───パタンナーが夜空に輝く星だとすれば、デザイナーは夏を彩る天の川なのかな。 そんな質問を投げかけたとしても、きっと彼は呆れたように笑うだけなのだろうけど。

パタンナーとは、紙の上に描かれたデザインを型紙におこす専門職を指す。業務内容は単純で地味だが、服飾製品の最終的な質を左右するのはパタンナーだとまで言われているのだ。その上、世間の流行を自らの手で直接生み出せると考えれば、これ程やりがいのある仕事もないだろう。
しかしそれ故に、一定以上のセンスと努力が求められる仕事だ。 それは、依頼主がデザインに込めた意図を正確に理解し、生地の裁断や縫製方法、着心地にまで気を配れるだけの専門知識であり。やり直しを何度命じられても柔軟に対応できるだけの忍耐力であり。華々しいデザイナーと比べて脚光を浴びる機会がほぼ無くとも、根気強く続けていけるだけの覚悟であった。
独立して自分の事務所を持つようになっても、名前がやるべきことは変わらない。目の前のデザインに対して真摯に向き合うこと。デザイナーの想いを汲み取り、ターゲットとなる顧客層の好みを取り入れた上で形にすること。 学生時代から、名前は優秀なデザイナーに腕を鍛えられてきた。何度作り直しを要求されたとしても、決してへこたれない自信があったのだ。

「苗字」
「……あれ、神楽?」

すっかり聞き慣れた柔らかな声に振り返ると、長年の友人が呆れたように名前を見下ろしていた。彼はいつも通り、合鍵を使って作業場までやって来たらしい。

「集中したら周りが見えなくなるところ、本当に昔から変わらないよね」

拗ねたようにそっぽを向く姿に笑い、名前は神楽に座るよう促した。
「気付かなくてごめんね。もしかして新しい依頼?」
「……まあ、それもあるけど。君にはちゃんと伝えようと思って」
「うん」
「デザイナー、まだ続けることにした」

世間話をするような気軽い口調で神楽は言ったが、握り締めた拳は微かに震えている。ただでさえ白い指先から、更に血の気が引きそうな様子だった。
神楽亜貴は、会社の跡取りでありながらデザイナーと情報屋を兼業する多才な男だ。しかし、来年にも神楽家のグループを全て継ぐことが決定したため、彼はデザイナーを辞めて会社経営の仕事に集中すると宣言していた。 長年専属のパタンナーだったこともあり寂しかったが、彼との縁が完全に切れる訳ではない。
将来的には神楽の会社から依頼を請け負うことにもなるだろう。けれど、彼と直接顔を突き合わせながら喧嘩をしたり語らったり出来るのは、恐らくこれで最後だった。
だから名前は、デザイナー神楽亜貴の最後の仕事となるショーに心血を注いだのだ。 十年近くの付き合いだが、あんなにも濃密な時間を共有したのは初めてだった気がする。

半年前。名前が最初に作った型紙を見て、神楽は不満げに唇を尖らせた。些細なことにも妥協しない姿勢が好ましくて、そんなところを尊敬しているのだと実感した瞬間だった。 名前は常に最高のものを作れるよう努力はしているが、完璧なロボットではない。だから、とことんまで神楽と言葉を交わして彼という人間を理解しようとした。この半年ずっと、神楽亜貴のことばかり考えていた。

何度も指摘を受けては改善策を提示し、試行錯誤しつつ作り直して、他の仕事と並行しながら夜遅くまで作業場に篭もる毎日。 最終的にゴーサインが出た時、みっともなくボロボロと泣いてしまうくらいには全力を尽くしたのだ。
いつも飄々と毒を吐いてばかりの神楽が、あんなにもギョッとした顔を見せたのは初めてだと記憶している。涙を零しながらもすぐに笑みを見せた名前を見て、彼は呆れたようにハンカチで目元を拭い、恐る恐る抱き締めてくれた。
不器用な抱擁が愛おしくて、胸が軋むように痛んだ。彼の情熱的な想いに触れる場所はいつも紙の上だったから、初めて直接受け止めた情報量に混乱したのかもしれない。 見た目よりもガッシリとした身体や、耳元で鳴る激しい鼓動、せつない程に優しい体温。頭のてっぺんに柔らかな唇が寄せられたことも、名前は気のせいにしたくなくて。

「前言撤回する形になって、本当にごめん」

そして今、神楽はこちらを真っ直ぐに見つめていた。どこか不安そうに眉を下げる様子に、堪らずその大きな掌を包み込む。

「なあに? 神楽、私に見放されるとでも思った?」
「思ったよ。柄にもなく君に会うことが怖くなった。……それでも自分の行動には後悔してないから、軽蔑されても受け入れるつもりでいたけど」

