オルレアン
とんとん、と優しく肩を撫でられるような感覚がした。雲の中を揺蕩うような柔らかさと温かさが心地好くて、名前はその熱源に擦り寄るように腕を絡める。
薄くて硬い感触に違和感を覚えながら無理やり瞳を抉じ開けると、すっかり見慣れたカルデアの制服が視界に映った。照れくさそうに瞳を伏せるロマニの顔は赤く、名前は寝ぼけ眼でその様子を眺める。
「おはよう、ロマニ」
「……うん、おはよう名前。ええと、抱き着いてくれるのは嬉しいんだけど、そろそろ離れてくれなきゃ困るかなあ、なんて」
「何で?」
「な、なんでって……」
ロマニの明るくて柔らかな声が、ぼそぼそと囁くように降り注いだ。肌寒さを感じ更に強くその細い腰を抱き寄せると、突如として大きな咳払いが背後で響く。
「直にスタッフ達が出勤してくるからだよ、名前」
「ダ・ヴィンチちゃ……、ってあれ!?」
「やあ名前、相変わらずラブラブそうで何よりだ」
「や、やだ。ウソ、私ってばすっかり寝惚けて……!」
名前は勢いよく立ち上がろうとするものの、足が縺れて身体がぐらりと傾いてしまう。すかさずロマニに肩を抱き寄せられ事なきを得るが、羞恥心の波が襲い掛かり半ばパニック状態に陥った。
「ロマニ、すぐに離れるから少し待ってて……!」
「別にいいのに。キミの可愛い姿が見られたから、ボクは満足してるし」
「もうばか! ほんっとうに馬鹿!」
「あはは。眠気覚ましにホットココアを持ってきたんだ。もし良ければどう?」
「……ありがとう。いただきます」
いつも通りの温かな笑顔を向けられ、名前はすっかり怒る気を無くしてしまった。ダ・ヴィンチちゃんは微笑ましそうに、けれど揶揄いたくて堪らないとでも言うようにこちらを見つめてくる。その視線を逃れるように頭上を見上げると、復旧したカルデアスが正常に稼働している様子が伺えた。
今日は、カルデアにとって新たな門出の日だ。前所長オルガマリー・アニムスフィアから引き継いだ人理継続の尊命を全うするべく、グランドオーダーを発令する時が来たのだから。
第一特異点の舞台は、十五世紀のフランスだ。その中でもオルレアンは、百年戦争が勃発する混沌の時代の中心にある。 いくら最も揺るぎの小さな特異点とはいえ、立香ちゃん達に待ち受ける苦難は想像を絶するものだろう。
それを最前線でサポートするマシュ、オペレーターとして作戦の全責任を負うロマニは、名前以上に不安を覚えストレスを抱えている筈だ。それなのに彼らはそんな素振りを見せず、いつだって優しく笑いかけてくれる。 もどかしく思う程に繊細で強いその心を、少しでも支えられるように。名前は彼らを全力で愛し、慈しむことしか出来ないのだけれど。
「ドクター、そろそろブリーフィングのお時間かと思いまして確認に来たのですが……」
管制室を訪れたのは、デミ・サーヴァントの姿をしたマシュだった。彼女は腹部を剥き出しにしつつ、大きくて黒い盾を抱えている。いつものパーカーと眼鏡が無いだけでこれほど印象が変わるのかと驚いたものの、その格好は不思議なほど彼女に馴染んでいた。
「ああ、そうだね。ありがとうマシュ。立香ちゃんを呼んできてもらってもいいかい?」
「はい。名前さんも、おはようございます」
「おはよう、マシュ。今日も可愛いね」
「そ、そうでしょうか。名前さんにそう仰っていただけると励みになります。……それでは、すぐに先輩を呼んで来ますね」
マシュは一瞬ダ・ヴィンチちゃんを不思議そうに見遣ったものの、自身の任務を果たすためにすぐ管制室を出て行った。あまり人に心を許すことのなかった彼女だが、立香ちゃんに対しては自分から積極的に関わっているようで安心する。
「ロマニ、父親みたいな顔してる」
「ええ? お互い様だと思うけどなあ」
*
スタッフが全員出勤し、立香ちゃんとマシュが管制室にやって来たことで、レイシフトの準備は着々と進んでいく。そしてロマニから立香ちゃんへ向けて、グランドオーダーにおける二つの任務が言い渡された。
