08
その日の夜。実家に帰るための荷造りを終えたわたしは、布団の中で丸くなりながら必死に瞳を閉じていた。
確かに疲労を感じている筈なのに、眠れないのだ。気を抜くと目頭が熱くなって、目の奥から感情が溢れていくようだった。 このままでは埒があかない。わたしは寝間着のまま縁側に出て、ぽっかりと浮かぶ満月を眺めることにした。少しだけ海風に当たったら眠ろう。明日は朝早く出なければならないのだから。
「名前ちゃん」
そっとわたしを呼びかける声が、夜空に溶けていく。塀に身体を預けるようにして立っていたのは、誰よりも何よりもわたしが求めていたひと。 悪戯っぽく笑うその人は、わたしの気持ちなんて知らんぷりをするように堂々と立っていた。
「薫さん、どうしたんですか……? 病院を抜け出しちゃ駄目じゃないですか」
「うん、分かってるよ。それでも、どうしてもきみに会いたかったんだ」
「……今日は勝手に帰っちゃってごめんなさい。お邪魔かなと思って」
「名前ちゃんを邪魔に思うわけないじゃない。でも、俺みたいなおじさんに付き纏われるのは迷惑だったよね、ごめん」
「そんなこと、ないに決まってるじゃないですか」
「そう? なら良かった。あ、でも安心してね。あんまり長居するつもりはないんだ」
「あ、……もう行っちゃうんですか?」
「え?」
「……え?」
瞳を大きく見開いた薫さんを見て、わたしは自らの失言に気付く。穴があったら入ってしまいたかった。こんな未練たらしいことを言ったところで、困らせるだけなのに。わたしのこの想いは、迷惑をかけてしまうだけなのに。
「きみが望むなら、俺はいつまでも此処にいるよ」
「いや、あの、冗談……だったので」
「なあんだ残念」
からからと陽気に笑ってから、その人はわたしを真っ直ぐに見詰めた。
「これを、きみに渡しに来たんだ」
それは、ピンク色の袋に入ったボイスレコーダーだった。薫さんは、片手ながらも丁寧な動作でわたしに手渡してくる。
「気持ち悪いかもしれないんだけど……、もし良かったら聞いてほしいんだ」
真摯な眼差しを浴びながら、わたしは大きく頷いた。こんな素敵な贈り物に何も返せない自分が情けなくて仕方ない。
「それじゃ俺は行くね。帰り道も気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
「うん。おやすみ、名前ちゃん」
「はい。おやすみなさい、……薫さん」
逃げるように寝室へ帰ったわたしは知らなかった。その人がどんな顔をして、どんな思いで会いに来てくれたのか。知ろうともしなかった。ただ、自分が傷付くのが怖かったのだ。
「あはは、……もうこんなにボロボロなんだね。俺」
砂浜に蹲りながら、薫は小さく呟いた。身体の節々が痛み、左手は物が持てない程に痺れている。 あんなにも軽やかに舞台上を舞い、歌い、全力で声援に応えていた昔が遥か彼方の出来事に思えた。 羽風薫はアイドルだった。自分を応援してくれるファンの皆が笑顔になってくれることが、いつの間にか何よりも嬉しくて堪らなかった。 今でもあの想いは色褪せていないのに、本当に大切な女の子は泣かせてばかりなのだから情けない。
「薫くん。本当に良かったのかえ」
「うん、いいんだよ。だって絶対にまた会えるから」
「そうか。……そうじゃのう」
「っていうか朔間さん。アドニスくんから聞いたんだけど、名前ちゃんのこと抱き締めてたんだって?」
「うむ。事実じゃがどうかしたかの」
「……俺が言えたことじゃないけど、いい気持ちはしないよね」
「おや、そんなことを言ってていいのかえ。あんずの嬢ちゃんに熱烈な告白をしたと聞いたが」
「そのあんずちゃんに怒られたよ。悲しませる選択をすると決めたなら、ちゃんとケジメをつけてくださいって」
「それが、あのボイスレコーダーというわけか」
