それから二週間はあっという間に過ぎていく。

自宅に戻った零さんと連絡を取りながら、家事をこなして病院へと出向く日々。 どこか遠くを見詰める柔らかい瞳の横で、一緒にアイスを食べて、たくさんお喋りをして、中庭で日向ぼっこをして。息苦しさと同じくらい、たくさんの幸福をもらった。だから、わたしはそれだけで十分だったのだ。 嫌われる覚悟なんて、とっくに出来ていた。

「薫さん、こんにちは」
「名前ちゃん、こんにちは。今日はいつもより早いね?」
「はい。実は、……薫さんに会わせたい人がいるんです」

個室のベッドで上半身を起こしていた薫さんの表情が、みるみるうちに強張っていく。 ガラリと扉が開く音と共に顔を出したのは、整った顔に乏しい表情を浮かべた痩身の中年男性だ。わたしを庇うように薫さんの元へと歩み、唇の端を不器用に持ち上げる。

「久し振りだな、薫」
「…………、親父」

幽霊でも見たかのような茫然とした顔で、薫さんは手元のシーツを手繰り寄せた。ほっそりとした白い手首を隠そうとも、痩せ細っている身体の線は誤魔化しきれない。

「何で此処に……?」
「薫さん、勝手なことをしてごめんなさい。わたしが呼んだんです」
「苗字さんの言葉を信じ、お前に会うことを決めたのは私の意思だ。彼女を責めてやるなよ」

穏やかな声音だった。状況を理解しきれていない様子の薫さんに向けて、男性は滔々と言葉を紡ぐ。

「薫。少し話さないか」
「今さら、……話すことなんて何もないだろ。無様な息子の姿を笑いに来たのかよ」
「私は、お前に向き合うためにやってきたんだ」
「向き合う? 俺が何を言っても聞き耳を持とうとしなかったあんたがそれを言うんだ。どうせ、世間体を気にして入院費でも払いに来たんでしょ?」

視線を床に落としたまま、薫さんは自ら傷を抉るように言葉を振り絞っていく。わたしは居ても立っても居られず、ベッドの真横に歩み出た。

「薫さん」
「……名前ちゃん、ごめん。今はきみに優しく出来そうにない」

こんな場面でさえ相手を気遣う薫さんの優しさが、今は痛くて仕方ない。 零さんから情報を得て、薫さんの御家族に連絡を取ると決めたのはわたし自身だ。実家に電話をかけ、事情を説明して、薫さんに会ってほしいと懇願したのは他の誰でもなくわたしだった。
「あのね、薫さん。わたしの行動は、余計なお世話でしかないのかもしれません」
「……」
「初めてあなたに会った時から思っていたんです。わたしの心を攫ってくれたあなたに、寂しい思いをしないでほしいって。薫さんの笑顔はとても素敵で、いつでもわたしを幸せな気持ちにさせてくれるから」
「…………」
「わたしは薫さんを信じています。薫さんの心を、薫さんが抱く愛を、薫さんが見ている世界の美しさを。誰もがきっと、あなたを信じています。薫さんの御家族も、高校時代の御友人も、……あなたの心に陽を灯したであろう、ただ一人の女性も」

わたしはその場に膝をつき、その人の掌を握った。優しくて温かくて、わたしの心を世界の果てまで攫ってくれた掌。

「怖いんだ。……俺に向けられる言葉のすべてが恐ろしくて堪らない」
「……薫さん」
「情けないだろ? 他人を全て疑ってかかって、どんなに信じたくても信じられなくてさ。……ねえ名前ちゃん、気付いてた? 夜間警備が厳しくなったなんて嘘だよ。俺はこれ以上、きみとの距離が近付くのが怖かった。きみの言葉は甘くて優しくて、隣にいると全てから赦された気分になってしまうから」

蜂蜜を熱く煮詰めたような透き通った瞳に、わたしが映る。そのことが何より幸福で堪らないと思った。

「薫さん。わたしの言葉が甘いもの優しいのも当たり前です。あなたを赦したいと、あなたに幸せになってほしいという思いが伝わるのも当然なんです」
「……当然?」
「はい。だってわたしは、あなたを愛しているから」

