05
「こんにちは、お嬢ちゃん」
翌日の朝。洗濯物を干すために縁側へ出ると、昨日の青年が真下の砂浜に立っていた。本人の表情は明るく、足取りもしっかりしている。 昨晩から引き摺っていた沈んだ気持ちを、わたしは一時だけ頭の片隅に追いやった。
「あ、こんにちは! その後、お加減はいかがですか」
「うむ、頗る良好じゃよ。ありがとう」
「それなら良かったです。ええと、わたしに何か御用でも?」
「突然押しかけてすまぬのう。一つだけ聞きたいことがあった故に、もう一度会いたくなってしまったんじゃ」
「はい。何でしょうか?」
青年は朗らかに笑い、自然な口調で爆弾を落とした。
「羽風薫、という名を知っておるじゃろう?」
ぽかんと口を開いたわたしを見て、青年は無邪気に笑った。先日の薫さんとそっくりな表情に、心臓がどきりと跳ねる。 闇夜に溶けこむ影のある顔が思い浮かび、罪悪感のあまり海に飛びこんでしまいたくなった。自分の世界に入り込みそうになるのを既の所で堪える。
「はい、入院している祖母がお世話になっています。……もしかして、薫さんの高校の同級生の方、ですか?」
「うむ、既にそこまで知っておるならば話が早いのう」
黒々とした髪を潮風に靡かせ、青年は夕陽のごとく真っ赤な瞳をこちらに向けた。彫刻のように端整な顔に見つめられ、わたしはまるで被食者のような心持ちになる。その場の空気が、指先一つ動かせないほどの緊張感に満ちていった。
「お嬢ちゃんは、薫くんと随分仲が良いと聞いたのじゃが」
「……そんなことないですよ。薫さんは優しいから、ただ話し相手になってくれているだけです」
「ほう。随分と自己評価が低いようじゃが?」
「きっと、気付いていらっしゃるんでしょう。 わたしは薫さんのことを何も知りません。薫さんの心を動かせるような存在じゃないんです」
「ふむ」
青年は、感情の読めない瞳を鋭く細めた。
「ならば、薫くんの心を全て知りたいとは思わぬか」
「……思いません」
「何故?」
「薫さんの心は、薫さんだけのものだから。たとえあの人の過去を全て知ったとしても、それはただの自己満足でしかない。同情するような態度を取って傷付けてしまうくらいなら、わたしは何も知らないままでいいです」
「ふむ」
ぱっと弾けるような笑顔を浮かべ、青年は満足そうに頷く。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「えっと……苗字名前、です」
「我輩は朔間零という。現在の肩書きは薫くんと同じで、元アイドルじゃな」
「元アイドル……?」
口に出してみても、その言葉を噛み砕くのに時間が必要だった。アイドル。画面越しでしか見たことはないが、容姿端麗な上に歌って踊れる存在だということは知っていた。
自宅におけるわたしは、家事をするか本を読むばかりでテレビを殆ど見ないため、周囲から呆れられるほど芸能には疎いのだ。そのことを生まれて初めて後悔する。 だが、もしはじめからテレビの中の薫さんを知っていたとしたら、わたしはにべも無い態度で拒絶されていただろうという予感はあった。
「活動休止してから暫く経つ。苗字さんが知らぬのも無理はない」
「朔間さんはもしかして、薫さんを芸能界に連れ戻すために?」
「いや、ただ我輩は本人が何を思って姿を消したのか、その理由を知りたかっただけじゃよ。あわよくば、という思いも勿論あったがのう」
「そう、ですか」
「何の相談もしなかったことに対する怒りなど、顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。元々怒るつもりも無かったとはいえ……、あんなにも口が回らなかったのは久しぶりじゃよ」
「確かに、朔間さんって口が達者そうですもんね。女性を口説くのが上手そう」
「むむ、大人しそうな顔して意外と遠慮無しじゃな」