彼が最後に選んだ仕事は、華やかなパーティードレスを中心に据えたプレス向けのショーだった。スタッフ達との話し合いで決まったコンセプトには、神楽亜貴の人生そのものが詰まっていたように思う。

───悩みを抱える人が、己の決断に誇りを持って歩いていけるように。人生の岐路に立った背中を力強く押してあげられるように。

そして迎えた当日の、ショーの終わり。颯爽とランウェイを歩く神楽は、見たことがないような清々しい微笑みで歓声を受けていた。そこには、何事においても決して妥協せず、逆境の中でも自分を奮い立たせ、どこまでも真っ直ぐに生きる背中があった。
だからこそ名前は、何となくこうなる予感がしていた。彼を変えた女性がいたから、神楽はこれからもきっと、自分らしく歩いていくことを諦めない。

「ね。神楽、私たちが初めて会った時のこと覚えてる?」
「……覚えてるよ。高校の頃、無駄に広い被服室の隅っこでミシンかけてたでしょ」
「開口一番に下手くそ、だったもんね。この人とは一生仲良く出来ないなって思った」
「腕はある癖に、性能が低い道具ばっかり使ってるから腹が立ったの」
「うん、分かってるよ。でも、うち貧乏なのに次の日いきなり高級ミシンが届くんだもん。家族全員が混乱して大変だったんだからね」
「……ごめん」

気まずそうに目を逸らす神楽を見てから、名前は昔を想いつつ瞳を伏せた。

「別の大学に入って疎遠になるかと思えば、来週までにこれ作ってだの、このデザインに意見を頂戴だの急に押しかけて来てさ」
「……、だからごめんってば」
「社会に出て働くようになって独立してからも、神楽はずっと私に会いに来てくれたよね。褒めてくれることなんて一度も無かったけど、私の腕を信じてくれるんだなって感じて嬉しかった」
「…………」
「高校の頃なんて毎日喧嘩してたし、顔も見たくないと思った時なんて数え切れないけど。私はずっと神楽の服が好きだった。デザイナーとしての神楽に、どうしようもなく惚れ込んでた。……だから私は、神楽がデザイナーを続けてくれるのが嬉しいよ」

自分の思いを伝えきってから、名前は彼の瞳を真摯に見つめ返す。 どこか張り詰めていた空気がほろりと崩れたかと思えば、神楽は柔らかく笑っていた。それはまるで、この一ヶ月時間を共にした彼女───泉玲さんを想うような顔だった。
興味のない人間は無視するばかりの彼が、常に気を配るくらいに心を砕き、憎まれ口を叩く女性。そんな彼女は、自分の仕事が終わった後、毎晩のように彼の事務所を訪れて仕事を手伝っていたらしい。名前が直接顔を合わせたのはショーの当日だったが、それだけでも分かってしまった。
彼女はきっと、彼にとって特別なひと。 神楽亜貴の想いの全てを背負い、ぴんと胸を張る彼女の横顔は美しくて、これは敵わないなと痛感したものだった。

「苗字は覚えてないかもしれないけど、昔も同じようなこと言ってくれたでしょ」
「え? うーん、そうだっけ」
「言った。……君と知り合う前にコンテストで賞を取った時。どうせ贔屓だろって陰口叩かれてた僕を唯一庇って、僕の服が好きだって笑ってた」

どれだけ必死に頭を回転させても、名前にはその記憶を拾い上げることが出来なかった。 当時は、雑誌に掲載されていた神楽のデザインに一目惚れをして、ひたすら周囲にその想いを語り明かしていたのだ。正直なところ、いつの出来事か覚えていない。

「僕は服を作るのが好きだったし、桧山くん達と仕事するのも楽しかった。家の仕事を手伝うのだって苦痛じゃなかったから、デザインは趣味でやればいいかなって思った時期もあったんだけど」
「えっ」
「僕は一途だけど、ちゃんと実現可能性と効率を考えられる男なの。でも君が、……君の言葉が、どうしても忘れられなかった。君と一緒にいるのが、どうしようもなく楽しかったから」
「……うん」

彼の言葉には、どこか気まずそうな、それでいてほんの僅か照れくさそうな色が滲んでいた。そのあどけない表情に、名前は胸の底がくすぐられるような感覚に陥る。

「だから、いつかデザイナーを辞めても、……その後もずっと。僕の傍にいてほしいんだけど」
「うん。私は、神楽のためならいくらでも仕事するからね」
「……あー、うん。まあ君ならそう言うよね」

