顔も知らない祖父が名前に遺したのは、小さな本丸だった。

この時代、審神者は誰もが憧れる職業だ。子ども達は皆、過去を守るという壮大な目的の下、刀の付喪神と共に闘う日々を夢見ている。 審神者には歌舞伎といった伝統芸能のように世襲制度が無く、この国に住む者ならば誰であろうと就任する資格があった。
ペーパー試験を通過し、政府が執り行う適性検査に合格さえすればいい。 だが、適性が認められたからと言ってすぐに本丸へ着任できるわけではなかった。合格者は一定の期間候補生として鍛錬を積み、約十年かけてようやく自らの近侍を得ることができるのだ。

だからこそ、名前のように合格していきなり本丸を与えられるのは異例中の異例だった。 どうやら祖父は、審神者の中では知らぬ者がいなかった程に高名だったらしい。政府のお役人様は、そんな実績のある祖父の本丸を失うことだけは避けたかったと言う。 だが充分な後継者は育っておらず、数多の刀剣男士を持て余す未来が濃厚になっていた頃、祖父の遺言書は発見された。

一振りの子どもとこの家を、孫に託す。

高い霊力を持つ者が残した言霊は、たとえ本人がいなくとも絶大な影響力を発揮するものだ。反故にしてしまえば、それこそ大きな災いが訪れるとされる。
ある日突然降って湧いた話に、我が家は騒然となった。今まで縁を切っていた筈の祖父の言葉に両親は憤慨していたが、一人娘の名前以外にその遺言を果たせる者はいない。名前は特段将来の夢が明確でなかったため、反発も無いまま審神者になることを決めた。

審神者は他の職業に比べて世間的なステータスや収入が段違いであり、将来的に家族に楽をさせてあげられると思ったのだ。 しかし、初めて本丸を訪れた名前に対する風当たりは強かった。付喪神達は、皆一様にわたしを試すような鋭い視線を向けてくる。笑ったら絶対に美しい筈の整った顔には、感情の一切が感じられなかった。
彼らはきっとまだ、祖父を喪った傷が癒えていないのだ。いくら血縁とはいえ、今まで便りの一つも寄越さなかった小娘にかける言葉など無いのだろう。 正直なところ心が折れそうだった。名前は口が上手いわけでもなければ、頭の回転が特別早いわけでもなく、甚大な霊力が備わっているわけでもない。確かな実力を持っていた祖父の代わりになどなれる筈もなかった。 大きな客間に座り込みながら、名前は胸の痛みから目を背けるように茶を啜る。

「……長曽祢虎徹さん」

傍に控える大きな背中に声をかけると、彼は名前にそっと視線を向ける。この本丸の中で唯一敵意を含まない視線からは、何の想いを感じることもできない。そこには、悲しみも怒りも喜びも見出せなかった。 だから名前は問うた。いくら資料を探ろうとも分からなかった、唯一のことを。

「あなたは、何のために戦っているんですか」
「おれは刀だ。戦いに意味など見出したことなどない」
「そうですか。……安心しました」

彼の薄くカサついた唇がきゅっと引き結ばれる。言葉を促されているのだと感じ、名前は迷った末に口を開いた。

「あなたは、わたしに何も期待していないんだと分かって安心したんです。この本丸の皆さんは恨むようにわたしを見るのに……、わたしの中に祖父の影を探している」
「……そうだろうな」
「わたしだけを見てほしいなんて贅沢は言いません。けれど今のわたしに、自分を嫌うひとと一から関係を構築する余裕なんてない。……求めるのは、ただ武器としての使命を全うしてくださる付喪神様。わたしが強くなるまで待っててくださる、辛抱強い神様なんです」
「そうか」

その低く落ち着いた声音から、名前は優しさを感じ取った。思った通りだと笑いつつ、最大限の勇気を振り絞る。

「あなたは、わたしに選ばれてくれますか」



長曽祢虎徹は夢を見ていた。

まだ本丸に顕現したばかりの頃、初めて主と外出したことがあった。皺の多い顔をくしゃくしゃにしながら笑った審神者は、孫に会いに行くと云う。 長曽祢は元々口数が少ない。主君に対して従順であること以外の在り方を知らず、主を窘める言葉も持ち得ていなかった。
細い路地を抜け、主は意気揚々と砂が敷き詰められた広場へ出向く。そこには、何人もの童が元気よく駆け回っていた。 長曽祢は、邪魔にならぬよう近くに控えていようと思った。その旨を伝えるべく広場へ踏み込むと、途端に大きな泣き声が幾つも響き渡る。

