06
「おはよう、名前」
起き抜けに見た光景は、何とも甘ったるい顔で微笑む現八の姿だった。鈍る思考の中、名前はぼんやりと昨晩の記憶を辿っていく。
迫り来る火矢の熱さ、人を斬った感触、交わした唇の温かさ。名前は、全てを鮮明なまでに覚えていた。
「……おはよう、現八」
身体の奥からぶわりと湧き上がった羞恥心故に、名前は思わず掛け布団で顔を覆う。胸に秘めていた想いを認めてしまったせいだろうか。現八を見るだけで、泣きたくなる程に心臓が熱くなった。
「朝食ができているそうだ。食べれるか?」
「ええ、大丈夫。すぐに行くわ」
迫り上がる気恥ずかしさを抑え込みながら、名前は何とか顔を出して返事をする。そうか、と柔らかく笑う現八は、まるで愛おしい宝物を扱うような視線を向けてきた。
「そうだ、名前」
「何かしら」
さすがに、いつまでもこんな気の抜けた姿を見られたくはない。名前の思考を察したように現八はすぐ出口へ足を向けたが、一度踏みとどまってこちらを振り返る。
そして、蒲団の上で上半身を起こしただけの名前の傍らに膝を付き、流れるような動作で口付けをした。一瞬の出来事に目を見張った名前を満足そうに見遣って、現八は囁く。
「名前、愛してる」
「ば、……ばかじゃないの! 分かったから早く出ていって!」
「……寝間着姿のお前は充分に堪能して目に焼き付けたつもりだが、まだ離れ難いな」
「これからいくらでも見る機会なんてあるんだから! 私の邪魔しないで!」
「着替え、手伝ってやろうか?」
「言うこと聞かないなら引っ叩くわよ」
「お前に与えられた痛みならばむしろご褒美なんだが……、これ以上長引かせて嫌われるのも嫌だな。食堂で待ってる」
完全にその姿が見えなくなった瞬間。胸に満ちた想いを消化するように、名前は拳を布団に振り下ろした。
「…………現八のばか」
*
「お。名前、おはよ」
食堂の椅子に悠々と座っていた信乃は、名前を見付けると嬉しそうに手を振った。隣に座る荘介も礼儀正しく会釈をしてくる。
何とも元気そうな様子に微笑みながらも、荘介の向かいに座る現八からの視線には知らんぷりをした。
「おはよう、信乃。荘介も。身体の具合はどう?」
「はい、お陰様で何ともありません。傷が綺麗に消えていたので、正直驚きました」
「それなら良かった。少しだけ妖狐の力も使ったから、何か影響が出ないか心配していたの」
「俺も荘も何とも無かったぜ。……名前の力は確かに感じたけど、不思議と安心するんだよ。もしこれから先も何かあったら、よろしく頼むな」
「ええ、いつでも頼って頂戴。村雨に呼び掛ければ、遠くにいても対話出来るようになっているから」
驚いたように目を丸くする信乃の横で、現八は不満そうに頬杖をついていた。
「なんだそれは、羨ましい」
「現八、あなたいつも私の居場所を察知して勝手に寄ってくるでしょう。何を羨ましがる必要があるの」
「俺も名前の声をいつでも聞ける権利が欲しい」
「はいはい、鬼の姿なら出来る筈よ。それよりも、三人で何を話していたの? 昨晩のことかしら」
ぴしゃりと言い放った名前にも動じず、現八は不満そうに押し黙る。苦笑する荘介の横で、信乃は思索を巡らすように頬杖をついていた。
「そー。結局、青蘭の奴がどうなったのか分からず終いだろ? どうもスッキリしなくてな」
「それなら心配いらないわ。要が丁重におもてなしした筈だから」
「何であいつが……って、成程な。浜路か」
「ええ。それに、尾崎に任せておけば事態も上手く揉み消してくれるもの。本当なら、現八にも手を下す権利はあったけれど」
「今回の事態を招いたのは俺自身の弱さだからな。別に拘らない。まあ、お前を傷付けられたなら容赦はしなかったが」
「……私はそんなに柔じゃないわよ」
現八の隣に腰かけ、名前は気持ちを切り替えるように息を吐いた。目の前に座る信乃の手を取り、花が綻ぶように笑う。
「改めて、ちゃんとお礼を言わせて頂戴。昨日は本当にありがとう、信乃」