何故か虚ろな目をする様子に首を傾げつつ、名前はこれからも彼の役に立てる事実を素直に喜んだ。

「よし。神楽、今日もデザイン持ってきたんだよね? さっそく取りかからなきゃ」
「そりゃあるけど。本当に仕事馬鹿だよね、苗字って」
「むしろ神楽の方がワーカホリックじゃない?」
「はあ……。まあいいや、それで次に予定してる展覧会についてなんだけど───」



高級ホテルの最上階にあるバーラウンジ。情報屋Revelの本拠地にて、彼らは神楽のショーの成功を祝うささやかな祝賀会を開いていた。
立役者でもある泉玲が来れば神楽も悪い気はしないだろう、という目論見で始まった飲み会だったが、当の本人はぶすくれた顔を崩さないまま、ちびちびとグラスを傾けるばかりである。 その様子を見てピンときた大谷羽鳥は、脚を組んだまま華麗に地雷を踏み抜いた。

「───ねえ神楽、もしかしてまた告白できなかったの?」
「…………」
「おい、亜貴の奴も落ち込んでるんだから追い討ちかけるなって」
「…………」
「槙。心なしか、お前の発言で更に顔色が悪くなったような気がするんだが」

好き放題に言葉を交わす一行の中心で日本酒を呷っていた玲は、告白というキーワードを拾いつつ考えついた推論を口にする。

「そのお相手って、もしかして苗字さんのことですか?」

思わぬ方向から爆弾が飛来し、神楽は盛大に噎せた。きょとんとした表情でグラスを傾ける玲を見て、羽鳥は新しい玩具を見つけたように顔を輝かせる。

「お。玲ちゃん知ってるんだ?」
「はい。ショーでお会いしたんですけど、凄く綺麗な人でしたよね。いかにも出来る女性って感じでキビキビしてて、スタッフの皆さんへの気配りまで完璧で。同じ女として憧れちゃいました」

玲は、急遽ショーが始まる直前にモデルを務めることになった。その原因の一端を担っている身として責任を感じたことは勿論、神楽の想いを無駄にしたいと強く思ったのだ。
しかし一ヶ月神楽の元に通いつめたとは言え、玲は自分が他のモデルとは容姿のレベルが違うことも、本来ならば場違いであることも理解していた。肩身の狭い思いで楽屋の隅で縮こまっていた玲に、名前は優しく声をかけてくれたのだ。

───ありがとうね、泉さん。貴女のお陰で、最近神楽がとても楽しそうだったから。
───神楽、ワガママで大変だったでしょ。顔は可愛いのに毒ばかり吐いて、人を傷付けたことに後から自己嫌悪くるタイプの不器用のくせしてね。
───神楽のこと、これからもよろしくね。もし良ければ見捨てないであげて。あ、でも泣かされたら私が代わりに怒ってあげるから。

緊張していたせいで、その時は名前の発言をそこまで重く受け止めなかったのだが、もしかして神楽が失敗した原因の一部は己にあるかもしれない。玲は内心焦り始めていた。

「……別に、普通に仕事のパートナーかもしれないでしょ。何でいきなり彼女の名前が出てくるわけ?」
「神楽さんが苗字さんを見る目が、とても優しかったので」

ジト目で睨みつけてくる神楽は幼く見えるが、ここで真実を言ってしまうと後々大変なことになりそうだ。

───亜貴さん、名前さんにベタ惚れなのよ。表情が私達に向けるのとは全然違うから、見てて面白いくらい。

アトリエのスタッフが散々噂をしていると知られてしまえば、彼らに迷惑をかけるだろう。玲がそれ以上何も言わず口を噤んでいれば、羽鳥が空気を察したように顔を上げた。

「神楽、もう片想い歴十年になるんじゃないの。名前ちゃんだって、神楽に告白されたらオッケーすると思うけど?」
「……僕の年で付き合うってことは、将来も見越した上での関係ってことでしょ」

諦めたように溜め息を零しつつ、神楽は手元のグラスに視線を落とす。自然と横たわった沈黙の中で、熱を帯びた言葉を吐き出した。

「苗字は確かに実力があって世間的にも認められてるけど、決して家柄が良いわけじゃない」
「ああ。確か昔も、特待生として学年トップを取り続けていたな」
「桧山くん、よく覚えてるね。……会長は女遊びも経験の内だって言ってくれるけど、結婚相手となれば話は別でしょ。僕が真剣に交際しているって分かれば、彼女を徹底的に調べ上げて、場合によっては相応しくないと判断されて傷付けるかもしれない」
「……亜貴」
「会長にはデザイナーを続けるって宣言した手前、頭が上がらない状況になっちゃったし。僕がグループを継ぐまでに、苗字が神楽家のことで嫌な思いをするかもしれないなら……守りきれなくて傷付けるくらいなら、自由に生きてほしいって思うから」

