フォーマルハウト
徹夜二日目は、頭が最も冴え渡る。脳髄に直接氷柱を埋め込まれているかのごとく、極めて冷静に、愚直なまでに目の前の作業へ没頭できた。
ディスプレイに映る無数の数列、文字列、画像。鮮やかな色を伴うそれらの情報は、人類の未来を守るための貴重な資源である。それらを処理し、編集し、解析するために簡易的なデータへと変換するのが名前の業務だった。
今この瞬間、苗字名前は人理継続をサポートするための機械となる。
科学のみが発達した二十一世紀の日本において、ただ呑気に暮らしていた頃には考えられなかったことだ。 現在の名前は、人類の絶滅を防ぐという壮大な目標を実現するための歯車となっていた。
人理継続保障機関フィニス・カルデア。標高6000メートルの雪山に設置された国連承認機関。 名前の現在の職場は、ブラック企業も真っ青な労働環境を職員に強いていた。
だが、これは名前にとって正当な対価だった。ある日突然、魔術や魔法が存在するファンタジー世界へ放り込まれ、右も左も分からなかった自分に知識を与えてくれたカルデアに対して返すべき恩なのだ。正直、いくら働こうが足りないと考えていた。
最後の文字列を叩き付けるように入力し終え、名前はドライアイ気味の目を瞬かせる。ミスが無いかどうか確認しようとするが、途端に脳内がマグマで茹ったような感覚に陥った。一度集中が途切れると作業効率が落ちてしまうのが自身の欠点だ。
諦めて仮眠を取った方がいいだろう。 焦眉の案件ではないものの、提出は早いに越したことはない。覚束ない足取りで立ち上がりながらも、名前は真っ直ぐに自室へと向かった。
ウィン、と扉が開く機械音に安心し、真っ先にベッドへ飛び込んだ。瞼がすっかりくっついているが、通いなれた自室で場所を間違える筈もない。
しかし、名前は違和感を覚える。
確かに、手放しに寝心地を褒めることが出来るほど上質な寝具ではないが、こんなにも硬くてゴツゴツした上にふわふわした感触をしていただろうか。
「あー、あの、名前?」
「───え」
ありのまま、今の状況を説明しよう。ロマニ・アーキマンが自室のベッドでシーツになっていた。
自身はロマニに圧し掛かるような体勢をしており、傍から見れば恋人同士が仲睦まじく戯れているように見えることだろう。 普段は軽薄な言動に覆い隠されているが、間近で見ればたしかにその顔は整っている。
驚愕した。驚愕したのだが、大きなリアクションをとれるほどの元気が名前にはなかった。 半目でじっとりとロマニを睨み付け、名前は不貞腐れたような表情で薄い胸板に耳を寄せた。ロマニはびくりと肩を跳ねさせる。
「いつからこんなに口煩いベッドになったの? 生意気」
「ボクの言葉、まさかの全スルーなの!?」
「眠い。動くのが面倒。ロマニ邪魔」
「ご、ごめん。バイタルチェックのついでにマッサージでもどうかなと思ったんだけど、キミの疲労度を舐めてたよ……」
「こんな深夜にお仕事お疲れさま。おやすみなさい」
「いやいや待ってせめて話を聞いて!?」
二人分の重みを背負ったベッドは、どちらかが身動ぎする度にギシリと生々しく音を立てる。それを他人事のように聞きながら、名前は胸を蝕む苦々しさに顔を顰めた。
「ロマニ」
「うん」
「好き」
「…………」
「一度フッたくせに期待させるようなことしないでよ。分かったら出ていって」
「………………」
「ちょっとロマニ、いい加減に……」
あまりにも無反応なため、沸々とわき上がる怒りに任せて顔を上げる。思わず心臓が飛び上がった。
「ロマニ」
「……うん」
「顔、ちゃんとよく見せて」
真っ赤に染まったロマニの顔が、白い手袋の隙間から見える。いつも名前の髪をやさしく梳くように撫でてくれた指先が、名前の何より好きな翡翠の瞳を覆い隠してしまっていた。
汗ばんだ掌をロマニの胸にあてると、暴れ太鼓のごとく乱暴な心音が伝わってきた。期待してしまいたくて、けれどいつかのように拒絶されてしまうことを考えると身体が竦む。 訳も分からず目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなった。寝不足の頭は、いつもよりも感情的な私を剥き出しにしていく。
