オケアノス
その楽園はまさしく地獄だった。
世界の片隅で枯れていく花々を見て、名前は胸の内を吐き出すように嘆息する。 濃密な魔力が満ちたこの広大な空間には、裸足で踏み荒らすのを躊躇うような色とりどりの美しい花が咲いていた。呼吸をする度に、噎せ返るような甘ったるい薫りが身体に染み渡っていく。 なんて残酷で、無慈悲な絶佳なのだろうか。
「やあ、ようこそ名前」
魔法使いのように、その男は音も立てずに現れた。白銀の雲が大空を揺蕩うかのごとく、華美な服装がふわふわと揺れている。その姿は兎のように真っ白で、絵画のように美しい。
「こんばんは、マーリン。突然ごめんなさい」
「キミならいつでも大歓迎だよ。ここでは満足にもてなすことも出来ないけどね」
「ううん、必要ない。今日はただ約束を果たしに来ただけだから」
「おや。用事が終わったら、すぐにでも帰ってしまうような言い草だね。とても寂しいよ」
マーリンは心底愉快そうにカラカラと笑っていた。台詞と表情の齟齬に苦笑しつつ、名前は首をそっと横に振る。
「もう、嘘つき」
「幻滅したかい?」
「まさか。相変わらずなんだなと思っただけ」
「なら良かった。さすがに可愛い女の子から嫌われるのは堪えるからね」
「またそんなこと言って。物好きなのも変わらないんだ」
「そうやって自分の価値を理解しようとしないのは、間違いなくキミの欠点だ」
「その言葉、そっくりそのままあなたに返すけど」
「……うん、やっぱりキミはいい女だね」
紫苑の瞳が、何かを見定めるようにゆっくりと細まった。その視線から逃れるように目を投げると、この世界の輪郭が映る。私が見る夢の果ては、何とも曖昧で朧げだった。
「マーリン。お願いがあるの」
───ねえ、わたしの魔法使いさん。欲張りで独り善がりな女の願いを、どうか叶えてほしいんだ。
目覚めると、胸いっぱいに清々しさが満ちていた。枕元の灯りを点ければ真っ暗だった部屋は次々と色を取り戻し、名前の現実を鮮やかに彩っていく。
すぐ横でふわふわと揺れるオレンジ色の髪を見詰めてから、名前は目薬を差して目を擦った。もう一度、瞼に焼き付けるようにロマニの寝顔を目に映す。ゆるゆると幸せそうに緩んだ口元からは僅かに涎が垂れていた。半ば呆れながらハンカチで拭うと、むにゃむにゃと何かを呟いてから掌に擦り寄ってくる。まるでフォウくんのようだった。
有難いことに、フォウくんは名前が触れることを許してくれていた。共に過ごす時間はマシュには及ばないものの、キッチンで料理をしている時や一人でティータイムを楽しんでいる時に突如現れては、ひらりと肩に乗ってくれるのだ。 きっと、寂しさに敏感な子なのだろう。賢くて優しくて、なんとも愛らしい獣。
思わず溺れてしまいそうになるくらい、名前はたくさんの優しさに囲まれている。けれど、このぬるま湯のような環境はあまりに居心地が良すぎて、たまに不安になる時があった。
「えへへ……、名前」
ロマニの柔らかな寝言が、脆くて不安定な胸に沁み渡っていく。名前は震える唇を押し開き、自分へ言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「うん。私は、ちゃんとここにいるよ。……ロマニ」
*
今回の舞台は、1573年の大海原だ。この時代のヨーロッパでは世界観が大きく変動する歴史的事件が頻発している。ルネサンス、宗教革命、そして大航海時代。人類の世界を文字通り広げることになった、まさに人類史のターニングポイントとも言える。
今回観測された海は、地形が歴史上のものとまるで一致しない。大航海時代に関わりの深いイングランドやスペイン、カリブ海。それらと似ているようで異なる海図が広がっていたのだ。 この分だと、気候や陸の生態系さえも予想の域に留まらないのだろう。立香ちゃんの体調管理も重要な任務になることが推測された。
