冬木
カルデア内で生き残った職員には、喪った命を哀しむ暇など与えられない。圧倒的に情報が足りない中、まず早急に求められたのは現状を把握することであった。
何度かカルデア外の組織との通信も試みたものの、そのどれもが尽く失敗に終わっていた。まるで、この世界にカルデアのみが取り残されているようだと名前は考える。いや、実際そうなのだろう。脳内を過ぎった映像を振り払うように、名前は目の前の仕事に集中する。
館内洗浄が完了した後、二十人にも満たない職員達は一様に深刻な面持ちで中央管制室に集まっていた。被害は甚大で、ファーストミッションの責任者達は軒並み姿を消している。すなわち、現状カルデアの指揮をとらなければならないのは、医療部門のトップたるロマニだということだ。
その事実が判明した際、ロマニは動揺した素振りを微塵も見せずに司令塔としての使命を全うしていた。普段は散々周りからチキンだなんだと評価されているが、いざという時の決断力と判断力は職員の中でもずば抜けている。だからこそ、所長やレフ教授もロマニを頼りにしていたのだ。
しかし、現在のカルデアにも希望はあった。技術部門の調査によりレイシフトが行われた痕跡を発見した上、四十八人のマスターの中で唯一姿の見えない者がいるというのだ。 それこそが燃えるような紅い髪が印象的な少女───藤丸立香。そして、カルデア局員のマシュ・キリエライトの名も同じく上がった。
ロマニとダ・ヴィンチちゃんは、二人がレイシフトを実行したと仮定した上で、彼らの存在証明をするための作業を進めていった。 レイシフトとは、人間の魂をデータ化して異なる世界へ送り込む空間航法を指す。疑似的に霊子化させているが故、レイシフトで転移した人間は意味消失に耐えきれずその存在を失ってしまう危険を伴っていた。
ロマニの指示の下、職員達は総力を上げて目の前の画面に齧り付き、レイシフト先の特定に努めた。その結果、立香とマシュが所長と共にいたのを発見する。
特異点F───2004年の日本に存在した地方都市、冬木。マシュはその地に降り立ち、デミ・サーヴァントとしてマスターである藤丸立香と契約した結果、驚異的な戦闘能力を獲得していた。
彼女の宝具を通じて支援物資を送ることができるようになってからは、名前達スタッフも大忙しである。 所長の指示により、医療スタッフはコフィン内のマスター達の凍結保存を遂行しつつ、立香のバイタルチェックと存在証明も行う必要があった。 技術部門の職員はレイシフトの修理に加え、カルデアスとシバの現状維持にかかりきりである。貴重な戦力となる三人を受け入れるために、レイシフトの修復は最優先事項だと言えた。
名前は率先して補給物資を用意しながら、立香達と通信するロマニの声に耳を傾ける。相変わらず彼は、人の不安を察するのが上手だった。 マスターやサーヴァントについてすら知らなかった一般人の立香に、突如サーヴァントと融合してしまったマシュ。そして、今回の全責任を負うことになるであろう所長。ストレスや不安を有り余るほど抱えている彼らがガス抜きを出来るように、ロマニはおどけた態度を取りつつも必要不可欠な情報を提供している。
彼らがキャスターと合流してからは、ロマニも目に見えて表情が緩んでいた。名前も彼も、三人のすぐ傍にいられない。その手を握って、不安に思う必要は無いのだと慰めることすら出来ないのだから、頼り甲斐のあるサーヴァントの出現は願ったり叶ったりだった。
キャスターによってマシュが宝具の使い方を覚え、数々のシャドウサーヴァントと戦闘をこなしていく。いよいよ特異点Fの歪みの原因とされる大聖杯に辿り着き、セイバーオルタを打破することに成功。
しかしその結果判明したのは、黒幕がレフ・ライノールであるという事実だった。
レフ教授により示された、カルデアスの未来予測。それは2015年現在、カルデア内を除いて人類が滅亡しているというものだ。そして、オルガマリー所長の肉体が既に消滅している現実も突き付けられる。
