10
穏やかな温室の中で、一人の子どもがしょんぼりと頭を垂れていた。それを見た老婆は、泣きそうな顔をした孫の頭をゆったりと撫で付ける。
「それでお婆ちゃん、どうしたの?」
「ふふ。薫さんはね、綺麗な顔で眠っていたんだ。だからもう一度伝えたよ、大好きでしたって」
「それで、それで?」
「おやそんなに気になるのかい?あとはそうだねえ、それから一度だけ、薫さんから手紙が来たよ」
「え!?」
「さっき話した零さんという人が預かっていたらしくてね。手渡してくれたんだよ」
「へええ、それだけお婆ちゃんのことが大好きだったんだね」
「そうだといいねえ。……さて、そろそろお母さんがご飯を作っている頃だよ。手伝っておいで」
「はぁい! お婆ちゃんも早く来てね」
「ふふ、すぐに行くよ」
シワがいっぱいの掌で、老婆は最後の手紙を握り締めていた。真っ白な封筒に記された真っ直ぐな愛の言葉を見て、年甲斐もなく照れて微笑んでしまう。
───この手紙を読んでいる時、きみは何をしているんだろう。
笑っているかな。幸せな日々を送っているかな。 きっと将来、きみは子どもや孫に囲まれて幸せそうに笑っているんだろうね。名前ちゃんは一人だと上手に泣けない女の子だから、それならとても嬉しいです。
本当は、もっときみと一緒にいたかった。 きみがどんな場所で育ったのか見てみたかった。 街中でデートして、くだらないことで笑い合って、たまに喧嘩してみたかった。
名前ちゃん。きみの笑った顔が好きだった。
名前ちゃん。きみの怒った顔も可愛かったよ。
名前ちゃん。きみの泣いた顔が愛おしかった。
名前ちゃん。きみが見せてくれる全ての表情が、言葉が、仕草が、俺の宝物だった。
きみのことを思い出すだけで、こんなにも心穏やかになれる。きみと一緒にいる時だけは、痛みも苦しみも何もかも忘れることが出来た。 きみは、俺の天使だった。俺の幸せは、きみと共にあったんだ。 今度会えた時には、俺もとびきりいい男になっているよ。約束する。
羽風薫
そこは、真っ白な絵の具で塗り潰されたような空間だった。先ほどまで眠っていた和室から突如知らない場所に放り込まれ、老婆はただ瞬きを繰り返す。
立ち上がってみると、思ったよりも身体が自由に動くことに気付いた。数年前に関節が痛んで動かなくなった膝も、痺れていた左腕も、嘘のように軽い。なんて都合のいい夢なのだと思いながらも、老婆はその場を駆け抜ける。
まるで心まで若返ったようだ。 長い距離を走っていると、やがて目の前に色が現れ始めた。明るい黄土色の砂が床に溢れ、道を形作っていく。頭上は暗くなり、星のような輝きが満ちて、満天の星空が広がっていく。気付けば、老婆は真夜中の海辺へ迷い込んでいた。
「名前ちゃん」
その人の声が、わたしの名前を呼んだ。確信を持って振り返ると、その人は出逢ったあの日と同じ姿のまま微笑んでいる。 そして悟った。わたしはようやく、あなたに追いつけたのだと。
「お久しぶりです。───薫さん」
「うん、久しぶり。……えっと、普通ならきみの旦那さんとかが迎えにくる筈なんだけど。もしかして、まだ生きてらっしゃるとか?」
「薫さん。わたし、子どもも孫もいますけど結婚してませんよ」
「え……?」
「忘れたんですか? 血が繋がっていなくても、親子にはなれるんです」
「……きみは本当に、仕方のない子だなあ」
困ったように、けれど慈しむように薫さんは瞳を細める。その人の温かい掌に指を絡め取られて、初めて気付いた。わたしの身体も、昔と同じく若返っている。薫さんと同じ時を共にしたあの頃の姿のようだった。
「薫さん。わたし、社会に出てから色々と仕事したんですよ。広告の会社に入って、コピーライティングを考えたりして。夢ノ咲学院のアイドル達のために、あんずさんと一緒に働くこともありました」
「目に浮かぶよ。きみは一生懸命がんばれる子だから。……こんな素敵な子を放っておくなんて、周りの男に見る目が無さすぎじゃない?」
「だって最後はわたし、ただのしわくちゃなお婆ちゃんでしたもん。誰も貰ってなんてくれませんよ」
悪戯っぽく微笑んで、薫さんは全身でわたしを抱き締める。爽やかで穏やかな薫りが、心を擽っていく。
「それじゃ俺が全部もらう。俺の全てをきみにあげるから」
「……はい」
「ありがとう。それじゃ行こっか」
「え?」
「俺の歌、聴かせてあげる。昔の後輩とか仲間とか、皆こっちに来てるんだ。最高のステージを届けるよ」
「……そんな贅沢な贈り物、してもらってもいいのかな」
「俺があげたいだけだからいいの。嫌から断ってくれてもいいし」
「嫌なわけないじゃないですか。でもわたし、何もお返しできるものが無くて」
「何言ってるの。俺は、きみさえいてくれればそれでいいんだよ」
視線が重なり、絡まり、近付く。涙に塗れたキスが、柔らかく体温を溶かしていった。 世界が鮮やかに色付き、花開き、二人を包み込む。門出を祝うように、心臓が熱く鼓動を刻んでいく。