司令席で一層気を引き締めていると、いつの間にか我らがマスターがマシュと共に管制室へやって来た。出発前のブリーフィングと簡単なメディカルチェックをこなす彼らの間をすり抜け、名前はマシュの宝具に積む物資の最終確認を行う。 霊脈にいつ到達できるか不明なため、最低でも一週間分の水と食料は確保しておかなければならない。日持ちする上にゴミが出ず、手だけで食べられる携帯食料を追求するため、ブーディカやエミヤには大変世話になったものだ。しみじみと思い返しながら、名前はダ・ヴィンチちゃん監修の下ありったけの物を搭載する。
凛々しい顔でコフィンへ向かう二人の少女を呼び止めて、名前はハグと額へのキスを贈った。無敵のおまじないである。カルデアに来た当初、不安で震えていた名前は、この口付けに心から励まされていた。 頬を赤らめつつハイタッチを交わしてくれた二人を見送り、名前はロマニと共に司令席へと腰を下ろす。
そしていつも通り無事にレイシフトが成功したかと思いきや───、気付けばマスターは海賊船の中心にいた。早速戦闘に突入した彼らを見て、前途多難そうだと肩をすくめる。
隣ではロマニが立香ちゃんを危険な目に遭わせてしまったことに落ち込んでいるが、ただでさえ今回はイレギュラーな事態が多々起こっているのだ。全部の責任を背負おうとするのは立派だが、何もかも自分で解決しようとするのはロマニの悪い癖である。
「うう、やっぱりボクはダメだなあ……」
「もう。ロマニ、今後はネガティブ発言禁止。ちゃんと数えてあとでペナルティー与えるから」
「ええ!?」
「ちなみに、一言につきロマニからのキス一回ね」
「そ、……それはペナルティーになってないんじゃ」
「はーいお二人さん! 仲が良いのは分かったから、今はちょーっとこっちを手伝ってくれると嬉しいな」
「ごめん、ダ・ヴィンチちゃん!」
名前は探査プログラムを起動させ当面の業務を終えると、こっそりロマニの耳元に顔を寄せる。
「今の、冗談じゃないから。ちゃんと覚えておいてね」
首筋から耳元まで余すところなく真っ赤にさせたロマニを見て、名前はそっと笑んだ。 自分に残された時間は少ないのだから、これ以上後悔なんてしたくない。やりたいことは何でもやろうと思ったし、言いたいことは何でもその場で言うようにしていた。自分が生きた痕跡を、きちんとこの世に残しておくために。
戦闘に楽々勝利した立香ちゃんは、海賊達の案内の下、近くにある海賊島を目指すことになった。彼らは何かにつけてすぐに歌い出し、話題がよく横道に逸れたが、名前はその朗らかさを素直に好ましく思う。
しばらく海を渡ると、いよいよ海賊島へ辿り着いた。到着した先で襲い掛かってきた海賊を蹴散らせば、これまた道案内を買って出てくれる。戦闘力が物を言う世界は、不必要な話し合いがないのでとても楽だった。
そして判明したのは、海賊島を牛耳っていたのが生前のフランシス・ドレイクだということ。しかも、顔に走った傷すらも倒錯的な色香を放つ、スタイル抜群の美人である。伝聞とは性別が異なる事実にカルデア一同が驚く間、案内役の海賊が彼女に声をかけようとした。
だが、どうやら何かトラブルがあったようだ。その場は動揺したような喧騒で満ちており、無数の海賊達が何かを取り囲むように輪になっている。その中心で胸を張ったドレイクは、その華奢な身体から咆哮じみた声を放っていた。画面越しの名前達でさえ、思わず気圧されてしまう程の怒気だ。 それでも先導してくれた海賊は、こちらに敗北したという結果があるためか、精いっぱい声を張り上げてくれた。
「せ、船長! いかがしやしたか!?」
「ああん? 次から次へとなんだい。……こりゃまたおかしな奴らが来たもんだ。まとめて縛り上げちまいな」
予想していた中でも最悪と呼べる展開に、管制室にまで緊張が走る。彼女の周囲に群がっていた数多の部下達が、一斉に立香ちゃん達を取り囲んだ。