通信によりその事実を聞いたスタッフ達は、それでも手を止めることが出来ない。レイシフトの準備を整え、カルデア唯一のマスターとサーヴァントを受け入れる体勢を整えなければならなかったのだ。
レフ教授によって、所長がカルデアスの内部に取り込まれた瞬間でさえも。名前は彼女の悲鳴を、誰かに認められたいという心からの叫びを、一言も聞き逃さないようにすることしか出来なかった。涙を流す資格さえ名前には無かったのだ。
全てを終えた後、藤丸立香とマシュ・キリエライトはカルデアへ帰還する。七つの特異点を修復するという目的を聞かされた立香は、笑顔で自身の使命を受け入れた。
強い子だ、と名前は思う。この中で誰よりも力を持たない筈の少女は、これから人類史を守るという壮大な責務を果たさなければならない。
彼女を先輩と慕うマシュ、不器用ながら的確な行動で彼女を導いたオルガマリー所長、彼女の心に寄り添いながら最初の特異点探索をサポートしたロマニ。立香にとって、彼らの優しさはどれほどに貴重なものだっただろう。 だからこそ、残り少ないスタッフは全力を挙げて立夏の心を守らなければならないのだ。
名前は決意を固めてから、目の前のモニターに集中する。特異点の解析業務はまだまだ終わりが見えなかった。
*
中央発電所が爆発されたことにより、現在のカルデアは緊急時の予備電源で動力を補っている状態だ。これから立香が多くのサーヴァントと契約していくことを考えると、通常使うエネルギーに加えて、彼らが霊体化するために必要な電力も補わなければならない。
立香達が特異点Fを探索している間、名前は暇さえあれば地下の倉庫と管制室を往復し、予備の動力施設の復旧に努めていた。損傷箇所そのものはコンピューターでも把握できるが、修復作業は実際に足を運んでみないと出来ないことが大半だった。
ロマニからの許可の下、高密度の魔力結晶体である聖晶石を使用すると、必要最低限の電力を賄えるだけの回路は復活した。それにより英霊召喚を行うための基盤が整ったため、ダ・ヴィンチちゃんはシステム・フェイトの復旧作業につきっきりである。レフ教授によりご丁寧に破壊されていたらしいのだが、ダ・ヴィンチちゃんの手によって既に八割方は修復されたらしい。さすがである。
仕事が一段落ついたところで、名前はロマニの様子を横目で伺う。彼は何やら険しい顔でキーボードを打っており、職員達を部屋に返した後も一人で作業に没頭していた。 あの様子だと、いくらこちらが勧めても頑なに休もうとしないだろう。実際、カルデアが切迫した状況なのは把握している。
名前は固まった身体を解すようにゆっくりと肩を回し、彼のためにコーヒーを淹れようと立ち上がった。気分転換も兼ねて近くにある給湯室へ出向くと、視界の隅で鮮烈な紅がふわふわと揺れていた。
地球最後のマスター藤丸立香は、驚愕したように振り向くとあからさまに顔を強ばらせる。夜更かししていることが判明したら、マシュやロマニに報告されるとでも思ったのだろうか。出来るだけ不安にさせないよう、名前はそっと微笑んだ。
「立香ちゃん、こんばんは」
「はい、こんばんは。ええと、職員の方ですよね」
「うん、下っ端スタッフの苗字名前です。よろしくね。有難いことに、マシュやフォウからは下の名前で呼んでもらってるよ」
「へえ、フォウからも……ってとんでもないバイリンガルの人だった!?」
「出会った当初はフォウ様って呼ばないと返事をしてくださらなくてね……。半年間捧げ物をしたらようやく認めてくれたの」
「しかも超絶マイペース!」
「なあんてね。私は他の皆と比べると魔術知識がなくて頼りないけど、もし何かあればいつでも愚痴りに来て」
立香ちゃんは表情を緩めたかと思えば、小さく頷いてくれる。そんな彼女のために、名前はやかんを用意しつつ口を開いた。
「立香ちゃん。ホットミルクとハーブティー、どっちがいい?」
