09
一人親の元細々と生活する高校生が、薫さんに何度も会いに行くことなんて出来るわけがなかった。
往復の交通費だって相当なものだし、時間だって限られている。 だからこそわたしは家から程近いコンビニでアルバイトを始め、コツコツとお金を貯めた。零さんやあんずさんと連絡を取り、近況を報告をし合ったりして。薫さんの学生時代の知り合いであるという方々にも会って、お話をたくさんさせてもらった。
薫さんは、数々の素敵な縁をわたしに運んでくれる。 そして、薫さんと出逢ってちょうど一年を迎えた日。わたしはあの日と同じように、真夜中の海に一人で立っていた。薫さんに会ったならば、どんな言葉をかけようか悩んで悩んで。
「名前ちゃん」
闇夜を包み込むようにふわりと浮かんだ声は、わたしがお世話になった青年のものだ。振り返ると、赤々と綺麗に光る瞳がゆっくりと細まっている。
「零さん?」
「うむ。早速じゃが、共に行こう」
「え?」
「会いたいじゃろう? 薫くんに」
「……はい。でも、夜の病院には入れないんじゃ?」
「我輩は万能ではないが、それなりに出来ることも多い。だから、おいで名前ちゃん。今度は我輩が幸せを届けてあげる番じゃ」
冷たい掌に惹かれて、わたしは歩み出す。零さんを信じてついていった先に待ち受けているものを、わたしはきっとずっと望んでいた。
裏口からこっそりと鍵を使って忍び込んで、零さんは音もなくわたしを抱えながら病室の前までやってきてしまった。まるで魔法のような出来事に目を白黒させるわたしにウインクを一つ落としてから、零さんはあっという間に消えてしまう。本当に不思議な人だ。不器用で、優しくて、幸せになってほしいひと。
扉の取手に指を添えると、自分でも意外な程に緊張してしまっていた。薫さんとは時折連絡を取り合っていたものの、直接顔を合わせるのは久しぶりである。 わたしは、少しでも魅力的になれているだろうか。あんずさんみたいに、薫さんの心を明るく照らせるだろうか。こんなことを考えているわたしのことを、薫さんはどう思うのだろうか。
「名前ちゃん」
それは小さくか細い声だったけれど、わたしの心臓を強く揺さぶった。その瞬間に、迷いなど全部吹き飛んでいた。ただ会いたくて、その一心で扉を開けて明かりをつけて、ベッドの傍まで飛んで行く。 薫さんは、天使のように笑っていた。一年前よりも痩せ細った身体を必死に動かそうとして、指先を恐る恐るわたしへと触れさせる。そこに宿る熱は、どこまでも熱い。
「薫さん、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
それは本心だった。その人の笑顔は、去年と何も変わっていなかったから。たとえもう声が出せないのだとしても、一人で歩くことすらできないのだとしても、薫さんは笑ってくれている。それで充分だった。
「わたし、去年からアルバイトを始めたんですよ。家事も勉強も、薫さんに誇れるような自分になりたかったから、いくらでも頑張れました」
柔らかく瞳を細めて、その人はゆっくりと頷く。
「コンビニでの業務なんて社会人に比べたらまだまだですけど、わたしも少しだけ分かったんです。誰かのために働いて、それで誰かが笑顔になってくれるのって、こんなにも素敵なことなんだって」
繋がった掌に、ぎゅっと力が籠る。
「薫さんのアイドル時代のDVDを観ました。CDも擦り切れる程聴いて、写真集もブロマイドもいっぱい見ました。わたし、薫さんのお陰で毎日笑顔でした。薫さんがいてくれたから、幸せでした。誰かを笑顔にするためにお仕事をしていたあなたと出逢えたことが、何より誇らしかった。……だから」
目の奥から込み上げる熱が、徐々にわたしの言葉を奪っていく。本当はもっと気の利いたことを言いたかった。もっと素敵な言葉であなたの心を彩りたかった。薫さんに、ずっと笑顔でいてほしかった。
「わたしは、あなたを愛せて幸せでした」
出逢ったあの日と同じようにその人は微笑んで、そっと瞳を閉じる。わたしはベッドに身を乗り出して、薄く赤らんだ唇の自らのそれを重ねた。はらはらと零れた涙が、薫さんの頬を伝って流れ落ちていく。
───名前ちゃん、ありがとう。
その人の唇が、確かにそう紡いだ。わたしは嗚咽を噛み殺しながら、幾度も幾度も頷く。もう既にその人にはわたしの姿が見えていなかったけれど、最後に泣き声を聞かせたくなかったのだ。 指先の力がふっと失われ、糸が切れたように薫さんは項垂れる。
強ばっていた全身が、まるで舞台を終えたマリオネットのように静かに横たわった。 その様は美しかった。魂が消え失せてしまっただなんて信じられない程に、綺麗で眩しい。 その人は、先に行ってしまった。わたしを置いて、遠くへ行ってしまったのだ。
「あ、……かおるさん」
息が出来ない。心臓が痛い。時が止まったのかと思う程に、世界が音を失っていく。 もっとたくさん話しておけば良かった。もっと愛してると伝えておけば良かった。もっと、もっと。後悔ばかりが溢れて止まらない。苦しい。 一人きりじゃ、満足に泣けやしない。不器用で鈍臭くて、臆病で馬鹿なわたし。 けれど確かに、胸を張って言えた。わたしは、あなたに出逢えて幸せだったのだ。