「待ってくだせえ、船長! こいつら、こう見えて見所があるんスよ。アッシらの命を助けたばかりか、船長に憧れてるとかなんとか」
「はあ? アタシが憧れ?」
「あー! そう! 僕もあなたに憧れてここまで来たんです!」
海賊の説得にドレイクが一瞬きょとりと瞳を丸めた後、見知らぬ男の声が大きく響き渡った。両手を小さく上げながら恐る恐る登場した青年は、短髪を揺らしながら冷や汗をかいている。当のドレイクはといえば、彼を胡乱げに一瞥してから鼻を鳴らした。
「さっきと言ってることがまるで違うじゃないか。チキンはチキンらしく火で炙られてな」
「だからね、僕はこれでもイスラエルの王様をやってたんだよ。羊飼いのダビデといえば、この時代でも結構有名だと思うんだけど!」
名前のすぐ隣で、ハッと息を呑む気配がした。ローマの地に出現した魔神柱───彼らを使役したとされる歴史的英雄の名前は、古代イスラエルの王ソロモンだ。ダビデ王と言えば、ソロモン王の父親。かの救い主の血筋の大元となった人物でもある。 マシュも同じ結論に至ったのか、強ばった声でカルデアに通信を繋ぐ。
「ドクター。ダビデ王は、七十二の魔神を召喚したとされるソロモン王の父親です。黒幕と何らかの関わりがあることも推測されますが」
「…………」
「ドクター?」
隣を見れば、その顔がかつて無い程に青ざめていた。 ロマニは、かつて名前に夜な夜なソロモン王の逸話を話して聞かせてくれたものだった。すなわち、それ程にソロモンに対する思い入れは深い。
ロマニにとってソロモン王が黒幕であることは、己が全幅の信頼を置いていた人物に裏切られたような心情なのだろう。ローマ以降、ロマニはその苦悩からあまり眠れていないようだったし、名前も先日の誘拐事件で心労を与えてしまったことを反省している。
唇を強く引き締め、名前はオペレーターとしての職務を代わりに引き受ける。
「マシュ。少なくとも、彼が敵対サーヴァントである可能性は低いよ。観測される魔力の質や揺らぎから推察するに、敵性は限りなく微小なの」
「あー、うん。名前が言うならそうなんだろう、うん」
魂が抜けたように腑抜けた声を出すロマニの背中を、名前は軽くぽんと叩いた。
「二人とも。ドレイクさんもダビデさんも、きっとこちらの味方になってくれる人だよ。話し合いで解決出来なければ、なるべく相手を傷付けないように峰打ち。できる?」
「はい、了解しました!」
とは言うものの、両者の言い争いは既にヒートアップしており手が付けられそうになかった。聞いていれば、ドレイクが手に入れた食料をダビデが根こそぎ食べてしまったらしい。どちらが悪いかなど一目瞭然だが、もしはぐれサーヴァントならば貴重な戦力となる。それに、彼の柔和で明るい表情からはどこか憎めない性格も感じ取れた。
「君たち! 僕に味方してくれるんだね!?」
「ああ!? 楯突くってんなら容赦はしないよ。アンタらも、話を聞いてほしけりゃアタシを倒してからにするんだね!」
「……これは駄目だね。立香ちゃん、マシュ。作戦開始」
「はい! マシュ、いくよ」
「了解です、マスター!」
元気よく返ってきた声に笑い、名前は戦闘のサポートをこなしていく。立香ちゃんは、ダビデと共に酔っ払いの海賊達を確実にいなしていった。手加減しながら味方も相手も気遣うという高度な芸当をやってのけたのは、さすがカルデアが誇る我らがマスターだと評価できる。 しかし、生身の人間である筈なのにサーヴァントと対等に戦えるドレイクも素晴らしい。彼女からは魔力も観測でき、生きながらにして伝説になっただけのことはあると感心してしまった。
「アンタら強いじゃないか! 酔いもすっかり醒めちまったよ」
ドレイクはそう言って豪快に笑うも、次の瞬間目に見えて眉を下げる。ぐううう、と盛大に鳴った腹の虫が原因だろう。 再びダビデが冷や汗をかき始めたのを見計らい、名前は先ほどから考えていたことをマシュに伝える。