「うん。あとは、名前ちゃんに見つけてもらうのをのんびり待とうかなって」
「……薫くんらしいのう」
「最後まで付き合ってね。朔間さん」
呆れたように、けれど心底愛おしそうに朔間零は笑った。
空気が澄んだ早朝。祖父が運転する車に送ってもらい、わたしは朝一番の電車に飛び乗った。乗客はまばらで、車内は妙に寂しく感じられる。
売店で買ったお菓子とお茶を座席のテーブルに置いて、わたしは一時間の電車旅に備えた。この後は二時間の新幹線の旅も待ち受けているので、駅に着いたらお弁当も買わなければならない。 座席に深く座り込み、もやもやした想いを吐き出すように大きく息を吐き出した。
ボイスレコーダーを膝の上で握り締めながら、わたしは瞳を閉じて決意する。 薫さんへの想いを断ち切るために、きちんと聞いてから決別しなければならない。 イヤホンを耳に差し込みスイッチを入れると、ノイズが数秒響いた後に「あーあー」と声がした。薫さんの声は、相変わらず温かくて、穏やかで、柔らかい。
「もしもし名前ちゃん? 薫です。……最後にどうしてもきみに伝えたいことがあったんだ。でも直接言うと、きっと迷惑をかけてしまうから。こうして、メッセージを吹き込んでいます」
僅かばかり緊張したような口調で、その人は言葉を紡いでいる。その慌てたような様子が微笑ましくて、思わず笑い声が漏れた。
「また気障だって言われちゃうかもしれないけど、呆れられちゃうかもしれないけど。ぐだぐだ引き伸ばしても仕方ないから、言うね」
「…………」
「好きだよ、名前ちゃん。きみのことが大好きだよ」
「…………っ」
「ええとね、うん。……高校時代の初恋は今でも大切な思い出で、あんずちゃんは俺の憧れの人だよ。でもね、再会して分かった。これからの人生で、俺が一緒に生きたいと思ったひとは、きみなんだ。名前ちゃん」
「…………」
「あ、なんか気持ち悪いよね!? 上手い言葉が浮かばないんだけど、これは紛れもなく俺の本心なんだ。……驚いたよねえ、そうだよね」
「…………」
「俺もリハビリとか、色々頑張るからさ。もし会えたら返事を聞かせてほしいんだ。また真夜中の海で会おう。やっぱり名前ちゃんには、海が似合うよ」
「…………」
「それじゃ、そろそろ終わりにするね。また会う日まで、ちょっとだけお別れ。……名前ちゃん、俺と出逢ってくれてありがとう。幸せになってね」
息が出来ない。心臓が痛い。今すぐに会いたくて仕方ない。 わたしは衝動のままに席を飛び出し、車両の前に設置された扉を開く。通話が可能なエリアまでやってくるや否や、発信ボタンを押して耳に押し当てた。 耳元で鳴る機械音がもどかしい。早く声を聞きたくて、早く伝えたくて、早く知ってほしい。わたしの心臓が叫ぶ想いを、あなたに。
「あー、もしもし? 名前ちゃん?」
「薫さん!」
「うん」
「好きです」
「……うん」
「薫さんのことが、好きなんです」
「うん。……あのね、名前ちゃん」
「はい」
「俺はこれから、きみを悲しませることしか出来ないかもしれない。俺と一緒にいたら、辛い思いをたくさんさせるかもしれない。……それでも、いいかなあ」
弱々しく、その人は問い掛けてきた。なんて欲の無い人なんだろう。なんてわがままな人なんだろう。わたしは、何でこんなにもこの人を好きになってしまったんだろう。
「薫さんがいいです。薫さんじゃなきゃ、いやです」
「……うん。名前ちゃんならそう言ってくれるって信じてた。だから遠ざけたかったんだ」
「薫さんは、いつも勝手ですね」
「ごめん。こんな俺は嫌かな」
「分かってるくせに。……大好きです」
その人は、小さく涙に塗れた笑い声を上げていた。その声が、わたしの心に勇気を灯す。優しい気持ちを、切ない想いを、どこまでも深く温かい感情を流し込んでいく。 大好きな人に大好きだと伝えられるこの幸せを、わたしはただ噛み締めた。後悔なんて、微塵もなかったのだ。