「すみません。でも、わたし分かった気がします」
「何をじゃ?」
「薫さんは、貴方にだけは知られたくなかったんだろうなって」
猫のように瞳をまるく開いて、朔間さんは絶句している様子だった。何かおかしなことを言っただろうか、と思考の波に沈もうとしたわたしの目に、夏のギラギラした陽射しが差し込んでくる。そろそろ昼食の下準備をしなければならない頃だろう。
「朔間さん、宜しければ上がっていきませんか? ついでにお昼も用意できますよ」
「ううむ……世話になってばかりですまないのう」
その後、お礼として家事を手伝うという彼の言葉に甘えつつも、わたし達は予定通り昼食を共にした。今日のメニューは、トマトをたっぷり煮込んだミートソースパスタだ。ソースを冷凍すれば料理をしない祖父もすぐに温めて食べられるし、ご飯やマカロニにチーズをかければグラタンにもなる。朔間さんは口の端を赤くしながら美味しそうに食べてくれたので有難かった。
「今更なんじゃが、名前ちゃんと呼んでもよいかのう?」
「あ、はい。改めて宜しくお願いします、零さん」
皿洗いまで終えてリビングに戻り、わたし達はテーブルを挟んで向かい合わせに座る。お互いに軽くお辞儀をして、そっと視線を重ね合わせた。
「まずは互いの目的を確認しておこう。それを踏まえて知り得ている情報を共有し、具体的な行動を明確にする。これで異存ないかの?」
「はい、流れについては大丈夫です。ただ一つだけ質問が。目的というのが少しはっきりしないのですが……?」
「単純なことじゃよ。すなわち、何故薫くんに執着するのかと自分に問いかければよい」
「……はい、理解しました」
「ならば早速始めるかのう」
零さんは麦茶で喉を潤しつつも、一つ一つの言葉を噛み締めるように吐き出していく。
「我輩は───薫くんを愛していた。慈しむべき仲間として。尊ぶべき朋友として。だからこそ、全てを暴きにやってきたんじゃよ」
その真っ直ぐな瞳は、残酷な程に美しかった。薄い唇を固く引き結び、今度は視線でわたしの言葉を促す。
「わたしは、…………」
わたしは、薫さんのことを何も知らない。 薫さんが抱える病気がどのようなものか、何故愛する女性に会いに行かないのか、仲間の想いを拒絶するのか。わたしには全て分からない。けれど一つだけ確かな想いがあった。
「わたしは、薫さんには笑っていてほしい。勝手かもしれないですけど、これからの未来を諦めないでほしいと思っています」
あの繊細で柔らかな内面に、どれほどの傷を抱えているのだろうか。わたしの願いは、その傷を更に増やす結果となるかもしれない。
「だから、あの人が愛を注いだ人と永遠に別れたままになってしまうのは嫌なんです。薫さんが愛する女性も、薫さんの想いを知るべき御家族も、高校時代の御友人達も。きっと、誰が欠けても駄目なんです」
「……名前ちゃん」
「わたしの目的は、薫さんが愛する人達に会うこと。そのために、出来ることを教えて頂きたいです」
真剣な表情を崩し、零さんはくつくつと喉の奥で笑い始める。こんなにも笑い方が上品な人は初めて見た、とわたしはただ驚くばかりだ。
「名前ちゃん、お主の気持ちを試そうとした我輩を叱っておくれ」
「そ、そんなことしませんよ。陽射しが苦手なのに草刈りまでしてくださった優しい人に、怒るはずないじゃないですか」
「なるほどのう」
「あの、やっぱりわたし、似てますか?」
「うん?……ああ、薫くんがそう言ったのかえ」
わたしに面影を見るほど焦がれている、大切なひと。その存在が気にならないわけがなかった。
「そうじゃのう、容姿というよりは内面が似ておるかもしれん。特にお節介なところが」
「零さんも結構ズバズバ言いますね!?」
「名前ちゃんの前だとつい気が抜けてしまうようじゃ。しかし、我輩も分かった気がするぞ」
「……何をですか?」