「ねえマシュ。ドレイクさんに、手持ちの食料を差し上げましょう」
「え? ですが名前さん……いいのですか」
「うん。現在地からは霊脈も近いし、すぐに物資は送ってあげられる。宴会に突然乱入したのはこちらだしね。義理は通さないと」
「……はい。分かりました」
「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。用意してある食料も私の手作りだから。マシュの好きな物もたくさん作ってあるからね」
「う、ありがとうございます……!」
「立香ちゃん用にアップルパイも作っておいたよ」
「本当ですか? やったー!」
「───というわけで、お待たせしましたドレイク船長。もし宜しければ、腹ごしらえしながらお話を聞いて頂きたいのですが」
「ああ、そりゃ有難いけどさ。アタシ達は別に食料が無いことに困ってるわけじゃない。足が欲しいってんなら、勝者らしく命令すればいいじゃないか」
ドレイクは、異国の旅人が望む物をあっさりと言い当てる。 カルデアには航海に関する知識はあっても、実際に大海原を旅した者はいない。海流の流れ、気候の変動、無人島で生き抜く術など、本場の海賊にしか分からないことは多いのだ。味方になったのならば彼女以上に心強い人もなかなかいないだろう。
未だ垢抜けない少女達に大海賊が敗北したのだから、こちらを拒否したって不思議ではない。だがドレイクは彼女達を頭から否定せず、協力の姿勢すら見せてくれている。 粗暴だが頭の回転は早く、その上さっぱりとした性格の好ましい女性だ。手元の探査パネルを確認しつつ、名前はにっこりと笑う。
「たしかに立香ちゃんとマシュにはその権利があります。ですが、お願いをするのはあくまでも私たちカルデアなので。失礼だとは承知の上ですが、ドレイクさんとは対等な立場で友好的な関係を結びたいんです。その証だと思っていただければ」
「なるほどねえ。アンタ、結構欲張りな女なんだ」
「はい。ドレイクさんの舌も唸らせてみせますよ」
「あっはっは、言うねえ。いいよ、話を聞こうじゃないか」
堅苦しい話の前に、まずは交流を深めようじゃないか。ドレイクがそう高らかに宣言したのを皮切りにそのまま宴会へ突入するものの、やはりダビデは居心地が悪いのか肩身を狭くしている。 宝具から餃子の皮で作ったピザをいそいそと取り出すマシュの様子を見つつ、名前は笑顔で彼に声をかけた。
「ダビデ王も、お一ついかがですか」
「え、いや……。でも僕は」
「なら、先ほど一緒に戦ってくださったお礼ということで」
「僕は君たちに迷惑をかけただろう。何故そんなに優しくしてくれるんだい?」
へにゃりと眉を下げる様子を見て、名前は微笑ましく思った。誰かさんに似て不器用というか、なんとも可愛らしい人だ。
「あなたが必要だから」
「え……」
「私たちはあなたが欲しい。だから、その対価として食べていただけたら嬉しいです。お代の前払いみたいなものでしょうか」
「……そういうことなら喜んで。ねえ君、名前は?」
彼の端正で甘い顔に、初めて真摯な色が宿っていた。急激な変化に戸惑いつつも、名前はそっと唇を押し開く。
「ええと、失礼しました。名前と申します」
「名前か。うん、綺麗な名前だ。それと、そんなに畏まる必要はないよ。僕はしがない羊飼いでしかないからね」
「恐縮です。ええと、ダビデさん?」
「うん。ねえ名前、君の好みのタイプって何?」
「へ?」
「ああ、少しいきなりすぎたかな。それじゃ好きな食べ物は? 休みの日は何してる? どこに住んでるの?」
「ええ? 別に何でも答えられますけど、そんなに気になります?」
「うん、気になる」
「特に有益な情報は無いと思うんですが……」
「そんなことないよ。僕はただ、君のことが知りたいだけだから」