「むしろ名前がいなかったら、訳も分からず鬼ごっこする羽目になってたからな。こっちの方が感謝してるっつーか、……それよりも謝らなきゃいけないことがあるというか」
「なんだ信乃、着替えでも覗いたのか」
「誰がするか!」
「なに? お前はそれでも男か。……いや確かに見た目は俺好みだが」
「信乃、この馬鹿は気にしなくていいわ」
名前は気軽に言葉を交わす二人を見て驚くも、雲行きが怪しくなってきたため会話を無理やり打ち切った。
「それで、どうしたの?」
「……昨日さ、鬼の姿した現八と対峙した時、見ちまったんだよ。お前達のこと、色々と」
その言葉が指すものは、簡単に予想がついた。一年前に起こった、神隠しに関する事件とその真相だろう。
犬飼現八は、今時珍しい程に純粋で向こう見ずな男だ。命が尽きそうになれば鬼に喰われながらも生を掴み取り、愛する女性が亡くなった時は何の躊躇いもなく後を追おうとする。
常に現八を掻き立てるのは、純度の高い願望。誰かを愛し、誰かに愛されたいという、幼子のような願いだった。
鬼の姿をしている際は、その願望がより強く表に出ている。怪異に関して人より感受性の強い信乃は、必要以上にそれを感じ取ってしまったのだろう。
「そうなの。わざわざ説明する手間が省けたわね」
「……名前ならそう言うと思ったけどさ。勝手に見たのは事実だから。現八も、悪かった」
律儀に頭を下げる信乃を見て、名前と現八は密やかに視線を重ねる。
犬塚信乃の素直さはなんとも好ましく、愛おしいものに映った。他人から無遠慮に踏み込まれるのは好かないが、信乃にならば見られてもいいと名前は素直に思う。
「なら、今度一緒にデートしてくれないかしら?」
「は!?」
「おい名前、信乃を誘う前に俺を誘え。……いや、むしろ三人で行けば家族連れに見えるか」
「あのね、真面目に言ってるのよ。……私の子どもの魂が、まだ現世に残ってることが分かったの。詳細はこれから調べるけど、やっぱり人手は欲しいじゃない。現八も古文吾も、勿論来てくれるでしょう?」
鍋を抱えながら食堂へやってきた古文吾に振り返ると、呆れながらも確かに微笑んでくれていた。
「名前がようやく誰かに頼ることを覚えたんだもんな。仕方ねえからついてってやるよ」
「あら失礼しちゃうわね。私そんなに一人で動いた覚えは……、ないこともないけど」
「はいはい、素直に認めろよ。今日は肉うどんにしといたけど、名前好きだったよな」
「……私のことを全て見透かせているとは思わないことね」
「そりゃ悪かったな。あと兄貴、信乃と荘介も。すぐに人数分持ってくるから待っててくれ」
古文吾は、不満をありありと表情に出している名前の頭を撫でてから、足早に食堂を出ていく。
名前は美味しそうに湯気を立てる鍋を見て息を吐いたものの、突如髪を梳かれる感覚に襲われて目を丸くした。
「何よ、現八」
「好きなものを愛でるのに理由がいるか?」
「……別にないけど、いきなりだと驚くでしょ」
「おいお前ら、嬉しいのは分かるけど、あんまり目の前でイチャつくなよ。見えないところでやれ」
信乃が呆れたように呟くと、名前は恥じらうように俯き、現八は自信ありげに笑った。
「名前が世界一可愛くて綺麗なのが悪い」
「ばかなんじゃないの!?」
*
「名前、今日はどうするんだ」
朝食後、現八は緑茶を啜りながら名前に問う。信乃と荘介は浜路に会うため屋敷に帰っており、古文吾は家の手伝いに戻ってしまったので完全に二人きりだった。
「診療は後輩に任せるから、浜路ちゃんの勉強を見てあげようかとも思ったんだけど」
「信乃の幼馴染か。だが今日くらいは、三人でゆっくりしたいんじゃないか」
「そうね、帝都に来てからずっと目まぐるしい日々だったし……。私の教本は置いてあるから問題ないかしらね。本人にはまた改めて意思確認をしておくわ」
「そうか」
「現八は、憲兵隊に出向かなくていいの?」