第一に、特異点の調査及び修正。第二に、聖杯の探索である。各時代に発生した異変の原因を特定し、聖杯による歴史改変を食い止めること、などと簡単に言うが、平凡な魔術回路しか持たない立香ちゃんには酷なことだろう。だがカルデアはそんな彼女をサポートするために在るのだ。
名前は、コフィンに入りレイシフトした二人の旅路に幸あることを願いながら、目の前の業務に全力で向き合っていく。中でも、レイシフト先の空に出現した原因不明の光体の解析には、スタッフが総力を挙げて挑んだ。
立香ちゃん達が現地の兵士から情報を得た結果、フランスの街を蹂躙する存在として、竜の魔女が浮かび上がる。しかし、黒幕と思わしき彼女と同じ名を持つ英霊ジャンヌ・ダルクが現れたことで、事態は思わぬ方向へ進んでいく。ジャンヌと共に、もう一人のジャンヌを打倒する旅が始まったのだ。
ワイバーンや骸骨兵といった敵と戦いつつ突入したラ・シャリテにて、マシュ達はジャンヌ・オルタ、及び彼女に従うサーヴァントと交戦。こちらがピンチに陥った際、高らかな声を上げて登場したフランス王妃と音楽家は華麗に敵を退け、人理修復の手伝いを申し出てくれることになる。 心強い味方となってくれた二人と一緒に、マシュは近くの森で召喚サークルを展開。それを確認すると、名前は素早く補給物資を送った。
立香ちゃん達のため、常に探索と通信を行っているロマニのサポートをするのが自分の仕事である。そんな働き詰めの彼に仮眠を取らせるべく、真夜中になると名前は通信係の交代を申し出た。 これでもマスター候補達の戦闘訓練では、シミュレーションルームのオペレーターを務めることが多かったのだ。敵の探索に関しては、むしろロマニよりも経験豊富な自信がある。すぐ傍にダ・ヴィンチちゃんが控えていることもあってか、半ば強引な物言いにも素直に従ってくれた。
「何かあれば、すぐに起こしてくれよ?」
「もちろん。それじゃ、おやすみロマニ」
「うん。おやすみ、名前」
アイマスクを装着し横になった背中を見て、名前は眼前のモニターに視線を移す。一時的とはいえ、オペレーターが交代となったのだ。緊急時のためにも、味方のサーヴァント達に挨拶はしておくべきだろう。音声だけでなく自身の姿形が映るよう、通信の状態を切り替えた。
「こんばんは、夜分遅くに失礼致します。お嬢様方」
そこにいたのは、三人の少女だった。その内の一人であるマシュは驚愕したように目を見開き、次いで顔を綻ばせてくれる。立香ちゃんが眠りについていることは確認済みなので、彼女達の正体はジャンヌ・ダルクとマリー・アントワネットなのだろう。瑞々しくも確固たる決意を秘めたその表情からは、確かにその逸話に相応しいものを感じた。
「ジャンヌさん、マリーさん、はじめまして。ロマンに代わり、一時的にオペレーターを務める名前と申します。もし何かお手伝いできることがあれば、いつでもお呼びください」
「名前さん、ドクターは休まれているんですか」
「うん。肝心な時にロマニが使い物にならないと困るでしょ。精一杯頑張るから、マシュも何かあればいつでも呼んでね」
「はい、とても心強いです。それでは、私は周囲の探索を……」
「あらあら、ダメよマシュ。行ってはいけないわ」
「マリーさん……?」
「年頃の女の子がこれだけ集まったんだもの。やることは一つしかないわ」
「マリー……?」
首を傾げるマシュとジャンヌを眺めつつ、名前は先の展開を予想し苦笑する。天真爛漫な王妃様の突拍子もない言動は、今に始まったことではない。
「女子会をしましょう。名前さんと一緒にお茶できないのは残念だけれど」
「私のことはお気遣いなく。ですが、皆さんのお喋りにはいくらでもお付き合いしますので」
「まあまあ、いけないわ。名前さん、わたし達にもマシュのように砕けた口調でお話ししてくださらないと。今から女子会をするんだもの」
「うーん……いいのかな?」
早々に諦めて口を切ると、マリーと共にジャンヌも華やかに微笑んでくれた。名前を女子と呼ぶには些か不適当な気もしたが、心優しい王妃様の気持ちは無視できない。純粋に、飛び上がってしまう程に嬉しかった。 マシュはそんな様子を嬉しそうに眺めながらも、一方で不思議そうに首を傾ける。