矢継ぎ早に飛んでくる質問を脳内で処理していると、突如通信が映像から音声のみへと切り替わる。プログラムの操作を担当していたロマニは、見たことが無い程に顔を青くしていた。名前はぎょっと飛び上がってから、ロマニの手を包み込むように握り締める。
「すみません、電力消費を抑えるために通信を切り替えますね。このままお話を続けてもいいですか?」
「ああ、構わないよ。名前の可愛い顔が見られないのは残念だけど」
「…………ええと、私の好きなタイプ、でしたっけ?」
「うん、そうそう。どんな男がいいんだい?」
ロマニは滅多に容姿を褒めてくれることはないし、マーリンの言葉は真に受けてはいけないと分かっている。ダビデさんもまたマーリンと同じ部類の男性だとは分かっているのだが、やはり美青年からの賛辞には照れてしまった。 片手でパタパタと顔を仰いでいると、もう一方の手をぎゅうと力強く握られる。ロマニは俯いていて、その表情が完全には見えない。けれど、不思議と彼が泣いているような気がした。
「私のタイプは、毎日隣にいて色々な幸せを分け合ってくれる人、ですかね」
「……なるほど。君には既に、心に決めている人がいるんだね」
「ふふ、はい。私には勿体ないくらいですけど」
「だからって諦めないけどね! むしろその方が燃えるし!」
「もう。ダビデさんにはたくさんの美人な奥さんがいたでしょう? 私じゃとても敵いませんって。それよりもほら。ピザ、いっぱい作ったので食べてみてください」
立香ちゃんもマシュも、勿論ドレイク船長だってとびきりの美人である。喜んで宴の輪に飛び込んでいったダビデさんを見送ってから、名前は項垂れるロマニの頭をぽんぽんと撫でた。片手をディスプレイに添えつつ、いつでも通信業務を開始できるように準備しておく。
「好みのタイプまで答える必要はなかっただろう……?」
弱々しく絞り出された声に瞠目しつつ、名前はデータの解析作業に没頭するダ・ヴィンチちゃんの背中を一瞬見詰めた。 レイシフト先では盛大な酒盛りが始まっており、島のどこにも敵性反応は確認できない。多少個人的な会話を交わしても問題なさそうだった。
「これからのことを考えると、信頼関係は築いておかないといけないなって思ったの」
「いや、うん。……分かってるんだ。ボク、女々しいよね」
「ロマニ、迷子の子供みたいに縮こまってたもんね」
「うう、情けない限りです」
「あとでいっぱい甘やかしてあげるから、もうちょっと待ってて。我慢できる?」
「は、はい。……あはは、ボクって本当に情けないよね」
「んー? むしろ、不安にさせてごめんねって謝りたいくらいだよ」
ふわふわに色付いた髪を撫でていると、過去の記憶が鮮明に甦ってきた。此処ではない遠い世界で、幼い子供をめいっぱい抱き締めた時に感じた温もり。あの柔らかいお日様の香りには、きっと永遠に巡り会うことはないのだろう。だが、それでいいと名前は思っていた。 身勝手にも捨ててしまった家族のことは、未だ朧気にしか思い出せない。だからこそ名前は、今この出逢いを大切にしなければならなかった。
*
フランシス・ドレイクは、文字通り世界を救った英雄だった。彼女の身体に吸い込まれていく聖杯を見て、カルデアの管制室は一時騒然となる。 黒幕が各特異点へ送り込んだ聖杯とは別に、元々この海には別の聖杯が存在したのだ。ドレイクは、カルデアがレイシフトする以前に発生していた世界崩壊の危機を、身を呈して消し去っていた。だからこそ彼女は聖杯から認められているのだ。
「かーっ美味いねえ! 名前、これはなんだい?」
「ワイバーンの肉味噌炒めですね。独特の風味なので、お酒のつまみには最適かと思います」
「ああ、ラム酒にはよく合うよ。こんな上品な料理をアタシらが食べてもいいのが疑問だけどねえ」
「あはは。ワイバーンって、こっちではゲテモノ扱いされてるんですよ? 皆あんまり食べてくれなかったので、むしろ有難かったです」