「今朝一番に行ってきた。話を通すべきお偉いさん方は、どうやら今日都合がつかないらしくてな。後日改めて話をすることになったんだ」
「そう。行動が早いのね」
「今日一日くらい、お前と共に過ごしたかったからな」
現八は、僅かばかり不安を滲ませた表情で柔らかく目尻を下げた。
「……駄目か?」
「駄目ならきちんと言うわよ。私は」
「ああ、知ってる。名前がもし良ければ、付き合ってもらいたい場所があるんだが」
「ええ、勿論。……その、私も行きたい所があるんだけど」
「ああ。お前が望むならどこへでも」
「特定のお店に行きたいわけじゃなくて、少し服を見たいの。ほら、私いつも同じ系統の服装ばかりでしょう」
「ああ、名前なら洋装も似合うだろうな。いつもの赤もいいが、淡い色のワンピースなんかもいいんじゃないか」
「そうかしら。……家が用意していたから、昔は洋服も着ていたんだけどね。忘れたい過去から目を背けるのも、そろそろ終わりにしようかと思って」
「名前が好きなものを着ればいい。もし決められないなら、俺がお前に似合うものを選んでやるから」
「そう?……嬉しいわ」
あの日見た真っ赤な血潮を忘れないために、愛しいひとを救えなかった自分を戒めるために、名前はずっと同じ格好ばかりしてきた。周囲に悟らせないように敢えて色味が強い和服を選んでいたが、あれは名前にとっての喪服だったのだ。
いざ好きなものを着ていいと言われると、正直どうしていいのか分からなくなってしまう。だから今度は、好きなひとのために服を選んでみるのも悪くないと思った。
*
青空を閉じ込めたようなシフォンワンピースに、純白のヒール。白い肩を慎ましく隠すベージュのショールは、歩く度にふわふわと揺蕩い人目をさらった。
腰まで届く髪はゆるく三つ編みをしてサイドに流し、匂い立つ程に美しい首筋が覗いている。普段は決して見せない耳元も大胆に晒され、アメジスト色のカフスピアスがキラリと光っていた。
「……やっぱり落ち着かないわね」
大通りを抜けて人気のない路地に来ると、名前は肩を竦めて笑う。容姿が整った人間が隣にいると、こうも視線を集めるものかと呆れてしまった。
現八は、ダークブラウンのシャツに白いパンツというシンプルな装いをしている。キャスケット帽を目深に被ってなるべく顔を隠してはいるが、真っ直ぐに通った鼻筋や胸元から覗く鎖骨は噎せ返る程の色気を帯びていた。
男性的な雄々しさと、彫刻かと見間違う程に浮世離れした美しさを兼ね備えている姿は、神から愛された存在だと言わんばかりに周囲を圧倒している。しかしこの男が実は鬼だと言うのだから、現八に焦がれる町娘はさぞ不憫だと思った。
「名前が美しいからな。本当は誰の目にも触れさせたくないし、攫って閉じ込めて俺のことだけを見てほしいものだが」
「そんなことする必要ないでしょう。これから嫌って言う程ずっと一緒にいるんだから」
「……そうだな。まあ半分冗談だったが」
まったく、と呟いてから名前は視線を遠くへ投げた。石畳が敷かれた寂れた路地は、雑鬼の気配すら殆ど感じない。
「私、今まで容姿を褒められても特に嬉しくなかったの。自分自身で勝ち取ったものではないし、ただの遺伝によるものだから。けど、現八の隣にいるのに相応しい容貌なのだとしたら、少し嬉しいわ。初めて生家に感謝したかもしれない」
「……名前」
「何よ」
「愛してる」
「…………しつこいわよ、もう」
耳を紅潮させた名前は、怒りをありありと顔に浮かべたまま現八の手を取った。
嬉しそうに指を絡めてきた現八は、名前が言葉にできない想いすらも全て汲み取ってくれているのだと分かる。それに甘えてばかりではいられないと分かっていながらも、名前の口は可愛らしくない言葉ばかり吐いてしまうのだ。
沼藺の墓の前で頭を垂れる現八に続き、名前もまた手を合わせる。
感謝と謝罪と、これからに向けた意思表示。端的に、けれど最大限の謝辞を込めて対話をしてから、名前は長々と沼藺に話しかける現八の背中を見詰めた。