「あ、わたし自分でやります!」
「いいから甘えて頂戴。実はこれから、ロマニにコーヒーを淹れるつもりだったんだ。私も紅茶が飲みたかったから、そのついでになっちゃうけど」
「それなら……ハーブティーを」
「うん、了解。すぐにお湯沸かしちゃうから待っててね」
流し台の下にある棚からパイプ椅子を二つ取り出し、立香ちゃんに座るよう促す。彼女はカルデアに来て未だ一日も経っていないのだから、施設の構造が把握できていないのは当然だ。それなのに心底申し訳なさそうに頭を下げる様子を見て、思わずその頭を撫でてしまう。 ほわっと赤く色付いていく頬を眺めていると、マシュの髪に初めて触れた瞬間を思い出した。
「立香ちゃん、甘い物は好き?」
「はい、それはもう!」
「それは良かった。今度、食堂でゆっくりお茶でもしようね。……っとそうじゃなくて、これだ。良かったら食べて」
制服のポケットから取り出したチョコレートを差し出せば、立香ちゃんは瞳をキラキラと輝かせる。年相応に喜んでくれたのが微笑ましくて、名前もまた口角を緩めながら糖分を摂取した。ロマニのためにいつも何かしらのお菓子は持ち歩いているのだが、今後は立香ちゃんのためにも備蓄を増やさなければならない。
ティーバッグを準備しつつお湯が沸くのを待っていると、背後でそわそわとした気配を感じた。ゴミ箱の場所が分からなかったのかな、と思いつつ振り返るものの、どうやらそうではないらしい。まだ少し時間がかかるため、名前もまた椅子に座って待つことにした。
「立香ちゃん、あんまり眠くない?」
「あ、はい。実は……」
「そうだよねえ」
マイルームにはお茶を淹れる設備が備わっており、わざわざ給湯室まで来る必要は無い。それなのに此処まで足を運んだということは、眠気が訪れないため散歩していたのだろうと予想がつく。
「ねえ立香ちゃん。貴女に重い責務を与えてしまったのは、私たち大人だけれど……忘れないでね。貴女はまだ、守られるべき子どもなんだってこと」
「…………、はい」
「うん、いい子。あ、そろそろ沸いたかな」
名前は魔術も魔法もまともに使えないが、精一杯の愛情を込めることは出来る。彼女の心が少しでも安らぐように、彼女の笑顔を愛おしく想う気持ちを込めてお茶を淹れた。うん、いい香りだ。
まだ少しだけ給湯室に滞在すると言う立香ちゃんとハグを交わしてから、名前は管制室へと急ぐ。お礼の言葉を紡ぐ彼女の声は僅かに震えていて、けれど名前は気付かないフリをしながら微笑んだ。いつか彼女が誰かに頼りたいと思ってくれた時、自分のことを思い出してくれればいいなあと願いながら。
管制室へ戻ると、ロマニは全く体勢を変化させないままモニターに向き合っていた。先刻と比べると、表情は僅かばかり柔らかいものになっている。何かしら進展はあったのだろう。
「ロマニ、お疲れさま」
「ああ名前……。ありがとう」
彼は笑顔で振り向くと、名前からマグカップを受け取った。角砂糖を何個か落としたコーヒーを啜り、噛み締めるように瞳を閉じる。
「とりあえずレイシフトの準備は整った。キミやレオナルドのお陰だよ。ありがとう」
「うん、少しでも役立てたなら良かった」
「だからこそ、個人的にはもう少し解析作業を進めておきたい。名前は部屋に戻ってていいよ」
「何言ってるの。手伝うに決まってるでしょ」
「……キミならそう言ってくれると思ってたけど」
「私が頑固で諦めが悪いの、知ってるくせに。いいから早く指示を頂戴。サポートできることは少ないと思うけど」
「いや、ボクはキミが傍にいてくれるだけで心強いよ」
視線を重ねて笑い合った後、名前もまたロマニに倣いモニターの前に座る。カルデアには一刻の猶予もないため、立香ちゃんが目覚めたらすぐに一つ目の特異点へレイシフトしなければならなかった。そんなマスターのために、集められるだけの情報は少しでも集めておくべきだ。