そして二人は知る。互いが望むものは、全てこの場所に在ったのだ。
「それでお婆ちゃん、どうしたの?」
「ふふ。薫さんはね、綺麗な顔で眠っていたんだ。だからもう一度伝えたよ、大好きでしたって」
「それで、それで?」
「おやそんなに気になるのかい?あとはそうだねえ、それから一度だけ、薫さんから手紙が来たよ」
「え!?」
「さっき話した零さんという人が預かっていたらしくてね。手渡してくれたんだよ」
「へええ、それだけお婆ちゃんのことが大好きだったんだね」
「そうだといいねえ。……さて、そろそろお母さんがご飯を作っている頃だよ。手伝っておいで」
「はぁい! お婆ちゃんも早く来てね」
「ふふ、すぐに行くよ」
シワがいっぱいの掌で、老婆は最後の手紙を握り締めていた。真っ白な封筒に記された真っ直ぐな愛の言葉を見て、年甲斐もなく照れて微笑んでしまう。
───この手紙を読んでいる時、きみは何をしているんだろう。
笑っているかな。幸せな日々を送っているかな。 きっと将来、きみは子どもや孫に囲まれて幸せそうに笑っているんだろうね。名前ちゃんは一人だと上手に泣けない女の子だから、それならとても嬉しいです。
本当は、もっときみと一緒にいたかった。 きみがどんな場所で育ったのか見てみたかった。 街中でデートして、くだらないことで笑い合って、たまに喧嘩してみたかった。
名前ちゃん。きみの笑った顔が好きだった。
名前ちゃん。きみの怒った顔も可愛かったよ。
名前ちゃん。きみの泣いた顔が愛おしかった。
名前ちゃん。きみが見せてくれる全ての表情が、言葉が、仕草が、俺の宝物だった。
きみのことを思い出すだけで、こんなにも心穏やかになれる。きみと一緒にいる時だけは、痛みも苦しみも何もかも忘れることが出来た。 きみは、俺の天使だった。俺の幸せは、きみと共にあったんだ。 今度会えた時には、俺もとびきりいい男になっているよ。約束する。
羽風薫
そこは、真っ白な絵の具で塗り潰されたような空間だった。先ほどまで眠っていた和室から突如知らない場所に放り込まれ、老婆はただ瞬きを繰り返す。
立ち上がってみると、思ったよりも身体が自由に動くことに気付いた。数年前に関節が痛んで動かなくなった膝も、痺れていた左腕も、嘘のように軽い。なんて都合のいい夢なのだと思いながらも、老婆はその場を駆け抜ける。
まるで心まで若返ったようだ。 長い距離を走っていると、やがて目の前に色が現れ始めた。明るい黄土色の砂が床に溢れ、道を形作っていく。頭上は暗くなり、星のような輝きが満ちて、満天の星空が広がっていく。気付けば、老婆は真夜中の海辺へ迷い込んでいた。
「名前ちゃん」
その人の声が、わたしの名前を呼んだ。確信を持って振り返ると、その人は出逢ったあの日と同じ姿のまま微笑んでいる。 そして悟った。わたしはようやく、あなたに追いつけたのだと。
「お久しぶりです。───薫さん」
「うん、久しぶり。……えっと、普通ならきみの旦那さんとかが迎えにくる筈なんだけど。もしかして、まだ生きてらっしゃるとか?」
「薫さん。わたし、子どもも孫もいますけど結婚してませんよ」
「え……?」
「忘れたんですか? 血が繋がっていなくても、親子にはなれるんです」
「……きみは本当に、仕方のない子だなあ」
困ったように、けれど慈しむように薫さんは瞳を細める。その人の温かい掌に指を絡め取られて、初めて気付いた。わたしの身体も、昔と同じく若返っている。薫さんと同じ時を共にしたあの頃の姿のようだった。
「薫さん。わたし、社会に出てから色々と仕事したんですよ。広告の会社に入って、コピーライティングを考えたりして。夢ノ咲学院のアイドル達のために、あんずさんと一緒に働くこともありました」
「目に浮かぶよ。きみは一生懸命がんばれる子だから。……こんな素敵な子を放っておくなんて、周りの男に見る目が無さすぎじゃない?」
「だって最後はわたし、ただのしわくちゃなお婆ちゃんでしたもん。誰も貰ってなんてくれませんよ」
悪戯っぽく微笑んで、薫さんは全身でわたしを抱き締める。爽やかで穏やかな薫りが、心を擽っていく。
「それじゃ俺が全部もらう。俺の全てをきみにあげるから」
「……はい」
「ありがとう。それじゃ行こっか」
「え?」
「俺の歌、聴かせてあげる。昔の後輩とか仲間とか、皆こっちに来てるんだ。最高のステージを届けるよ」
「……そんな贅沢な贈り物、してもらってもいいのかな」
「俺があげたいだけだからいいの。嫌から断ってくれてもいいし」
「嫌なわけないじゃないですか。でもわたし、何もお返しできるものが無くて」
「何言ってるの。俺は、きみさえいてくれればそれでいいんだよ」
視線が重なり、絡まり、近付く。涙に塗れたキスが、柔らかく体温を溶かしていった。 世界が鮮やかに色付き、花開き、二人を包み込む。門出を祝うように、心臓が熱く鼓動を刻んでいく。
そして二人は知る。互いが望むものは、全てこの場所に在ったのだ。