「内緒じゃよ。さて、次は今後のことを決めたいところじゃが、お見舞いの時間は大丈夫かのう?」
「あ、そうですね。そろそろ支度しないと」
「我輩も、寝床に戻って準備すべきことがある。また数時間後に合流しよう」
「はい。では、また連絡しますね」
昨日と同様に祖母の元を訪れた後、わたしは病院を出て零さんからのメールを待っていた。明るい夏空の下、湾曲した海岸線に沿ってゆったりと歩き続ける。耳元でごうごうと鳴る風の音に耳をすませていると、頭上のカモメと一体になるような心地がした。
ピロン、と鞄の中で着信音が鳴る。心当たりは一人しかいなかったため、わたしは画面上の文字を確認しないまま携帯を耳に押し当てた。
「もしもし、苗字です」
「あ、名前ちゃん。やっほー元気?」
「か、……薫さん!?」
肌の表面を擽るような穏やかな声だった。そこには揶揄うような色が滲んでおり、くすくすと柔らかい笑い声が受話器越しに響いている。
「突然ごめんね。お話ししたくなって、勝手に番号聞いちゃったんだ」
「い、いえ、大丈夫です……!」
「本当は直接伝えられたら良かったんだけど、待たせたら悪いなと思ってさ。実は今日から夜間警備が厳しくなるらしくて、会いに行けなくなりそうなんだ」
「分かりました。……きっと、薫さんは夜にちゃんと休むべきだっていう神様のお告げですね」
「手厳しいなあ。でも昼間は病室にいるから、もし良かったら会いに来てよ。名前ちゃんは、あと二週間くらいこっちにいるんだっけ?」
「は、はい。祖母には毎日会いに行くので、その後会いに行ってもいい、ですか……?」
「勿論。楽しみにしてるよ。それじゃ名前ちゃん、また明日ね」
夢心地な気分のまま電話を切り、いつの間にか受信していた零さんからのメールに慌てて返信をする。 わたしと薫さんは、一度たりとも会う約束をしたことはない。それでも気にしてくれたことが嬉しくて、今ならば何でも出来るような気がした。我ながら単純である。
翌日の朝。洗濯物を干すために縁側へ出ると、昨日の青年が真下の砂浜に立っていた。本人の表情は明るく、足取りもしっかりしている。 昨晩から引き摺っていた沈んだ気持ちを、わたしは一時だけ頭の片隅に追いやった。
「あ、こんにちは! その後、お加減はいかがですか」
「うむ、頗る良好じゃよ。ありがとう」
「それなら良かったです。ええと、わたしに何か御用でも?」
「突然押しかけてすまぬのう。一つだけ聞きたいことがあった故に、もう一度会いたくなってしまったんじゃ」
「はい。何でしょうか?」
青年は朗らかに笑い、自然な口調で爆弾を落とした。
「羽風薫、という名を知っておるじゃろう?」
ぽかんと口を開いたわたしを見て、青年は無邪気に笑った。先日の薫さんとそっくりな表情に、心臓がどきりと跳ねる。 闇夜に溶けこむ影のある顔が思い浮かび、罪悪感のあまり海に飛びこんでしまいたくなった。自分の世界に入り込みそうになるのを既の所で堪える。
「はい、入院している祖母がお世話になっています。……もしかして、薫さんの高校の同級生の方、ですか?」
「うむ、既にそこまで知っておるならば話が早いのう」
黒々とした髪を潮風に靡かせ、青年は夕陽のごとく真っ赤な瞳をこちらに向けた。彫刻のように端整な顔に見つめられ、わたしはまるで被食者のような心持ちになる。その場の空気が、指先一つ動かせないほどの緊張感に満ちていった。
「お嬢ちゃんは、薫くんと随分仲が良いと聞いたのじゃが」
「……そんなことないですよ。薫さんは優しいから、ただ話し相手になってくれているだけです」
「ほう。随分と自己評価が低いようじゃが?」
「きっと、気付いていらっしゃるんでしょう。 わたしは薫さんのことを何も知りません。薫さんの心を動かせるような存在じゃないんです」
「ふむ」
青年は、感情の読めない瞳を鋭く細めた。
「ならば、薫くんの心を全て知りたいとは思わぬか」
