「あの、薫さん」

翌日、緊張した面持ちで病室へ入ってきた彼女は、弱々しい声で薫を呼んだ。まるで昨日の焼き直しだと笑いつつ、何も気付いていない表情を作りながら首を傾げる。

「名前ちゃん、どうしたの?」
「お聞きしたいことがあるんです」
「うん。きみが望むなら、俺は何でも答えるよ」
「不躾なことを言っているのは重々承知しています。……あんずさんに、会いたいですか?」

その名前を聞いて、薫は胸の奥にじんわりと灯がともるのを感じた。学生時代に見つけた、大切な宝物。昔の輝かしい思い出の象徴たる少女のことを、こんなにも穏やかな気持ちで思い返せるのは何時ぶりだろうか。

「そうだね、会いたいよ。叶うなら、俺の今の気持ちを伝えたい」
「……そうですか、良かった」

安堵したように表情を緩めた彼女の言葉が引き金となり、扉が音を立てて開いた。その瞬間、太陽の光を直接浴びせかけられたような眩しさに、薫は思わず目を細めながら微笑む。 何よりも焦がれ憧れ続けた女の子は、とびきり綺麗な女性となって再び薫の元へ舞い降りた。

「ねえ、あんずちゃん」

いつだって真っ直ぐに薫を見つめていた瞳が、昔と同じ色を宿しながら柔らかく細まっていく。

「はい。何でしょうか、羽風先輩」

昔の薫は、学生時代にアイドルとしてそれなりに名を上げて、卒業後は芸能界で適当に働けばいいと考えていた。 我流を貫くことと、我儘を言うことは同じだと思っていたのだ。
自分が成し遂げたいことを見据え真っ直ぐに突き進むことを、望んではいけないのだと思っていた。厳格な父に不用意に逆らったところで結果など見えていたし、アイドルで在り続けることに拘る必要もないと感じていた。 周囲にも自分にも期待などせず、最低限世間から糾弾されない生き方をすればいい。母が褒めてくれた歌を誇りに感じる想いを誤魔化し、蓋をしていた。

けれど、あんずはやってきた。夢ノ咲学院のアイドル科に革命を起こし、多くのアイドル達の心に触れ、薫のことも慈しんでくれた。彼女は、女好きの羽風薫を警戒するような態度を取っていたけれど、アイドルとしての羽風薫を誰よりも信じてくれていた。
薫さえも、自分のことを信じられなかったというのに。 身を粉にしてプロデュース科の仕事に励むあんずは、どんなアイドルでも平等に価値を見出してくれた。誰であろうと愛を注ぎ、誰か一人だけを選ぶことは決してしなかった。
だからこそ薫は恋をしたし、だからこそあんずは自分だけを見てくれないことも分かっていたのだ。 あんずに誇れるような生き方をしたい。そう思えたから、薫は生まれて初めて家族に向き合えた。いつまでも逃げ続けているのは、とても辛かったから。

「きみのことが、ずっと好きだったよ」

芸能界で会おう。その約束を果たす前に、薫は自分勝手にもこの場所に逃げてきた。だからこの想いを伝える資格なんて無いと思っていた。 けれど、たった一人の少女が言ってくれた。薫を愛していると。その言葉だけあれば、何も怖くなかったのだ。

「はい。私も、羽風先輩のことが好きでした」

あんずは朗らかに笑い、薫を見つめる。 長い片想いは、こうして静かに終わりを告げた。

想いを確かめ合った二人に邪魔をしないよう、わたしは病室を静かに出た。真っ白な廊下を進み、人気の無い中庭の隅に蹲る。こんな涙でぐちゃぐちゃになった醜い顔を、他の人に見せたくなんてなかった。

「名前ちゃん」

それは優しい声だった。呼びかけられても俯き続けるわたしを見かねてか、青年の気配がゆっくりと近付いてくる。

「抱き締めてもいいかえ」
「……零、さん」

わたしの反応を待たず、彼は背後から柔らかく覆い被さってきた。薫さんよりも幾分か低い体温だと思ったところで、女々しい思考をした自分が情けなくてまた涙が零れていく。

「わたし、……後悔なんて、していません」
「うん」
「薫さんの幸せそうな顔を見られたことが、何よりも嬉しくて……幸せな筈なのに」

心臓がじくじくと痛んで仕方ない。息が苦しくて仕方ない。薫さんのことが、愛おしくて仕方ない。

「すきだったんです。……好きに、なっちゃったんです」

はらはらと滴が溢れる度に、形にならない想いが溢れ出していく。求める体温も感触も香りもそこには無くて、わたしの頭に残った拙い記憶ばかりが次々に浮かんでは消えていった。
大好きなひとが自分を見てくれないことが、こんなにも苦しいなんて知らなかった。この感情を長年抱え続けた薫さんは、どれほど辛かったのだろう。どれほど傷付いたのだろう。どれほど優しくて、どれほど愛情深いのだろう。 零さんにそっと体重を預けながら、わたしは人目もはばからず泣き声を上げた。
子どもみたいに縋りつくわたしを慈しむように抱き留め、零さんはぽんぽんと背中を叩いてくれる。 狂おしい程に相手を求めるこの気持ちを恋と呼ぶならば、わたしはきっと、生まれて初めての恋をしていた。

「名前ちゃん、ありがとうね」

あんずさんは、美しく上品に微笑んでいた。泣き腫らして目元を真っ赤にしたわたしとは比べ物にならない程に綺麗で眩しくて、優しくて残酷なひと。

「こちらこそ、ありがとうございました。薫さんが本当に嬉しそうで……わたし、あんなに幸せそうな表情を見たのは、初めてで」
「その表情を引き出したのは、私じゃないと思うんだけどな」
「え……?」

零さんを通じて連絡を取ったあんずさんは、こちらのお願いを驚く程あっさりと引き受けてくれた。芸能事務所でプロデューサーとしてバリバリ働いているのに、忙しいスケジュールを調整してくれたのだという。 一介の高校生であるわたしなんて足元にも及ばない程に、素敵なひと。散々泣き喚いたからだろうか、嫉妬の感情は不思議な程に込み上げてこなかった。

「あのね、名前ちゃん。私はずっと、羽風先輩だけを愛してあげることが出来なかったの。誰であろうと平等に愛することが私の仕事で、役割で、使命だったから。……だからいつも、大切なものを取り零してしまうことが多いんだけれど」

寂しそうに笑いながら、あんずさんはわたしの手を取った。

「でも、貴女は違う。だから大丈夫だよ」

これは、とてもじゃないけれど敵わない。清々しいほどの敗北感に満たされた心が、ばらばらに散っていくようだった。 この想いを、いつか綺麗な思い出として語ることが出来たならば。わたしは胸を張って、薫さんに会いにいける気がしたのだ。