それはまるで、世界の果てを見ているようだった。

険しい雪山の稜線が幾重にも収斂し、その下で海のように薄く広がる雲が朝日を反射しては煌めいている。湿り気を帯びた寒風が髪をかき混ぜるように吹きすさぶ度、名前の肌を荒々しくなぞっていった。身体の感覚はこんなにも鋭敏に冷感を認識しているのに、思考は宇宙の端を彷徨っているかのごとく落ち着かない。

未だ職員達は誰もが寝静まっているであろう時分、名前はコーヒーを片手に一人空を仰いでいた。あまり眠れなかった日の朝は、身体を起こすためにこうして外を散歩をするのが常である。

目にする空は、記憶の中のものと一切変わらない色を宿していた。だが自然の壮大さに触れていると、名前は自身がこの世界にとって異物であることをまざまざと実感してしまう。本来あってはならない人間なのだと、身体の奥底に眠る何かが囁くような気がした。魂が震えるような感覚に耐え忍びながら、名前は更に朝日を浴びるべく歩を進めていく。

今日はカルデアにとって運命の日だ。いよいよ最後のマスター候補を迎え入れ、人理継続保障機関としての役割を果たすべき時がやってきたのだから。

だからこそ今日だけは、自分の感情によって仕事に支障をきたすことだけはあってはならない。とは言うものの、今回名前は物資の補給に専念するよう通達を受けているため、もしもオペレーター達に緊張事態が発生した場合のスペアとして存在していた。

名前は当然、元来働いていたスタッフ達と比べて技術的に敵う筈もないのだが、やはり少し悔しかった。近頃いつも以上に気を張っていた所長の心の拠り所になれるような度量の深さも無ければ、ロマニの手助けができる程に専門的な知識があるわけでもない。何やら忙しく動き回っているダ・ヴィンチちゃんの邪魔をすることも出来ず、名前は自身に出来る範囲の精一杯をこなすばかりだった。

「名前、おはよう」

はあ、と零した吐息が朝靄のごとく白く染まっていくのを見つめていると、突如背後から柔らかい声に名前を呼ばれた。まさか寝坊しがちな彼が此処にいるとは思わず、ぎょっとしながら振り返れば、ロマニはいつも通り穏やかに笑いながら近付いてくる。

「お、おはよう。ロマニ」
「部屋にいないから、此処かなあと思ってたんだ。やっぱり当たってた」
「ごめん、何か用だった?」
「ううん。ただ単にボクが会いたかっただけ」
「……はあ」
「え、ここで溜め息吐いちゃう!?」

胸の内で燻る熱を噛み締めつつ、名前はロマニをじっとりと睨めつける。慌てたようにこちらを真っ直ぐ見つめてくる顔はやはり整っていて、なんだかそれも無性に悔しかった。彼は何も悪くないのに。

きっと、普段から充分に睡眠を取れていない名前を心配してわざわざ来てくれたのだろう。ただでさえ、彼は責任者の一角として今日も仕事をこなさなければならないというのに。

「ロマニ、今日は管制室での業務があるでしょ。少しでも休まなきゃ駄目じゃない」
「あー、それなんだけど。ボクがいると気が抜けちゃうから当日は来るなって、所長から言われちゃって」
「へ?」
「だから暇になっちゃってさ。あはは」

どことなく気落ちしたように笑うロマニだったが、少しも落ち込む必要は無いだろう。

「所長にとって、ロマニは信頼の置ける相手なんだね」
「……え」
「気が抜けるって言うのは、一緒にいると落ち着くってことでしょ」
「そう、なのかな」
「今日からはずっと、頼りになる所長でいなきゃいけないからっていう責任感もあるのかもしれないけど。所長が軽口を叩ける相手なんてロマニくらいだと思うから、これからはロマニが所長を支えてあげなきゃね」

少しだけ妬けるけど。などという本音は笑顔の下に隠して、名前はくるりと踵を返した。

山の天気はすぐに変化する。視界の端に見える分厚く暗い雲は、やがて横殴りの吹雪をこの場にもたらすことだろう。その前に退散したかったのもあるし、ロマニと少しでも長く共にいたい気持ちもあった。

「ロマニ、行こう」
「そうだね。……うん、やっぱり凄くキレイだ」
「ん? 此処の景色、壮観だよね。とっても綺麗」
「それもあるけど。名前、キミの心はとてもキレイなんだなと改めて思って」
「もう、またすぐにそういうこと言う!」







特務作戦、ファーストミッション。レイシフト実験に参加する四十八人のマスター候補者達は現在、中央管制室にて所長から任務についての説明を受けている最中だった。

名前は地下の発電所や資源の保管庫等を一通り見て回った後、ダ・ヴィンチちゃんの工房にて一息ついていた。ロマニとは朝食を共にして以来会っていないが、どうせいつも通りサボっているのだと予想はつく。自分も手持ち無沙汰なんだから彼のことは責められないな、と苦笑しつつ、名前はくるくると動き回るダ・ヴィンチちゃんの背中を見詰める。