ロマニは恐る恐るこちらへと視線を向けると、ぎょっとしたように目を見開いた。
「名前、どこか痛いの!?」
答えようとした口から、徐々に嗚咽が漏れてくる。意思に反して溢れ出る涙がぼたぼたと流れ落ち、ロマニの服に染みをつくっていった。
名前は知っている。自分が元の世界から突如切り離されたのは、カルデアが原因なのだということ。未だに部屋には監視カメラが設置されるほど警戒されている上に、ロマニは単なる監視対象としてしか自分を見ていないということを。
けれど、ロマニの優しさに救われたのは事実だった。世界の常識すらも知らない幼子のようだった自分に、笑いかけてくれた。時に叱ってくれた。心細くて孤独でどうしようもなかったボロボロの心を、温かく包み込んでくれた。
たとえ腹の底で何を思われていようと、彼に恋をしたことだけは嘘にしたくなかったのに。
「名前、この間キミに言ったことは嘘じゃないんだ」
───それはきっと勘違いだよ。此処に来てから、キミに接する年の近い異性はボクくらいだっただろう。
好きだと告白した名前に対して、ロマニは心底困ったように眉を下げながら言ったのだ。
自分なりに大切に育てていた想いだったからやはりショックで、この一週間は現実から逃避するように仕事に打ち込んでいた。すぐに嫌なことから逃げてしまうのは自分の悪い癖だと分かっていても、止められなかったのだ。
迷惑ならば素気無く断ってしまえばいいのに。中途半端に諦めさせてくれないのだからずるいひとだった。
「勘違いだといいなと思ってたよ。キミは優しいから、ボクなんかに構わず自由に生きてほしかった」
「……なによ、それ」
「ごめん、勝手だとは分かっているんだけど」
「それなら、……それなら。私のこと、少しでも好きだと思ってくれる?」
きっとまた、はぐらかされてしまうのだろうと思った。それでも良かった。焦がれるようなこの想いを、敬愛に昇華させるための努力をすればいいだけだ。
「好きだよ」
「やっぱりそうよね、私のことなんて……。え?」
「ボクは、キミのことが好きだよ。名前」
ふにゃふにゃと笑いながら、ロマニは熱を宿した瞳を柔らかく細めている。時が止まったような感覚に、思わず名前は身を震わせた。
「……ファイナルアンサー?」
「もちろんだよ! もしもこの場面で嘘言ってたらボク相当酷い男じゃない!?」
「ロマニは元々酷い男だけど。え、本当に? 同情とかじゃなくて?」
「何でそんなに疑うかな……。いや、ボク自身の責任なんだけど」
「なら今すぐ私にキスできる?」
「キッ……! ええと、そりゃまあ」
「やっぱり違いました、とかナシだからね?」
「……ボクってそんなに信用ない?」
頬を僅かに紅くさせたまま、ロマニは眉を下げた。心底困っている時に見せる、名前の大好きな表情だった。
「ううん。ロマニには誰より幸せになってほしいから。本当に、私のために時間を割いてもいいのか確認したかっただけ」
「……キミは何でそう、自分を大切にしようとしないの」
「ロマニだけには言われたくないかな」
お互いに目を見合わせて笑ったところで、名前の視界が真っ白に染まっていく。感情の糸がぷつりと途切れたせいか、頭の中がぼんやりと霞がかっていくのが分かった。 まだ眠りたくないのに、身体がどうしても言うことを聞かない。瞼をくっつけたまま、ぐずぐずと唸り始めた名前を見て、ロマニが微かに笑う気配がした。
「名前、今日は一日ゆっくり休みなさい」
「ん、……でも」
「医療部門トップからの命令。その状態で仕事しても、周りの迷惑になるだけだろう?」
「そうね、……ロマニ」
「ん?」
「おやすみ、なさい」
「うん。……おやすみ、名前」
背中をぽんぽんと叩かれる感覚に、身体の隅々まで温かい気持ちが染み渡っていくのを感じた。擽ったくなる程の優しさを浴びて、泣きたくなる程の愛おしさが募っていく。