「名前、行こう」
「……もういいの?」
「ああ、また話すことが出来たら来るさ。またな、沼藺」
手を繋いだまま、二人は無言で歩んでいく。墓地を抜けて人気の無い川辺へ来ると、現八は懐かしむようにぽつりと言った。
「昔はよく、沼藺のままごとに付き合っていたんだ。名前は幼い頃、何で遊んでいた?」
「本を読んで森を走り回ったりしていたけど、私もままごとしてたわよ。いつも天日が旦那様で、私が妻役。八房はペットだったわ」
「はは、獣神を付き合わせるなんてお前くらいだろうな。目に浮かぶ。天日も嫌々ながら、お前に優しく付き合ってやっていたんだろう」
「そう。普通の平凡な夫婦を演じて幸せに浸って、馬鹿みたいに浮かれてね」
「俺なんか、苗字に犬が入っているからと犬の役もさせられていたぞ」
「へえ? ちゃんと鳴き声も真似していたの?」
「ああ。沼藺から、本物みたいで嫌だと文句を言われるくらいにはな」
「目に浮かぶわ。現八も沼藺さんも、結局気が強くて似ているものね」
「そうだな。……沼藺がいたから、今の俺がある」
「ええ。私と現八を繋げてくれたのも、沼藺さんだったもの。感謝しなくちゃ」
旧市街の外れ、高台の上に犬飼家の屋敷はあった。
執事の牧田に挨拶と交わすと、名前は恐縮する程に世話を焼かれてしまう。現八は涼しい顔で微笑んでいたが、名前は元々人から甲斐甲斐しくされるのに慣れていないのだ。
すると、いつの間にか夕餉を共にし、宿泊することまで決まっていた。普段よりも慌てていた名前は、妙にやる気を見せる現八に押し切られてしまう。
洋風の豪華な御飯を頂き、大きい浴槽にゆったり浸かった後、名前は現八の自室にいた。柔らかいベッドに腰を掛けつつ、静かに憤慨する。
「納得いかないわ」
「いいだろう、たまには。俺に丸め込まれてくれ」
「……外だと人目が気になるから、確かに有難いけど」
「良かった。俺の独り善がりだと、さすがに切ないからな」
「私は、嫌なら嫌って言うもの」
「ああ、知ってる。……だが正直、俺だって不安には思うんだぞ?」
現八は、名前の掌を包み込むように撫でながら苦笑した。
「これはお前が求める言葉じゃないと分かっているが、敢えて言う。俺はお前さえいればそれでいい。家のことに縛られず、自由に生きて欲しい」
「……現八」
「沼藺のこと、聞いた。お前や犬田の親父さんや女将さんが、俺を想って内緒にしてくれたことも全部」
「ごめんなさい。私は、あれ以上現八に傷付いてほしくなかったの。不思議よね、あなたと直接会ったこともなかったのに」
「……自分のことばかり考えている愚か者だがな」
「だから良かったのよ。誰よりも純粋で欲深いあなただから」
「確かに俺は欲深い。子どもなんていなくても、お前だけいてくれればいいと考えてしまう。だが、そうじゃないんだよな。名前は名前なりに、本気で俺を愛そうとしてくれているから……、どうしても自分が許せなくなるんだろう」
名前の心に優しく触れるように、現八は大切なひとをただただ優しく抱き締める。激しくも柔らかな心臓の音が、やがてそっと重なり合った。
「……現八は、何でそんなに私のことが分かるの?」
「この一年ずっと、俺はお前のことしか見ていないんだ。当然だろう?」
自信満々な声音で囁かれた言葉は、名前の心を温かく溶かしていく。目頭が熱くて仕方ない。
里見名前は、自由を望んではいけない存在だった。その血筋が、愛したひとが、周囲の目がそれを許さなかった。
だが不自由なままでも良かったのだ。愛したひとが遺してくれた約束だけは、確かに名前の胸に息づいていたから。
けれど、犬飼現八は自由に生きろと言う。名前にとっては何よりも難しいことを、何でもないことのように言ってのける。
「現八」
「ああ、何だ?」
砂糖菓子のように甘く、揺りかごのように柔らかい声。現八の全てに包まれながら、名前は自分の想いを言葉に載せた。
