03
朝六時。農作業に向かう祖父のために朝食を作ってから、わたしは無心に洗濯機を回す。
寝不足の頭で思い返すのは昨夜のことだ。 後悔ばかりの人生を送ってきたが、その中でも今回は特に酷い。負の感情を吐き出すように大きく溜め息を吐いても、一向に心は晴れそうになかった。
踏み込んではいけない場所にまで立ち入ってしまった。きっと彼は、無神経なわたしに対して怒りを覚えているのだろう。 洗濯カゴを持って、海に面した縁側へ出る。真っ青な絵の具をぶちまけたような空の下、物干し竿に一つ一つかけていく瞬間がわたしは好きだった。脳裏に浮かぶ天使のような笑顔を必死に振り払い、気分転換のために海を眺める。
「あれ?」
砂浜に、真っ黒な人影が横たわっているようだった。二日酔いの人かな、と特に気にもせずわたしは視線を逸らして作業を進める。お昼過ぎの面会時間に間に合わせるべく、やるべきことは全て終わらせなければならないのだ。
今週一週間の任務は、浴槽と台所、そして居間の掃除だ。ひとまずフローリングに掃除機をかけ、雑巾での水拭きまではこなした。今まで家事を全て担ってきた祖母が安心できるように、何より一人になっても祖父が生活しやすいように、一つ一つを整えていく。
夏の陽射しですっかり洗濯物も乾いたであろう頃、取り込みにいったわたしが見たのは、先程とまったく同じ場所に倒れている人影だった。
「……声だけかけてみるか」
遊泳禁止の海であるため、目の前の浜辺にはあまり人が来ないのだ。万が一があっては困るからと、わたしはサンダルを履いて外へ出た。慣れないことばかりして身体が疲れているのも事実なので、運動がてら散歩をするのも悪くない。
「あの、大丈夫ですか?」
「……水を」
「え?」
「どうか、水をくれぬかのう……?」
まさかの行き倒れだった。了承の返事をしてから、急いで家に戻ってコップに水を注ぐ。 掌で青年の上半身を支えていると、色気を帯びた深紅の瞳に見詰められた。緊張感と気恥ずかしさを抱えながらも、青年の唇が瑞々しく潤っていく様を確認していく。
「うう、……生き返ったわい。お嬢ちゃん、親切にどうもありがとう」
「いえ、そんな。お腹も空いていらっしゃるようなら、少しですがご用意はできますが……」
「大丈夫じゃよ。我輩はちょっと太陽光にやられただけじゃろうて」
「それ熱中症じゃないですか!?……この辺り、休めるお店って全然無いんですよね。あの、もし良ければうちで涼んでいかれますか?」
わたしの祖母は、熱中症が原因で運転中に道路脇へ転落したそうだ。エアバッグが無ければかなり危険な状態だったらしく、ひしゃげた車の写真を見て心底肝が冷えた。 この場所は日陰になっているが、決して油断は出来ない。熱中症の危険がある人を、この環境下に置いておけるわけがなかった。
「じゃが、そこまで世話になるわけには」
ぐうう、と辺りに盛大な腹の虫が鳴り響く。わたしは思わず自分の腹部に手を当てるが、目の前で恥ずかしそうに頬を染めた青年が全ての答えを示していた。
「ご馳走さまでした」
「はい、お粗末さまでした」
「夏野菜カレーは初めて食べたんじゃが、とても美味しかったのう」
「それは良かったです。ナスもズッキーニも良い具合にとろけてますし、トマトも入れたからまろやかになったのかも」
「うむ。我輩、トマトは大好きじゃ」
無邪気に笑った青年が、深々と頭を下げた。
「本当にありがとう、お嬢ちゃん。この見知らぬ土地で最初に出会えたのがおぬしで良かった」
「いえ、こちらも強引にお誘いしてしまったので……。わたしはこれから出掛けるつもりなんですけど、どうされますか?」
「我輩もそろそろお暇させてもらおう。この礼は必ずまた」
「そんなお気遣いなく。……そうだ、すぐそこの直売所でおじいちゃんが作ったトマトを売ってるんです。もし良ければお土産にでも」
「それだけではお礼にならんと思うのじゃが」
「でも、わたしは一番嬉しいです」
「そうか」
「はい」
真っ黒なワイシャツを揺らし、青年は悪戯っぽく微笑む。
「ならば、自分用とお土産用にたんまり買っていこう」
「はい! ありがとうございます」
足取りがしっかりしている大きな背中を見送り、わたしはお見舞いの準備をするべく踵を返した。
「……あ。そういえば名前聞きそびれてた」
