アンタレス
ブラックコーヒーに角砂糖を何個も落としながら、名前は廊下のベンチでほっと一息ついていた。ロマニに想いを寄せるようになってから本能が彼を求めてしまうのか、甘味ばかり口に含んでしまうのだ。
ふと気を抜けばゆるゆると緩んでしまいそうな顔を引き締めるべく、勢いよくマグカップを煽る。喉の奥を伝う甘ったるい味が脳に染み渡っていくようだった。
しかも、その時の名前は常より特別な昼休みを過ごしていた。なにせ、ロマニに好きだと告げられてから初めて迎えるお昼だ。彼とは立場も仕事内容も何もかも異なるため一緒には過ごせないが、名前は初恋が実った少女のような幸福感で満たされていた。
手作りのサンドイッチを口に運びながら、職員用の端末で日本の新聞を読み耽る。職業柄、ディスプレイ越しの英字にばかり接しているためか、幼い頃から慣れ親しんでいる母国語を目にするだけで心穏やかになった。自分の知る世界と似ているようで異なる日本の情勢を知ったところで、雑談の抽斗が増えるだけだというのに。
シャキシャキした玉葱とまろやかなアボカドを味わいながら、ふと感じた気配に目線を上げると、そこには自身が何よりも焦がれる栗色の髪が揺れていた。
「あ、気付いた」
ひゅっと息を止めてから、名前は急いで口の中のサンドイッチを飲み込んだ。一度集中すると、雑音さえもシャットアウトしてしまうのは名前の悪い癖なのだ。しかし、こんなにも自分の悪癖を恨んだのは初めてのことである。
「ロマニ!」
「お昼だし此処にいるかなあと思ってたんだけど、やっぱり当たってた」
「いつからいたの!?」
「ちょうど通りかかったところ。ボクこれから休憩なんだ」
何の躊躇いもなく隣に座ったロマニは、見ているだけでほっとするような笑みで名前の手元を覗き込んできた。
「それ、名前の手作りだよね?」
「うん、そう。一つ余ってるんだけど食べる?」
「え、いいの!?」
「もちろん。ロマニ、好き嫌いとかアレルギーとかあった?」
「あー、好き嫌いは大丈夫。アレルギーに関しては、今まで特に問題が起きた覚えは無いんだけど」
妙に引っかかる言い方だと思いながらも、名前は純粋に喜んでくれている彼の様子が嬉しかったためその違和感を振り払った。現代でよく舌に馴染ませていた海老アボカドのサンドイッチを、ソワソワとするロマニに手渡す。間食か夜食にするつもりで余分に作っていたのが功を奏したようだ。
顔を赤くさせながら慎重に頬張っていくロマニに、名前はそっと口許を緩める。野菜をめいっぱい詰め込んだため、トマトやピーマンが口の端から零れていた。 ロマニは、いつだって心底美味しそうに物を食べる。食材の一つ一つを味わうように口にしてくれるものだから、いくら手抜きと言えども作り手からすれば有難かった。
「うん、美味しい!」
「それなら良かった。ロマニ、コーヒーで良かった?」
飲み物が無いようだったため少し離れた給湯室まで向かおうと思ったのだが、彼は慌てたように首を横に振った。
「ううん、大丈夫。水なら持ってるから」
「あ、冷たい飲み物の方がいいなら食堂から取ってくるけど」
「いや、そうじゃなくて……」
困ったように笑ってから、ロマニはそっと首を傾ける。
「少しでもキミと一緒にいたいから。ボクから離れないで」
きゅっと喉の奥が締まるような感覚に、名前は思わず視線を床に落とした。ピカピカに磨き上げられた真っ白な床は、自分の真っ赤な顔を僅かに反射している。余計に気恥ずかしさが増して横目で彼の様子を伺うと、ロマニも同じくらい顔を赤くしながら豪快にサンドイッチを食べている。
そこに横たわったのは腹の底がむず痒くなるような沈黙だったが、決して居心地は悪くない。
ロマニの傍にいるといつもこうだと笑いながら、名前はふと響いた足音に顔を上げる。一歩ずつ踏み締めるようにこちらへ向かってくるのは、櫻色のショートヘアを揺らした白衣姿の少女、マシュ・キリエライトだ。
どことなく浮世離れした彼女と名前は不思議と波長が合い、時折一緒に食事をするくらいの仲を築けていた。戦闘能力が皆無な自分とは異なりマスター適正が抜群に高いマシュのことを、名前は友人として尊敬もしていたのだ。
何かを決意したような真剣な表情を浮かべるマシュを見遣ってから、一瞬ロマニと顔を見合わせる。彼の口にはまだサンドイッチが残っていたため、名前が声をかけることにした。
「マシュ、こんにちは」