「あなたを愛してる」
起き抜けに見た光景は、何とも甘ったるい顔で微笑む現八の姿だった。鈍る思考の中、名前はぼんやりと昨晩の記憶を辿っていく。
迫り来る火矢の熱さ、人を斬った感触、交わした唇の温かさ。名前は、全てを鮮明なまでに覚えていた。
「……おはよう、現八」
身体の奥からぶわりと湧き上がった羞恥心故に、名前は思わず掛け布団で顔を覆う。胸に秘めていた想いを認めてしまったせいだろうか。現八を見るだけで、泣きたくなる程に心臓が熱くなった。
「朝食ができているそうだ。食べれるか?」
「ええ、大丈夫。すぐに行くわ」
迫り上がる気恥ずかしさを抑え込みながら、名前は何とか顔を出して返事をする。そうか、と柔らかく笑う現八は、まるで愛おしい宝物を扱うような視線を向けてきた。
「そうだ、名前」
「何かしら」
さすがに、いつまでもこんな気の抜けた姿を見られたくはない。名前の思考を察したように現八はすぐ出口へ足を向けたが、一度踏みとどまってこちらを振り返る。
そして、蒲団の上で上半身を起こしただけの名前の傍らに膝を付き、流れるような動作で口付けをした。一瞬の出来事に目を見張った名前を満足そうに見遣って、現八は囁く。
「名前、愛してる」
「ば、……ばかじゃないの! 分かったから早く出ていって!」
「……寝間着姿のお前は充分に堪能して目に焼き付けたつもりだが、まだ離れ難いな」
「これからいくらでも見る機会なんてあるんだから! 私の邪魔しないで!」
「着替え、手伝ってやろうか?」
「言うこと聞かないなら引っ叩くわよ」
「お前に与えられた痛みならばむしろご褒美なんだが……、これ以上長引かせて嫌われるのも嫌だな。食堂で待ってる」
完全にその姿が見えなくなった瞬間。胸に満ちた想いを消化するように、名前は拳を布団に振り下ろした。
「…………現八のばか」
*
「お。名前、おはよ」
食堂の椅子に悠々と座っていた信乃は、名前を見付けると嬉しそうに手を振った。隣に座る荘介も礼儀正しく会釈をしてくる。
何とも元気そうな様子に微笑みながらも、荘介の向かいに座る現八からの視線には知らんぷりをした。
「おはよう、信乃。荘介も。身体の具合はどう?」
「はい、お陰様で何ともありません。傷が綺麗に消えていたので、正直驚きました」
「それなら良かった。少しだけ妖狐の力も使ったから、何か影響が出ないか心配していたの」
「俺も荘も何とも無かったぜ。……名前の力は確かに感じたけど、不思議と安心するんだよ。もしこれから先も何かあったら、よろしく頼むな」
「ええ、いつでも頼って頂戴。村雨に呼び掛ければ、遠くにいても対話出来るようになっているから」
驚いたように目を丸くする信乃の横で、現八は不満そうに頬杖をついていた。
「なんだそれは、羨ましい」
「現八、あなたいつも私の居場所を察知して勝手に寄ってくるでしょう。何を羨ましがる必要があるの」
「俺も名前の声をいつでも聞ける権利が欲しい」
「はいはい、鬼の姿なら出来る筈よ。それよりも、三人で何を話していたの? 昨晩のことかしら」
ぴしゃりと言い放った名前にも動じず、現八は不満そうに押し黙る。苦笑する荘介の横で、信乃は思索を巡らすように頬杖をついていた。
「そー。結局、青蘭の奴がどうなったのか分からず終いだろ? どうもスッキリしなくてな」
「それなら心配いらないわ。要が丁重におもてなしした筈だから」
「何であいつが……って、成程な。浜路か」
「ええ。それに、尾崎に任せておけば事態も上手く揉み消してくれるもの。本当なら、現八にも手を下す権利はあったけれど」
「今回の事態を招いたのは俺自身の弱さだからな。別に拘らない。まあ、お前を傷付けられたなら容赦はしなかったが」
「……私はそんなに柔じゃないわよ」
現八の隣に腰かけ、名前は気持ちを切り替えるように息を吐いた。目の前に座る信乃の手を取り、花が綻ぶように笑う。
「改めて、ちゃんとお礼を言わせて頂戴。昨日は本当にありがとう、信乃」