───神楽のこと、これからもよろしくね。

朗らかに、けれどほんの僅か寂しそうに笑った名前の顔が、玲の脳裏に浮かぶ。言葉を探すため玲が必死に頭を回転させる横で、槙は心底嬉しそうに破顔しながら口を開いた。

「なあ亜貴。そんなに大きな気持ちを抱えたままじゃ、これからも辛いだけだろ」
「……別に」
「それじゃ、俺が苗字のこと口説きたいって言ったらどうする?」
「…………、は?」

その場の全員が、呆気に取られたように槙を見つめる。その視線をものともせず、槙は喜色に満ちた言葉を重ねていった。

「苗字、可愛いしな。話してて楽しいし、優しいし、何より可愛い」
「……槙、酔ってるでしょ」
「結婚相手としても申し分ないだろ。苗字が振り向いてくれるまで、ゆっくり落としていく覚悟ならあるけど」
「……いくら慶ちゃんでも、単に苗字を揶揄うだけのつもりなら怒るよ」
「俺は本気。実際、昔あいつのこと好きだったし」
「はあ!?」
「あー、やっぱり神楽気付いてなかったんだね。偶然を装って名前ちゃんを送る槙、本当に健気で泣けた覚えがあるよ」
「───で。亜貴、どうする? お前が今すぐ告白するなら、俺も苗字のことは諦める。でもお前にその覚悟が無いなら俺が貰うぞ」

神楽はぐっと言葉を詰まらせた後、ポケットからゆっくりとスマートフォンを取り出す。

「今すぐ告白はしないけど、今度告白するって伝える」
「……神楽も完全に酔ってるね」

遅かれ早かれ覚悟を決めなければならなかったのは事実だ。それに神楽は、大切な幼馴染を傷付けてまでこの状況に甘んじる気などなかった。震える掌を無理やり抑えつけて、アドレス帳から名前の名前を探す。

「───もしもし、苗字? そう、僕。ねえ、明日空いてるでしょ? 空いてるよね? いや違う、君に告白したいんだけど。 ……は? 冗談でも罰ゲームでも無いから。君のことが好きだって言ってるの。いつからって……、十年前。君に初めて声をかけた時はもう好きだった。 それだけ。え、ちょっと何言ってるの。今何時だと、……はあ!? もう家出た!? バッカじゃないの! いいから家に戻って。今から迎えに行くから。 僕、君の涙には弱いんだけど。うん、……うん。好きだよ、本当に。愛してる。それじゃ一旦切るから」

神楽は素早く携帯を仕舞い、槙に力強く微笑み返した。

「慶ちゃん、あとはお願い」
「おう。バシッと決めてこい」
「うん、ありがとう」

そのまま彼らは、勢いよく飛び出していった神楽の背中を見送った。ほっとしたようにグラスを傾ける槙を見て、羽鳥は一人眉を下げる。

「本当に良かったの?」
「いいんだよ。どちらにせよ苗字は、亜貴を選ばないのに俺を選ぶような奴じゃない」

槙はふと、昔彼女が口にしていた言葉を思い出す。

───神楽って、遠くから見てる分には天の川みたいに綺麗なのに、近付くと火傷しそうになるほど情熱的で、人に毒ばかり吐くよね。
───好きなことに一直線だからこそ、繊細で傷付きやすくてさ。きっと神楽は、槙がいるから安心して輝けるんだ。

「……俺にとっては、お前も輝いて見えたんだけどな」

ぽつりと空気に溶かした言葉を飲み込むように、槙はアルコール度数の高いカクテルを一気に呷る。熱く燃える星を胃に流し込んだような感覚に震えつつも、仲間からの気遣うような視線に笑い返した。

「まだ付き合うぞ、槙」
「……おう。ありがとな」

ビルの窓から覗く夜空には、明るい星がまばらに散っている。たとえその輝きが色褪せたとしても、きっと二人は自分らしく燃えていくだけなのだろう。その様子を最も近くで見れる立場にあるのだとすれば、自分は物凄く贅沢だ。 そうして槙は、胸の底にこびりついた想いをひっそりと弔っていた。