刀と女子供は相容れない。触れれば傷付けてしまう。存在するだけで恐れられる。 ましてや刀剣男士は、末席ながら神の座にいるのだ。霊的なものに対して過敏な嬰児は、苛烈な神気に触れるだけで泣き出してしまうことだろう。 長曽祢は己の愚かさに呆れ、瞬く間に背を向けた。

「長曽祢虎徹よ、何処へ行く」

主の腕に抱かれた少女は、不思議そうな顔で長曽祢を見上げている。審神者の血縁故に、多少は耐性があるのだろう。

「人の目が届かない、遠くへ」
「それは寂しかろう」
「刀に感情は必要ない」
「強情な奴め。ほれ、孫を頼む」

強引に抱えさせられた人の子は、何とも軽く柔らかい。己が少し動けばすぐに壊れてしまいそうな程だった。 その間も、少女は何も言わずに長曽祢をじっと見詰めている。
「名前、じゃ」
「……こいつの名前か」
「呼んでやってくれ」

長曽祢は押し黙り、少女を見る。真っ直ぐで穢れない瞳だ。己が踏み込めば、すぐにでも傷付いてしまうであろう脆く儚い幼子。

「名前」

その存在を確かめるように名を紡ぐと、少女は笑った。 唖然とする付喪神を前にして、少女は心底楽しそうに微笑み、長曽祢の顔に向かって力いっぱい掌を伸ばす。
それは、他者を傷付けることしか知らなかった刀が初めて他人の笑顔を生み出した瞬間だった。 去り際に少女から送られた花冠を、長曽祢は未だ大切に持っていた。枯れてしまわぬよう押し花にして、与えられた抽斗に仕舞い込んで。
決して汚れぬように、壊さぬように。もしも己がいなくなったとしても、あの思い出だけは永遠に残るように。

「長曽祢、おはよう」

凛とした張りのある声が己の名を呼んだ。瞬時に覚醒した頭は、心配そうにこちらを見遣る審神者を認識する。 どうやら、自室の文机に身体を預けながら眠っていたようだ。

「すまない、何か用だったか」
「仕事が一段落したからお茶のお誘いに来たんだ。疲れてるなら、もう少し寝てても大丈夫だよ」
「いや、付き合おう」

花のように微笑んだ審神者は、熱を持った湯呑みを長曽祢に手渡す。一瞬触れ合った指先が、胸の裡にも柔らかな熱を灯した。

「……夢を見ていた」
「夢?」
「初めて人から贈り物をされた時のことだな」
「へえ。……もしかして、女の子から?」
「その通りだが、何故分かる?」
「そりゃ分かるよ。凄く優しい顔してるから。……出逢った時からずっと、長曽祢は優しいけどね」

瞳を伏せてから、審神者は大福を口いっぱいに頬張る。白くなった口元を呆れたように指で拭った長曽祢を見て、心底おかしそうに笑った。穏やかな二人ぼっちの時間は、さらさらと流れていく。

「主」
「ん?」
「……そういえば、見合いの話はどうなった?」
「えーとね、来週になりそう」
「そうか」
「政府のお役人様を無下にするのも忍びないし、別に結婚したくないわけじゃないしね。それにお相手の方も審神者みたいだから、子どもが出来ても融通が利くって説得されちゃった」