確かに疲労を感じている筈なのに、眠れないのだ。気を抜くと目頭が熱くなって、目の奥から感情が溢れていくようだった。 このままでは埒があかない。わたしは寝間着のまま縁側に出て、ぽっかりと浮かぶ満月を眺めることにした。少しだけ海風に当たったら眠ろう。明日は朝早く出なければならないのだから。
「名前ちゃん」
そっとわたしを呼びかける声が、夜空に溶けていく。塀に身体を預けるようにして立っていたのは、誰よりも何よりもわたしが求めていたひと。 悪戯っぽく笑うその人は、わたしの気持ちなんて知らんぷりをするように堂々と立っていた。
「薫さん、どうしたんですか……? 病院を抜け出しちゃ駄目じゃないですか」
「うん、分かってるよ。それでも、どうしてもきみに会いたかったんだ」
「……今日は勝手に帰っちゃってごめんなさい。お邪魔かなと思って」
「名前ちゃんを邪魔に思うわけないじゃない。でも、俺みたいなおじさんに付き纏われるのは迷惑だったよね、ごめん」
「そんなこと、ないに決まってるじゃないですか」
「そう? なら良かった。あ、でも安心してね。あんまり長居するつもりはないんだ」
「あ、……もう行っちゃうんですか?」
「え?」
「……え?」
瞳を大きく見開いた薫さんを見て、わたしは自らの失言に気付く。穴があったら入ってしまいたかった。こんな未練たらしいことを言ったところで、困らせるだけなのに。わたしのこの想いは、迷惑をかけてしまうだけなのに。
「きみが望むなら、俺はいつまでも此処にいるよ」
「いや、あの、冗談……だったので」
「なあんだ残念」
からからと陽気に笑ってから、その人はわたしを真っ直ぐに見詰めた。
「これを、きみに渡しに来たんだ」
それは、ピンク色の袋に入ったボイスレコーダーだった。薫さんは、片手ながらも丁寧な動作でわたしに手渡してくる。
「気持ち悪いかもしれないんだけど……、もし良かったら聞いてほしいんだ」
真摯な眼差しを浴びながら、わたしは大きく頷いた。こんな素敵な贈り物に何も返せない自分が情けなくて仕方ない。
「それじゃ俺は行くね。帰り道も気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
「うん。おやすみ、名前ちゃん」
「はい。おやすみなさい、……薫さん」
逃げるように寝室へ帰ったわたしは知らなかった。その人がどんな顔をして、どんな思いで会いに来てくれたのか。知ろうともしなかった。ただ、自分が傷付くのが怖かったのだ。
「あはは、……もうこんなにボロボロなんだね。俺」
砂浜に蹲りながら、薫は小さく呟いた。身体の節々が痛み、左手は物が持てない程に痺れている。 あんなにも軽やかに舞台上を舞い、歌い、全力で声援に応えていた昔が遥か彼方の出来事に思えた。 羽風薫はアイドルだった。自分を応援してくれるファンの皆が笑顔になってくれることが、いつの間にか何よりも嬉しくて堪らなかった。 今でもあの想いは色褪せていないのに、本当に大切な女の子は泣かせてばかりなのだから情けない。
「薫くん。本当に良かったのかえ」
「うん、いいんだよ。だって絶対にまた会えるから」
「そうか。……そうじゃのう」
「っていうか朔間さん。アドニスくんから聞いたんだけど、名前ちゃんのこと抱き締めてたんだって?」
「うむ。事実じゃがどうかしたかの」
「……俺が言えたことじゃないけど、いい気持ちはしないよね」
「おや、そんなことを言ってていいのかえ。あんずの嬢ちゃんに熱烈な告白をしたと聞いたが」
「そのあんずちゃんに怒られたよ。悲しませる選択をすると決めたなら、ちゃんとケジメをつけてくださいって」
「それが、あのボイスレコーダーというわけか」
「うん。あとは、名前ちゃんに見つけてもらうのをのんびり待とうかなって」
