月の女神はお団子の夢を見るか?
九月某日。特異点を二つ修復したことにより、カルデアでは爆破直後の慌ただしさがすっかり鳴りをひそめていた。特異点の解析作業を進めながらも、職員達は各々の自由な時間を持てるまでになったのだ。
かく言う名前も、現在はブーディカと共に料理を思う存分楽しんでいた。全員分の昼食を出し終えると、早速今晩お供えする団子の作成に取り掛かる。
お月見をしよう、とロマニから提案があったのは一昨日のことだ。日々激務に追われる職員達の慰労をすべく、何かしらのイベントを企画しようと考えたらしい。 カルデアは地下工房であるため直接空は眺められないが、ダ・ヴィンチちゃんにより月の映像を映してもらうことになったそうだ。日本人としては毎年恒例だった風習を体験できるのは有難い。それに、ロマニの大好物であるお団子を手作りできるのも純粋に楽しみだった。
生地を丸めて捏ねるだけの作業はすぐに終わり、祭儀用のお団子は全て食料庫まで運び込んだ。キッチンまで戻る道すがら、名前はブーディカから明るく声をかけられる。
「名前、嬉しそうだね。やっぱり彼に喜んでもらえるから?」
「あはは、そう。年甲斐もないよね」
「そんなことないでしょ。あたしだって、旦那さんのためなら張り切って作っちゃうし」
「いいなあ。ブーディカがお嫁さんだったら幸せだろうな」
「何言ってんの、もう。あたしも年甲斐なく照れちゃうからやめてよ。それで、このあとはどうする?」
「みたらし団子とお饅頭と、ついでにおはぎも作っちゃおうかなと思って。マシュも喜ぶだろうし」
「マシュのためとあれば、お姉さんも一肌脱いじゃうよ。一緒にやろ」
「うん、ありがとう」
特異点で遭遇して以来、ブーディカは妙にマシュを構っていた。あまりの猫可愛がりっぷりにマシュは戸惑っているようだったが、あれは照れくさくて素直になれていないだけだと踏んでいる。 立香ちゃんと出会ってから、マシュの世界はどんどん鮮やかに色付いていった。笑ったり怒ったり、哀しんだり照れたり。マシュは、ごく普通の女の子のように感情をくるくると変えて、特異点での出来事を報告してくれるまでになっていた。
マシュに人として生きる道を示したのはロマニで、今まさにその道を共に歩んでくれているのは立香ちゃんだ。マシュのために笑い、彼女の意思を何よりも尊重しながら精神的にサポートするドクター。そして、マシュのために怒り、笑い、恐怖に震えながらも立ち上がる地球最後のマスター。二つの出逢いは、進むことを知らないマシュの時間を動かすことになった。
「ねえ名前。もしかしたら、お団子粉が少し足りないかも。さっき使い切った記憶があるんだけど」
「あ、本当だね……! いっぱい使っちゃったからなあ。ごめん、私のミスだからすぐに取ってくる」
「了解、任せたよ。その間にやっておくことってある?」
「なら、こし餡の調理をお願いしても大丈夫? ブーディカなら初めてでも出来ると思うんだ」
この職場は、食に気を配る人間があまりにも少ない。食堂は辛うじて存在するものの、名前は趣味で料理をする人間を自分以外に見たことが無かった。 現在生き残っているのは大半が技術部職員なのだが、殆どが興味のないことに関わろうとしない研究者ばかりである。自分自身にすら関心を持たない彼らの食生活は、栄養管理など専門外な名前が駆り出される程に悲惨なものだった。
今ではすっかり食堂のおばさんとして、名前はスタッフ全員分の食事を用意している。ただ名前も食堂に常駐しているわけではないため、キッチンには手作りのレシピ集を置いてあったのだ。多種多様な国籍が揃う職員達の細かいニーズに応えるため、各国の郷土料理は勿論のこと、軽食や飲み物まで網羅していた。 自分がいなくとも料理を作れるようにと思って作成したのだが、当然日の目を見ることは少ない。そんなレシピ集を初めて人に託せるとあっては、名前もいつも以上に気分が高揚していた。
「わかった。頑張ってみる」
「時間はかかるけど、ブーディカなら簡単に出来ると思うよ。すぐ戻るから、もし分からないことがあれば聞いてね」
「了解。材料見ながら、自分で作れそうなの色々試してみるね」
初めてできた料理友達に見送られながら、名前は食料庫まで急いで足を運ぶ。大きめの籠を抱えつつ扉を開けると、そこに存在する筈の食料が殆ど無くなっていた。明日の食事に使おうと思っていた野菜や米は、先程まで山のように積み上がっていたというのに。祭儀用のお団子まで跡形もなく消えている。
