00:瞬き弾けるグリーンフラッシュ
鍋の中で味噌が匂い立つ。ビー玉のようにぽこぽこと泡を吐き出す出汁の海は、まるでアクアリウムのようだった。
鼻腔をやさしく擽る香りを全身で味わっていると、魂の奥をやわく撫ぜられるような心地になる。やはり日本人の性なのかなと笑いつつ、手に持ったおたまで中身をゆるりとかき混ぜた。まるい波紋と泡が混ざる様を見つめていると、背筋が自然とぴんと伸びる。
やはり朝はこれだと思いながら、まだ起床する気配のない家族のために朝食作りに励んでいく。
世界で最も有名な部屋、べーカー街221B。そのキッチンは元々機能的かつシンプルな作りだったため、15年前からレイアウトはほぼ変えていなかった。アイリスちゃん用のティーポットや茶漉しは今でも定期的に増やしているが、それでも客間に比べるとかなり質素だ。
土鍋で白米を炊き、網で魚を焼き、鍋で味噌汁を煮詰め、皿の上でおひたしを仕上げる。
大英帝国では物珍しいであろう光景も、15年前からこの家では日常のものだった。
さて、と調理後の片付けを終えてからエプロンを外す。己が身に纏うものは大体ホームズくんとアイリスちゃんの共同製作だが、その中でもこのエプロンは特に気に入っていた。
ふたりが作ってくれるお洋服はやさしくて可愛くて擽ったい気持ちになるため、エプロンくらい気軽に身に付けられる物の方が気恥しさを覚えずに済む。思いやりを受け取るのに慣れないなんて情けない話だけれど。
大切に畳んでから棚に仕舞い、客間へと身を翻して家を出る支度をする。仕事に必要な物はほとんど店に置いているため、ハンドバッグに最低限財布さえ入っていれば問題はない。
しかしたった一つだけ、毎日必ず身に付けているネックレスがあった。中央に収まるグリーンの宝石を優しく撫ぜてから、ワンピースの下に仕舞い込む。大切なひとからの贈り物だから決して無くす訳にはいかないし、なるべくいつも素肌に触れさせておきたかった。
そうして毎朝のルーティンを終えても、馬車が来るまでにはまだ時間があった。
店に並べる商品のアイデアでも練ろうか、とソファに腰をかけたところで物音がする。ふわふわした大きなシルエットを見つめていると、心臓がやわらかく緩んだ。
「名前」
「うん、ホームズくん」
眠たげな目で顔を出した彼は、ゆるりと笑いつつ名前を呼んでくれる。
何気ないその行為がこちらの存在を繋ぎ止めてくれるように感じて、自然と鏡のように笑みが零れた。
「まだ寝てていいんだよ?」
「まあね。でもキミを見送りたいし」
「今日も馬車を呼んでるから心配しなくていいのに」
帝都倫敦といえども、異国人の女の一人歩きは未だに危険が伴う。そんな暗黙の了解から、仕事の行き帰りは誰かと共に歩くか馬車を呼ぶのが常だった。
「キミもなかなか意地悪だな」
「誰かさんと過ごした時間が長いからね」
「それもそうか」
ソファの隣がゆるく沈んだかと思えば、彼がこちらの肩に頭を預けてくる。いかにも自然な動きで成された甘え方が擽ったくて、同じく彼の頭に自分のそれをくっつけた。
「名前、帰りは迎えに行くよ」
「え。でも今日は何個も事件があるってグレグソンさんが言ってたけど」
「そんなものすぐ終わらせるに決まってるだろう」
「分かってるけど、でもやっぱり心配だから」
いつも殺人事件に関わっている大探偵は、知名度もあるためいつどこで深い恨みを買っても不思議ではない。彼は、こちらの想像の上を直角へ突き進む程には聡明だから、そんな暗い思惑があればお見通しだろう。
しかし理性と感情は別々の場所にあるから、欠片も心配しないというのも難しい。
「キミを守ることより優先すべき事件なんてないからね」
気遣いさえも満足にさせてくれない優しさが少し歯がゆくて、真っ直ぐに見つめてくる瞳をそっと受け止める。このひとは底無しに愛が深いひとだと、出会ってからの15年間で何度も痛感していた筈なのに。
窓から射し込んだ朝日が、やわらかい緑の目を静かに浮かび上がらせた。綺麗で切なくて愛 しい瞳だった。
もしもこの一瞬をインク瓶に詰め込むことが出来たならば、永遠の命を得ることも厭わないだろう。