この時、名前は確かに予感していた。これから自分は、この世界に来た本当の意味を知らなければならないのだろう、と。
何度かカルデア外の組織との通信も試みたものの、そのどれもが尽く失敗に終わっていた。まるで、この世界にカルデアのみが取り残されているようだと名前は考える。いや、実際そうなのだろう。脳内を過ぎった映像を振り払うように、名前は目の前の仕事に集中する。
館内洗浄が完了した後、二十人にも満たない職員達は一様に深刻な面持ちで中央管制室に集まっていた。被害は甚大で、ファーストミッションの責任者達は軒並み姿を消している。すなわち、現状カルデアの指揮をとらなければならないのは、医療部門のトップたるロマニだということだ。
その事実が判明した際、ロマニは動揺した素振りを微塵も見せずに司令塔としての使命を全うしていた。普段は散々周りからチキンだなんだと評価されているが、いざという時の決断力と判断力は職員の中でもずば抜けている。だからこそ、所長やレフ教授もロマニを頼りにしていたのだ。
しかし、現在のカルデアにも希望はあった。技術部門の調査によりレイシフトが行われた痕跡を発見した上、四十八人のマスターの中で唯一姿の見えない者がいるというのだ。 それこそが燃えるような紅い髪が印象的な少女───藤丸立香。そして、カルデア局員のマシュ・キリエライトの名も同じく上がった。
ロマニとダ・ヴィンチちゃんは、二人がレイシフトを実行したと仮定した上で、彼らの存在証明をするための作業を進めていった。 レイシフトとは、人間の魂をデータ化して異なる世界へ送り込む空間航法を指す。疑似的に霊子化させているが故、レイシフトで転移した人間は意味消失に耐えきれずその存在を失ってしまう危険を伴っていた。
ロマニの指示の下、職員達は総力を上げて目の前の画面に齧り付き、レイシフト先の特定に努めた。その結果、立香とマシュが所長と共にいたのを発見する。
特異点F───2004年の日本に存在した地方都市、冬木。マシュはその地に降り立ち、デミ・サーヴァントとしてマスターである藤丸立香と契約した結果、驚異的な戦闘能力を獲得していた。
彼女の宝具を通じて支援物資を送ることができるようになってからは、名前達スタッフも大忙しである。 所長の指示により、医療スタッフはコフィン内のマスター達の凍結保存を遂行しつつ、立香のバイタルチェックと存在証明も行う必要があった。 技術部門の職員はレイシフトの修理に加え、カルデアスとシバの現状維持にかかりきりである。貴重な戦力となる三人を受け入れるために、レイシフトの修復は最優先事項だと言えた。
名前は率先して補給物資を用意しながら、立香達と通信するロマニの声に耳を傾ける。相変わらず彼は、人の不安を察するのが上手だった。 マスターやサーヴァントについてすら知らなかった一般人の立香に、突如サーヴァントと融合してしまったマシュ。そして、今回の全責任を負うことになるであろう所長。ストレスや不安を有り余るほど抱えている彼らがガス抜きを出来るように、ロマニはおどけた態度を取りつつも必要不可欠な情報を提供している。
彼らがキャスターと合流してからは、ロマニも目に見えて表情が緩んでいた。名前も彼も、三人のすぐ傍にいられない。その手を握って、不安に思う必要は無いのだと慰めることすら出来ないのだから、頼り甲斐のあるサーヴァントの出現は願ったり叶ったりだった。
キャスターによってマシュが宝具の使い方を覚え、数々のシャドウサーヴァントと戦闘をこなしていく。いよいよ特異点Fの歪みの原因とされる大聖杯に辿り着き、セイバーオルタを打破することに成功。
しかしその結果判明したのは、黒幕がレフ・ライノールであるという事実だった。
レフ教授により示された、カルデアスの未来予測。それは2015年現在、カルデア内を除いて人類が滅亡しているというものだ。そして、オルガマリー所長の肉体が既に消滅している現実も突き付けられる。
