それだけのことがあまりにも尊く、息が出来ない程に嬉しいと思った。

「……名前」

低く掠れた声に名前を呼ばれた。さすがの回復力だと感心しながら、名前は微笑む。

「起きたのね、現八。気分はどう?」
「ああ、悪くない。お前がいてくれるからな」
「私は真面目に聞いているんだけど」
「俺も真面目に答えてる」

呆れたように嘆息し、名前は現八の瞳を覗き込んだ。

「悪趣味」
「何とでも言え」
「悪趣味なのは私も同じだけど」
「……名前?」
「ねえ現八。私はやっぱり、あなたのために生きることは出来ない」
「承知の上だ。それでもいいと言った筈だが」
「私、曖昧な関係のままでいるのは好きじゃないの」
「……いつも何かとはぐらかすのはお前の方だろう」

現八は、傷付いたような顔をしながら名前の手を握る。それは冷たい名前の指先を包み込むようでいて、迷子の子供が母親に縋るような仕草だった。

「あのね、現八」

薄暗闇を切り裂くように発せられた声は、しかし豪快な足音に掻き消されることになる。背後の襖が勢いよく開いたかと思えば、焦ったような表情の古文吾がそこにはいた。

「名前、青蘭の奴もう来やがった。しかも火矢を大量に用意してるみたいなんだよ!」

どうやらあの羽虫も無能では無かったらしい。結界が張ってあるとはいえ、此処は鬼二人に妖刀と妖狐の気配が満ちている空間だ。見つかるのも時間の問題だとは思っていた。

「分かった、すぐに行くわ」
「あ、兄貴起きてんのか!? 俺だけだと心許ないから手伝ってくれ」
「……状況は何となく掴めた。古文吾、得物はあるか?」
「おう、ここに置いとくな。俺はこれから信乃と荘介の所にも行ってくる。どうやら家の周りは全部囲まれてるみたいで、早急に対処しねえとまずそうだ」

鞘に入った刀をいくつか置きながら、古文吾は慌てたように捲し立てる。その最中、現八は弟から初めて聞く名前にそっと首を傾げた。

「信乃と荘介?」
「現八、あなたが襲った子のこと。詳しい説明は割愛するけど大塚村の生き残りで、一人は水も司る妖刀を飼っているから戦力になると思うわ。……古文吾、お願いね」
「了解。それじゃこの場は頼むわ」

古文吾は先程と同じように、激しく足音を立てて廊下を走っていく。信乃と荘介は彼らの育ちを考慮して洋室に通していたので、この部屋からは少し距離があった。

「現八、あとで話があるの。聞いてくれる?」
「奇遇だな、俺もだ」

微笑み合ってから、二人は抜き身の刀を手に表へと出る。ここには鬼と妖狐が揃っているのだ。敗北してやる気など更々無かった。



憲兵隊長の権限を使い過去の資料を洗い出しても、当然ながら里見の情報など出てくる筈が無い。目的の物は、やはり教会の中でも四獣神家に眠っているものなのだと元々予想がついていた。

どうしたものかと思案してから、現八は思い出す。学生時代、自身を目の敵にしていた男の出生を。正直なところ、尾崎の名に胡座をかき驕っていた奴など殆ど気にしていなかったが、背に腹は変えられない。

もしも青蘭が抵抗するならば、大人しく諦めて名前本人と話し合えばいいと思っていた。

そんな呑気な考えだった現八に、青蘭は余程恨みを持っていたらしい。正確に言うと、実弟へ八つ当たりできない故の憂さ晴らしとして、これ以上無い程に最適な存在だったのだろう。

───里見名前は、犬飼現八に嘘を吐いている。

そのたった一言に心が揺れてしまったことを、今でも現八は激しく後悔していた。そんな言葉などあっさりと受け流し、本人に真相を聞けば良かったのだ。

だが現八は、ずっと不安だった。名前の一番になれなくとも名前のために生きる、という覚悟は嘘ではなかったが、どうしても欲は生まれる。現八は、名前が教えてくれたように人間であったから。想う人との心の距離が、途轍もなく遠いものであることが辛かった。

一度でいい。名前から愛されてみたかったのだ。

───犬田沼藺の不貞による妊娠。そしてそれを隠蔽しようとした里見名前。その事実を聞き、現八の心を占めたのはどうしようもない軽蔑だった。勿論愛した女性に対してではない。自分自身への失望だ。