あの麗しい青年のお陰で、モヤモヤしていた気持ちが少し晴れたようだ。一人で笑いながら、祖母へ渡すための洋服をまとめていく。病院までは歩いて約三十分。ちょうどいい頃合いだった。
「こんにちは。おばあちゃん」
「おや名前ちゃん、よく来たねえ」
「うん、頼まれてた物は持ってきたよ。お洗濯物はある?」
「看護師さんが此処にまとめて置いてくれているよ。悪いねえ」
「気にしないで。徹底的に家事するの、結構楽しいんだ」
個室のベッドに一人で座る祖母を見て、わたしは人知れず安堵してしまう。顔を合わせても大丈夫なように覚悟を決めたつもりだったのだが、どうやら思い込みだったようだ。
「ああ、薫ちゃんかい?」
「え、いやいや! そんな気にしてないから」
「今日はどうやら面会の人が来ているみたいでねえ」
「そ、……そうなんだ」
「こんなおばあちゃんを相手にしてくれるくらいだもの。優しいあの子にお友達がいないわけなかったんだね」
「……薫さん、滅多に面会の人がこないって聞いたよ」
「ええ。あたしも最近入ったばかりだけど、どうやら周りに聞く限りご家族も面会にいらしてないようだからねえ。それも、入院してから一度も来たことが無いだって言うんだもの」
昨晩の言葉は、大袈裟な自虐ではなく事実だったのだと知る。膝の上で強く拳を握り締めたわたしを見て、祖母が柔らかく言葉を紡いだ。
「昨日の夜、薫ちゃんとデートしたんだってねえ」
「で、……デートなんかじゃない、よ」
「そうなのかい? 今朝、薫ちゃんが嬉しそうに報告に来てくれたんだけれど」
「し、知らない」
不自然にどきどきと脈打つ心臓に知らんぷりをするわたしを、祖母は微笑ましそうに見守っている。慌てて話題を変えてもその穏やかな笑顔は変わらず、わたしはその優しさに感謝するばかりだった。
そのまま会話を一時間ほど楽しんだ後、わたしは病室を出て真っ白な空間を一人ぼっちで歩いていく。途端に寂しさが胸いっぱいに満ちていくのを感じながら、温もりの残滓を探すように拳を握った。昨日は、こんな気持ちを感じる暇なんて無かったのだ。あの優しい人が隣にいてくれたから。
「…………薫さん」
その美しい響きは誰にも拾われずそっと空気に溶けていく。胸の底を擽った引き攣るような想いの正体に、わたしはまだ知らないふりをしていたかったのだ。
寝不足の頭で思い返すのは昨夜のことだ。 後悔ばかりの人生を送ってきたが、その中でも今回は特に酷い。負の感情を吐き出すように大きく溜め息を吐いても、一向に心は晴れそうになかった。
踏み込んではいけない場所にまで立ち入ってしまった。きっと彼は、無神経なわたしに対して怒りを覚えているのだろう。 洗濯カゴを持って、海に面した縁側へ出る。真っ青な絵の具をぶちまけたような空の下、物干し竿に一つ一つかけていく瞬間がわたしは好きだった。脳裏に浮かぶ天使のような笑顔を必死に振り払い、気分転換のために海を眺める。
「あれ?」
砂浜に、真っ黒な人影が横たわっているようだった。二日酔いの人かな、と特に気にもせずわたしは視線を逸らして作業を進める。お昼過ぎの面会時間に間に合わせるべく、やるべきことは全て終わらせなければならないのだ。
今週一週間の任務は、浴槽と台所、そして居間の掃除だ。ひとまずフローリングに掃除機をかけ、雑巾での水拭きまではこなした。今まで家事を全て担ってきた祖母が安心できるように、何より一人になっても祖父が生活しやすいように、一つ一つを整えていく。
夏の陽射しですっかり洗濯物も乾いたであろう頃、取り込みにいったわたしが見たのは、先程とまったく同じ場所に倒れている人影だった。
「……声だけかけてみるか」
遊泳禁止の海であるため、目の前の浜辺にはあまり人が来ないのだ。万が一があっては困るからと、わたしはサンダルを履いて外へ出た。慣れないことばかりして身体が疲れているのも事実なので、運動がてら散歩をするのも悪くない。
「あの、大丈夫ですか?」
「……水を」
「え?」
「どうか、水をくれぬかのう……?」
まさかの行き倒れだった。了承の返事をしてから、急いで家に戻ってコップに水を注ぐ。 掌で青年の上半身を支えていると、色気を帯びた深紅の瞳に見詰められた。緊張感と気恥ずかしさを抱えながらも、青年の唇が瑞々しく潤っていく様を確認していく。
「うう、……生き返ったわい。お嬢ちゃん、親切にどうもありがとう」
「いえ、そんな。お腹も空いていらっしゃるようなら、少しですがご用意はできますが……」
