01
夜の海は、わたしが還る場所だ。
何もかも飲み込むような暗い海面を見ているだけで、こんなにも心が凪いでいく。 温い海水に足を浸し、水底をなぞるように爪先を滑らせれば、柔らかい砂がわたしを引き留めるかのごとく足に絡みついてきた。こういう時はいつも思う。身体なんて脱ぎ捨てて、剥き出しの心だけになって、誰もいない場所へ翔んでいきたい。わたしのことを知る人なんて何もない楽園へ行って、世界の美しさを全身で感じてみたい。
この思いがただの逃避であることを知りながら、わたしは日々有りもしない夢を見ているのだ。 頭上では月すらも闇夜に呑み込まれ、厚い雲が星々を覆い尽くしている。それでも背後にある街灯の光は不安定に揺れて、辺りをぼんやりと照らし出していた。
今日は風が強く、波の音が空気を切り裂くように響いている。白装束のようなワンピースの裾がはためき、視界の半分が白く染まった。風の赴くまま冲の方角へゆっくりと踏み出していけば、生暖かい海水が肌をなぞるようにちゃぷんと揺れる。膝まで覆われる感覚に身震いしながら、わたしは瞳を閉じた。暗闇が、優しく世界を包み込む。
「ねえ、きみ。そんな所にいたら危ないよ」
低く落ち着いた声が、ふわりと耳を掠めた。その場に立ち止まり、わたしは深い闇の底を覗くようにただ空を見上げる。
「危なくないですよ。だってここは海ですから」
「俺としては、こんな時間に女の子が一人で寂しそうにしてるのを放っておけないんだよね」
背後に人の気配がした。ゆっくり振り向くと、その人は月明かりのように繊細な微笑みを見せる。海水に浸からないギリギリの位置でこちらを真っ直ぐに見詰めたまま、彼は強気な口調で言葉を紡いだ。
「そんなに此処にいたいなら、俺が世界の果てまで攫ってあげようか」
夜闇の中に優しい波の音が横たわる。ふわりと薫った潮の香りに、わたしは心の底がやわらかく震えるのを感じていた。 彼は、魔法使いみたいにくるりと指先を回しわたしの手をとる。互いの冷たい体温を分け合いながら、二人はただ手を繋ぎ合わせていた。
その日は朝日が昇るまでずっと、砂浜に寝転がりながら空を眺めた。砂浜は冷たく固かったけれど、会話なんて殆ど交わさなかったけれど、その瞬間たしかにわたしは海に抱かれていたのだ。 彼はわたしの頭を撫で、日光を恐れる吸血鬼のごとく瞬く間に姿を消してしまった。微かに残るばかりの温みをかき集めるように両手を握り、わたしもまた帰路につく。
一夜限りであった筈の夢が蘇ったのは、それから三日後のことだった。
「あれ、きみ」
真っ白な病棟の中で迷子のように佇んでいたその人は、わたしを見つけて困ったように微笑む。
「誰かのお見舞いに来たの?」
「はい、祖母に会いに来ました」
「そうなんだ。もし良ければ病室まで案内しようか? 俺、此処に来て長いんだ」
どこかぎこちなく言葉を交わしながら、彼はあの日を再現するような動作でわたしの手を取った。
「はい。それでは、よろしくお願いします」
「承りました、お姫様」
「二回会っただけのわたしが言うのもなんですけど、……凄く気障ですよね」
「あはは、昔からよく言われる」
薄いブルーの病衣は、その人の白い肌をより一層際立たせている。こちらのペースに合わせて歩く彼は、ぞっとする程に美しく、もどかしい程に優しいと思った。
「あら薫ちゃん! 名前ちゃんも来てくれたのねぇ」
祖母は、左腕の包帯やお腹に巻かれたコルセットをものともしない様子で明るく笑っていた。思いの外元気なようだと安堵しながら、わたしは慣れたように病室へ足を踏み入れたその人の背中を目で追った。
「かおる、さん?」
「そうだよ、名前ちゃん。俺は薫。───羽風薫」
月光を詰め込んだような髪が、明るい陽射しを浴びてキラキラと輝いている。まるで天使のようだった。 結局わたしは面会時間のギリギリまで居座り、久しく会っていなかった祖母と共に、美しいその人と会話をした。
頼りない蛍光灯に照らされた彼は、あどけなさを残した表情で明るく笑い続ける。容姿が立派な青年であるが故に、その無邪気さが余計に際立っているようだった。
「それじゃ名前ちゃん。俺、下まで送るよ」
「いや、そんな! お気遣いなく!」
「あら薫ちゃん、お願いできる? あたしも行ってあげたいんだけどねえ」
「おばあちゃん、無理しないでいいから……!」
「なら、素直に色男に見送られてきなさいな。頼んだよ、薫ちゃん」
「うん、確かに頼まれました」
涼しい笑い声を上げた祖母は、わたしたちの繋がった掌を見詰めながらゆったりと目を細める。胸の奥がむずむずするような、気恥ずかしい思いのまま病室を後にした。 紅く透き通った夕日の中、その人は自然な動作でわたしの頭を撫でる。
「ねえ名前ちゃん。今晩も会いに行っていい?」
「……はい。お待ちしています」
祖父が待つ家に帰り家事をこなしながらも、わたしの夢見心地な頭はフワフワとその人のことばかり考えていた。彼の笑顔は柔らかく、優しく、穏やかで甘やかだった。存在そのものが現実から乖離しているように見えるのは、いつもどこか遠くを見ている瞳の印象が強いからだろうか。
「かおるさん」
ぽつりと零した名前は、あっという間に掻き消えていく。彼は今も、一人きりで立ち尽くしているのだろうか。ただそればかりが気になった。