───ロマニ・アーキマン。私に全てをくれたひと。私の全てをあげたひと。あなたの幸せだけを、私は今日も願い続けている。
ディスプレイに映る無数の数列、文字列、画像。鮮やかな色を伴うそれらの情報は、人類の未来を守るための貴重な資源である。それらを処理し、編集し、解析するために簡易的なデータへと変換するのが名前の業務だった。
今この瞬間、苗字名前は人理継続をサポートするための機械となる。
科学のみが発達した二十一世紀の日本において、ただ呑気に暮らしていた頃には考えられなかったことだ。 現在の名前は、人類の絶滅を防ぐという壮大な目標を実現するための歯車となっていた。
人理継続保障機関フィニス・カルデア。標高6000メートルの雪山に設置された国連承認機関。 名前の現在の職場は、ブラック企業も真っ青な労働環境を職員に強いていた。
だが、これは名前にとって正当な対価だった。ある日突然、魔術や魔法が存在するファンタジー世界へ放り込まれ、右も左も分からなかった自分に知識を与えてくれたカルデアに対して返すべき恩なのだ。正直、いくら働こうが足りないと考えていた。
最後の文字列を叩き付けるように入力し終え、名前はドライアイ気味の目を瞬かせる。ミスが無いかどうか確認しようとするが、途端に脳内がマグマで茹ったような感覚に陥った。一度集中が途切れると作業効率が落ちてしまうのが自身の欠点だ。
諦めて仮眠を取った方がいいだろう。 焦眉の案件ではないものの、提出は早いに越したことはない。覚束ない足取りで立ち上がりながらも、名前は真っ直ぐに自室へと向かった。
ウィン、と扉が開く機械音に安心し、真っ先にベッドへ飛び込んだ。瞼がすっかりくっついているが、通いなれた自室で場所を間違える筈もない。
しかし、名前は違和感を覚える。
確かに、手放しに寝心地を褒めることが出来るほど上質な寝具ではないが、こんなにも硬くてゴツゴツした上にふわふわした感触をしていただろうか。
「あー、あの、名前?」
「───え」
ありのまま、今の状況を説明しよう。ロマニ・アーキマンが自室のベッドでシーツになっていた。
自身はロマニに圧し掛かるような体勢をしており、傍から見れば恋人同士が仲睦まじく戯れているように見えることだろう。 普段は軽薄な言動に覆い隠されているが、間近で見ればたしかにその顔は整っている。
驚愕した。驚愕したのだが、大きなリアクションをとれるほどの元気が名前にはなかった。 半目でじっとりとロマニを睨み付け、名前は不貞腐れたような表情で薄い胸板に耳を寄せた。ロマニはびくりと肩を跳ねさせる。
「いつからこんなに口煩いベッドになったの? 生意気」
「ボクの言葉、まさかの全スルーなの!?」
「眠い。動くのが面倒。ロマニ邪魔」
「ご、ごめん。バイタルチェックのついでにマッサージでもどうかなと思ったんだけど、キミの疲労度を舐めてたよ……」
「こんな深夜にお仕事お疲れさま。おやすみなさい」
「いやいや待ってせめて話を聞いて!?」
二人分の重みを背負ったベッドは、どちらかが身動ぎする度にギシリと生々しく音を立てる。それを他人事のように聞きながら、名前は胸を蝕む苦々しさに顔を顰めた。
「ロマニ」
「うん」
「好き」
「…………」
「一度フッたくせに期待させるようなことしないでよ。分かったら出ていって」
「………………」
「ちょっとロマニ、いい加減に……」
あまりにも無反応なため、沸々とわき上がる怒りに任せて顔を上げる。思わず心臓が飛び上がった。
「ロマニ」
「……うん」
「顔、ちゃんとよく見せて」
真っ赤に染まったロマニの顔が、白い手袋の隙間から見える。いつも名前の髪をやさしく梳くように撫でてくれた指先が、名前の何より好きな翡翠の瞳を覆い隠してしまっていた。
汗ばんだ掌をロマニの胸にあてると、暴れ太鼓のごとく乱暴な心音が伝わってきた。期待してしまいたくて、けれどいつかのように拒絶されてしまうことを考えると身体が竦む。 訳も分からず目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛くなった。寝不足の頭は、いつもよりも感情的な私を剥き出しにしていく。