「……思いません」
「何故?」
「薫さんの心は、薫さんだけのものだから。たとえあの人の過去を全て知ったとしても、それはただの自己満足でしかない。同情するような態度を取って傷付けてしまうくらいなら、わたしは何も知らないままでいいです」
「ふむ」
ぱっと弾けるような笑顔を浮かべ、青年は満足そうに頷く。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「えっと……苗字名前、です」
「我輩は朔間零という。現在の肩書きは薫くんと同じで、元アイドルじゃな」
「元アイドル……?」
口に出してみても、その言葉を噛み砕くのに時間が必要だった。アイドル。画面越しでしか見たことはないが、容姿端麗な上に歌って踊れる存在だということは知っていた。
自宅におけるわたしは、家事をするか本を読むばかりでテレビを殆ど見ないため、周囲から呆れられるほど芸能には疎いのだ。そのことを生まれて初めて後悔する。 だが、もしはじめからテレビの中の薫さんを知っていたとしたら、わたしはにべも無い態度で拒絶されていただろうという予感はあった。
「活動休止してから暫く経つ。苗字さんが知らぬのも無理はない」
「朔間さんはもしかして、薫さんを芸能界に連れ戻すために?」
「いや、ただ我輩は本人が何を思って姿を消したのか、その理由を知りたかっただけじゃよ。あわよくば、という思いも勿論あったがのう」
「そう、ですか」
「何の相談もしなかったことに対する怒りなど、顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。元々怒るつもりも無かったとはいえ……、あんなにも口が回らなかったのは久しぶりじゃよ」
「確かに、朔間さんって口が達者そうですもんね。女性を口説くのが上手そう」
「むむ、大人しそうな顔して意外と遠慮無しじゃな」
「すみません。でも、わたし分かった気がします」
「何をじゃ?」
「薫さんは、貴方にだけは知られたくなかったんだろうなって」
猫のように瞳をまるく開いて、朔間さんは絶句している様子だった。何かおかしなことを言っただろうか、と思考の波に沈もうとしたわたしの目に、夏のギラギラした陽射しが差し込んでくる。そろそろ昼食の下準備をしなければならない頃だろう。
「朔間さん、宜しければ上がっていきませんか? ついでにお昼も用意できますよ」
「ううむ……世話になってばかりですまないのう」
その後、お礼として家事を手伝うという彼の言葉に甘えつつも、わたし達は予定通り昼食を共にした。今日のメニューは、トマトをたっぷり煮込んだミートソースパスタだ。ソースを冷凍すれば料理をしない祖父もすぐに温めて食べられるし、ご飯やマカロニにチーズをかければグラタンにもなる。朔間さんは口の端を赤くしながら美味しそうに食べてくれたので有難かった。
「今更なんじゃが、名前ちゃんと呼んでもよいかのう?」
「あ、はい。改めて宜しくお願いします、零さん」
皿洗いまで終えてリビングに戻り、わたし達はテーブルを挟んで向かい合わせに座る。お互いに軽くお辞儀をして、そっと視線を重ね合わせた。
「まずは互いの目的を確認しておこう。それを踏まえて知り得ている情報を共有し、具体的な行動を明確にする。これで異存ないかの?」
「はい、流れについては大丈夫です。ただ一つだけ質問が。目的というのが少しはっきりしないのですが……?」
「単純なことじゃよ。すなわち、何故薫くんに執着するのかと自分に問いかければよい」
「……はい、理解しました」
「ならば早速始めるかのう」
零さんは麦茶で喉を潤しつつも、一つ一つの言葉を噛み締めるように吐き出していく。
「我輩は───薫くんを愛していた。慈しむべき仲間として。尊ぶべき朋友として。だからこそ、全てを暴きにやってきたんじゃよ」