決して叶わないワガママを抱えながら、はらはらと降ってくる繊細な熱を慈しむ。幸せに色をつけるとしたら、きっと、既に過去へと溶けたあなたの瞬きの中にあった。
鼻腔をやさしく擽る香りを全身で味わっていると、魂の奥をやわく撫ぜられるような心地になる。やはり日本人の性なのかなと笑いつつ、手に持ったおたまで中身をゆるりとかき混ぜた。まるい波紋と泡が混ざる様を見つめていると、背筋が自然とぴんと伸びる。
やはり朝はこれだと思いながら、まだ起床する気配のない家族のために朝食作りに励んでいく。
世界で最も有名な部屋、べーカー街221B。そのキッチンは元々機能的かつシンプルな作りだったため、15年前からレイアウトはほぼ変えていなかった。アイリスちゃん用のティーポットや茶漉しは今でも定期的に増やしているが、それでも客間に比べるとかなり質素だ。
土鍋で白米を炊き、網で魚を焼き、鍋で味噌汁を煮詰め、皿の上でおひたしを仕上げる。
大英帝国では物珍しいであろう光景も、15年前からこの家では日常のものだった。
さて、と調理後の片付けを終えてからエプロンを外す。己が身に纏うものは大体ホームズくんとアイリスちゃんの共同製作だが、その中でもこのエプロンは特に気に入っていた。
ふたりが作ってくれるお洋服はやさしくて可愛くて擽ったい気持ちになるため、エプロンくらい気軽に身に付けられる物の方が気恥しさを覚えずに済む。思いやりを受け取るのに慣れないなんて情けない話だけれど。
大切に畳んでから棚に仕舞い、客間へと身を翻して家を出る支度をする。仕事に必要な物はほとんど店に置いているため、ハンドバッグに最低限財布さえ入っていれば問題はない。
しかしたった一つだけ、毎日必ず身に付けているネックレスがあった。中央に収まるグリーンの宝石を優しく撫ぜてから、ワンピースの下に仕舞い込む。大切なひとからの贈り物だから決して無くす訳にはいかないし、なるべくいつも素肌に触れさせておきたかった。
そうして毎朝のルーティンを終えても、馬車が来るまでにはまだ時間があった。
店に並べる商品のアイデアでも練ろうか、とソファに腰をかけたところで物音がする。ふわふわした大きなシルエットを見つめていると、心臓がやわらかく緩んだ。
「名前」
「うん、ホームズくん」
眠たげな目で顔を出した彼は、ゆるりと笑いつつ名前を呼んでくれる。
何気ないその行為がこちらの存在を繋ぎ止めてくれるように感じて、自然と鏡のように笑みが零れた。
「まだ寝てていいんだよ?」
「まあね。でもキミを見送りたいし」
「今日も馬車を呼んでるから心配しなくていいのに」
帝都倫敦といえども、異国人の女の一人歩きは未だに危険が伴う。そんな暗黙の了解から、仕事の行き帰りは誰かと共に歩くか馬車を呼ぶのが常だった。
「キミもなかなか意地悪だな」
「誰かさんと過ごした時間が長いからね」
「それもそうか」
ソファの隣がゆるく沈んだかと思えば、彼がこちらの肩に頭を預けてくる。いかにも自然な動きで成された甘え方が擽ったくて、同じく彼の頭に自分のそれをくっつけた。
「名前、帰りは迎えに行くよ」
「え。でも今日は何個も事件があるってグレグソンさんが言ってたけど」
「そんなものすぐ終わらせるに決まってるだろう」
「分かってるけど、でもやっぱり心配だから」
いつも殺人事件に関わっている大探偵は、知名度もあるためいつどこで深い恨みを買っても不思議ではない。彼は、こちらの想像の上を直角へ突き進む程には聡明だから、そんな暗い思惑があればお見通しだろう。
しかし理性と感情は別々の場所にあるから、欠片も心配しないというのも難しい。
「キミを守ることより優先すべき事件なんてないからね」
気遣いさえも満足にさせてくれない優しさが少し歯がゆくて、真っ直ぐに見つめてくる瞳をそっと受け止める。このひとは底無しに愛が深いひとだと、出会ってからの15年間で何度も痛感していた筈なのに。
窓から射し込んだ朝日が、やわらかい緑の目を静かに浮かび上がらせた。綺麗で切なくて
もしもこの一瞬をインク瓶に詰め込むことが出来たならば、永遠の命を得ることも厭わないだろう。
決して叶わないワガママを抱えながら、はらはらと降ってくる繊細な熱を慈しむ。幸せに色をつけるとしたら、きっと、既に過去へと溶けたあなたの瞬きの中にあった。