状況が理解できず瞬きを繰り返す名前の耳に、鈴のように玲瓏で砂糖のごとく甘い声が染み渡る。
「あら? お客様が来ちゃったわ。……ふんふん、なるほど。私を呼んでくれたのは、あなただったのね」
何もなかった空間に、その女性は突如現れる。神話に登場する女神のように露出の高い格好で、大きな弓を持ちながら浮遊していた。通常のサーヴァントとはどこか異なる雰囲気を纏っているが、浮かぶ笑みは無邪気で愛らしい。思わず頭を撫でたくなってしまう程の可憐さだ。 立香ちゃんが新しく召喚したひとだろうか、と検討をつけながら名前は膝を折る。
「初めまして、カルデア職員の名前と申します。ええと、私が貴女を呼んだと仰るのは何故でしょう……?」
「うーん、まあそのあたりの話は追々ね。ところで、もしかしてお団子を探しに来ちゃったとか?」
「はい、そうなんです。どこかで見かけませんでしたか?」
「ええ、見たわ。実はその犯人がレイシフトで逃げたみたいだから、追いかけようとしていたんだけど……」
「あ、それは失礼しました! 夜までには取り戻さないと行けないですし、早めに追跡した方がいいですよね。マスターやドクターには私から伝えておきますので」
「ありがとう。ええと、名前さん?」
「はい!」
素早く身を翻した彼女であったが、突然その場にぐきゅるると大きな音が響いた。腹が鳴ったのだろうかと首を傾げていると、彼女は慌てたように笑いながら腕を背中に回している。
「あはは、ごめんなさいね! 少しお腹が空いてたみたいで」
「ふふ。もし宜しければ、これを持っていってください。さっき作ったばかりのサンドイッチなんですけど」
「でも……これ、誰かへの差し入れとして作ったんじゃないかしら?」
「いいんです。彼にはいつでも作ってあげられますし、今はお団子救出の方が大切なので。私にはこれくらいしか出来ませんが、応援しています!」
「……ありがとう。それじゃあ遠慮なく頂いちゃうわね」
「はい、ぜひ。お口に合うかどうかは分かりませんが」
間近で見る彼女の容姿は、彫刻かと見紛う程に洗練されていた。月光をかき集めたような白銀の髪がふわふわと揺蕩い、名前の視界を鮮やかに彩っていく。サンドイッチを受け取ってくれた時の笑顔があまりに儚くて、名前は暫し見蕩れてしまった。 しかし、その綺麗な顔にはみるみる内に驚愕の色が滲んでいく。何か粗相をしてしまったのだろうかと不安になっていると、突如震える声で名前を呼ばれた。
「名前さんって、ずっと此処で働いてるの?」
「……? いえ、四年くらい前からですね」
「それ以前は何を?」
「実は記憶が無いんです。カルデアの施設内で倒れていたところを助けてもらったんですけど、その前のことは殆ど覚えていなくて」
「……そして貴女は、一切魔術を使うことが出来ない。どう? 当たってるかしら?」
「はい、その通りです。レイシフト適正も無いので、此処ではあまりお役に立てなくて」
「───気が変わっちゃったわ」
「え?」
「名前さん、ごめんなさい。一緒に来てくれないかしら」
それは、有無を合わせない麗しい笑顔だった。 気付けば名前の意識は暗転し、急速に深い闇の中へと呑まれていく。夢すらも見せてくれない程の強引な手刀からは、しかし不思議と優しい温もりを感じた。
何故だろうか。温かくてまろやかなその感触が、まるでロマニの掌のようだと思ったのだ。
*
中央管制室では、グランドオーダーの主力メンバーが一堂に介していた。お月見に向けて逸早く集合していた四人は、お団子を届けてくれる筈の名前が時間通り来ないことに首を傾げている。
「ドクター。名前さんが待ち合わせに遅刻されたことは記憶する限り一度もありません。これは早急に捜索するべきなのでは」
「……うん、そうだね。レオナルドにも連絡がないってことは、もしかしたら緊急事態が発生したのかも。ボクが探して来るから、皆は待ってて」
頭上に映る月を仰ぎつつ苦い顔をするロマニに、残りの三人は一瞬顔を見合わせる。 そんな様子に気付かず「よし」と意気込んだところで、ロマニは管制室に飛び込んできた人影に目を丸くした。
水着かと見間違うほど露出の高い格好に、燃えるような赤い髪。ブリテンの勝利の女王、ブーディカその人だった。
「ドクターはいる!?」