「それよりもマリーさん、女子会とはどのようなことをする会合なのでしょうか」
「ふふ、決まっているでしょう。恋の話よ」
「恋、ですか」
ジャンヌが聞き慣れない言葉を噛み砕くように繰り返した横で、マシュがパッと顔を輝かせる。なんだか嫌な予感がした。
「恋の話題なら、名前さんはこれ以上ない程に適任ですね」
「あら、そうなの? 誰か恋い慕う殿方でもいらっしゃるとか?」
「名前さんは、ドクターと男女交際をされているのです。不肖マシュ・キリエライト、告白現場にも立ち会わせていただきました」
「ちょっ、マシュ!」
「まあ! まさか恋人同士だったなんて。告白はどちらからなさったの?」
自分のために頬を愛らしく紅潮させた少女に嘘を吐くことなど、名前にはとても出来そうになかった。索敵用のディスプレイを確認しつつ、何と言うべきか考えを巡らせる。
「恥ずかしながら、私から告白したの。とはいえ一度目ではフラれちゃったんだけど」
「そ、そうだったんですか!? 初耳です」
「マシュが立ち会ってくれたのは……私が二回目の告白をして、ロマニが受け入れてくれた後のことだったから」
「成程。確かに名前さんは、好きだとは言われたけど付き合ってとは言われてない、と仰っていましたもんね」
「……うん。なんだか、改めて客観的に聞くと幼稚すぎて恥ずかしくなるんだけど」
「いいえ、そんなことないわ。女の子ならば誰だって、好きな人からは愛の告白をされたいと思うもの」
王女様から可憐に微笑まれ、名前は一回目の告白に思いを馳せる。
───私やっぱり、ロマニのことが好きだなあ。
終業後、いつも通り何気なく二人でお茶を飲みながらお喋りしていた時、何の前触れもなく唐突に零してしまった。心地好く、けれどもどかしかった沈黙を埋めるように、繊細で力強くて独り善がりだった自身の想いを。 いつだって溢れてしまいそうだった気持ちが、言葉となって彼に届いてしまった時、不思議と名前はすっきりしていた。たとえ想いが叶わなくとも、彼の迷惑にだけはなりたくなかったのだけれど。
「初めて告白した時、こっ酷くフッてくれたら素直に諦めもついたんだけどね。キミにはもっと相応しい男がいるから、なんて言われたら忘れられるわけないじゃない?」
「あらまあ。あの魔術師さんは、思いのほか情熱的な方なのね」
「ええ。ロマンさんは、名前さんのことをとても愛していらっしゃるんですね」
「えっ!?」
二人の英霊からしみじみと呟かれ、名前は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。名前には、ロマニ以外のひとに恋をした記憶も、こうして恋について語らう機会も殆ど無かったものだから、自分が標的にされるのはどうしても慣れないのだ。身体の内側からじわじわと込み上げる熱を誤魔化すべく、大きく咳払いをする。
「あ、愛しているとか、その……。私、言われたことがなくて」
「それは大変遺憾だわ。けれど確かに、あの魔術師さんからはアマデウスと同じ匂いを感じるのよね。ああいう人には、いくらこちらがガツンと言っても本質的に理解してくれないことの方が多いもの」
愛らしく唇を尖らせたマリー・アントワネットの横で、ジャンヌ・ダルクは柔らかな笑みを見せていた。
「そうですね、これは完全に個人的な所感ですが……。名前さんには、こちらが思わず敬服してしまうような気品や、慈愛に満ちた雰囲気を感じます。ロマンさんはそれに甘えてしまっているのでは?」
確信を声音に載せた聖女の言葉に、二人の少女は成程、と瞬きを繰り返す。
名前は、あまりにも恐れ多い言葉を頂けて恐縮しきりだった。
「確かに、名前さんはお姉様のようだわ。優しくて温かくて、わたしのすることは何でも受け入れてくれるような包容力を感じるの」
「それは、私も分かる気がします。一緒にいて落ち着きますし……何よりも、名前さんの作るイチゴタルトは絶品ですから」
「へえ、わたしも是非食べてみたいわ」
「ええ。叶うならば、私もぜひ」
「うん。二人の口に合うかは分からないけど、いつか必ず。───マシュ」
「はい、名前さん。先輩を起こしてきますね」
