04
今日は星が綺麗に見える。
砂浜に一人で膝を抱えながら、わたしは全身で風を感じていた。たとえ地上で何が起ころうとも、誰かが命を散らしたとしても、空は変わらずそこに在り続けるのだろう。
その人は、その不変さを好むと言った。見詰めていると安心すると目線で語っていた。けれどわたしは、変わらないものにはなれない存在だった。彼の心に残るひとには、決してなれない。
「こんばんは、名前ちゃん」
低くしっとりとした声が、わたしの心を強く揺さぶる。そんなことに気付きもしない様子で、その人は身体一つ分の距離を空けて隣に座り込んだ。
「夜はマシだけど、やっぱり夏は湿気が凄いね。病院だとずっと冷房に当たってるからそれに慣れちゃってさ、昼間はとてもじゃないけど外出できないよ」
その人は、訥々と言葉を紡ぎ出す。深い闇を内包する海を見据えて、わたしのことなど視界から置き去りにするかのように。
「そういえば病院に売店があるんだけど見た? あそこでアイス買うのが唯一の俺の楽しみだったりするんだよね」
「はい、品揃えがコンビニ並みでしたよね」
「でしょ? 俺、甘い物に目が無くてさ。寄るといつも何か買っちゃうんだよね」
「……」
「昔は生クリームたっぷりのパンケーキも普通にいけたんだけどさ、こんな身体になってからすっかりダメになっちゃった。アイスだけで我慢してるつもりなのに、看護師さんには食べすぎって言われちゃうんだよね」
「…………」
「少しくらい許してくれてもいいと思わない? 特に問題も起こさず普通に過ごしてるだけなんだからさ、最後くらい良い思いさせてほしいよ」
その人は、笑顔を浮かべたまま自身の感情をひた隠しにしているように思えた。わたしの言葉を丁寧に拾い上げてくれていた優しさは、すっかり分厚い殻の中に閉じ込められている。その心の内側に触れる度胸はないくせに、わたしはあなたの名前を呼びたくなってしまうんだ。
「───薫さん」
その瞬間、弾かれたように顔を上げて、その人は初めて存在を認識したかのようにわたしを見詰めた。何よりも先に湧き上がった嬉しさのままに、わたしは微笑む。
「甘い物って美味しいですよね。わたしもよく、新商品のコンビニスイーツとか新しく出来たケーキ屋さんとか色々惹かれちゃって」
「……うん、分かるよ」
「今まで知らなかったことを知れるのって、それだけで幸せだと思うんです。今まで知っていた幸せを更に噛み締められるのって、とっても素敵なことだと思うんです」
「……そうだね」
わたしはその人の温かな掌に触れた。母が子を慈しむかのごとく、大きな手の甲をすっぽりと覆うように撫で上げる。するとその人は顔を伏せ、次の瞬間には乱暴な動作で砂浜に横たわっていた。綺麗な金の髪がふわりと砂の上に散らばり、視界を鮮やかに染め上げていく。
「……俺、情けないね。年下の女の子に気を遣わせちゃったよ」
「わたしは、思ったことを言っただけですよ」
「うん、知ってる。だから余計に情けない。俺はただ、少しだけ昔を思い出して……駄々をこねてただけなんだ」
幼い少年のように、拗ねた表情で固く瞳を閉じて。その人は、か細い声を振り絞って告白した。
「俺のお母さんはね、海に連れていかれたんだよ」
「…………」
「小さい時に、沖へ流された俺を助けようとしてそのまま死んじゃったんだ。だから親父は俺のことが嫌いだし、他の家族も俺にどう接していいか分からなかったみたい。なるべく距離を置くために───全てから逃げるためにのらりくらりと生きてたら、今度は世間体を気にしてか真面目にしろって連日お説教されてさ。家にいる時間が苦痛で仕方なかったよ」
「そう、だったんですね」
「うん。でも、高校生活の最後の一年は本当に楽しかったんだ。こんな俺を認めて、許して、好きになってくれた人がたくさんいた。俺自身も、誰かを本気で愛したいと思うようになってた」
「……素敵な人たちに巡り会えたんですね」
「そう。でもね、俺はその信頼を裏切ったんだ。皆の想いを一方的に踏み躙って、こんな遠くまで逃げ出して、でも諦めきれなくて毎日この場所に来てる」
「…………」
「今日さ、高校の同級生に見つかっちゃったんだ。親類でさえ知らなかった俺の居場所を、どういう手段を使ったのか突き止めたらしくて。言われたよ。戻ってこいって」
「それで、薫さんはなんて?」
「二度と来るな。もう顔も見たくない。……そう喚いたんだ」
傷ついたような表情で、その人は口元に歪な弧を描く。
「大切だったんですね、その方が」
「……そうだね」
「戻らないんですか?」
「戻れないんだよ。俺の未来は、あの春に全部置いてきたから。だから振り返らない。もう誰にも信じてほしくない。きっと俺自身が一番、俺を信じることが出来ないんだ」
「わたしは何も知らないですし、何を言える立場でもないと思います。……それでも、わたしは薫さんを信じていたいです」
「名前ちゃん、格好いいなあ。……本当にそっくり」
懐かしむように柔らかく細まった瞳を見て、はっきりと胸の奥が痛み出す。分かっていた。わたしは、決してその人の一番にはなれないんだということ。知っていた。薫さんの心には、どうしようもなく大切な人がいるんだってこと。 この気持ちを持て余したまま、その温かい掌を握り続ける。そうする以外の方法を、わたしは知る術が無かったのだ。