「はい、こんにちは。あの、突然すみません。お二人にお伺いしたいことがありまして」
「ううん、頼ってくれて嬉しいよ。どうしたの?」
「───ドクターと名前さんは、男女のお付き合いをされているのですか」
「げほっ!?」
「いや、してないけど」
「え、してないの!?」
ロマニは心底傷付いたようにこちらを見遣るが、名前は不満そうに鋭い視線を返した。
「好きだとは言われたけど、付き合ってとは言われてないし」
しれっと返してから、名前は自身の不満を言語化できたことに安堵していた。昨晩から抱えていたモヤモヤをどう切り出そうか機会を伺っていたのだが、ナイスタイミングである。
ロマニは顔を青くさせながら、名前の両肩に力強く触れる。その時点で既に充分なほど溜飲は下がっていたのだが、女として期待してしまう気持ちが怒った表情を生み出した。
「ボクが悪かった! 名前、キミのことが好きだから付き合おう!」
「うん。というわけでマシュ、私達の男女交際がようやく始まったみたい」
「はい、とても興味深かったです!」
「……何なのこの状況」
ガックリと肩を落とすロマニの横で、名前はマシュと微笑み合う。 きっと、ダヴィンチちゃんがマシュを通じて間接的に発破をかけてくれたのだろう。以前相談に乗ってくれた御礼も含めて、後で差し入れを持っていかなければならない。この際、なぜ昨晩の告白劇を知っているのかは置いておく。万能の天才に理由を聞く方が野暮というものだ。
気落ちしたようにサンドイッチの残りを飲み込むロマニは、ほっぺたにソースを付けている。子どもみたいだなあと笑ってから、名前は身を乗り出して彼の頬を舐め取った。今まで散々触れることを我慢していたのだから、これくらいは許してほしい。
わあ、とマシュは気恥ずかしそうに目を丸くし、後ろでフォウが元気良く鳴き声を上げていた。その中で驚愕の表情を浮かべたロマニは、へにゃりと眉を下げてから自身の手で目元を覆い隠す。蚊の鳴くような声が、名前の名を呼んだ。
「どうしたの、ロマニ?」
「……あのね。こんな、男を煽るようなことしたらいけません」
「はあい。善処します、先生」
大切で愛おしくて、思い出したら切なくなる程の思い出。今でも胸に秘めているこの日交わした言葉を、名前はきっと、一生忘れることはないだろうと思った。
ふと気を抜けばゆるゆると緩んでしまいそうな顔を引き締めるべく、勢いよくマグカップを煽る。喉の奥を伝う甘ったるい味が脳に染み渡っていくようだった。
しかも、その時の名前は常より特別な昼休みを過ごしていた。なにせ、ロマニに好きだと告げられてから初めて迎えるお昼だ。彼とは立場も仕事内容も何もかも異なるため一緒には過ごせないが、名前は初恋が実った少女のような幸福感で満たされていた。
手作りのサンドイッチを口に運びながら、職員用の端末で日本の新聞を読み耽る。職業柄、ディスプレイ越しの英字にばかり接しているためか、幼い頃から慣れ親しんでいる母国語を目にするだけで心穏やかになった。自分の知る世界と似ているようで異なる日本の情勢を知ったところで、雑談の抽斗が増えるだけだというのに。
シャキシャキした玉葱とまろやかなアボカドを味わいながら、ふと感じた気配に目線を上げると、そこには自身が何よりも焦がれる栗色の髪が揺れていた。
「あ、気付いた」
ひゅっと息を止めてから、名前は急いで口の中のサンドイッチを飲み込んだ。一度集中すると、雑音さえもシャットアウトしてしまうのは名前の悪い癖なのだ。しかし、こんなにも自分の悪癖を恨んだのは初めてのことである。
「ロマニ!」
「お昼だし此処にいるかなあと思ってたんだけど、やっぱり当たってた」
「いつからいたの!?」
「ちょうど通りかかったところ。ボクこれから休憩なんだ」
何の躊躇いもなく隣に座ったロマニは、見ているだけでほっとするような笑みで名前の手元を覗き込んできた。
「それ、名前の手作りだよね?」
「うん、そう。一つ余ってるんだけど食べる?」
「え、いいの!?」
「もちろん。ロマニ、好き嫌いとかアレルギーとかあった?」
「あー、好き嫌いは大丈夫。アレルギーに関しては、今まで特に問題が起きた覚えは無いんだけど」
妙に引っかかる言い方だと思いながらも、名前は純粋に喜んでくれている彼の様子が嬉しかったためその違和感を振り払った。現代でよく舌に馴染ませていた海老アボカドのサンドイッチを、ソワソワとするロマニに手渡す。間食か夜食にするつもりで余分に作っていたのが功を奏したようだ。