「どうしたんだい、ブーディカ。そうだ、名前を知らないかな。今日はキミと一緒に料理をするって張り切ってたから」
「そのことで来たの。実は、名前がカルデアのどこにもいないんだ。キャスターにも協力してもらって、くまなく捜索したんだけど」
「カルデアにいない!? いや、まさかそんなはずは……」
「あーロマニ、残念ながら事実かも。ここ見てみて。レイシフトの痕跡が残ってる」
ダ・ヴィンチちゃんが真剣な顔をして指し示した先には、オルレアンの文字が浮かび上がっていた。顔を強張らせながらディスプレイを確認したロマニは、前髪をかきあげてから大きく息を吐き出した。
「ブーディカ、名前がどこでいなくなったか分かるかい?」
「食料庫だと思う。お団子や備蓄してた食料も殆ど無くなってて、もぬけの殻だったんだ。もしかしたら、犯人が口封じに名前を攫ったのかもしれない。……ごめん、あたしのせいだ。名前を一人で行かせたから」
「違うよブーディカ。それを言うなら、名前にお団子作りを依頼したボクに全て責任がある。───立香ちゃん、マシュ。疲れているところ悪いけど、今からレイシフトしてもらうことは出来るかな」
間髪を容れずに頷いた二人を見て満足そうに頷くと、ロマニはブーディカへ向き合った。
「ブーディカ。キミは此処で、ボク達と一緒に待っていてほしい」
「イヤだ。あたしも行くよ」
「自分のせいでイベントが台無しになったと知ったら、それこそ名前は悲しむだろう? スタッフ達に料理やお酒を出しておいてもらいたいんだ」
「でも、もし犯人が人質をとるような悪者だったらどうするの」
なおも食い下がるブーディカを見て、ダ・ヴィンチがふわりと笑いながら答えた。
「それに関しては、あまり心配いらないかも。今カルデアの外に出られるのは立香ちゃんと、彼女と契約したサーヴァントだけだからね。今回の事態を引き起こしたのは、あくまで立香ちゃんと契約する意思のある英霊だと推測できる」
なるほど、と相槌を打ってから、立香は説明を噛み砕くように口を開く。
「その人は、少なくともわたしと契約したいと思ってくれてるんですね……。でも、現時点では何の関わりもないのに、そんなことが可能なんですか?」
「ああ、可能さ。時空の道理を歪めるくらい強力な英霊なら、ね。将来的に契約する可能性を引き寄せて、既に契約済みだという結果を擬似的に生み出したんだろう」
「ボクも同じ考えだ。犯人は、マスターが召喚し契約を結ぶという因果すらも覆す程の、特殊かつ強力な英霊だろうけど。実際にカルデアに顕現したということは、完全な悪人ではないんだろう」
二人からもたらされた解説を聞くと、ブーディカはキッと眉をつり上げた。
「でも名前は普通の女の子なんだよ。たとえ敵意がなくたって、攫われたんなら不安にきまってる。あたしが着いて行ったら、少しでも早く助け出せるかもしれないんだよ!」
息巻くブーディカを見て、ロマニは柔らかく微笑んだ。その場にいた全員が、呆気に取られたようにロマニを見詰める。
「ありがとう、ブーディカ。名前を大切に想ってくれて」
「そんなの当たり前でしょ。友達なんだから」
「キミのその”当たり前”が、名前にとっては何よりも嬉しいことだと思うんだ。だから、ありがとう」
「……あたし、まさかこんな盛大な惚気を聞かされるとは思ってなかった」
「え!?」
「分かったよ。あたしは、名前が信じるドクターを信じる。名前のために美味しい夕飯を作って待ってるからさ。頼んだよ」
*
───ぴちゃん、ぴちゃん。断続的に続くその音の正体は、わたしの体内から滴る紅い血液だった。幾度も肌を突き刺してきた無数の管は真っ白な床を這い、砦のように聳える数多の精密機器に繋がっている。
「被検番号774。無記名霊基を直接人体に埋め込む人造サーヴァント実験において、唯一死亡しなかった被検体。彼女はデミ・サーヴァント実験の成功に向けて、貴重なサンプルとなるだろう」
わたしがこの施設へやって来た日。わたしを構成していた骨格、筋肉、神経は全て切除され、その殆どにホムンクルス用の代替品が移植された。脊髄や脳すらも隅々まで弄り回された結果、わたしはこの状況に疑問を覚えることもなく、従順なモルモットとして呼吸をするだけの無様な生物に成り果てたのだ。
わたしとは何なのか。何故この場所にいるのか。何のために生きているのか。生物として当然持つべき疑問は、カルデアの研究員によって全て闇へと葬られてしまった。