霊脈に群がるように集まってきた敵体反応に、その場の三人は気を引き締めるように立ち上がる。出来ることならばもっと休ませてあげたかったが、世界を守るためならばそうも言っていられない。
立香ちゃん達は聖女マルタとの戦闘に勝利した後、再び朝まで身体を休めることになる。その中で、聖女と王女が仲を深めていく様子を微笑ましく思いながら、名前は出立直前までロマニの代わりを務めあげた。
コーヒーを片手にディスプレイに齧り付いていた名前の背中を、労るような掌がぽんぽんと優しく叩いた。
「お疲れさま、名前。あとはボクに任せて」
「うん、ロマニありがと……」
交代と同時に、名前もまた仮眠を取らされる。その間、立香ちゃん達は竜殺しの逸話を持つジークフリートと遭遇し、彼の解呪をするため二手に分かれていた。今すぐ死んでもおかしくない程に複雑な呪いを解くためには、洗礼詠唱を行える聖人のサーヴァントがもう一人必要だったのだ。
くじ引きの結果、ジャンヌとマリーは二人きりで西へ向かうことになる。彼女達には通信機が渡されたため、必然的にカルデアとも直接通信が行えるようになった。マシュの持つ通信機よりは性能が劣るため、音声のやり取りしか出来ないが、それでも有るのと無いのとでは大違いだ。 そこで名前は、二人の専属オペレーターとしてロマニの横で仕事に励むことになる。
引き継ぎの際、ロマニがやたらと女性陣から詰られていた様子に笑ってしまう。皆、昨晩の会話を覚えていてくれたのだろう。ウインクをプレゼントしてくれた王妃様に微笑み返してから、名前は管制室の中心、司令官が座るべき場所に腰をかけた。
「マリーさん、ジャンヌさん。よろしくね」
「ええ、こちらこそ! 名前さん、道中にまた女子会トークをしましょうね」
「うん、ぜひ。……アマデウスさん、マリーさんのことは私が出来る限りサポートしますので」
「ああ、お願いするよ。君の話はマリアから散々聞かされたからね。ドクターには勿体無い程に出来た女性だと」
思わぬ方向に話が進んでいき、名前は隣のロマニと共に驚きのあまり飛び上がる。
「ちょっ、何でここでボクの話が!?」
「さっき散々僕のプロポーズを揶揄っておいて、今更なにを言うんだ。だいたい、こんなに素敵な恋人がいるなら少なくとも君はただのダメ人間ではないだろう。自分を卑下しすぎるのは、彼女に対してあまりに失礼な振る舞いだと思わないか」
「アマデウスさん……」
「ねえ名前、今少しトキメいたよね!?」
「え? ただ単に、アマデウスさんは優しい人なんだなと思って感激してただけだよ」
アマデウスとまともに言葉を交わすのは初めてだが、確かに前評判の通り、彼はロマニにとても似ている。例えば、自由気ままに振舞っているようで、実は誰よりも他人を観察しているところ。それから、一見分かりずらいけれど、不器用な優しさを一心に注いでくれるところもそっくりだ。 だからこそ七歳のマリー・アントワネットは、幼く純真な六歳のアマデウス・モーツァルトに恋をしたのだろう。
「確かに、僕達は客観的に見てろくでなしなんだろうね。それでも、たった一人の女の子を愛する気持ちだけは確かに持っている。自分が美しいと思うものを、傲慢な程に尊び、大切に想い、慈しむことが出来るんだ。これは何よりも人間らしい振る舞いだとは思わないか、ドクター」
「…………、そうだね。うん。その通りだ」
しばらく唖然としたように沈黙していたロマニは、名前をちらりと見てから返事をした。 見慣れている筈の彼の横顔には、初めて目にする表情が浮かんでいる。身体の底から湧き上がる喜びを押し殺すような、哀しみのあまり今すぐ泣いてしまいそうな、複雑な色がいくつも滲んでいた。
マリーは感激したように、ただ一人の初恋の男の子にベーゼを贈っている。その様子を見守りながら、名前はこっそりと、何よりも恋い慕うひとの手を握った。誰にも見えない位置で一瞬だけ、二人きりの時間を持つ。何も言わず、優しく握り返してくれた指先の柔らかさがとても心地好かった。
「名前」
「ん?」
「……続きは、またあとでね」