顔を赤くさせながら慎重に頬張っていくロマニに、名前はそっと口許を緩める。野菜をめいっぱい詰め込んだため、トマトやピーマンが口の端から零れていた。 ロマニは、いつだって心底美味しそうに物を食べる。食材の一つ一つを味わうように口にしてくれるものだから、いくら手抜きと言えども作り手からすれば有難かった。
「うん、美味しい!」
「それなら良かった。ロマニ、コーヒーで良かった?」
飲み物が無いようだったため少し離れた給湯室まで向かおうと思ったのだが、彼は慌てたように首を横に振った。
「ううん、大丈夫。水なら持ってるから」
「あ、冷たい飲み物の方がいいなら食堂から取ってくるけど」
「いや、そうじゃなくて……」
困ったように笑ってから、ロマニはそっと首を傾ける。
「少しでもキミと一緒にいたいから。ボクから離れないで」
きゅっと喉の奥が締まるような感覚に、名前は思わず視線を床に落とした。ピカピカに磨き上げられた真っ白な床は、自分の真っ赤な顔を僅かに反射している。余計に気恥ずかしさが増して横目で彼の様子を伺うと、ロマニも同じくらい顔を赤くしながら豪快にサンドイッチを食べている。
そこに横たわったのは腹の底がむず痒くなるような沈黙だったが、決して居心地は悪くない。
ロマニの傍にいるといつもこうだと笑いながら、名前はふと響いた足音に顔を上げる。一歩ずつ踏み締めるようにこちらへ向かってくるのは、櫻色のショートヘアを揺らした白衣姿の少女、マシュ・キリエライトだ。
どことなく浮世離れした彼女と名前は不思議と波長が合い、時折一緒に食事をするくらいの仲を築けていた。戦闘能力が皆無な自分とは異なりマスター適正が抜群に高いマシュのことを、名前は友人として尊敬もしていたのだ。
何かを決意したような真剣な表情を浮かべるマシュを見遣ってから、一瞬ロマニと顔を見合わせる。彼の口にはまだサンドイッチが残っていたため、名前が声をかけることにした。
「マシュ、こんにちは」
「はい、こんにちは。あの、突然すみません。お二人にお伺いしたいことがありまして」
「ううん、頼ってくれて嬉しいよ。どうしたの?」
「───ドクターと名前さんは、男女のお付き合いをされているのですか」
「げほっ!?」
「いや、してないけど」
「え、してないの!?」
ロマニは心底傷付いたようにこちらを見遣るが、名前は不満そうに鋭い視線を返した。
「好きだとは言われたけど、付き合ってとは言われてないし」
しれっと返してから、名前は自身の不満を言語化できたことに安堵していた。昨晩から抱えていたモヤモヤをどう切り出そうか機会を伺っていたのだが、ナイスタイミングである。
ロマニは顔を青くさせながら、名前の両肩に力強く触れる。その時点で既に充分なほど溜飲は下がっていたのだが、女として期待してしまう気持ちが怒った表情を生み出した。
「ボクが悪かった! 名前、キミのことが好きだから付き合おう!」
「うん。というわけでマシュ、私達の男女交際がようやく始まったみたい」
「はい、とても興味深かったです!」
「……何なのこの状況」
ガックリと肩を落とすロマニの横で、名前はマシュと微笑み合う。 きっと、ダヴィンチちゃんがマシュを通じて間接的に発破をかけてくれたのだろう。以前相談に乗ってくれた御礼も含めて、後で差し入れを持っていかなければならない。この際、なぜ昨晩の告白劇を知っているのかは置いておく。万能の天才に理由を聞く方が野暮というものだ。
気落ちしたようにサンドイッチの残りを飲み込むロマニは、ほっぺたにソースを付けている。子どもみたいだなあと笑ってから、名前は身を乗り出して彼の頬を舐め取った。今まで散々触れることを我慢していたのだから、これくらいは許してほしい。
わあ、とマシュは気恥ずかしそうに目を丸くし、後ろでフォウが元気良く鳴き声を上げていた。その中で驚愕の表情を浮かべたロマニは、へにゃりと眉を下げてから自身の手で目元を覆い隠す。蚊の鳴くような声が、名前の名を呼んだ。
「どうしたの、ロマニ?」
「……あのね。こんな、男を煽るようなことしたらいけません」
「はあい。善処します、先生」
大切で愛おしくて、思い出したら切なくなる程の思い出。今でも胸に秘めているこの日交わした言葉を、名前はきっと、一生忘れることはないだろうと思った。