「むしろ名前がいなかったら、訳も分からず鬼ごっこする羽目になってたからな。こっちの方が感謝してるっつーか、……それよりも謝らなきゃいけないことがあるというか」
「なんだ信乃、着替えでも覗いたのか」
「誰がするか!」
「なに? お前はそれでも男か。……いや確かに見た目は俺好みだが」
「信乃、この馬鹿は気にしなくていいわ」
名前は気軽に言葉を交わす二人を見て驚くも、雲行きが怪しくなってきたため会話を無理やり打ち切った。
「それで、どうしたの?」
「……昨日さ、鬼の姿した現八と対峙した時、見ちまったんだよ。お前達のこと、色々と」
その言葉が指すものは、簡単に予想がついた。一年前に起こった、神隠しに関する事件とその真相だろう。
犬飼現八は、今時珍しい程に純粋で向こう見ずな男だ。命が尽きそうになれば鬼に喰われながらも生を掴み取り、愛する女性が亡くなった時は何の躊躇いもなく後を追おうとする。
常に現八を掻き立てるのは、純度の高い願望。誰かを愛し、誰かに愛されたいという、幼子のような願いだった。
鬼の姿をしている際は、その願望がより強く表に出ている。怪異に関して人より感受性の強い信乃は、必要以上にそれを感じ取ってしまったのだろう。
「そうなの。わざわざ説明する手間が省けたわね」
「……名前ならそう言うと思ったけどさ。勝手に見たのは事実だから。現八も、悪かった」
律儀に頭を下げる信乃を見て、名前と現八は密やかに視線を重ねる。
犬塚信乃の素直さはなんとも好ましく、愛おしいものに映った。他人から無遠慮に踏み込まれるのは好かないが、信乃にならば見られてもいいと名前は素直に思う。
「なら、今度一緒にデートしてくれないかしら?」
「は!?」
「おい名前、信乃を誘う前に俺を誘え。……いや、むしろ三人で行けば家族連れに見えるか」
「あのね、真面目に言ってるのよ。……私の子どもの魂が、まだ現世に残ってることが分かったの。詳細はこれから調べるけど、やっぱり人手は欲しいじゃない。現八も古文吾も、勿論来てくれるでしょう?」
鍋を抱えながら食堂へやってきた古文吾に振り返ると、呆れながらも確かに微笑んでくれていた。
「名前がようやく誰かに頼ることを覚えたんだもんな。仕方ねえからついてってやるよ」
「あら失礼しちゃうわね。私そんなに一人で動いた覚えは……、ないこともないけど」
「はいはい、素直に認めろよ。今日は肉うどんにしといたけど、名前好きだったよな」
「……私のことを全て見透かせているとは思わないことね」
「そりゃ悪かったな。あと兄貴、信乃と荘介も。すぐに人数分持ってくるから待っててくれ」
古文吾は、不満をありありと表情に出している名前の頭を撫でてから、足早に食堂を出ていく。
名前は美味しそうに湯気を立てる鍋を見て息を吐いたものの、突如髪を梳かれる感覚に襲われて目を丸くした。
「何よ、現八」
「好きなものを愛でるのに理由がいるか?」
「……別にないけど、いきなりだと驚くでしょ」
「おいお前ら、嬉しいのは分かるけど、あんまり目の前でイチャつくなよ。見えないところでやれ」
信乃が呆れたように呟くと、名前は恥じらうように俯き、現八は自信ありげに笑った。
「名前が世界一可愛くて綺麗なのが悪い」
「ばかなんじゃないの!?」
*
「名前、今日はどうするんだ」
朝食後、現八は緑茶を啜りながら名前に問う。信乃と荘介は浜路に会うため屋敷に帰っており、古文吾は家の手伝いに戻ってしまったので完全に二人きりだった。
「診療は後輩に任せるから、浜路ちゃんの勉強を見てあげようかとも思ったんだけど」
「信乃の幼馴染か。だが今日くらいは、三人でゆっくりしたいんじゃないか」
「そうね、帝都に来てからずっと目まぐるしい日々だったし……。私の教本は置いてあるから問題ないかしらね。本人にはまた改めて意思確認をしておくわ」
「そうか」
「現八は、憲兵隊に出向かなくていいの?」