名前は、立香ちゃん達の成功を信じて疑わないロマニの柔らかな微笑みを見て頷いた。すぐにパッと手を離し、互いの職務を全うしていく。
薄くて硬い感触に違和感を覚えながら無理やり瞳を抉じ開けると、すっかり見慣れたカルデアの制服が視界に映った。照れくさそうに瞳を伏せるロマニの顔は赤く、名前は寝ぼけ眼でその様子を眺める。
「おはよう、ロマニ」
「……うん、おはよう名前。ええと、抱き着いてくれるのは嬉しいんだけど、そろそろ離れてくれなきゃ困るかなあ、なんて」
「何で?」
「な、なんでって……」
ロマニの明るくて柔らかな声が、ぼそぼそと囁くように降り注いだ。肌寒さを感じ更に強くその細い腰を抱き寄せると、突如として大きな咳払いが背後で響く。
「直にスタッフ達が出勤してくるからだよ、名前」
「ダ・ヴィンチちゃ……、ってあれ!?」
「やあ名前、相変わらずラブラブそうで何よりだ」
「や、やだ。ウソ、私ってばすっかり寝惚けて……!」
名前は勢いよく立ち上がろうとするものの、足が縺れて身体がぐらりと傾いてしまう。すかさずロマニに肩を抱き寄せられ事なきを得るが、羞恥心の波が襲い掛かり半ばパニック状態に陥った。
「ロマニ、すぐに離れるから少し待ってて……!」
「別にいいのに。キミの可愛い姿が見られたから、ボクは満足してるし」
「もうばか! ほんっとうに馬鹿!」
「あはは。眠気覚ましにホットココアを持ってきたんだ。もし良ければどう?」
「……ありがとう。いただきます」
いつも通りの温かな笑顔を向けられ、名前はすっかり怒る気を無くしてしまった。ダ・ヴィンチちゃんは微笑ましそうに、けれど揶揄いたくて堪らないとでも言うようにこちらを見つめてくる。その視線を逃れるように頭上を見上げると、復旧したカルデアスが正常に稼働している様子が伺えた。
今日は、カルデアにとって新たな門出の日だ。前所長オルガマリー・アニムスフィアから引き継いだ人理継続の尊命を全うするべく、グランドオーダーを発令する時が来たのだから。
第一特異点の舞台は、十五世紀のフランスだ。その中でもオルレアンは、百年戦争が勃発する混沌の時代の中心にある。 いくら最も揺るぎの小さな特異点とはいえ、立香ちゃん達に待ち受ける苦難は想像を絶するものだろう。
それを最前線でサポートするマシュ、オペレーターとして作戦の全責任を負うロマニは、名前以上に不安を覚えストレスを抱えている筈だ。それなのに彼らはそんな素振りを見せず、いつだって優しく笑いかけてくれる。 もどかしく思う程に繊細で強いその心を、少しでも支えられるように。名前は彼らを全力で愛し、慈しむことしか出来ないのだけれど。
「ドクター、そろそろブリーフィングのお時間かと思いまして確認に来たのですが……」
管制室を訪れたのは、デミ・サーヴァントの姿をしたマシュだった。彼女は腹部を剥き出しにしつつ、大きくて黒い盾を抱えている。いつものパーカーと眼鏡が無いだけでこれほど印象が変わるのかと驚いたものの、その格好は不思議なほど彼女に馴染んでいた。
「ああ、そうだね。ありがとうマシュ。立香ちゃんを呼んできてもらってもいいかい?」
「はい。名前さんも、おはようございます」
「おはよう、マシュ。今日も可愛いね」
「そ、そうでしょうか。名前さんにそう仰っていただけると励みになります。……それでは、すぐに先輩を呼んで来ますね」
マシュは一瞬ダ・ヴィンチちゃんを不思議そうに見遣ったものの、自身の任務を果たすためにすぐ管制室を出て行った。あまり人に心を許すことのなかった彼女だが、立香ちゃんに対しては自分から積極的に関わっているようで安心する。
「ロマニ、父親みたいな顔してる」
「ええ? お互い様だと思うけどなあ」
*
スタッフが全員出勤し、立香ちゃんとマシュが管制室にやって来たことで、レイシフトの準備は着々と進んでいく。そしてロマニから立香ちゃんへ向けて、グランドオーダーにおける二つの任務が言い渡された。
第一に、特異点の調査及び修正。第二に、聖杯の探索である。各時代に発生した異変の原因を特定し、聖杯による歴史改変を食い止めること、などと簡単に言うが、平凡な魔術回路しか持たない立香ちゃんには酷なことだろう。だがカルデアはそんな彼女をサポートするために在るのだ。