何もかも飲み込むような暗い海面を見ているだけで、こんなにも心が凪いでいく。 温い海水に足を浸し、水底をなぞるように爪先を滑らせれば、柔らかい砂がわたしを引き留めるかのごとく足に絡みついてきた。こういう時はいつも思う。身体なんて脱ぎ捨てて、剥き出しの心だけになって、誰もいない場所へ翔んでいきたい。わたしのことを知る人なんて何もない楽園へ行って、世界の美しさを全身で感じてみたい。
この思いがただの逃避であることを知りながら、わたしは日々有りもしない夢を見ているのだ。 頭上では月すらも闇夜に呑み込まれ、厚い雲が星々を覆い尽くしている。それでも背後にある街灯の光は不安定に揺れて、辺りをぼんやりと照らし出していた。
今日は風が強く、波の音が空気を切り裂くように響いている。白装束のようなワンピースの裾がはためき、視界の半分が白く染まった。風の赴くまま冲の方角へゆっくりと踏み出していけば、生暖かい海水が肌をなぞるようにちゃぷんと揺れる。膝まで覆われる感覚に身震いしながら、わたしは瞳を閉じた。暗闇が、優しく世界を包み込む。
「ねえ、きみ。そんな所にいたら危ないよ」
低く落ち着いた声が、ふわりと耳を掠めた。その場に立ち止まり、わたしは深い闇の底を覗くようにただ空を見上げる。
「危なくないですよ。だってここは海ですから」
「俺としては、こんな時間に女の子が一人で寂しそうにしてるのを放っておけないんだよね」
背後に人の気配がした。ゆっくり振り向くと、その人は月明かりのように繊細な微笑みを見せる。海水に浸からないギリギリの位置でこちらを真っ直ぐに見詰めたまま、彼は強気な口調で言葉を紡いだ。
「そんなに此処にいたいなら、俺が世界の果てまで攫ってあげようか」
夜闇の中に優しい波の音が横たわる。ふわりと薫った潮の香りに、わたしは心の底がやわらかく震えるのを感じていた。 彼は、魔法使いみたいにくるりと指先を回しわたしの手をとる。互いの冷たい体温を分け合いながら、二人はただ手を繋ぎ合わせていた。
その日は朝日が昇るまでずっと、砂浜に寝転がりながら空を眺めた。砂浜は冷たく固かったけれど、会話なんて殆ど交わさなかったけれど、その瞬間たしかにわたしは海に抱かれていたのだ。 彼はわたしの頭を撫で、日光を恐れる吸血鬼のごとく瞬く間に姿を消してしまった。微かに残るばかりの温みをかき集めるように両手を握り、わたしもまた帰路につく。
一夜限りであった筈の夢が蘇ったのは、それから三日後のことだった。
「あれ、きみ」
真っ白な病棟の中で迷子のように佇んでいたその人は、わたしを見つけて困ったように微笑む。
「誰かのお見舞いに来たの?」
「はい、祖母に会いに来ました」
「そうなんだ。もし良ければ病室まで案内しようか? 俺、此処に来て長いんだ」
どこかぎこちなく言葉を交わしながら、彼はあの日を再現するような動作でわたしの手を取った。
「はい。それでは、よろしくお願いします」
「承りました、お姫様」
「二回会っただけのわたしが言うのもなんですけど、……凄く気障ですよね」
「あはは、昔からよく言われる」
薄いブルーの病衣は、その人の白い肌をより一層際立たせている。こちらのペースに合わせて歩く彼は、ぞっとする程に美しく、もどかしい程に優しいと思った。
「あら薫ちゃん! 名前ちゃんも来てくれたのねぇ」
祖母は、左腕の包帯やお腹に巻かれたコルセットをものともしない様子で明るく笑っていた。思いの外元気なようだと安堵しながら、わたしは慣れたように病室へ足を踏み入れたその人の背中を目で追った。
「かおる、さん?」
「そうだよ、名前ちゃん。俺は薫。───羽風薫」
月光を詰め込んだような髪が、明るい陽射しを浴びてキラキラと輝いている。まるで天使のようだった。 結局わたしは面会時間のギリギリまで居座り、久しく会っていなかった祖母と共に、美しいその人と会話をした。
頼りない蛍光灯に照らされた彼は、あどけなさを残した表情で明るく笑い続ける。容姿が立派な青年であるが故に、その無邪気さが余計に際立っているようだった。
「それじゃ名前ちゃん。俺、下まで送るよ」
「いや、そんな! お気遣いなく!」
「あら薫ちゃん、お願いできる? あたしも行ってあげたいんだけどねえ」
「おばあちゃん、無理しないでいいから……!」
「なら、素直に色男に見送られてきなさいな。頼んだよ、薫ちゃん」
「うん、確かに頼まれました」
涼しい笑い声を上げた祖母は、わたしたちの繋がった掌を見詰めながらゆったりと目を細める。胸の奥がむずむずするような、気恥ずかしい思いのまま病室を後にした。 紅く透き通った夕日の中、その人は自然な動作でわたしの頭を撫でる。
「ねえ名前ちゃん。今晩も会いに行っていい?」
「……はい。お待ちしています」
祖父が待つ家に帰り家事をこなしながらも、わたしの夢見心地な頭はフワフワとその人のことばかり考えていた。彼の笑顔は柔らかく、優しく、穏やかで甘やかだった。存在そのものが現実から乖離しているように見えるのは、いつもどこか遠くを見ている瞳の印象が強いからだろうか。
「かおるさん」
ぽつりと零した名前は、あっという間に掻き消えていく。彼は今も、一人きりで立ち尽くしているのだろうか。ただそればかりが気になった。