通信によりその事実を聞いたスタッフ達は、それでも手を止めることが出来ない。レイシフトの準備を整え、カルデア唯一のマスターとサーヴァントを受け入れる体勢を整えなければならなかったのだ。
レフ教授によって、所長がカルデアスの内部に取り込まれた瞬間でさえも。名前は彼女の悲鳴を、誰かに認められたいという心からの叫びを、一言も聞き逃さないようにすることしか出来なかった。涙を流す資格さえ名前には無かったのだ。
全てを終えた後、藤丸立香とマシュ・キリエライトはカルデアへ帰還する。七つの特異点を修復するという目的を聞かされた立香は、笑顔で自身の使命を受け入れた。
強い子だ、と名前は思う。この中で誰よりも力を持たない筈の少女は、これから人類史を守るという壮大な責務を果たさなければならない。
彼女を先輩と慕うマシュ、不器用ながら的確な行動で彼女を導いたオルガマリー所長、彼女の心に寄り添いながら最初の特異点探索をサポートしたロマニ。立香にとって、彼らの優しさはどれほどに貴重なものだっただろう。 だからこそ、残り少ないスタッフは全力を挙げて立夏の心を守らなければならないのだ。
名前は決意を固めてから、目の前のモニターに集中する。特異点の解析業務はまだまだ終わりが見えなかった。
*
中央発電所が爆発されたことにより、現在のカルデアは緊急時の予備電源で動力を補っている状態だ。これから立香が多くのサーヴァントと契約していくことを考えると、通常使うエネルギーに加えて、彼らが霊体化するために必要な電力も補わなければならない。
立香達が特異点Fを探索している間、名前は暇さえあれば地下の倉庫と管制室を往復し、予備の動力施設の復旧に努めていた。損傷箇所そのものはコンピューターでも把握できるが、修復作業は実際に足を運んでみないと出来ないことが大半だった。
ロマニからの許可の下、高密度の魔力結晶体である聖晶石を使用すると、必要最低限の電力を賄えるだけの回路は復活した。それにより英霊召喚を行うための基盤が整ったため、ダ・ヴィンチちゃんはシステム・フェイトの復旧作業につきっきりである。レフ教授によりご丁寧に破壊されていたらしいのだが、ダ・ヴィンチちゃんの手によって既に八割方は修復されたらしい。さすがである。
仕事が一段落ついたところで、名前はロマニの様子を横目で伺う。彼は何やら険しい顔でキーボードを打っており、職員達を部屋に返した後も一人で作業に没頭していた。 あの様子だと、いくらこちらが勧めても頑なに休もうとしないだろう。実際、カルデアが切迫した状況なのは把握している。
名前は固まった身体を解すようにゆっくりと肩を回し、彼のためにコーヒーを淹れようと立ち上がった。気分転換も兼ねて近くにある給湯室へ出向くと、視界の隅で鮮烈な紅がふわふわと揺れていた。
地球最後のマスター藤丸立香は、驚愕したように振り向くとあからさまに顔を強ばらせる。夜更かししていることが判明したら、マシュやロマニに報告されるとでも思ったのだろうか。出来るだけ不安にさせないよう、名前はそっと微笑んだ。
「立香ちゃん、こんばんは」
「はい、こんばんは。ええと、職員の方ですよね」
「うん、下っ端スタッフの苗字名前です。よろしくね。有難いことに、マシュやフォウからは下の名前で呼んでもらってるよ」
「へえ、フォウからも……ってとんでもないバイリンガルの人だった!?」
「出会った当初はフォウ様って呼ばないと返事をしてくださらなくてね……。半年間捧げ物をしたらようやく認めてくれたの」
「しかも超絶マイペース!」
「なあんてね。私は他の皆と比べると魔術知識がなくて頼りないけど、もし何かあればいつでも愚痴りに来て」
立香ちゃんは表情を緩めたかと思えば、小さく頷いてくれる。そんな彼女のために、名前はやかんを用意しつつ口を開いた。
「立香ちゃん。ホットミルクとハーブティー、どっちがいい?」
「あ、わたし自分でやります!」