「そりゃ勿体ない。名前、アタシの船でコックとして働いてみないかい?」
「ふふ、魅力的なお誘いをありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきますね」
「あっはっは、フラれちまったね」
ドレイクは、甘ったるいラム酒をなみなみと注いだ聖杯を呷っている。先程から彼女の周りには絶えず船員が押し寄せ、船長の冒険譚を名前に話して聞かせてくれた。
───太陽の光を奪われた七つの海。世界の終焉を告げるような大渦潮の中心に出現した、幻の古代都市アトランティス。そこに君臨したのは、文明を一掃するべく猛威を奮った海神ポセイドンであった。大地を震わせ、海を荒らし、傲慢で粗暴な振る舞いを見せたポセイドンは、ドレイクに追い詰められた末、馬へと変貌し息絶えたのだという。
あまりのことに、名前は頭がクラクラするのを感じていた。オリンポス十二神の中でも、ゼウスやポセイドンは乱暴で女癖が悪いことで知られている。次々に身内と関係を持っていった彼らは、強大な力と引き換えに様々な事物を司る役割を負っていた。海神として名高いポセイドンは馬の神でもある。なにせ、女神と交わるために瞬時に馬へと変化したくらいだ。 彼らにとって、女とは屈服させ自らに従わせるだけの存在でしかない。ドレイクもきっと女であるというだけで侮られ、貶められたことだろう。だがそれでも彼女は豪胆に清々しく笑っていた。とても強くて、とびきり魅力的な女性である。
年相応にはしゃぐ立香ちゃんの声をBGMに、名前は手元のキーボードを操作した。かつて修めた学問や魔術の知識を頼りに、特異点の海図を再びディスプレイに映し出し、とある海図と重ね合わせる。
「ああ、やっぱりそうだ。ねえロマニ」
「ん、どうかした?」
名前は一時的にメインオペレーターの役割を勝ち取ったため、当面の間ロマニをメディカルチェックに専念させていた。だが、この事実はカルデアに責任者たる彼には即座に報告しなければならないだろう。
円盤状の世界に配置された三つの大陸、砂のように散らばる無数の孤島。ギリシャ神話の世界観を恐ろしいほど緻密に再現しているこの海域には、無数の海流や河川を支配した、実直な海神の名が相応しい。
「───此処はオケアノス。身勝手で残忍な神々が君臨する、忘れ去られた世界だ」
世界の片隅で枯れていく花々を見て、名前は胸の内を吐き出すように嘆息する。 濃密な魔力が満ちたこの広大な空間には、裸足で踏み荒らすのを躊躇うような色とりどりの美しい花が咲いていた。呼吸をする度に、噎せ返るような甘ったるい薫りが身体に染み渡っていく。 なんて残酷で、無慈悲な絶佳なのだろうか。
「やあ、ようこそ名前」
魔法使いのように、その男は音も立てずに現れた。白銀の雲が大空を揺蕩うかのごとく、華美な服装がふわふわと揺れている。その姿は兎のように真っ白で、絵画のように美しい。
「こんばんは、マーリン。突然ごめんなさい」
「キミならいつでも大歓迎だよ。ここでは満足にもてなすことも出来ないけどね」
「ううん、必要ない。今日はただ約束を果たしに来ただけだから」
「おや。用事が終わったら、すぐにでも帰ってしまうような言い草だね。とても寂しいよ」
マーリンは心底愉快そうにカラカラと笑っていた。台詞と表情の齟齬に苦笑しつつ、名前は首をそっと横に振る。
「もう、嘘つき」
「幻滅したかい?」
「まさか。相変わらずなんだなと思っただけ」
「なら良かった。さすがに可愛い女の子から嫌われるのは堪えるからね」
「またそんなこと言って。物好きなのも変わらないんだ」
「そうやって自分の価値を理解しようとしないのは、間違いなくキミの欠点だ」
「その言葉、そっくりそのままあなたに返すけど」
「……うん、やっぱりキミはいい女だね」
