※毛探偵と混合の世界線のため、お話の設定が特殊です。


とろりと喉を伝った飴色のバーボンは、焼けつくような痛みをわたしに与えた。

身体の芯が燃え上がるように熱くなり、頭の中はやけにクリアになっていく。手にべっとりとへばり付いた血糊が、固まって染み着いて溶け合って、自分と一つになっていくような感覚だった。細胞が歓喜に震え、化け物の血が騒ぎ出すかのように肌が粟立ち、腐りきった自尊心がどろりと溢れ出す。

ついに記憶が飛ぶような激しい波は訪れないまま、わたしは淡々と最後の一滴まで飲み干した。水晶のようにまるい氷をカラカラと回してみても、アルコールはちっとも身体に染みわたっていかない。

「名前」

ゆったりとした穏やかな声が、わたしの名を呼ぶ。大きくて硬い掌が、わたしの髪をそっと梳いていく。そして最後には、人間であれば持ち得ない筈の、獣のように尖った耳を撫で付けた。心臓の表面をなぞられているかのような浮き足だった感覚に、常ならば真っ直ぐ上を向くそれも、頭にぴったりと付くように後ろに寝かせてしまう。

「名前、ただいま」
「……レイ」
「ああ」

強張っていた喉の奥が徐々に緩んでいくのを感じ、わたしはようやく、呼吸すらまともに出来ていなかったのだと自覚する。

「おかえりなさい」

痛いほどにやさしい温もりが、わたしの頬を静かに包み込んだ。

この世界には、秘密警察犬───シークレットドーベルマンと呼ばれる存在がいた。彼らの正体は、五感を駆使することで他者の個人データを抜き取る力をもった人狼だ。姿形はほぼヒトと変わらないが、唯一の特徴として頭部には狼のような耳が生えていた。

一般的には、人狼などファンタジー小説で使い古された設定くらいにしか思われていないだろう。

だがそれでいいのだと、警察に所属する唯一の秘密警察犬は思っていた。自分がいなくとも犯罪捜査に協力する優秀な探偵は数多く存在するし、この能力は葬り去るべきものなのだと。

苗字名前は、なりそこないの秘密警察犬だった。嗅覚や聴覚から強制的にデータを受け取ってしまうほどの能力も無ければ、ターゲットの肌に触れただけで過去をすべて読み取ってしまえる鋭敏さも持ち得ていない。
だがそれでも名前にさえ、とある媒体を摂取することで、対象者のパーソナルデータと直近の過去や心情を読み取れるほどの力はあった。

秘密警察犬は本来、最初に情報を得た媒介に対して異常なほどに依存する性質を持っている。毛髪、掌、声、肌、匂いといった対象に、フェティシズムと呼ぶに相応しい執着心を向けるのだ。だからこそ、血肉を媒介とした秘密警察犬は年齢性別問わずに処分され続けた。犯罪を犯してでも血肉を求める殺人鬼以上の化け物など、この世に量産すべきではない。

だが名前は生きている。数多くの犠牲の上で、偽善の上で、正義感を踏み越えて、生を貪っている。出来損ないの怪物は、作業の一環として当然のように血肉を啜り、無様にも生き永らえていた。

仕事終わりは毎度、自身の舌をアルコールで焼き切ってしまいたくなると名前は思っていた。誰も侵すことができない純黒の闇に身を委ね、酔いしれてしまえたらどれほど楽なのだろうか。

「名前」

薄暗い寝室に、ほの甘いシャンプーの香りが漂った。ベッドに横たわりながら見上げた先では、真っ青な瞳がゆらゆらと揺れている。降谷零は、普段からよく見せるギラギラした闘志を完全に削ぎ落とし、何かを求めるかのごとく寂しそうな表情で立っていた。

アルコールによって僅かばかり高揚した意識を繋ぎとめながら、名前はシーツの上をぐるりと転がり、その大きな掌へ頭を寄せる。すると降谷は何も言わずにわしゃわしゃと頭をかき回してから、一度手を離して乱暴にベッドへ座り込んだ。

「おまえの髪はやわらかいな」
「え、そう?」
「ああ。なんかふにふにしてる」
「……わたしとしてはサラサラを目指してるつもりなんだけど」
「これ以上指通りが良くなるのは好みじゃない。今が触っていて一番落ち着く」
「はいはい、かしこまりました。ご主人サマ」

匍匐前進をするように這い上がり、名前は降谷の太ももに頭をのせた。丸太のように硬くちっとも居心地良くないが、降谷の顔が満足そうに緩んだのでよしとする。

降谷零は、見れば見るほどに綺麗であどけない顔をしていると思った。なだらかな弧を描く金の眉も、目尻の下がった露草色の瞳も、高くすっと通った鼻筋も、僅かばかり白味を帯びた薄い唇も。褐色の肌を彩るパーツのすべてが芸術品のごとく完璧に収まっており、まるで精密な写実絵画のようだった。

橙色のぼんやりとした照明と、窓から射し込む月明かりのみを浴びた降谷は、お伽噺の住人と言っても納得できるほどに現実味のない存在に見えた。次元の境界線を見失ってしまいそうで、名前は思わずその頬に指を滑らせる。目の前の男はお風呂上がりの筈だが、ぞっとするほどに体温が低かった。徹夜をすると微熱が続く自分と異なり、降谷は身体の芯から冷えていくタイプなのだと何度実感したことだろう。

「レイ、もう寝るでしょう? 明日は休みだっけ」
「ああ、オフだよ。名前もだろ」
「さすがに、次の日が仕事なのにウイスキーを飲むほど落ちぶれてはないつもり」
「そこは信頼してる。……おまえ、本当に酔わないよな」
「まあね。バーボンで酔える可愛げなんてとっくの昔に捨てちゃった」

