「ダ・ヴィンチちゃんの工房って、おばあちゃんの家みたいだよね」

部屋の持ち主にぽろりとそう零すと、彼はその綺麗な瞳を丸くしてから心底愉快そうに笑っていたものだった。あまりに盛大な笑い声だったものの、そこには侮蔑の色は見えず、むしろ知的好奇心が覗いていたように思う。

「名前は本当に面白いことを言うね」
「そう? そもそも、私おばあちゃんのこと覚えてないんだけどね」
「だから尚のこと興味深いのさ。相変わらず、きみに家族の記憶は無いんだろう?」

名前は、家族や友人という概念を知っている。彼らと共に過ごしたことで、幸福感を得た感覚も胸の内に残っている。現代日本の一般常識は勿論のこと、自分がよく買っていた食べ物や洋服、暇潰しにしていた娯楽の記憶さえも残っていた。
それなのに、名前は身内の顔を一切思い出すことが出来ないのだ。彼らと交わしていた筈の言葉、彼ら一人ひとりの顔や声音、今まで他人と積み重ねてきた筈の時間。カルデアにやって来た際、名前はそれらが全て抜け落ちた状態だった。

外的要因による記憶喪失の疑いがあるとして、ダ・ヴィンチちゃんやロマニにはメンタルケアや薬の処方をしてもらった。しかし全く元に戻らなかったため、名前は元の世界を忘れカルデアの職員になることを決めたのだ。

その頃はすっかりロマニに恋をしていたものだから、打算的な決意でもあったのだけれど。

今でも名前にとって、血縁関係のある身内は空想上の存在だ。マシュやダ・ヴィンチちゃんといった友人は得られたものの、無償の愛情を注いでくれる家族というものがよく分からない。 だが、この工房に陳列する古書の匂いや古ぼけた装飾品、木製の家具の数々は、知識として記憶する祖父母の家に類似しているように思えたのだ。

「工房にいると、時間の流れがゆっくりに感じるの。だから落ち着くのかな」
「それは光栄だ。名前にとって此処が少しでも心安らぐ場であるならば、私は幸せに思うよ。……なあんて、ロマニに聞かれたら怒られてしまうかな」
「えっ」
「なんだい、意外そうな顔をして。恋は盲目とは言うけれど、きみ達はまさに典型だね。腹立たしい程に鈍い」
「うっ……。私、ダ・ヴィンチちゃんにまで嫌われたら生きていけない」
「何を言ってるのさ」
「だって、未だに所長からは避けられてるし」
「ああ、彼女が排他的なのは環境によって育まれてしまった気質でもあるからね。個人的な付き合いを深めれば案外チョロ……、取っ付きやすくもあるんだけど」

オルガマリー・アニムスフィア。若くして家督を継ぎ、カルデアの所長をも務める彼女は、何故か出会った当初から名前に極力関わろうとしなかった。
いくらにこやかに話しかけても、怯えたような表情を浮かべられればあまり踏み込むことも出来ない。現在では最低限の事務連絡をやり取りできる程にはなれたのだが、それだけである。

名前には魔術師としての才能など欠片も無く、オルガマリーにとっては利用価値などない一般人でしかないのだろう。特技として誇れるのは、元の世界の職場で培ったデータ処理とお茶汲みのスキルくらいである。 白銀のロングヘアが眩しい彼女と仲良くなり、あわよくば魔術に関する教えを請えればいいなあと思っていた時期が、確かに私にもありました。

「私は、所長のこと好きなんだけどなあ」
「いつも思うけど、名前は人から嫌われることを恐れないよね」
「え? そうかな。うーん……私、好きな人には好きだって伝えたいだけだから、自分がどう思われるかはあまり考えてないのかも。要は単純なんだよね」
「……そうか。ロマニはきっと、きみのそういうところを好きになったんだろうね」
「えっ!?」
「はいはい、そんなに照れないの。そういう可愛い顔は好きな人のために取っておきなさい」

情けなく真っ赤になっているであろう名前の頭をぽんぽんと撫でると、ダ・ヴィンチちゃんは豊かな髪を揺らして微笑んだ。 しかし、なぜだろうか。何もかも見透かしているようなその笑顔は、僅かばかり寂しさが滲んでいるようにも感じてしまう。