「今朝一番に行ってきた。話を通すべきお偉いさん方は、どうやら今日都合がつかないらしくてな。後日改めて話をすることになったんだ」
「そう。行動が早いのね」
「今日一日くらい、お前と共に過ごしたかったからな」
現八は、僅かばかり不安を滲ませた表情で柔らかく目尻を下げた。
「……駄目か?」
「駄目ならきちんと言うわよ。私は」
「ああ、知ってる。名前がもし良ければ、付き合ってもらいたい場所があるんだが」
「ええ、勿論。……その、私も行きたい所があるんだけど」
「ああ。お前が望むならどこへでも」
「特定のお店に行きたいわけじゃなくて、少し服を見たいの。ほら、私いつも同じ系統の服装ばかりでしょう」
「ああ、名前なら洋装も似合うだろうな。いつもの赤もいいが、淡い色のワンピースなんかもいいんじゃないか」
「そうかしら。……家が用意していたから、昔は洋服も着ていたんだけどね。忘れたい過去から目を背けるのも、そろそろ終わりにしようかと思って」
「名前が好きなものを着ればいい。もし決められないなら、俺がお前に似合うものを選んでやるから」
「そう?……嬉しいわ」
あの日見た真っ赤な血潮を忘れないために、愛しいひとを救えなかった自分を戒めるために、名前はずっと同じ格好ばかりしてきた。周囲に悟らせないように敢えて色味が強い和服を選んでいたが、あれは名前にとっての喪服だったのだ。
いざ好きなものを着ていいと言われると、正直どうしていいのか分からなくなってしまう。だから今度は、好きなひとのために服を選んでみるのも悪くないと思った。
*
青空を閉じ込めたようなシフォンワンピースに、純白のヒール。白い肩を慎ましく隠すベージュのショールは、歩く度にふわふわと揺蕩い人目をさらった。
腰まで届く髪はゆるく三つ編みをしてサイドに流し、匂い立つ程に美しい首筋が覗いている。普段は決して見せない耳元も大胆に晒され、アメジスト色のカフスピアスがキラリと光っていた。
「……やっぱり落ち着かないわね」
大通りを抜けて人気のない路地に来ると、名前は肩を竦めて笑う。容姿が整った人間が隣にいると、こうも視線を集めるものかと呆れてしまった。
現八は、ダークブラウンのシャツに白いパンツというシンプルな装いをしている。キャスケット帽を目深に被ってなるべく顔を隠してはいるが、真っ直ぐに通った鼻筋や胸元から覗く鎖骨は噎せ返る程の色気を帯びていた。
男性的な雄々しさと、彫刻かと見間違う程に浮世離れした美しさを兼ね備えている姿は、神から愛された存在だと言わんばかりに周囲を圧倒している。しかしこの男が実は鬼だと言うのだから、現八に焦がれる町娘はさぞ不憫だと思った。
「名前が美しいからな。本当は誰の目にも触れさせたくないし、攫って閉じ込めて俺のことだけを見てほしいものだが」
「そんなことする必要ないでしょう。これから嫌って言う程ずっと一緒にいるんだから」
「……そうだな。まあ半分冗談だったが」
まったく、と呟いてから名前は視線を遠くへ投げた。石畳が敷かれた寂れた路地は、雑鬼の気配すら殆ど感じない。
「私、今まで容姿を褒められても特に嬉しくなかったの。自分自身で勝ち取ったものではないし、ただの遺伝によるものだから。けど、現八の隣にいるのに相応しい容貌なのだとしたら、少し嬉しいわ。初めて生家に感謝したかもしれない」
「……名前」
「何よ」
「愛してる」
「…………しつこいわよ、もう」
耳を紅潮させた名前は、怒りをありありと顔に浮かべたまま現八の手を取った。
嬉しそうに指を絡めてきた現八は、名前が言葉にできない想いすらも全て汲み取ってくれているのだと分かる。それに甘えてばかりではいられないと分かっていながらも、名前の口は可愛らしくない言葉ばかり吐いてしまうのだ。
沼藺の墓の前で頭を垂れる現八に続き、名前もまた手を合わせる。
感謝と謝罪と、これからに向けた意思表示。端的に、けれど最大限の謝辞を込めて対話をしてから、名前は長々と沼藺に話しかける現八の背中を見詰めた。