目尻を下げた名前は、頭部にある耳を丁寧に撫でられたことで更にうっとりと目を細める。人間と同じく、音を拾う役割を果たす耳はこめかみのすぐ横についているのだが、頭を触られると人狼としての本能が強く刺激された。それはまるで、過去に置いてきたはずの穏やかな感情が呼び覚まされるかのようだと自嘲する。

「レイ」
「ん?」

警察内部において、秘密警察犬は危険視されてきた。中世フランスに蔓延っていた犯罪者の遺伝子を受け継ぐ血筋に加え、獰猛な獣を象徴する耳を生やした容貌も相まって、その潜在的な狂暴性は必要以上に警戒されたのだ。

さらに、上層部に不利な証拠まで徹底的に洗い出せるほどの高い能力は、間違いなく忌むべきものだったのだろう。冤罪事件や証拠の捏造が日常茶飯事であるほど、かつての日本警察は腐敗しきっていた。だからこそ約三十年前、大勢の秘密警察犬は警察に見切りをつけ、嘘で塗り固められた組織から離反していったのだ。

「レイ」
「……今日はやけに甘えてくるな」
「イヤだった?」
「嫌じゃないから困るんだろ」

そして結果的に、唯一残存した幼かった名前は犬畜生以下の扱いを受けた。要請があればいつだろうと血肉を舐め、その結果得たデータの中から都合のいい情報だけ搾取され、何十と年の離れた警察幹部の接待をさせられて。人間ともイヌ科とも異なるDNAを持つ従順で無知な秘密警察犬は、それはいい見世物になったことだろう。

それから降谷と出会うまで、喜びという名の感情を感じたことなど一度も無かった。

子供ながらに掲げていた青臭い理想すらも蹂躙され、意思や感情すらも排除することを求められ、人の温もりに触れる機会など一切無い。それはまさに、罪人のような日々だった。

「わたし、何か甘いものが食べたい」
「おまえ、冷蔵庫のお菓子は全部食べただろ」
「だって、バーボン飲むといつも口寂しくなっちゃうんだもの」
「はあ……。なんならキスでもするか?」

柔らかい輪郭の蒼い瞳に射抜かれて、名前の心臓は甘い痺れを伴いながら縮こまる。うなじから耳の裏をゆったりとなぞる指先の温度が、やけに熱く感じられた。

「……イヤ。だってレイ、歯磨き粉の香りがキツイし」
「………………」
「………………」
「…………、今日だけは騙されてやるから、次はもっと上手な言い訳を考えておけよ」
「……優しくない男は嫌われると思うけど?」
「おまえが俺のことを嫌いになるわけがないだろ」

その通りだ。悔しくて降谷の頬を力なく叩くと、指先を捕まれてそのまま絡め取られた。先ほど一瞬だけ覗いた、傷付いたような表情は跡形もなく消え去っている。

降谷零の正義感は、刃物のように鋭く真っ直ぐだ。見る者の心を打つほどに洗練されたその意志は、たとえ踏みにじられようと虚仮にされようと、命尽きるその時まで敵に牙をむくほどに確固たるものだ。だからこそ、国家の守護という大義名分が立つ公安警察官の仕事は、降谷と実に相性が良かったのだろう。

「それでもレイは、わたしのことを嫌いになっていいよ」

三十年前に離反した秘密警察犬たちは、警察を失脚させることを目的としたテロリスト集団をつくりあげた。苗字名前は、その首謀者と関係のある唯一の手がかりであり、テロリストになり得る存在として、現在も強く警戒されている。

公安のエリート集団の中でも出世頭である降谷は、監視を目的として名前と同居していた。二十九という若さながら多くの部下を持つ彼は、それほどまでに上司からも信頼されている。

「あなただけは、本当に大切にすべきものを見誤らないで」
「……そんなの、自分が一番よく分かってる」
「ならいいけど」

血肉を喰らうような化け物である自分を、最も信じられないのは名前自身だ。

だからレイにだけは、わたしなんかに心を開かないでほしかった。当たり前のように頭を撫でないでほしかった。柔らかい声で、わたしの名前を呼ばないでほしかった。

だって、情けないでしょう。あなたに触れられただけで、排除した筈の感情の一切が、透徹すらも塗り潰すほどの苛烈さを帯びてしまうのだから。

「なあ名前。明日は公園に散歩でも行かないか」
「行きたい! わたし、屋台のクレープとファミレスのアップルパイと、あとアイス屋さんのトリプルアイスも食べたい!」
「はいはい、何でも買ってやるから」

わーいとその場でバンザイした名前を、降谷は目を細めて見守っている。

「その代わり、明日は一日俺に付き合うこと。いいな?」
「もちろん!」

くしゃくしゃと乱暴に頭を撫でられながら、名前は込み上げる想いを昇華させるように頬を緩める。

「ねえ、レイ」
「ん、どうした?」
「今日はわたしの抱き枕になって!」
「はあ? おまえ馬鹿なのか」
「バカとは失礼な。だってレイの薫りを嗅いでると安心するの」
「名前、おまえちゃんと自分を俺から守れ。何をするか分からないぞ」
「大丈夫。あなたから与えられるものなら、痛みさえ力になるから」
「…………、馬鹿か」
「バカバカ言いすぎ。ひどいな」

───わたしは、永遠に忘れない。あなたの隣で笑っていられたことを。あなたのいる世界が、何よりも尊いと思ったこの気持ちを。あなたの理想を実現するために、全力で生きたことを。

その声を、体温を、指先を。あなたのすべてを守る盾に、わたしがなろう。