「ねえねえ、ダ・ヴィンチちゃん」
「名前、特に仕事は無いから休憩しているといいよ」
「……はあい」

先程から何度も交わされるやり取りにも慣れたのか、彼はこちらを全く見てくれない。これ以上邪魔するのも気が引けて、名前はそそくさと工房の扉に手をかけた。

「ダ・ヴィンチちゃん、私また保管庫の様子見てくるね」
「ん、そうかい? 分かった、気を付けるんだよ。何かあればすぐに連絡するように」
「心配しすぎだってば。また後でね」

スタッフ達は総出で管制室に篭っているためか、廊下には一切の人通りが無かった。自身の足音ばかりが響く静かな空間を寂しく思いながら、名前はこの後すぐにミッションへ挑むであろう友人の姿を思い浮かべる。どうか、心優しい彼女が無事に帰ってくるよう願うばかりだ。

カルデアの貴重な動力源である発電所が問題なく稼働しているのを確認し、続いて物資の確認をしようと地下を歩き回っていた時のこと。突如真っ暗になった視界に驚いた瞬間、近くで響いた激しい爆発音が身体の芯をビリビリと鳴らした。熱風と煙が肺を焼くような感覚に身震いしながら、名前は頭上から降り注ぐけたたましいアナウンスに全身の意識を向ける。

───緊急事態発生。緊急事態発生。中央発電所、及び中央管制室で火災が発生しました。

咄嗟にポケットからハンカチを取り出して口を覆い、名前は職員用の端末を操作しながら第二ゲートへ急いだ。中央区画は直に隔壁が展開されてしまうため、何の力も持たない己はただ避難することに集中すべきだと判断する。

今回の作戦は失敗だ。カルデアが長年積み重ねてきた実験の成果が容赦なく崩れ落ちていく音が、名前にさえ聞こえてきた。所長の心境を思うと苦々しいものが込み上げてくるが、それよりもまずは情報収集をしなければならない。 何度か通信を試みた結果、ようやく耳元の端末から響いた大きな声にほっと安堵する。

「名前、無事かい!?」
「うん、なんとか。ダ・ヴィンチちゃんは?」
「こちらも大丈夫。今から、私とロマニで手分けしてカルデアの機能を復旧してみせる。名前は速やかに避難してくれ」

その言葉が示す事実に、名前は泣き出してしまいそうになった。喉の奥まで迫り上がってきた嗚咽をぐっと堪えつつ、精一杯の力を込めて返事をする。これ以上邪魔をしないようすぐに端末を切り、名前は全力を以て廊下を駆け抜けた。

いよいよゲートまであと一歩の曲がり角に差し掛かると、視界いっぱいに明るい栗色が広がる。ロマニは一瞬泣き出しそうに顔を歪めると、力いっぱい名前を抱き締めた。
名前もまたロマニの背中に腕を回せば、触れ合った箇所から柔らかい熱が伝わってくる。 胸の奥に巣食う不安をかき消すためにこのまま言葉を交わしたいところだが、人類の未来を考えるとそうもいかない。ロマニの胸に手を置いてぐっと距離を離すと、そこには確固たる決意を宿した真摯な瞳があった。

「ロマニ。私は、私に出来ることを探す。避難しながら、生き残った職員と連絡を取ってみるから」
「うん。館内洗浄が終わったら、やることが山積みだろうからね。キミにも働いてもらうことになるだろうけど」
「任せて。何かあればいつでも連絡してね」
「ああ、頼りにしてる。……名前」

震えた声で名前を呼ばれ、名前は微笑んだ。掠め取られた唇は甘く、どこかほろ苦い。

「キミのことは、ボクが守るから」
「うん、信じてる」

いつもと変わらない陽だまりのような笑顔に見送られ、名前はただ一心に出口を目指す。

カルデアの叡智が結集した管制室が被害を受けたのだ。ミッションの開始直前だったこともあり、マスター候補者の生存はほぼ絶望的だろう。コフィンの内部に入った状態ならば命を繋げる可能性はあるものの、実働要員に見込むのは厳しい。ならば残るは、ロマニの部下たる医療スタッフや、ダ・ヴィンチちゃん率いる技術開発部の局員だろう。手当り次第に通話を試みながら、名前は吹雪の中に勢いよく繰り出した。

現代日本では夏の暑さも冬の寒さも苦手としていた筈なのに、名前はこの世界に来てから不思議と身体が頑丈になっていた。そのため、自身は外の状況を確認する役割を果たすにはもってこいだと感じていたのだが、飛び込んできた光景に思わず絶句する。

そして名前は、文字通り世界の果てを眺望することになった。