審神者に就任するためには、霊力が一定以上必要である。その力は血筋に関係なく発現するが、やはり審神者の血縁者には才能のある者が多かった。 そのため、政府による文字通りの政略結婚が執り行われるケースも珍しくない。
名前は、それが時代遅れだとは思わなかった。歴史修正主義者に対抗するための手段は、一つでも多い方が良いのは事実なのだ。 祖父は、近侍と恋仲だった審神者と結婚したらしい。最低限の夫婦生活を送り子供を儲けるも、祖母の心はずっと己の本丸にのみあったという。
そんな寂しさを紛らわすため仕事に没頭した結果、祖父は祖母の死に際に逢えなかったそうだ。その後血縁者とは絶縁状態になり、名前も祖父の顔を知ることはなかった。 自分に関心の無い血を分けた家族と、己を心底慕ってくれる付喪神。どちらかを選べというのは、なんとも酷な話だろう。

「そんなに結婚に対して夢見てるわけでもないんだけどね。どんなに好きな人と住むことになっても、妥協も我慢も必要だし。でもせっかくなら、ちゃんと愛してみたいし愛されてみたいなって思うんだ」
「主なら問題ないだろう」
「ありがとう。……口下手な長曽祢に励ましてもらったんだから、弱気なことばかり言ってられないね」
「おれが言わずとも、主ならば決意できただろうに」
「女にとって、初恋のひとはいつまで経っても特別なものなの」

呆気にとられたような近侍の顔を見て、審神者は笑う。

「明確な記憶はないけど、初めてこの本丸に来た時から分かってたよ」
「……そうか」
「うん。だから、ありがとう。知らないフリしててくれてたんだよね」
「おれはただ、怖かったんだ。傷付けたくなかった」

審神者は、こちらを射抜くように見詰める長曽祢の掌を握った。全てを賭けてでも守りたい、優しくて不器用で愛おしい、わたしの神さま。

「わたしは、天下の剛刀長曽祢虎徹の主だよ。そんなに柔じゃないってば」
「主が強いことは分かっている。だからこそ心配で、大切で、愛おしく想う」
「……ありがとう。わたしも、長曽祢のこと大切だし、大好きだよ」
「ああ。だが、おれは主の一番になれない。そうだろう?」

温かく大きな長曽祢の胸に、名前の全身がすっぽりと収まる。労るように慈しむように抱き締められて、目頭が痛い程に熱くなった。 名前の両親、特に母は審神者という職業を嫌悪していた。親が互いに無関心で、不仲とも呼べない程に冷えきった関係だったのだから、無理もないと思う。 そのため、名前が本丸へ着任するにあたって交わした約束があったのだ。

刀剣男士と想いを交わさないこと。決して恋仲にならないこと。

名前は、自分のせいで誰かを悲しませたくなかった。そのためにも祖母と同じ路を辿るわけにはいかない。自分は、同時に二人を愛せるほど器用ではないのだ。

「わたし、長曽祢の主になれて幸せだった。今もこれからも、ずっとそう」
「ああ、ありがとう」
「だからそれ以上は望まない。たとえ結婚して子どもが産まれても、長曽祢はわたしの傍にいてくれるでしょう」
「当然だろう。……おれの主は、未来永劫一人だけだ」

温かく降り注いだ言葉に、名前はくしゃりと顔を歪めながらも笑った。不器用な笑顔だと分かっていたが、決して泣くつもりはない。零れ落ちてしまったら、余計な感情まで溢れ出してしまいそうだった。 審神者である限り、名前は愛しいひとと契ることはない。けれど、今世で最も長く共に時を重ねられる存在でいられるのだ。 己が昔贈った物を今でも大切にしてくれていること。実績も経験も何も無かった小娘を信じ続けてくれたこと。何があろうと共にいてくれると約束してくれたこと。 貰ったものを一つずつ数えていく。その度に、温かな感情がそっと胸を満たしていく。

「名前」

低く甘い声が己の名を呼んだ。それだけで充分だと、心から思う。

「いつか迎えに行く」
「え?」
「何百年、何千年かかっても構わない。再び相見えた時には、今度こそ遠慮しない」
「…………長曽祢って、結構強引なところがあるよね」
「刀は主に似るからな」
「一言余計。でも嬉しい」

とうとう瞳から雫を溢れさせた名前の顔を覆い隠すように、長曽祢は強く縋るようにその腰を抱いた。 いつか自分が死んでしまう時、叶うならば長曽祢の顔が見たいと思った。誰よりもわたしを愛してくれた優しい神さまを、最期まで愛し続けていたいから。