「……薫くんらしいのう」
「最後まで付き合ってね。朔間さん」
呆れたように、けれど心底愛おしそうに朔間零は笑った。
空気が澄んだ早朝。祖父が運転する車に送ってもらい、わたしは朝一番の電車に飛び乗った。乗客はまばらで、車内は妙に寂しく感じられる。
売店で買ったお菓子とお茶を座席のテーブルに置いて、わたしは一時間の電車旅に備えた。この後は二時間の新幹線の旅も待ち受けているので、駅に着いたらお弁当も買わなければならない。 座席に深く座り込み、もやもやした想いを吐き出すように大きく息を吐き出した。
ボイスレコーダーを膝の上で握り締めながら、わたしは瞳を閉じて決意する。 薫さんへの想いを断ち切るために、きちんと聞いてから決別しなければならない。 イヤホンを耳に差し込みスイッチを入れると、ノイズが数秒響いた後に「あーあー」と声がした。薫さんの声は、相変わらず温かくて、穏やかで、柔らかい。
「もしもし名前ちゃん? 薫です。……最後にどうしてもきみに伝えたいことがあったんだ。でも直接言うと、きっと迷惑をかけてしまうから。こうして、メッセージを吹き込んでいます」
僅かばかり緊張したような口調で、その人は言葉を紡いでいる。その慌てたような様子が微笑ましくて、思わず笑い声が漏れた。
「また気障だって言われちゃうかもしれないけど、呆れられちゃうかもしれないけど。ぐだぐだ引き伸ばしても仕方ないから、言うね」
「…………」
「好きだよ、名前ちゃん。きみのことが大好きだよ」
「…………っ」
「ええとね、うん。……高校時代の初恋は今でも大切な思い出で、あんずちゃんは俺の憧れの人だよ。でもね、再会して分かった。これからの人生で、俺が一緒に生きたいと思ったひとは、きみなんだ。名前ちゃん」
「…………」
「あ、なんか気持ち悪いよね!? 上手い言葉が浮かばないんだけど、これは紛れもなく俺の本心なんだ。……驚いたよねえ、そうだよね」
「…………」
「俺もリハビリとか、色々頑張るからさ。もし会えたら返事を聞かせてほしいんだ。また真夜中の海で会おう。やっぱり名前ちゃんには、海が似合うよ」
「…………」
「それじゃ、そろそろ終わりにするね。また会う日まで、ちょっとだけお別れ。……名前ちゃん、俺と出逢ってくれてありがとう。幸せになってね」
息が出来ない。心臓が痛い。今すぐに会いたくて仕方ない。 わたしは衝動のままに席を飛び出し、車両の前に設置された扉を開く。通話が可能なエリアまでやってくるや否や、発信ボタンを押して耳に押し当てた。 耳元で鳴る機械音がもどかしい。早く声を聞きたくて、早く伝えたくて、早く知ってほしい。わたしの心臓が叫ぶ想いを、あなたに。
「あー、もしもし? 名前ちゃん?」
「薫さん!」
「うん」
「好きです」
「……うん」
「薫さんのことが、好きなんです」
「うん。……あのね、名前ちゃん」
「はい」
「俺はこれから、きみを悲しませることしか出来ないかもしれない。俺と一緒にいたら、辛い思いをたくさんさせるかもしれない。……それでも、いいかなあ」
弱々しく、その人は問い掛けてきた。なんて欲の無い人なんだろう。なんてわがままな人なんだろう。わたしは、何でこんなにもこの人を好きになってしまったんだろう。
「薫さんがいいです。薫さんじゃなきゃ、いやです」
「……うん。名前ちゃんならそう言ってくれるって信じてた。だから遠ざけたかったんだ」
「薫さんは、いつも勝手ですね」
「ごめん。こんな俺は嫌かな」
「分かってるくせに。……大好きです」
その人は、小さく涙に塗れた笑い声を上げていた。その声が、わたしの心に勇気を灯す。優しい気持ちを、切ない想いを、どこまでも深く温かい感情を流し込んでいく。 大好きな人に大好きだと伝えられるこの幸せを、わたしはただ噛み締めた。後悔なんて、微塵もなかったのだ。