名前は、コフィンに入りレイシフトした二人の旅路に幸あることを願いながら、目の前の業務に全力で向き合っていく。中でも、レイシフト先の空に出現した原因不明の光体の解析には、スタッフが総力を挙げて挑んだ。
立香ちゃん達が現地の兵士から情報を得た結果、フランスの街を蹂躙する存在として、竜の魔女が浮かび上がる。しかし、黒幕と思わしき彼女と同じ名を持つ英霊ジャンヌ・ダルクが現れたことで、事態は思わぬ方向へ進んでいく。ジャンヌと共に、もう一人のジャンヌを打倒する旅が始まったのだ。
ワイバーンや骸骨兵といった敵と戦いつつ突入したラ・シャリテにて、マシュ達はジャンヌ・オルタ、及び彼女に従うサーヴァントと交戦。こちらがピンチに陥った際、高らかな声を上げて登場したフランス王妃と音楽家は華麗に敵を退け、人理修復の手伝いを申し出てくれることになる。 心強い味方となってくれた二人と一緒に、マシュは近くの森で召喚サークルを展開。それを確認すると、名前は素早く補給物資を送った。
立香ちゃん達のため、常に探索と通信を行っているロマニのサポートをするのが自分の仕事である。そんな働き詰めの彼に仮眠を取らせるべく、真夜中になると名前は通信係の交代を申し出た。 これでもマスター候補達の戦闘訓練では、シミュレーションルームのオペレーターを務めることが多かったのだ。敵の探索に関しては、むしろロマニよりも経験豊富な自信がある。すぐ傍にダ・ヴィンチちゃんが控えていることもあってか、半ば強引な物言いにも素直に従ってくれた。
「何かあれば、すぐに起こしてくれよ?」
「もちろん。それじゃ、おやすみロマニ」
「うん。おやすみ、名前」
アイマスクを装着し横になった背中を見て、名前は眼前のモニターに視線を移す。一時的とはいえ、オペレーターが交代となったのだ。緊急時のためにも、味方のサーヴァント達に挨拶はしておくべきだろう。音声だけでなく自身の姿形が映るよう、通信の状態を切り替えた。
「こんばんは、夜分遅くに失礼致します。お嬢様方」
そこにいたのは、三人の少女だった。その内の一人であるマシュは驚愕したように目を見開き、次いで顔を綻ばせてくれる。立香ちゃんが眠りについていることは確認済みなので、彼女達の正体はジャンヌ・ダルクとマリー・アントワネットなのだろう。瑞々しくも確固たる決意を秘めたその表情からは、確かにその逸話に相応しいものを感じた。
「ジャンヌさん、マリーさん、はじめまして。ロマンに代わり、一時的にオペレーターを務める名前と申します。もし何かお手伝いできることがあれば、いつでもお呼びください」
「名前さん、ドクターは休まれているんですか」
「うん。肝心な時にロマニが使い物にならないと困るでしょ。精一杯頑張るから、マシュも何かあればいつでも呼んでね」
「はい、とても心強いです。それでは、私は周囲の探索を……」
「あらあら、ダメよマシュ。行ってはいけないわ」
「マリーさん……?」
「年頃の女の子がこれだけ集まったんだもの。やることは一つしかないわ」
「マリー……?」
首を傾げるマシュとジャンヌを眺めつつ、名前は先の展開を予想し苦笑する。天真爛漫な王妃様の突拍子もない言動は、今に始まったことではない。
「女子会をしましょう。名前さんと一緒にお茶できないのは残念だけれど」
「私のことはお気遣いなく。ですが、皆さんのお喋りにはいくらでもお付き合いしますので」
「まあまあ、いけないわ。名前さん、わたし達にもマシュのように砕けた口調でお話ししてくださらないと。今から女子会をするんだもの」
「うーん……いいのかな?」
早々に諦めて口を切ると、マリーと共にジャンヌも華やかに微笑んでくれた。名前を女子と呼ぶには些か不適当な気もしたが、心優しい王妃様の気持ちは無視できない。純粋に、飛び上がってしまう程に嬉しかった。 マシュはそんな様子を嬉しそうに眺めながらも、一方で不思議そうに首を傾ける。
「それよりもマリーさん、女子会とはどのようなことをする会合なのでしょうか」
「ふふ、決まっているでしょう。恋の話よ」