たとえ世界中から見捨てられた存在なのだとしても、この身体は誰かから必要とされている。その実感があったからこそ、辛うじてわたしはわたしとしての意識を保っていられた。 彼らは、わたしに存在意義をくれた。居場所をくれた。生きるための義務をくれた。その恩に報いなければならないのだと、わたしではない誰かが耳元で囁いていた。
「生きながら神性を有する稀有な肉体。魔術師の家系でないにも拘らず魔術回路が確認される上に、耐久性も申し分ない。これならば予定通りに実験を進めても問題ないだろう。そもそも人造サーヴァント実験は、失敗することを前提とした試みだった。死亡してしまった場合でも、充分に検体としての価値は存在する。むしろデミ・サーヴァント実験の前段階としては、充分すぎる程の功績を残してくれた。お前は人類の礎となるのだ、774番」
滔々と、客観的事実を述べるように白衣の男は言った。威厳のある嗄れた声から察するに、実験の責任者はこの男なのだろうと予想がつく。 男は、物言わぬわたしに対して実験の意義を語り続けた。未来への憂いを語り尽くした。人類を守護するための道具になれと諭してきた。
そうして何かを自由に望む権利すらも与えられず、家畜以下の扱いを受け続けても。彼らへの怨恨がわたしの身を巣食うことは決して無かったのだ。
わたしに何かを恨む程の気力が無かったから?───違う。
彼らに少しでも敬意を払っていたから? ───違う。
己の役割に心酔していたから?───違う。
単純な話だ。わたしは人を恨む術を知らなかった。誰かに愛されることも他人を嫌いになることも、全ては空想上の産物でしかなかったのだ。
いつの間にか、わたしはよく夢を見るようになっていた。それはたとえば、兎のように真っ白な魔法使いが登場する、子どもが見るような童話の世界。痛みや苦しみが何もないその場所で、主たる道化師は軽快な声を上げた。柔らかな唇でわたしに触れた。端整な顔に笑みを張り付けていた。固くて冷たい掌が、わたしの頭をなぞるように撫でていた。
たとえば、ニホンという平和な国で暮らすわたし自身と出会ったことがある。彼女は言った。毎日同じことばかり繰り返す日々は、けれど何よりも大切で愛おしいのだと。とりとめのない雑談を友人とする時間、家族と食後に団欒する一時、異性と出掛けてときめきを感じる瞬間。私(あなた)もいつか出逢えるといいね、と私(彼女)は笑うのだ。
その内、わたしの心にはある感情が満たされていった。一度きりでも構わない。誰かを全力で愛してみたい。自分ではない誰かを慈しみ、恋慕い、想い焦がれて一生を終えたいのだと。
「774番。お前の身体に見合うだけの霊基を用意するのは骨が折れた。相応の結果を見せてくれることを期待する」
背筋を這い上がる本能的な願望は、しかし脳髄を貫く激痛によって瞬く間に霧散した。わたしは痛感する。思い知る。身の程を知れと。けれど、わたしはただ、誰かに己の名を呼んでほしかっただけなのに。
「───! ─────!」
いつも通り、虫のように這いつくばっていたわたしの前に、その人は突然現れる。気付いた時には、わたしを監視していた筈の研究員は誰もいなくなっていた。
乾いた血が張り付いた黄色い肌も、手入れなど微塵もしていないボサボサの髪も、この身体は何もかも醜かっただろうに、その人は心底慈しむようにわたしを抱き締めてくれたのだ。 初めて触れた温かな無償の愛情。こちらを労り慈しんでくれる優しい言葉の数々。声を発することを忘れていた喉は、言語にすらならない掠れた音しか生み出せなかったけれど。それでも確かにわたしはその時、最大限の感謝を伝え、全力で泣いた。
世界から爪弾きにされた哀れな女は、その時初めて自分が生きていてもいいと認識できたのだ。
被験体774。名無しと呼ばれ続けたわたしは、いつしか自身の名前を忘れ去っていた。私を産んでくれた親から貰った至上の宝物を、あっさりと失ってしまった。 絶望に喘ぐ私を目の前にして、そのひと───ロマニ・アーキマンは、微笑んでから言う。
「キミの瞳は、まるで夜空のように澄んだ色をしているね。古来から闇夜の道導として見出されている、星のようにキレイな光も湛えている。うん、そうだな……。名前、というのはどうだろう。苗字名前。キミにピッタリだと思ったんだけど」