ロマニは恐る恐るこちらへと視線を向けると、ぎょっとしたように目を見開いた。
「名前、どこか痛いの!?」
答えようとした口から、徐々に嗚咽が漏れてくる。意思に反して溢れ出る涙がぼたぼたと流れ落ち、ロマニの服に染みをつくっていった。
名前は知っている。自分が元の世界から突如切り離されたのは、カルデアが原因なのだということ。未だに部屋には監視カメラが設置されるほど警戒されている上に、ロマニは単なる監視対象としてしか自分を見ていないということを。
けれど、ロマニの優しさに救われたのは事実だった。世界の常識すらも知らない幼子のようだった自分に、笑いかけてくれた。時に叱ってくれた。心細くて孤独でどうしようもなかったボロボロの心を、温かく包み込んでくれた。
たとえ腹の底で何を思われていようと、彼に恋をしたことだけは嘘にしたくなかったのに。
「名前、この間キミに言ったことは嘘じゃないんだ」
───それはきっと勘違いだよ。此処に来てから、キミに接する年の近い異性はボクくらいだっただろう。
好きだと告白した名前に対して、ロマニは心底困ったように眉を下げながら言ったのだ。
自分なりに大切に育てていた想いだったからやはりショックで、この一週間は現実から逃避するように仕事に打ち込んでいた。すぐに嫌なことから逃げてしまうのは自分の悪い癖だと分かっていても、止められなかったのだ。
迷惑ならば素気無く断ってしまえばいいのに。中途半端に諦めさせてくれないのだからずるいひとだった。
「勘違いだといいなと思ってたよ。キミは優しいから、ボクなんかに構わず自由に生きてほしかった」
「……なによ、それ」
「ごめん、勝手だとは分かっているんだけど」
「それなら、……それなら。私のこと、少しでも好きだと思ってくれる?」
きっとまた、はぐらかされてしまうのだろうと思った。それでも良かった。焦がれるようなこの想いを、敬愛に昇華させるための努力をすればいいだけだ。
「好きだよ」
「やっぱりそうよね、私のことなんて……。え?」
「ボクは、キミのことが好きだよ。名前」
ふにゃふにゃと笑いながら、ロマニは熱を宿した瞳を柔らかく細めている。時が止まったような感覚に、思わず名前は身を震わせた。
「……ファイナルアンサー?」
「もちろんだよ! もしもこの場面で嘘言ってたらボク相当酷い男じゃない!?」
「ロマニは元々酷い男だけど。え、本当に? 同情とかじゃなくて?」
「何でそんなに疑うかな……。いや、ボク自身の責任なんだけど」
「なら今すぐ私にキスできる?」
「キッ……! ええと、そりゃまあ」
「やっぱり違いました、とかナシだからね?」
「……ボクってそんなに信用ない?」
頬を僅かに紅くさせたまま、ロマニは眉を下げた。心底困っている時に見せる、名前の大好きな表情だった。
「ううん。ロマニには誰より幸せになってほしいから。本当に、私のために時間を割いてもいいのか確認したかっただけ」
「……キミは何でそう、自分を大切にしようとしないの」
「ロマニだけには言われたくないかな」
お互いに目を見合わせて笑ったところで、名前の視界が真っ白に染まっていく。感情の糸がぷつりと途切れたせいか、頭の中がぼんやりと霞がかっていくのが分かった。 まだ眠りたくないのに、身体がどうしても言うことを聞かない。瞼をくっつけたまま、ぐずぐずと唸り始めた名前を見て、ロマニが微かに笑う気配がした。
「名前、今日は一日ゆっくり休みなさい」
「ん、……でも」
「医療部門トップからの命令。その状態で仕事しても、周りの迷惑になるだけだろう?」
「そうね、……ロマニ」
「ん?」
「おやすみ、なさい」
「うん。……おやすみ、名前」
背中をぽんぽんと叩かれる感覚に、身体の隅々まで温かい気持ちが染み渡っていくのを感じた。擽ったくなる程の優しさを浴びて、泣きたくなる程の愛おしさが募っていく。
───ロマニ・アーキマン。私に全てをくれたひと。私の全てをあげたひと。あなたの幸せだけを、私は今日も願い続けている。