「いいから甘えて頂戴。実はこれから、ロマニにコーヒーを淹れるつもりだったんだ。私も紅茶が飲みたかったから、そのついでになっちゃうけど」
「それなら……ハーブティーを」
「うん、了解。すぐにお湯沸かしちゃうから待っててね」
流し台の下にある棚からパイプ椅子を二つ取り出し、立香ちゃんに座るよう促す。彼女はカルデアに来て未だ一日も経っていないのだから、施設の構造が把握できていないのは当然だ。それなのに心底申し訳なさそうに頭を下げる様子を見て、思わずその頭を撫でてしまう。 ほわっと赤く色付いていく頬を眺めていると、マシュの髪に初めて触れた瞬間を思い出した。
「立香ちゃん、甘い物は好き?」
「はい、それはもう!」
「それは良かった。今度、食堂でゆっくりお茶でもしようね。……っとそうじゃなくて、これだ。良かったら食べて」
制服のポケットから取り出したチョコレートを差し出せば、立香ちゃんは瞳をキラキラと輝かせる。年相応に喜んでくれたのが微笑ましくて、名前もまた口角を緩めながら糖分を摂取した。ロマニのためにいつも何かしらのお菓子は持ち歩いているのだが、今後は立香ちゃんのためにも備蓄を増やさなければならない。
ティーバッグを準備しつつお湯が沸くのを待っていると、背後でそわそわとした気配を感じた。ゴミ箱の場所が分からなかったのかな、と思いつつ振り返るものの、どうやらそうではないらしい。まだ少し時間がかかるため、名前もまた椅子に座って待つことにした。
「立香ちゃん、あんまり眠くない?」
「あ、はい。実は……」
「そうだよねえ」
マイルームにはお茶を淹れる設備が備わっており、わざわざ給湯室まで来る必要は無い。それなのに此処まで足を運んだということは、眠気が訪れないため散歩していたのだろうと予想がつく。
「ねえ立香ちゃん。貴女に重い責務を与えてしまったのは、私たち大人だけれど……忘れないでね。貴女はまだ、守られるべき子どもなんだってこと」
「…………、はい」
「うん、いい子。あ、そろそろ沸いたかな」
名前は魔術も魔法もまともに使えないが、精一杯の愛情を込めることは出来る。彼女の心が少しでも安らぐように、彼女の笑顔を愛おしく想う気持ちを込めてお茶を淹れた。うん、いい香りだ。
まだ少しだけ給湯室に滞在すると言う立香ちゃんとハグを交わしてから、名前は管制室へと急ぐ。お礼の言葉を紡ぐ彼女の声は僅かに震えていて、けれど名前は気付かないフリをしながら微笑んだ。いつか彼女が誰かに頼りたいと思ってくれた時、自分のことを思い出してくれればいいなあと願いながら。
管制室へ戻ると、ロマニは全く体勢を変化させないままモニターに向き合っていた。先刻と比べると、表情は僅かばかり柔らかいものになっている。何かしら進展はあったのだろう。
「ロマニ、お疲れさま」
「ああ名前……。ありがとう」
彼は笑顔で振り向くと、名前からマグカップを受け取った。角砂糖を何個か落としたコーヒーを啜り、噛み締めるように瞳を閉じる。
「とりあえずレイシフトの準備は整った。キミやレオナルドのお陰だよ。ありがとう」
「うん、少しでも役立てたなら良かった」
「だからこそ、個人的にはもう少し解析作業を進めておきたい。名前は部屋に戻ってていいよ」
「何言ってるの。手伝うに決まってるでしょ」
「……キミならそう言ってくれると思ってたけど」
「私が頑固で諦めが悪いの、知ってるくせに。いいから早く指示を頂戴。サポートできることは少ないと思うけど」
「いや、ボクはキミが傍にいてくれるだけで心強いよ」
視線を重ねて笑い合った後、名前もまたロマニに倣いモニターの前に座る。カルデアには一刻の猶予もないため、立香ちゃんが目覚めたらすぐに一つ目の特異点へレイシフトしなければならなかった。そんなマスターのために、集められるだけの情報は少しでも集めておくべきだ。
この時、名前は確かに予感していた。これから自分は、この世界に来た本当の意味を知らなければならないのだろう、と。