呆気にとられたように薫さんは瞳を丸くし、一拍置いて繋がれた掌に目を遣った。迷子の子どものように、ぽつりぽつりと言葉をもらしていく。

「後で失うくらいなら、はじめから愛なんていらないよ」
「ならわたしは、何があっても薫さんを愛していると伝え続けます。あなたを一人ぼっちにさせたくないのは、ただのワガママでしかないかもしれないけど」
「俺は、きみに何も返してあげることが出来ないのに?」
「ただわたしがあなたを愛したいだけだから、何もいりません。たとえお婆ちゃんになっても、この想いは永遠に本物のまま、わたしの中に息づいていくんだろうなって分かるんです」
「……名前ちゃんって、本当に物好きだよね」

冷たく厚い雪が溶け出すかのように、その人の強ばっていた表情が穏やかなものへと変貌していく。やがて、春の木漏れ日のように無邪気に笑い声を上げ始めた。 心臓が飛び上がるほど驚いたものの、わたしは目の前の光景を焼き付けるように瞬きをする。そんなわたしの頭を一撫でした後、薫さんは手を解いて自身の父親に向き直った。

「親父、話を聞くよ」
「ああ。……いい友人に恵まれたようだな」 「いいから早くして」

照れくさそうに瞳を伏せ、乱暴な口調で急かす。その人が子どもらしい部分を曝け出している様は、何とも微笑ましく愛らしい。

───妻の人生が間違っていなかったと、証明したかったんだ。 真っ直ぐに息子を見詰めながら、父親は静かな声で告白していく。

「妻が何より大切にしていた宝物を、……お前達を、立派に育ててやらなければならない。頼れる親類もいなかったこともあって、私はそのプレッシャーに押し潰されていたのだろうな」 「…………」
「薫、お前には厳しいことをたくさん言ったな。傷付けるようなこともたくさん言った。だが、過去に吐き出した言葉を撤回するつもりはない。あれは紛れもなく、私の信念に基いて発した言葉だったからな」
「信念、ね」
「お前に幸せな人生を歩んでほしかった。だからこそ、アイドルになるよりも堅実な道を進んでほしかったんだ」
「……分かってたよ。親父が俺のことを想ってくれてたことも、ちゃんと分かってた」

そうか、と父親は悲痛な面持ちで零した。

「アイドルとして成功したらお前を認めると、高校卒業前に約束をしたな。そしてお前は、実際にそれを成し遂げた。……誇らしいと思ったよ。薫、お前は自慢の息子だと」
「…………」
「だが五年前、お前は突然活動休止を発表して姿を消した。情けないことに、その時初めて気付いたんだ。私は、今まで父親らしいことを何もしてやれなかったんだと。お前を大切に思っていると、一番伝えるべき言葉を何故言えなかったのかと後悔したよ」
「……親父」

薄い唇をそっと開き、その人は何かを堪えるように眉を寄せる。けれどそこに宿る感情は拒絶ではないと、わたしは知っていた。

「自分一人を悪者にしないでよ。きちんと親父に向き合わずに逃げ回っていたのは、俺の方なんだ」
「……薫」
「俺、嬉しかったよ。アイドルとして本格的に活動したいって言っても、親父は絶対馬鹿にしなかった。言葉は無くても、俺を信じてくれたんだって分かったから。その期待に応えたかった。……ただ、それだけだったのにね」

唇をそっと震わせて、その人は両手の指を強く絡める。端からほろほろと零れ落ちる息が、空間そのものを熱く揺らしていた。

「なあ薫、また会いに来てもいいか」
「うん。……待ってる」
「そうか、ありがとう」

その人は気恥ずかしそうに視線を逸らし、口角を不器用に持ち上げる。

「それにしても、随分と穏やかになったね。そりゃ最後に会ってから五年経てば人も変わるか」
「娘が嫁に行くことになったんだ。少しは心に余裕を持たなければ駄目かと思ってな」
「え、姉さん結婚するの!? ちょっと早く言ってよ!」
「話を聞けと言っても聞き耳を持たなかったのはお前の方だろう」