きっと現八は敢えて避けていたのだ。名前と真正面からぶつかり合って、拒絶されるのが怖かった。せっかく手に入れた光を、自分のせいで失ってしまうことに耐えられそうもなかったのだ。

結果的にこの感情をきっかけとして、現八は鬼に身体を明け渡してしまうこととなる。

結局現八は弱く臆病で、どうしようもないほど愛に飢えていた。本来ならば、名前の隣にあることを願うことすら烏滸がましいのだろう。

ならばせめて、自身の気持ちにケジメをつけなければならない。そう考えながら瞳を開いた瞬間、目に飛び込んできたのは、現八を慈しむように見詰める黄金色だった。

───嗚呼、逃れられない。逃げたくない。共にいたい。

犬飼現八は、どうしようもない程に里見名前を望んでいた。難しく考えることすら馬鹿らしくなる程にその欲求は激しく、強く、尊ぶべきものだった。

鬼が二人と妖刀に妖狐。それは、笙月院など瞬く間に蹴散らしてしまうくらいには強力な陣営だった。

火矢により引火し雷鬼の力により燃え上がった炎は、無事に村雨が降らせた雨で鎮火していた。結果的に家は燃え尽きてしまったが、こちら側に怪我人は一人も出ていないのだから及第点と言えよう。

現八は煤汚れているのも気にせず、上裸のまま夜空を仰ぐように座り込んでいた。瓦礫の山を背にすれば、視界にはどこまでも続く暗闇を内包した大きな森しか見えない。

「現八、風邪を引くわよ」

涼しい顔で歩み寄ってきた名前は、服装がどこも乱れていない。いつも通りの様子に、現八は流石だと苦笑する。

「不老不死でも風邪は引くんだな」
「当然でしょう。寝不足になれば怠くなるし、熱だって出るわ。自分を過信しすぎないことね」
「肝に銘じておく」
「……古文吾が心配してたわよ。小夜子さんも」
「そうだな、女将には明日謝りに行くとしよう。古文吾はどうした?」
「信乃と荘介を古那屋で休ませるからって先に行っちゃったわ」
「……随分と気を遣われているな」
「私も現八も、古文吾にとったら問題児だもの」

現八は、無邪気に笑う名前の頬を慈しむように撫でた。

「名前、愛してる」

不思議なほどあっさりと、それは口を衝いて出る。言われた当人は意外そうに瞬きを何度も繰り返してから、諦めたように目尻を下げた。

「あのね現八。私、もう子どもを産めない身体なの」

紅く色付いた唇から飛び出したその言葉に絶句する。名前にとってその事実が何を意味するのか分からない程、現八は馬鹿ではない。

「私は、もう二度と愛するひとの子どもを産むことが出来ない。一年前までは、そのことに何の未練も無かったわ。……それなのに不思議よね。今ではこの身体が、こんなにも憎らしくて堪らない」
「……名前」
「あなたの子どもが産めないことに勝手に引け目を感じて、そのせいであなたを傷付けてしまうことが怖かった。あなたの全てを望んでしまう自分がいるの」
「お前は、それでずっと悩んでいたのか」
「……くだらないでしょう?」

どこか怯えたように膝を抱えた名前の全身を、現八は強く抱き締める。

「そんなわけがないだろう」
「……沼藺さんを看取って、初めてあなたを知った時から予感していたんでしょうね。天日と何もかも正反対で、貪欲なまでに生を望むあなたを、眩しく感じる時がきてしまう。───私はきっと、いつか現八を愛してしまうって」

現八の腕の中で、名前は泣いていた。はらはらと零れ落ちていく雫を掬いとるように手を添えると、その美しい顔は心底幸せそうに緩んでいく。

「こんな私でも、いいのかしら」
「こんなにも不器用で、いじらしくて臆病なお前だから、俺は愛おしいと思う。……何もかも一人で抱え込むな。名前のすべてを、俺は知りたい」
「知りたいなら、ちゃんと自分で暴いてみせて」
「ああ、望むところだ」
「ばかね。もう、本当に……ばかなんだから」

更に涙が溢れ出す目元に唇を寄せると、名前の耳が紅く色付いていった。想いが溢れて、止まらない。

「名前」
「……なに?」
「愛してる」
「…………知っているわ」

何よりも愛しい人と交わす口付けは、何とも甘美で心地好い。体温が溶け合ってしまう程に幾度も幾度も重ね、最後には名前の照れくさそうな表情をまるごと胸の中に閉じ込める。

自分は名前に出逢うために生まれてきたのだと、何の躊躇いもなく現八は思った。