往復の交通費だって相当なものだし、時間だって限られている。 だからこそわたしは家から程近いコンビニでアルバイトを始め、コツコツとお金を貯めた。零さんやあんずさんと連絡を取り、近況を報告をし合ったりして。薫さんの学生時代の知り合いであるという方々にも会って、お話をたくさんさせてもらった。
薫さんは、数々の素敵な縁をわたしに運んでくれる。 そして、薫さんと出逢ってちょうど一年を迎えた日。わたしはあの日と同じように、真夜中の海に一人で立っていた。薫さんに会ったならば、どんな言葉をかけようか悩んで悩んで。
「名前ちゃん」
闇夜を包み込むようにふわりと浮かんだ声は、わたしがお世話になった青年のものだ。振り返ると、赤々と綺麗に光る瞳がゆっくりと細まっている。
「零さん?」
「うむ。早速じゃが、共に行こう」
「え?」
「会いたいじゃろう? 薫くんに」
「……はい。でも、夜の病院には入れないんじゃ?」
「我輩は万能ではないが、それなりに出来ることも多い。だから、おいで名前ちゃん。今度は我輩が幸せを届けてあげる番じゃ」
冷たい掌に惹かれて、わたしは歩み出す。零さんを信じてついていった先に待ち受けているものを、わたしはきっとずっと望んでいた。
裏口からこっそりと鍵を使って忍び込んで、零さんは音もなくわたしを抱えながら病室の前までやってきてしまった。まるで魔法のような出来事に目を白黒させるわたしにウインクを一つ落としてから、零さんはあっという間に消えてしまう。本当に不思議な人だ。不器用で、優しくて、幸せになってほしいひと。
扉の取手に指を添えると、自分でも意外な程に緊張してしまっていた。薫さんとは時折連絡を取り合っていたものの、直接顔を合わせるのは久しぶりである。 わたしは、少しでも魅力的になれているだろうか。あんずさんみたいに、薫さんの心を明るく照らせるだろうか。こんなことを考えているわたしのことを、薫さんはどう思うのだろうか。
「名前ちゃん」
それは小さくか細い声だったけれど、わたしの心臓を強く揺さぶった。その瞬間に、迷いなど全部吹き飛んでいた。ただ会いたくて、その一心で扉を開けて明かりをつけて、ベッドの傍まで飛んで行く。 薫さんは、天使のように笑っていた。一年前よりも痩せ細った身体を必死に動かそうとして、指先を恐る恐るわたしへと触れさせる。そこに宿る熱は、どこまでも熱い。
「薫さん、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
それは本心だった。その人の笑顔は、去年と何も変わっていなかったから。たとえもう声が出せないのだとしても、一人で歩くことすらできないのだとしても、薫さんは笑ってくれている。それで充分だった。
「わたし、去年からアルバイトを始めたんですよ。家事も勉強も、薫さんに誇れるような自分になりたかったから、いくらでも頑張れました」
柔らかく瞳を細めて、その人はゆっくりと頷く。
「コンビニでの業務なんて社会人に比べたらまだまだですけど、わたしも少しだけ分かったんです。誰かのために働いて、それで誰かが笑顔になってくれるのって、こんなにも素敵なことなんだって」
繋がった掌に、ぎゅっと力が籠る。
「薫さんのアイドル時代のDVDを観ました。CDも擦り切れる程聴いて、写真集もブロマイドもいっぱい見ました。わたし、薫さんのお陰で毎日笑顔でした。薫さんがいてくれたから、幸せでした。誰かを笑顔にするためにお仕事をしていたあなたと出逢えたことが、何より誇らしかった。……だから」
目の奥から込み上げる熱が、徐々にわたしの言葉を奪っていく。本当はもっと気の利いたことを言いたかった。もっと素敵な言葉であなたの心を彩りたかった。薫さんに、ずっと笑顔でいてほしかった。
「わたしは、あなたを愛せて幸せでした」
出逢ったあの日と同じようにその人は微笑んで、そっと瞳を閉じる。わたしはベッドに身を乗り出して、薄く赤らんだ唇の自らのそれを重ねた。はらはらと零れた涙が、薫さんの頬を伝って流れ落ちていく。
───名前ちゃん、ありがとう。
その人の唇が、確かにそう紡いだ。わたしは嗚咽を噛み殺しながら、幾度も幾度も頷く。もう既にその人にはわたしの姿が見えていなかったけれど、最後に泣き声を聞かせたくなかったのだ。 指先の力がふっと失われ、糸が切れたように薫さんは項垂れる。
強ばっていた全身が、まるで舞台を終えたマリオネットのように静かに横たわった。 その様は美しかった。魂が消え失せてしまっただなんて信じられない程に、綺麗で眩しい。 その人は、先に行ってしまった。わたしを置いて、遠くへ行ってしまったのだ。
「あ、……かおるさん」
息が出来ない。心臓が痛い。時が止まったのかと思う程に、世界が音を失っていく。 もっとたくさん話しておけば良かった。もっと愛してると伝えておけば良かった。もっと、もっと。後悔ばかりが溢れて止まらない。苦しい。 一人きりじゃ、満足に泣けやしない。不器用で鈍臭くて、臆病で馬鹿なわたし。 けれど確かに、胸を張って言えた。わたしは、あなたに出逢えて幸せだったのだ。