「恋、ですか」
ジャンヌが聞き慣れない言葉を噛み砕くように繰り返した横で、マシュがパッと顔を輝かせる。なんだか嫌な予感がした。
「恋の話題なら、名前さんはこれ以上ない程に適任ですね」
「あら、そうなの? 誰か恋い慕う殿方でもいらっしゃるとか?」
「名前さんは、ドクターと男女交際をされているのです。不肖マシュ・キリエライト、告白現場にも立ち会わせていただきました」
「ちょっ、マシュ!」
「まあ! まさか恋人同士だったなんて。告白はどちらからなさったの?」
自分のために頬を愛らしく紅潮させた少女に嘘を吐くことなど、名前にはとても出来そうになかった。索敵用のディスプレイを確認しつつ、何と言うべきか考えを巡らせる。
「恥ずかしながら、私から告白したの。とはいえ一度目ではフラれちゃったんだけど」
「そ、そうだったんですか!? 初耳です」
「マシュが立ち会ってくれたのは……私が二回目の告白をして、ロマニが受け入れてくれた後のことだったから」
「成程。確かに名前さんは、好きだとは言われたけど付き合ってとは言われてない、と仰っていましたもんね」
「……うん。なんだか、改めて客観的に聞くと幼稚すぎて恥ずかしくなるんだけど」
「いいえ、そんなことないわ。女の子ならば誰だって、好きな人からは愛の告白をされたいと思うもの」
王女様から可憐に微笑まれ、名前は一回目の告白に思いを馳せる。
───私やっぱり、ロマニのことが好きだなあ。
終業後、いつも通り何気なく二人でお茶を飲みながらお喋りしていた時、何の前触れもなく唐突に零してしまった。心地好く、けれどもどかしかった沈黙を埋めるように、繊細で力強くて独り善がりだった自身の想いを。 いつだって溢れてしまいそうだった気持ちが、言葉となって彼に届いてしまった時、不思議と名前はすっきりしていた。たとえ想いが叶わなくとも、彼の迷惑にだけはなりたくなかったのだけれど。
「初めて告白した時、こっ酷くフッてくれたら素直に諦めもついたんだけどね。キミにはもっと相応しい男がいるから、なんて言われたら忘れられるわけないじゃない?」
「あらまあ。あの魔術師さんは、思いのほか情熱的な方なのね」
「ええ。ロマンさんは、名前さんのことをとても愛していらっしゃるんですね」
「えっ!?」
二人の英霊からしみじみと呟かれ、名前は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。名前には、ロマニ以外のひとに恋をした記憶も、こうして恋について語らう機会も殆ど無かったものだから、自分が標的にされるのはどうしても慣れないのだ。身体の内側からじわじわと込み上げる熱を誤魔化すべく、大きく咳払いをする。
「あ、愛しているとか、その……。私、言われたことがなくて」
「それは大変遺憾だわ。けれど確かに、あの魔術師さんからはアマデウスと同じ匂いを感じるのよね。ああいう人には、いくらこちらがガツンと言っても本質的に理解してくれないことの方が多いもの」
愛らしく唇を尖らせたマリー・アントワネットの横で、ジャンヌ・ダルクは柔らかな笑みを見せていた。
「そうですね、これは完全に個人的な所感ですが……。名前さんには、こちらが思わず敬服してしまうような気品や、慈愛に満ちた雰囲気を感じます。ロマンさんはそれに甘えてしまっているのでは?」
確信を声音に載せた聖女の言葉に、二人の少女は成程、と瞬きを繰り返す。
名前は、あまりにも恐れ多い言葉を頂けて恐縮しきりだった。
「確かに、名前さんはお姉様のようだわ。優しくて温かくて、わたしのすることは何でも受け入れてくれるような包容力を感じるの」
「それは、私も分かる気がします。一緒にいて落ち着きますし……何よりも、名前さんの作るイチゴタルトは絶品ですから」
「へえ、わたしも是非食べてみたいわ」
「ええ。叶うならば、私もぜひ」
「うん。二人の口に合うかは分からないけど、いつか必ず。───マシュ」
「はい、名前さん。先輩を起こしてきますね」