名前とは、私を唯一この世に繋ぎとめてくれるものだ。私の存在を許し、私の生を認め、誰かからの愛を受けた証。 苗字名前はその時に初めて、自分が自分でいられる喜びを知った。全身全霊を以て、ロマニ・アーキマンに恋をしたのだ。
かく言う名前も、現在はブーディカと共に料理を思う存分楽しんでいた。全員分の昼食を出し終えると、早速今晩お供えする団子の作成に取り掛かる。
お月見をしよう、とロマニから提案があったのは一昨日のことだ。日々激務に追われる職員達の慰労をすべく、何かしらのイベントを企画しようと考えたらしい。 カルデアは地下工房であるため直接空は眺められないが、ダ・ヴィンチちゃんにより月の映像を映してもらうことになったそうだ。日本人としては毎年恒例だった風習を体験できるのは有難い。それに、ロマニの大好物であるお団子を手作りできるのも純粋に楽しみだった。
生地を丸めて捏ねるだけの作業はすぐに終わり、祭儀用のお団子は全て食料庫まで運び込んだ。キッチンまで戻る道すがら、名前はブーディカから明るく声をかけられる。
「名前、嬉しそうだね。やっぱり彼に喜んでもらえるから?」
「あはは、そう。年甲斐もないよね」
「そんなことないでしょ。あたしだって、旦那さんのためなら張り切って作っちゃうし」
「いいなあ。ブーディカがお嫁さんだったら幸せだろうな」
「何言ってんの、もう。あたしも年甲斐なく照れちゃうからやめてよ。それで、このあとはどうする?」
「みたらし団子とお饅頭と、ついでにおはぎも作っちゃおうかなと思って。マシュも喜ぶだろうし」
「マシュのためとあれば、お姉さんも一肌脱いじゃうよ。一緒にやろ」
「うん、ありがとう」
特異点で遭遇して以来、ブーディカは妙にマシュを構っていた。あまりの猫可愛がりっぷりにマシュは戸惑っているようだったが、あれは照れくさくて素直になれていないだけだと踏んでいる。 立香ちゃんと出会ってから、マシュの世界はどんどん鮮やかに色付いていった。笑ったり怒ったり、哀しんだり照れたり。マシュは、ごく普通の女の子のように感情をくるくると変えて、特異点での出来事を報告してくれるまでになっていた。
マシュに人として生きる道を示したのはロマニで、今まさにその道を共に歩んでくれているのは立香ちゃんだ。マシュのために笑い、彼女の意思を何よりも尊重しながら精神的にサポートするドクター。そして、マシュのために怒り、笑い、恐怖に震えながらも立ち上がる地球最後のマスター。二つの出逢いは、進むことを知らないマシュの時間を動かすことになった。
「ねえ名前。もしかしたら、お団子粉が少し足りないかも。さっき使い切った記憶があるんだけど」
「あ、本当だね……! いっぱい使っちゃったからなあ。ごめん、私のミスだからすぐに取ってくる」
「了解、任せたよ。その間にやっておくことってある?」
「なら、こし餡の調理をお願いしても大丈夫? ブーディカなら初めてでも出来ると思うんだ」
この職場は、食に気を配る人間があまりにも少ない。食堂は辛うじて存在するものの、名前は趣味で料理をする人間を自分以外に見たことが無かった。 現在生き残っているのは大半が技術部職員なのだが、殆どが興味のないことに関わろうとしない研究者ばかりである。自分自身にすら関心を持たない彼らの食生活は、栄養管理など専門外な名前が駆り出される程に悲惨なものだった。
今ではすっかり食堂のおばさんとして、名前はスタッフ全員分の食事を用意している。ただ名前も食堂に常駐しているわけではないため、キッチンには手作りのレシピ集を置いてあったのだ。多種多様な国籍が揃う職員達の細かいニーズに応えるため、各国の郷土料理は勿論のこと、軽食や飲み物まで網羅していた。 自分がいなくとも料理を作れるようにと思って作成したのだが、当然日の目を見ることは少ない。そんなレシピ集を初めて人に託せるとあっては、名前もいつも以上に気分が高揚していた。
「わかった。頑張ってみる」
「時間はかかるけど、ブーディカなら簡単に出来ると思うよ。すぐ戻るから、もし分からないことがあれば聞いてね」
「了解。材料見ながら、自分で作れそうなの色々試してみるね」
初めてできた料理友達に見送られながら、名前は食料庫まで急いで足を運ぶ。大きめの籠を抱えつつ扉を開けると、そこに存在する筈の食料が殆ど無くなっていた。明日の食事に使おうと思っていた野菜や米は、先程まで山のように積み上がっていたというのに。祭儀用のお団子まで跡形もなく消えている。