その真っ直ぐな瞳は、残酷な程に美しかった。薄い唇を固く引き結び、今度は視線でわたしの言葉を促す。
「わたしは、…………」
わたしは、薫さんのことを何も知らない。 薫さんが抱える病気がどのようなものか、何故愛する女性に会いに行かないのか、仲間の想いを拒絶するのか。わたしには全て分からない。けれど一つだけ確かな想いがあった。
「わたしは、薫さんには笑っていてほしい。勝手かもしれないですけど、これからの未来を諦めないでほしいと思っています」
あの繊細で柔らかな内面に、どれほどの傷を抱えているのだろうか。わたしの願いは、その傷を更に増やす結果となるかもしれない。
「だから、あの人が愛を注いだ人と永遠に別れたままになってしまうのは嫌なんです。薫さんが愛する女性も、薫さんの想いを知るべき御家族も、高校時代の御友人達も。きっと、誰が欠けても駄目なんです」
「……名前ちゃん」
「わたしの目的は、薫さんが愛する人達に会うこと。そのために、出来ることを教えて頂きたいです」
真剣な表情を崩し、零さんはくつくつと喉の奥で笑い始める。こんなにも笑い方が上品な人は初めて見た、とわたしはただ驚くばかりだ。
「名前ちゃん、お主の気持ちを試そうとした我輩を叱っておくれ」
「そ、そんなことしませんよ。陽射しが苦手なのに草刈りまでしてくださった優しい人に、怒るはずないじゃないですか」
「なるほどのう」
「あの、やっぱりわたし、似てますか?」
「うん?……ああ、薫くんがそう言ったのかえ」
わたしに面影を見るほど焦がれている、大切なひと。その存在が気にならないわけがなかった。
「そうじゃのう、容姿というよりは内面が似ておるかもしれん。特にお節介なところが」
「零さんも結構ズバズバ言いますね!?」
「名前ちゃんの前だとつい気が抜けてしまうようじゃ。しかし、我輩も分かった気がするぞ」
「……何をですか?」
「内緒じゃよ。さて、次は今後のことを決めたいところじゃが、お見舞いの時間は大丈夫かのう?」
「あ、そうですね。そろそろ支度しないと」
「我輩も、寝床に戻って準備すべきことがある。また数時間後に合流しよう」
「はい。では、また連絡しますね」
昨日と同様に祖母の元を訪れた後、わたしは病院を出て零さんからのメールを待っていた。明るい夏空の下、湾曲した海岸線に沿ってゆったりと歩き続ける。耳元でごうごうと鳴る風の音に耳をすませていると、頭上のカモメと一体になるような心地がした。
ピロン、と鞄の中で着信音が鳴る。心当たりは一人しかいなかったため、わたしは画面上の文字を確認しないまま携帯を耳に押し当てた。
「もしもし、苗字です」
「あ、名前ちゃん。やっほー元気?」
「か、……薫さん!?」
肌の表面を擽るような穏やかな声だった。そこには揶揄うような色が滲んでおり、くすくすと柔らかい笑い声が受話器越しに響いている。
「突然ごめんね。お話ししたくなって、勝手に番号聞いちゃったんだ」
「い、いえ、大丈夫です……!」
「本当は直接伝えられたら良かったんだけど、待たせたら悪いなと思ってさ。実は今日から夜間警備が厳しくなるらしくて、会いに行けなくなりそうなんだ」
「分かりました。……きっと、薫さんは夜にちゃんと休むべきだっていう神様のお告げですね」
「手厳しいなあ。でも昼間は病室にいるから、もし良かったら会いに来てよ。名前ちゃんは、あと二週間くらいこっちにいるんだっけ?」
「は、はい。祖母には毎日会いに行くので、その後会いに行ってもいい、ですか……?」
「勿論。楽しみにしてるよ。それじゃ名前ちゃん、また明日ね」
夢心地な気分のまま電話を切り、いつの間にか受信していた零さんからのメールに慌てて返信をする。 わたしと薫さんは、一度たりとも会う約束をしたことはない。それでも気にしてくれたことが嬉しくて、今ならば何でも出来るような気がした。我ながら単純である。