出会ってからずっと名前の心を柔く包み込んでくれていた彼のために、何か言葉を紡ぎたい。後悔してからでは遅いのだから、たとえ無様でも情けなくても、今伝えられることを伝えたいと思った。

「あの、ダ・ヴィンチちゃん!」
「ん、なんだい?」
「私は、ダ・ヴィンチちゃんのことが大好きだよ。優しくて賢くて、自由に生きているようで周りをよく見ててくれて。私のことも、いつも気遣ってくれて」
「……うん」
「きっと、こんな称賛の言葉は何千回も何万回も浴びてると思うんだけど。私は、ダ・ヴィンチちゃんの笑顔が好き。一緒にいて落ち着くし、もっと幸せになってほしいなって思う」
「うん、ありがとう。名前。そんなに愛の言葉を囁かれたら、さすがの私も照れてしまうな」
「もう、茶化さないでよ」
「いや、きみの恋人に申し訳ないなあと思ってさ。なあロマニ?」

空気が固まる。彼に従って工房の入口に目を遣ると、扉から覗いていた白衣がびくりと大仰に跳ねた。翡翠の瞳に何とも気まずそうな色を宿しながら、ロマニは恐る恐る工房へと足を踏み入れる。

「やあロマニ。何か用だったかい?」
「あー、ええと。休みの日なのに名前がどこにもいなかったから、探しに来たんだけど」
「成程ね。デートの誘いに来たのに、当の彼女は他の奴に告白紛いの台詞を吐いていたんだ。それは怒るのも当然だね」
「お、怒ってるとか、そういうことじゃなくてね」
「ふうん。ならロマニ、きみはさっきの言葉に何も感じなかったと?」
「……ああ、そうか。うん。これが嫉妬というものなのか」

名前は、目の前の会話を唖然としながら眺める。ロマニは何かを噛み締めるように自身の胸に手を当てたかと思えば、次の瞬間には華やいだ笑みを見せていた。

「名前」
「うん」
「ボクでは、レオナルドみたいにキミを楽しませてあげることも出来ないし、癒してあげることも出来ないかもしれない。それでも傍にいたいんだ」
「……ばか」
「う、ごめん」
「私は、ロマニのそういう真っ直ぐなところが好きなの。……ダ・ヴィンチちゃん、ごめんね。また改めて御礼に来るから」
「そう気を遣わなくていいさ。こうして傍からちょっかいを出すのも結構楽しいしね」

義手をひらひらと振りながら、彼は本心から笑っているようだった。あまりの寛容さに感動しながらも、名前は燃え上がった顔の熱を冷ますのに必死である。 ロマニが紡いでくれる思いの丈は、あまりにも純粋無垢で眩しすぎる。宝石など目ではない程の煌めきに満ちた言葉は、名前の心にめいっぱいの愛情を注ぎ込んでくれた。

「あ、そうだ。ダ・ヴィンチちゃん、この間借りた本をいつ返すべきか聞きたかったんだけど……」
「ああ、いつでもいいよ。あれはきみが読むべきものだ。気が済むまで、何回でも味わってくれたまえ」
「そう? なら、お言葉に甘えるね」
「ほら、きみの恋人が拗ねているよ。早く行っておあげ」
「別に拗ねてないからね!?」

レオナルド・ダ・ヴィンチは、彼らのやり取りを見てくすりと笑った。 ロマニなんて、名前に無理やり腕を絡め取られただけで赤面している。心底幸せそうに微笑む彼女は、決して形貌が整っているわけではないのに、その横顔はとても眩しく美しい。こちらにひらひらと手を振ってくれたのも愛らしくて、ダ・ヴィンチもまた右手をそっと振り返した。

二人は、瞬く間に扉の奥に消えていく。惜しむように扉を眺めつつ、万能の天才は彼らの未来を想って眉を下げた。

「たしかに、きみ達の間には劇的なロマンスなど何もなかったのかもしれない。けれど、だからこそ普通に恋をして、知らなかった感情をひとつひとつ学んでいけるんだ。それは何ものにも代えがたい、人として何よりも尊い経験だよ」