砂浜に一人で膝を抱えながら、わたしは全身で風を感じていた。たとえ地上で何が起ころうとも、誰かが命を散らしたとしても、空は変わらずそこに在り続けるのだろう。
その人は、その不変さを好むと言った。見詰めていると安心すると目線で語っていた。けれどわたしは、変わらないものにはなれない存在だった。彼の心に残るひとには、決してなれない。
「こんばんは、名前ちゃん」
低くしっとりとした声が、わたしの心を強く揺さぶる。そんなことに気付きもしない様子で、その人は身体一つ分の距離を空けて隣に座り込んだ。
「夜はマシだけど、やっぱり夏は湿気が凄いね。病院だとずっと冷房に当たってるからそれに慣れちゃってさ、昼間はとてもじゃないけど外出できないよ」
その人は、訥々と言葉を紡ぎ出す。深い闇を内包する海を見据えて、わたしのことなど視界から置き去りにするかのように。
「そういえば病院に売店があるんだけど見た? あそこでアイス買うのが唯一の俺の楽しみだったりするんだよね」
「はい、品揃えがコンビニ並みでしたよね」
「でしょ? 俺、甘い物に目が無くてさ。寄るといつも何か買っちゃうんだよね」
「……」
「昔は生クリームたっぷりのパンケーキも普通にいけたんだけどさ、こんな身体になってからすっかりダメになっちゃった。アイスだけで我慢してるつもりなのに、看護師さんには食べすぎって言われちゃうんだよね」
「…………」
「少しくらい許してくれてもいいと思わない? 特に問題も起こさず普通に過ごしてるだけなんだからさ、最後くらい良い思いさせてほしいよ」
その人は、笑顔を浮かべたまま自身の感情をひた隠しにしているように思えた。わたしの言葉を丁寧に拾い上げてくれていた優しさは、すっかり分厚い殻の中に閉じ込められている。その心の内側に触れる度胸はないくせに、わたしはあなたの名前を呼びたくなってしまうんだ。
「───薫さん」
その瞬間、弾かれたように顔を上げて、その人は初めて存在を認識したかのようにわたしを見詰めた。何よりも先に湧き上がった嬉しさのままに、わたしは微笑む。
「甘い物って美味しいですよね。わたしもよく、新商品のコンビニスイーツとか新しく出来たケーキ屋さんとか色々惹かれちゃって」
「……うん、分かるよ」
「今まで知らなかったことを知れるのって、それだけで幸せだと思うんです。今まで知っていた幸せを更に噛み締められるのって、とっても素敵なことだと思うんです」
「……そうだね」
わたしはその人の温かな掌に触れた。母が子を慈しむかのごとく、大きな手の甲をすっぽりと覆うように撫で上げる。するとその人は顔を伏せ、次の瞬間には乱暴な動作で砂浜に横たわっていた。綺麗な金の髪がふわりと砂の上に散らばり、視界を鮮やかに染め上げていく。
「……俺、情けないね。年下の女の子に気を遣わせちゃったよ」
「わたしは、思ったことを言っただけですよ」
「うん、知ってる。だから余計に情けない。俺はただ、少しだけ昔を思い出して……駄々をこねてただけなんだ」
幼い少年のように、拗ねた表情で固く瞳を閉じて。その人は、か細い声を振り絞って告白した。
「俺のお母さんはね、海に連れていかれたんだよ」
「…………」
「小さい時に、沖へ流された俺を助けようとしてそのまま死んじゃったんだ。だから親父は俺のことが嫌いだし、他の家族も俺にどう接していいか分からなかったみたい。なるべく距離を置くために───全てから逃げるためにのらりくらりと生きてたら、今度は世間体を気にしてか真面目にしろって連日お説教されてさ。家にいる時間が苦痛で仕方なかったよ」
「そう、だったんですね」
「うん。でも、高校生活の最後の一年は本当に楽しかったんだ。こんな俺を認めて、許して、好きになってくれた人がたくさんいた。俺自身も、誰かを本気で愛したいと思うようになってた」
「……素敵な人たちに巡り会えたんですね」
「そう。でもね、俺はその信頼を裏切ったんだ。皆の想いを一方的に踏み躙って、こんな遠くまで逃げ出して、でも諦めきれなくて毎日この場所に来てる」
「…………」
「今日さ、高校の同級生に見つかっちゃったんだ。親類でさえ知らなかった俺の居場所を、どういう手段を使ったのか突き止めたらしくて。言われたよ。戻ってこいって」
「それで、薫さんはなんて?」
「二度と来るな。もう顔も見たくない。……そう喚いたんだ」
傷ついたような表情で、その人は口元に歪な弧を描く。
「大切だったんですね、その方が」
「……そうだね」
「戻らないんですか?」
「戻れないんだよ。俺の未来は、あの春に全部置いてきたから。だから振り返らない。もう誰にも信じてほしくない。きっと俺自身が一番、俺を信じることが出来ないんだ」
「わたしは何も知らないですし、何を言える立場でもないと思います。……それでも、わたしは薫さんを信じていたいです」
「名前ちゃん、格好いいなあ。……本当にそっくり」
懐かしむように柔らかく細まった瞳を見て、はっきりと胸の奥が痛み出す。分かっていた。わたしは、決してその人の一番にはなれないんだということ。知っていた。薫さんの心には、どうしようもなく大切な人がいるんだってこと。 この気持ちを持て余したまま、その温かい掌を握り続ける。そうする以外の方法を、わたしは知る術が無かったのだ。