状況が理解できず瞬きを繰り返す名前の耳に、鈴のように玲瓏で砂糖のごとく甘い声が染み渡る。
「あら? お客様が来ちゃったわ。……ふんふん、なるほど。私を呼んでくれたのは、あなただったのね」
何もなかった空間に、その女性は突如現れる。神話に登場する女神のように露出の高い格好で、大きな弓を持ちながら浮遊していた。通常のサーヴァントとはどこか異なる雰囲気を纏っているが、浮かぶ笑みは無邪気で愛らしい。思わず頭を撫でたくなってしまう程の可憐さだ。 立香ちゃんが新しく召喚したひとだろうか、と検討をつけながら名前は膝を折る。
「初めまして、カルデア職員の名前と申します。ええと、私が貴女を呼んだと仰るのは何故でしょう……?」
「うーん、まあそのあたりの話は追々ね。ところで、もしかしてお団子を探しに来ちゃったとか?」
「はい、そうなんです。どこかで見かけませんでしたか?」
「ええ、見たわ。実はその犯人がレイシフトで逃げたみたいだから、追いかけようとしていたんだけど……」
「あ、それは失礼しました! 夜までには取り戻さないと行けないですし、早めに追跡した方がいいですよね。マスターやドクターには私から伝えておきますので」
「ありがとう。ええと、名前さん?」
「はい!」
素早く身を翻した彼女であったが、突然その場にぐきゅるると大きな音が響いた。腹が鳴ったのだろうかと首を傾げていると、彼女は慌てたように笑いながら腕を背中に回している。
「あはは、ごめんなさいね! 少しお腹が空いてたみたいで」
「ふふ。もし宜しければ、これを持っていってください。さっき作ったばかりのサンドイッチなんですけど」
「でも……これ、誰かへの差し入れとして作ったんじゃないかしら?」
「いいんです。彼にはいつでも作ってあげられますし、今はお団子救出の方が大切なので。私にはこれくらいしか出来ませんが、応援しています!」
「……ありがとう。それじゃあ遠慮なく頂いちゃうわね」
「はい、ぜひ。お口に合うかどうかは分かりませんが」
間近で見る彼女の容姿は、彫刻かと見紛う程に洗練されていた。月光をかき集めたような白銀の髪がふわふわと揺蕩い、名前の視界を鮮やかに彩っていく。サンドイッチを受け取ってくれた時の笑顔があまりに儚くて、名前は暫し見蕩れてしまった。 しかし、その綺麗な顔にはみるみる内に驚愕の色が滲んでいく。何か粗相をしてしまったのだろうかと不安になっていると、突如震える声で名前を呼ばれた。
「名前さんって、ずっと此処で働いてるの?」
「……? いえ、四年くらい前からですね」
「それ以前は何を?」
「実は記憶が無いんです。カルデアの施設内で倒れていたところを助けてもらったんですけど、その前のことは殆ど覚えていなくて」
「……そして貴女は、一切魔術を使うことが出来ない。どう? 当たってるかしら?」
「はい、その通りです。レイシフト適正も無いので、此処ではあまりお役に立てなくて」
「───気が変わっちゃったわ」
「え?」
「名前さん、ごめんなさい。一緒に来てくれないかしら」
それは、有無を合わせない麗しい笑顔だった。 気付けば名前の意識は暗転し、急速に深い闇の中へと呑まれていく。夢すらも見せてくれない程の強引な手刀からは、しかし不思議と優しい温もりを感じた。
何故だろうか。温かくてまろやかなその感触が、まるでロマニの掌のようだと思ったのだ。
*
中央管制室では、グランドオーダーの主力メンバーが一堂に介していた。お月見に向けて逸早く集合していた四人は、お団子を届けてくれる筈の名前が時間通り来ないことに首を傾げている。
「ドクター。名前さんが待ち合わせに遅刻されたことは記憶する限り一度もありません。これは早急に捜索するべきなのでは」
「……うん、そうだね。レオナルドにも連絡がないってことは、もしかしたら緊急事態が発生したのかも。ボクが探して来るから、皆は待ってて」
頭上に映る月を仰ぎつつ苦い顔をするロマニに、残りの三人は一瞬顔を見合わせる。 そんな様子に気付かず「よし」と意気込んだところで、ロマニは管制室に飛び込んできた人影に目を丸くした。
水着かと見間違うほど露出の高い格好に、燃えるような赤い髪。ブリテンの勝利の女王、ブーディカその人だった。
「ドクターはいる!?」
「どうしたんだい、ブーディカ。そうだ、名前を知らないかな。今日はキミと一緒に料理をするって張り切ってたから」