「大丈夫じゃよ。我輩はちょっと太陽光にやられただけじゃろうて」
「それ熱中症じゃないですか!?……この辺り、休めるお店って全然無いんですよね。あの、もし良ければうちで涼んでいかれますか?」
わたしの祖母は、熱中症が原因で運転中に道路脇へ転落したそうだ。エアバッグが無ければかなり危険な状態だったらしく、ひしゃげた車の写真を見て心底肝が冷えた。 この場所は日陰になっているが、決して油断は出来ない。熱中症の危険がある人を、この環境下に置いておけるわけがなかった。
「じゃが、そこまで世話になるわけには」
ぐうう、と辺りに盛大な腹の虫が鳴り響く。わたしは思わず自分の腹部に手を当てるが、目の前で恥ずかしそうに頬を染めた青年が全ての答えを示していた。
「ご馳走さまでした」
「はい、お粗末さまでした」
「夏野菜カレーは初めて食べたんじゃが、とても美味しかったのう」
「それは良かったです。ナスもズッキーニも良い具合にとろけてますし、トマトも入れたからまろやかになったのかも」
「うむ。我輩、トマトは大好きじゃ」
無邪気に笑った青年が、深々と頭を下げた。
「本当にありがとう、お嬢ちゃん。この見知らぬ土地で最初に出会えたのがおぬしで良かった」
「いえ、こちらも強引にお誘いしてしまったので……。わたしはこれから出掛けるつもりなんですけど、どうされますか?」
「我輩もそろそろお暇させてもらおう。この礼は必ずまた」
「そんなお気遣いなく。……そうだ、すぐそこの直売所でおじいちゃんが作ったトマトを売ってるんです。もし良ければお土産にでも」
「それだけではお礼にならんと思うのじゃが」
「でも、わたしは一番嬉しいです」
「そうか」
「はい」
真っ黒なワイシャツを揺らし、青年は悪戯っぽく微笑む。
「ならば、自分用とお土産用にたんまり買っていこう」
「はい! ありがとうございます」
足取りがしっかりしている大きな背中を見送り、わたしはお見舞いの準備をするべく踵を返した。
「……あ。そういえば名前聞きそびれてた」
あの麗しい青年のお陰で、モヤモヤしていた気持ちが少し晴れたようだ。一人で笑いながら、祖母へ渡すための洋服をまとめていく。病院までは歩いて約三十分。ちょうどいい頃合いだった。
「こんにちは。おばあちゃん」
「おや名前ちゃん、よく来たねえ」
「うん、頼まれてた物は持ってきたよ。お洗濯物はある?」
「看護師さんが此処にまとめて置いてくれているよ。悪いねえ」
「気にしないで。徹底的に家事するの、結構楽しいんだ」
個室のベッドに一人で座る祖母を見て、わたしは人知れず安堵してしまう。顔を合わせても大丈夫なように覚悟を決めたつもりだったのだが、どうやら思い込みだったようだ。
「ああ、薫ちゃんかい?」
「え、いやいや! そんな気にしてないから」
「今日はどうやら面会の人が来ているみたいでねえ」
「そ、……そうなんだ」
「こんなおばあちゃんを相手にしてくれるくらいだもの。優しいあの子にお友達がいないわけなかったんだね」
「……薫さん、滅多に面会の人がこないって聞いたよ」
「ええ。あたしも最近入ったばかりだけど、どうやら周りに聞く限りご家族も面会にいらしてないようだからねえ。それも、入院してから一度も来たことが無いだって言うんだもの」
昨晩の言葉は、大袈裟な自虐ではなく事実だったのだと知る。膝の上で強く拳を握り締めたわたしを見て、祖母が柔らかく言葉を紡いだ。
「昨日の夜、薫ちゃんとデートしたんだってねえ」
「で、……デートなんかじゃない、よ」
「そうなのかい? 今朝、薫ちゃんが嬉しそうに報告に来てくれたんだけれど」
「し、知らない」
不自然にどきどきと脈打つ心臓に知らんぷりをするわたしを、祖母は微笑ましそうに見守っている。慌てて話題を変えてもその穏やかな笑顔は変わらず、わたしはその優しさに感謝するばかりだった。
そのまま会話を一時間ほど楽しんだ後、わたしは病室を出て真っ白な空間を一人ぼっちで歩いていく。途端に寂しさが胸いっぱいに満ちていくのを感じながら、温もりの残滓を探すように拳を握った。昨日は、こんな気持ちを感じる暇なんて無かったのだ。あの優しい人が隣にいてくれたから。
「…………薫さん」
その美しい響きは誰にも拾われずそっと空気に溶けていく。胸の底を擽った引き攣るような想いの正体に、わたしはまだ知らないふりをしていたかったのだ。