霊脈に群がるように集まってきた敵体反応に、その場の三人は気を引き締めるように立ち上がる。出来ることならばもっと休ませてあげたかったが、世界を守るためならばそうも言っていられない。
立香ちゃん達は聖女マルタとの戦闘に勝利した後、再び朝まで身体を休めることになる。その中で、聖女と王女が仲を深めていく様子を微笑ましく思いながら、名前は出立直前までロマニの代わりを務めあげた。
コーヒーを片手にディスプレイに齧り付いていた名前の背中を、労るような掌がぽんぽんと優しく叩いた。
「お疲れさま、名前。あとはボクに任せて」
「うん、ロマニありがと……」
交代と同時に、名前もまた仮眠を取らされる。その間、立香ちゃん達は竜殺しの逸話を持つジークフリートと遭遇し、彼の解呪をするため二手に分かれていた。今すぐ死んでもおかしくない程に複雑な呪いを解くためには、洗礼詠唱を行える聖人のサーヴァントがもう一人必要だったのだ。
くじ引きの結果、ジャンヌとマリーは二人きりで西へ向かうことになる。彼女達には通信機が渡されたため、必然的にカルデアとも直接通信が行えるようになった。マシュの持つ通信機よりは性能が劣るため、音声のやり取りしか出来ないが、それでも有るのと無いのとでは大違いだ。 そこで名前は、二人の専属オペレーターとしてロマニの横で仕事に励むことになる。
引き継ぎの際、ロマニがやたらと女性陣から詰られていた様子に笑ってしまう。皆、昨晩の会話を覚えていてくれたのだろう。ウインクをプレゼントしてくれた王妃様に微笑み返してから、名前は管制室の中心、司令官が座るべき場所に腰をかけた。
「マリーさん、ジャンヌさん。よろしくね」
「ええ、こちらこそ! 名前さん、道中にまた女子会トークをしましょうね」
「うん、ぜひ。……アマデウスさん、マリーさんのことは私が出来る限りサポートしますので」
「ああ、お願いするよ。君の話はマリアから散々聞かされたからね。ドクターには勿体無い程に出来た女性だと」
思わぬ方向に話が進んでいき、名前は隣のロマニと共に驚きのあまり飛び上がる。
「ちょっ、何でここでボクの話が!?」
「さっき散々僕のプロポーズを揶揄っておいて、今更なにを言うんだ。だいたい、こんなに素敵な恋人がいるなら少なくとも君はただのダメ人間ではないだろう。自分を卑下しすぎるのは、彼女に対してあまりに失礼な振る舞いだと思わないか」
「アマデウスさん……」
「ねえ名前、今少しトキメいたよね!?」
「え? ただ単に、アマデウスさんは優しい人なんだなと思って感激してただけだよ」
アマデウスとまともに言葉を交わすのは初めてだが、確かに前評判の通り、彼はロマニにとても似ている。例えば、自由気ままに振舞っているようで、実は誰よりも他人を観察しているところ。それから、一見分かりずらいけれど、不器用な優しさを一心に注いでくれるところもそっくりだ。 だからこそ七歳のマリー・アントワネットは、幼く純真な六歳のアマデウス・モーツァルトに恋をしたのだろう。
「確かに、僕達は客観的に見てろくでなしなんだろうね。それでも、たった一人の女の子を愛する気持ちだけは確かに持っている。自分が美しいと思うものを、傲慢な程に尊び、大切に想い、慈しむことが出来るんだ。これは何よりも人間らしい振る舞いだとは思わないか、ドクター」
「…………、そうだね。うん。その通りだ」
しばらく唖然としたように沈黙していたロマニは、名前をちらりと見てから返事をした。 見慣れている筈の彼の横顔には、初めて目にする表情が浮かんでいる。身体の底から湧き上がる喜びを押し殺すような、哀しみのあまり今すぐ泣いてしまいそうな、複雑な色がいくつも滲んでいた。
マリーは感激したように、ただ一人の初恋の男の子にベーゼを贈っている。その様子を見守りながら、名前はこっそりと、何よりも恋い慕うひとの手を握った。誰にも見えない位置で一瞬だけ、二人きりの時間を持つ。何も言わず、優しく握り返してくれた指先の柔らかさがとても心地好かった。
「名前」
「ん?」
「……続きは、またあとでね」
名前は、立香ちゃん達の成功を信じて疑わないロマニの柔らかな微笑みを見て頷いた。すぐにパッと手を離し、互いの職務を全うしていく。