「そのことで来たの。実は、名前がカルデアのどこにもいないんだ。キャスターにも協力してもらって、くまなく捜索したんだけど」
「カルデアにいない!? いや、まさかそんなはずは……」
「あーロマニ、残念ながら事実かも。ここ見てみて。レイシフトの痕跡が残ってる」
ダ・ヴィンチちゃんが真剣な顔をして指し示した先には、オルレアンの文字が浮かび上がっていた。顔を強張らせながらディスプレイを確認したロマニは、前髪をかきあげてから大きく息を吐き出した。
「ブーディカ、名前がどこでいなくなったか分かるかい?」
「食料庫だと思う。お団子や備蓄してた食料も殆ど無くなってて、もぬけの殻だったんだ。もしかしたら、犯人が口封じに名前を攫ったのかもしれない。……ごめん、あたしのせいだ。名前を一人で行かせたから」
「違うよブーディカ。それを言うなら、名前にお団子作りを依頼したボクに全て責任がある。───立香ちゃん、マシュ。疲れているところ悪いけど、今からレイシフトしてもらうことは出来るかな」
間髪を容れずに頷いた二人を見て満足そうに頷くと、ロマニはブーディカへ向き合った。
「ブーディカ。キミは此処で、ボク達と一緒に待っていてほしい」
「イヤだ。あたしも行くよ」
「自分のせいでイベントが台無しになったと知ったら、それこそ名前は悲しむだろう? スタッフ達に料理やお酒を出しておいてもらいたいんだ」
「でも、もし犯人が人質をとるような悪者だったらどうするの」
なおも食い下がるブーディカを見て、ダ・ヴィンチがふわりと笑いながら答えた。
「それに関しては、あまり心配いらないかも。今カルデアの外に出られるのは立香ちゃんと、彼女と契約したサーヴァントだけだからね。今回の事態を引き起こしたのは、あくまで立香ちゃんと契約する意思のある英霊だと推測できる」
なるほど、と相槌を打ってから、立香は説明を噛み砕くように口を開く。
「その人は、少なくともわたしと契約したいと思ってくれてるんですね……。でも、現時点では何の関わりもないのに、そんなことが可能なんですか?」
「ああ、可能さ。時空の道理を歪めるくらい強力な英霊なら、ね。将来的に契約する可能性を引き寄せて、既に契約済みだという結果を擬似的に生み出したんだろう」
「ボクも同じ考えだ。犯人は、マスターが召喚し契約を結ぶという因果すらも覆す程の、特殊かつ強力な英霊だろうけど。実際にカルデアに顕現したということは、完全な悪人ではないんだろう」
二人からもたらされた解説を聞くと、ブーディカはキッと眉をつり上げた。
「でも名前は普通の女の子なんだよ。たとえ敵意がなくたって、攫われたんなら不安にきまってる。あたしが着いて行ったら、少しでも早く助け出せるかもしれないんだよ!」
息巻くブーディカを見て、ロマニは柔らかく微笑んだ。その場にいた全員が、呆気に取られたようにロマニを見詰める。
「ありがとう、ブーディカ。名前を大切に想ってくれて」
「そんなの当たり前でしょ。友達なんだから」
「キミのその”当たり前”が、名前にとっては何よりも嬉しいことだと思うんだ。だから、ありがとう」
「……あたし、まさかこんな盛大な惚気を聞かされるとは思ってなかった」
「え!?」
「分かったよ。あたしは、名前が信じるドクターを信じる。名前のために美味しい夕飯を作って待ってるからさ。頼んだよ」
*
───ぴちゃん、ぴちゃん。断続的に続くその音の正体は、わたしの体内から滴る紅い血液だった。幾度も肌を突き刺してきた無数の管は真っ白な床を這い、砦のように聳える数多の精密機器に繋がっている。
「被検番号774。無記名霊基を直接人体に埋め込む人造サーヴァント実験において、唯一死亡しなかった被検体。彼女はデミ・サーヴァント実験の成功に向けて、貴重なサンプルとなるだろう」
わたしがこの施設へやって来た日。わたしを構成していた骨格、筋肉、神経は全て切除され、その殆どにホムンクルス用の代替品が移植された。脊髄や脳すらも隅々まで弄り回された結果、わたしはこの状況に疑問を覚えることもなく、従順なモルモットとして呼吸をするだけの無様な生物に成り果てたのだ。
わたしとは何なのか。何故この場所にいるのか。何のために生きているのか。生物として当然持つべき疑問は、カルデアの研究員によって全て闇へと葬られてしまった。