くすくすと静かに笑ったその人の横顔を、わたしは眩しい気持ちで見詰めた。病室の窓から射し込む陽光が美しく鮮やかに煌めき彼を照らし、世界にそっと色彩を与えていく。

薫の母は、よく笑う人だった。
毎日外で泥だらけになって、家では音程がめちゃくちゃな歌をうたってばかりだった幼い薫を、優しく撫でては穏やかに微笑んでいたことを覚えている。顔の造作はすっかり思い出せないし、母の遺影を見てもいまいちピンとこない。
けれど、その温かな熱はずっと胸の裡に燻っていた。 高校を卒業し、本格的にアイドル活動を始めてしばらく経った頃。ある日突然、薫の手足は思い通りに動かなくなった。思うように踊れず、歌えず、笑えない。日々当たり前に出来ていたことが熟せない。焦燥に満ちた薫に宣告されたのは、自身がこれ以上芸能界にいられないという事実だった。

───きらいにならないで。

その時に頭を過ったのは、母の最期の言葉だ。 私を。海を。あなた自身を。その先に続く言葉が何であったのか、今となっては知る由もない。だが薫は、その言葉を守ることが出来そうにないと思った。
なぜなら羽風薫は、弱い人間だったから。 その頃既に若手の後輩達は充分に育っており、学院時代の同期や後輩は業界を牽引するまでになっていた。だからこそ何の後悔も無く決意することが出来た。欠片も痕跡を残さず、綺麗な思い出を周囲に残したまま去ると決めたのだ。

かつて母が消えた海。自身の罪の象徴。余生を過ごす場所として、これ以上相応しい場所は無いだろうと思った。 手足が痺れ、喉の筋肉は麻痺し、呼吸すらも苦しくなって。誰にとっても価値が無い自分を受け入れてくれるのは、其処しかないと薫は理解していたのだ。
合併症によりズルズルと入院期間が伸び、いつの間にか入院してから五年という年月が経っていた。その頃にはすっかり、薫は疲れ果てていた。緩やかに痩せ細っていく自身を見続けていると、ある筈だった未来が完全に絶たれたことを実感してしまう。
だからこそ薫は、真夜中の誰もいない海だけが好きだった。夜風に包まれている間だけは、何にも囚われず自由でいられるような気がしたから。

───そんな薫の明けない夜に光が射し込んだのは、突然のことだった。

波の音が闇夜に響き渡る中、少女は髪を靡かせながら祈るように天を仰いでいた。
暗闇に真っ白いワンピースがぼんやりと浮かび、薫の視界を熱く揺らす。 天使か幽霊が自分を迎えに来てくれたのかと思ったが、そのくせ彼女は薫を欠片も気にした様子を見せない。思わせぶりな女の子だなあと笑いながら、薫は少女の近くに歩み出た。
そして彼女は、そんな薫の全てを見透かしたように微笑んでいた。世界を温かく包み込む光のような色を纏って、薫の薄い掌を取ってくれた。 全てを忘れて海の底に逃げこんでしまい。そんな独り善がりな思考が、風に吸い込まれて吹き飛んでいくようだと、本気で思った。思ってしまったのだ。

「驚いたじゃろう。薫くん」

受話器越しに、朔間さんはくつくつと笑い声をあげている。父親との面会を終え、見送りのために彼女も病室を出て行った直後、全てを見計らったように旧友は電話をかけてきた。 高揚感と気恥ずかしさで満ちた身体は、拗ねたような声音を紡ぎ出していく。

「そりゃ驚いたよ」
「今回の件は、全て名前ちゃんの計画じゃよ。我輩はほんの少し手助けをしただけじゃからのう」
「それにしても、結果が分からないのによく電話なんてかけられたね」
「こうして我輩に応えてくれたことが全ての答えじゃろう?」
「……まあね。それより朔間さん、またこっちに来ないの?」
「……行ってもいいのかえ」

素直に驚いたような声に、薫は僅かばかり逡巡してから瞳を閉じる。かつての相棒をこんなにも臆病にさせたのは、自分の責任だと分かっていた。

「いいに決まってるでしょ。何なら子ども連れでもいいけど」
「そうか、……うん。ならば明日にしようかの」
「随分と急だね? まあ予定なんて元々無いからいいんだけど」
「うむ。名前ちゃんにも宜しく伝えておくれ」
「うん。……あのさ、朔間さん」
「ん?」
「酷いことを言って、ごめんなさい」
「なんじゃ、気にしておるのか」
「当たり前だよ。朔間さんはいつも汚れ役を引き受けようとするけどさ、傷付いてないフリは苦手だからね」
「ふむ、これでも演技はそこそこ上手いと世間的には評判なんじゃが」