「名前、行こう」
「……もういいの?」
「ああ、また話すことが出来たら来るさ。またな、沼藺」
手を繋いだまま、二人は無言で歩んでいく。墓地を抜けて人気の無い川辺へ来ると、現八は懐かしむようにぽつりと言った。
「昔はよく、沼藺のままごとに付き合っていたんだ。名前は幼い頃、何で遊んでいた?」
「本を読んで森を走り回ったりしていたけど、私もままごとしてたわよ。いつも天日が旦那様で、私が妻役。八房はペットだったわ」
「はは、獣神を付き合わせるなんてお前くらいだろうな。目に浮かぶ。天日も嫌々ながら、お前に優しく付き合ってやっていたんだろう」
「そう。普通の平凡な夫婦を演じて幸せに浸って、馬鹿みたいに浮かれてね」
「俺なんか、苗字に犬が入っているからと犬の役もさせられていたぞ」
「へえ? ちゃんと鳴き声も真似していたの?」
「ああ。沼藺から、本物みたいで嫌だと文句を言われるくらいにはな」
「目に浮かぶわ。現八も沼藺さんも、結局気が強くて似ているものね」
「そうだな。……沼藺がいたから、今の俺がある」
「ええ。私と現八を繋げてくれたのも、沼藺さんだったもの。感謝しなくちゃ」
旧市街の外れ、高台の上に犬飼家の屋敷はあった。
執事の牧田に挨拶と交わすと、名前は恐縮する程に世話を焼かれてしまう。現八は涼しい顔で微笑んでいたが、名前は元々人から甲斐甲斐しくされるのに慣れていないのだ。
すると、いつの間にか夕餉を共にし、宿泊することまで決まっていた。普段よりも慌てていた名前は、妙にやる気を見せる現八に押し切られてしまう。
洋風の豪華な御飯を頂き、大きい浴槽にゆったり浸かった後、名前は現八の自室にいた。柔らかいベッドに腰を掛けつつ、静かに憤慨する。
「納得いかないわ」
「いいだろう、たまには。俺に丸め込まれてくれ」
「……外だと人目が気になるから、確かに有難いけど」
「良かった。俺の独り善がりだと、さすがに切ないからな」
「私は、嫌なら嫌って言うもの」
「ああ、知ってる。……だが正直、俺だって不安には思うんだぞ?」
現八は、名前の掌を包み込むように撫でながら苦笑した。
「これはお前が求める言葉じゃないと分かっているが、敢えて言う。俺はお前さえいればそれでいい。家のことに縛られず、自由に生きて欲しい」
「……現八」
「沼藺のこと、聞いた。お前や犬田の親父さんや女将さんが、俺を想って内緒にしてくれたことも全部」
「ごめんなさい。私は、あれ以上現八に傷付いてほしくなかったの。不思議よね、あなたと直接会ったこともなかったのに」
「……自分のことばかり考えている愚か者だがな」
「だから良かったのよ。誰よりも純粋で欲深いあなただから」
「確かに俺は欲深い。子どもなんていなくても、お前だけいてくれればいいと考えてしまう。だが、そうじゃないんだよな。名前は名前なりに、本気で俺を愛そうとしてくれているから……、どうしても自分が許せなくなるんだろう」
名前の心に優しく触れるように、現八は大切なひとをただただ優しく抱き締める。激しくも柔らかな心臓の音が、やがてそっと重なり合った。
「……現八は、何でそんなに私のことが分かるの?」
「この一年ずっと、俺はお前のことしか見ていないんだ。当然だろう?」
自信満々な声音で囁かれた言葉は、名前の心を温かく溶かしていく。目頭が熱くて仕方ない。
里見名前は、自由を望んではいけない存在だった。その血筋が、愛したひとが、周囲の目がそれを許さなかった。
だが不自由なままでも良かったのだ。愛したひとが遺してくれた約束だけは、確かに名前の胸に息づいていたから。
けれど、犬飼現八は自由に生きろと言う。名前にとっては何よりも難しいことを、何でもないことのように言ってのける。
「現八」
「ああ、何だ?」
砂糖菓子のように甘く、揺りかごのように柔らかい声。現八の全てに包まれながら、名前は自分の想いを言葉に載せた。
「あなたを愛してる」