たとえ世界中から見捨てられた存在なのだとしても、この身体は誰かから必要とされている。その実感があったからこそ、辛うじてわたしはわたしとしての意識を保っていられた。 彼らは、わたしに存在意義をくれた。居場所をくれた。生きるための義務をくれた。その恩に報いなければならないのだと、わたしではない誰かが耳元で囁いていた。
「生きながら神性を有する稀有な肉体。魔術師の家系でないにも拘らず魔術回路が確認される上に、耐久性も申し分ない。これならば予定通りに実験を進めても問題ないだろう。そもそも人造サーヴァント実験は、失敗することを前提とした試みだった。死亡してしまった場合でも、充分に検体としての価値は存在する。むしろデミ・サーヴァント実験の前段階としては、充分すぎる程の功績を残してくれた。お前は人類の礎となるのだ、774番」
滔々と、客観的事実を述べるように白衣の男は言った。威厳のある嗄れた声から察するに、実験の責任者はこの男なのだろうと予想がつく。 男は、物言わぬわたしに対して実験の意義を語り続けた。未来への憂いを語り尽くした。人類を守護するための道具になれと諭してきた。
そうして何かを自由に望む権利すらも与えられず、家畜以下の扱いを受け続けても。彼らへの怨恨がわたしの身を巣食うことは決して無かったのだ。
わたしに何かを恨む程の気力が無かったから?───違う。
彼らに少しでも敬意を払っていたから? ───違う。
己の役割に心酔していたから?───違う。
単純な話だ。わたしは人を恨む術を知らなかった。誰かに愛されることも他人を嫌いになることも、全ては空想上の産物でしかなかったのだ。
いつの間にか、わたしはよく夢を見るようになっていた。それはたとえば、兎のように真っ白な魔法使いが登場する、子どもが見るような童話の世界。痛みや苦しみが何もないその場所で、主たる道化師は軽快な声を上げた。柔らかな唇でわたしに触れた。端整な顔に笑みを張り付けていた。固くて冷たい掌が、わたしの頭をなぞるように撫でていた。
たとえば、ニホンという平和な国で暮らすわたし自身と出会ったことがある。彼女は言った。毎日同じことばかり繰り返す日々は、けれど何よりも大切で愛おしいのだと。とりとめのない雑談を友人とする時間、家族と食後に団欒する一時、異性と出掛けてときめきを感じる瞬間。私(あなた)もいつか出逢えるといいね、と私(彼女)は笑うのだ。
その内、わたしの心にはある感情が満たされていった。一度きりでも構わない。誰かを全力で愛してみたい。自分ではない誰かを慈しみ、恋慕い、想い焦がれて一生を終えたいのだと。
「774番。お前の身体に見合うだけの霊基を用意するのは骨が折れた。相応の結果を見せてくれることを期待する」
背筋を這い上がる本能的な願望は、しかし脳髄を貫く激痛によって瞬く間に霧散した。わたしは痛感する。思い知る。身の程を知れと。けれど、わたしはただ、誰かに己の名を呼んでほしかっただけなのに。
「───! ─────!」
いつも通り、虫のように這いつくばっていたわたしの前に、その人は突然現れる。気付いた時には、わたしを監視していた筈の研究員は誰もいなくなっていた。
乾いた血が張り付いた黄色い肌も、手入れなど微塵もしていないボサボサの髪も、この身体は何もかも醜かっただろうに、その人は心底慈しむようにわたしを抱き締めてくれたのだ。 初めて触れた温かな無償の愛情。こちらを労り慈しんでくれる優しい言葉の数々。声を発することを忘れていた喉は、言語にすらならない掠れた音しか生み出せなかったけれど。それでも確かにわたしはその時、最大限の感謝を伝え、全力で泣いた。
世界から爪弾きにされた哀れな女は、その時初めて自分が生きていてもいいと認識できたのだ。
被験体774。名無しと呼ばれ続けたわたしは、いつしか自身の名前を忘れ去っていた。私を産んでくれた親から貰った至上の宝物を、あっさりと失ってしまった。 絶望に喘ぐ私を目の前にして、そのひと───ロマニ・アーキマンは、微笑んでから言う。
「キミの瞳は、まるで夜空のように澄んだ色をしているね。古来から闇夜の道導として見出されている、星のようにキレイな光も湛えている。うん、そうだな……。名前、というのはどうだろう。苗字名前。キミにピッタリだと思ったんだけど」
名前とは、私を唯一この世に繋ぎとめてくれるものだ。私の存在を許し、私の生を認め、誰かからの愛を受けた証。 苗字名前はその時に初めて、自分が自分でいられる喜びを知った。全身全霊を以て、ロマニ・アーキマンに恋をしたのだ。