本気で落ち込んだような様子に笑い、薫は胸の奥に仕舞いこんでいた本音を引き摺り出した。

「朔間さん、ありがとう。こんな天邪鬼を見つけて出してくれて。本当は凄く、……すごく嬉しかった」
「どういたしまして、薫くん。我輩はいつも、お主を愛しておるよ」

その日の夜。薫は、軽やかな足取りで少女の元へと向かった。Tシャツにハーフパンツというラフな格好の彼女は、砂浜に座りながら背中を丸めて海を眺めている。

「名前ちゃん」
「はい、薫さん」
「名前ちゃんのばか」
「う、……今回のことは反省してます。勝手な行動ばかりとってごめんなさい」
「なら、お詫びにチュウでもしてくれる?」
「は!?」
「あはは。冗談だから、そんなに可愛い顔しないでよ」

紅く色付いた頬を膨らませて、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。薫を愛していると力強く紡いでいた口は、不格好な弧をあどけなく描いている。 出逢ってから初めて、彼女の年相応の姿を見た気がした。

「名前ちゃんはさ、俺と同じだと思ってたんだよね」
「同じ?」
「うん、でも違った。きみは、こんな場所に逃げ込むほど臆病な女の子なんかじゃなかった」

彼女は、苦い物を無理やり飲み込んだような顔でそっと瞳を伏せる。辛い表情を引き出してばかりだというのに、薫は不思議と幸福を覚えていた。 彼女の弱さを、ただ受け止めたいと思った。

「わたしは、……薫さんが思っているよりもずっと弱虫ですよ。色んなことから逃げてばかりで、後悔してばかりで。家族と血縁が無いからって勝手に疎外感を感じて拗ねるような、我が儘な奴なんです」
「……そっか」
「養子なんて今時珍しくも無いんですけどね。母が割と淡白というか、愛情表現をしない人で。小さい頃から、一人で遊んでいた記憶しかないんです。わたしのために一生懸命働いてくれているだけなのに、寂しさのあまり家出をしたこともあって」
「へえ?」
「ふふ、恥ずかしいですね。……そんな娘を見捨てることもなく、母はいつもご飯を作って待っていてくれました。だからわたしは一人でいることに慣れなきゃいけないと思って、いつも海に来てたんです」
「……名前ちゃんは、海が好き?」
「はい、大好きです。此処は、わたしの還る場所だから。寂しさも何もかも包み込んでくれる、優しい場所なんです」

慈しむように水面を見詰めるその横顔を見て、薫は衝動のままに彼女の頭を抱き寄せた。温かくて柔らかい。その熱を逃がさないように腰を抱くと、彼女は控えめに薫の病衣の裾を掴んだ。 二人の吐息が、夜の底を震わせていく。

「……薫さんを初めて見た時、天使かと思ったんですよ。海の神さまが連れてきてくれたのかなって」
「へえ。お互いに、同じことを考えてたんだね」
「え?」

心底驚いたように肩を震わせる彼女を見て、薫は瞳を閉じる。真っ暗な視界の中、その柔らかく温かい熱だけを感じていた。

「名前ちゃんを一目見た時、天使が俺を迎えに来たのかと思ったよ」
「……期待外れだったでしょう?」
「ううん、間違ってなかった。きみは間違いなく、俺の天使だったんだ」

彼女の丸くて大きな瞳に、自分の痩せこけた顔が映っている。かつてアイドルとして輝いていた時代とは比べ物にならないほど、貧相で惨めな男の姿だ。けれど、薫は不思議と今の自分も嫌いではなかった。そう思えるようになったのは、きっと。

「名前ちゃん、俺と出逢ってくれてありがとう」

一拍おいてから、潮風のように慎ましい嗚咽が薫の鼓膜をいじらしく揺らす。自分に残された時間は限られているというのに、薫は彼女の泣ける場所で在りたいと欲張りにも望んでしまったのだ。