紫苑の瞳が、何かを見定めるようにゆっくりと細まった。その視線から逃れるように目を投げると、この世界の輪郭が映る。私が見る夢の果ては、何とも曖昧で朧げだった。
「マーリン。お願いがあるの」
───ねえ、わたしの魔法使いさん。欲張りで独り善がりな女の願いを、どうか叶えてほしいんだ。
目覚めると、胸いっぱいに清々しさが満ちていた。枕元の灯りを点ければ真っ暗だった部屋は次々と色を取り戻し、名前の現実を鮮やかに彩っていく。
すぐ横でふわふわと揺れるオレンジ色の髪を見詰めてから、名前は目薬を差して目を擦った。もう一度、瞼に焼き付けるようにロマニの寝顔を目に映す。ゆるゆると幸せそうに緩んだ口元からは僅かに涎が垂れていた。半ば呆れながらハンカチで拭うと、むにゃむにゃと何かを呟いてから掌に擦り寄ってくる。まるでフォウくんのようだった。
有難いことに、フォウくんは名前が触れることを許してくれていた。共に過ごす時間はマシュには及ばないものの、キッチンで料理をしている時や一人でティータイムを楽しんでいる時に突如現れては、ひらりと肩に乗ってくれるのだ。 きっと、寂しさに敏感な子なのだろう。賢くて優しくて、なんとも愛らしい獣。
思わず溺れてしまいそうになるくらい、名前はたくさんの優しさに囲まれている。けれど、このぬるま湯のような環境はあまりに居心地が良すぎて、たまに不安になる時があった。
「えへへ……、名前」
ロマニの柔らかな寝言が、脆くて不安定な胸に沁み渡っていく。名前は震える唇を押し開き、自分へ言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「うん。私は、ちゃんとここにいるよ。……ロマニ」
*
今回の舞台は、1573年の大海原だ。この時代のヨーロッパでは世界観が大きく変動する歴史的事件が頻発している。ルネサンス、宗教革命、そして大航海時代。人類の世界を文字通り広げることになった、まさに人類史のターニングポイントとも言える。
今回観測された海は、地形が歴史上のものとまるで一致しない。大航海時代に関わりの深いイングランドやスペイン、カリブ海。それらと似ているようで異なる海図が広がっていたのだ。 この分だと、気候や陸の生態系さえも予想の域に留まらないのだろう。立香ちゃんの体調管理も重要な任務になることが推測された。
司令席で一層気を引き締めていると、いつの間にか我らがマスターがマシュと共に管制室へやって来た。出発前のブリーフィングと簡単なメディカルチェックをこなす彼らの間をすり抜け、名前はマシュの宝具に積む物資の最終確認を行う。 霊脈にいつ到達できるか不明なため、最低でも一週間分の水と食料は確保しておかなければならない。日持ちする上にゴミが出ず、手だけで食べられる携帯食料を追求するため、ブーディカやエミヤには大変世話になったものだ。しみじみと思い返しながら、名前はダ・ヴィンチちゃん監修の下ありったけの物を搭載する。
凛々しい顔でコフィンへ向かう二人の少女を呼び止めて、名前はハグと額へのキスを贈った。無敵のおまじないである。カルデアに来た当初、不安で震えていた名前は、この口付けに心から励まされていた。 頬を赤らめつつハイタッチを交わしてくれた二人を見送り、名前はロマニと共に司令席へと腰を下ろす。
そしていつも通り無事にレイシフトが成功したかと思いきや───、気付けばマスターは海賊船の中心にいた。早速戦闘に突入した彼らを見て、前途多難そうだと肩をすくめる。
隣ではロマニが立香ちゃんを危険な目に遭わせてしまったことに落ち込んでいるが、ただでさえ今回はイレギュラーな事態が多々起こっているのだ。全部の責任を背負おうとするのは立派だが、何もかも自分で解決しようとするのはロマニの悪い癖である。
「うう、やっぱりボクはダメだなあ……」
「もう。ロマニ、今後はネガティブ発言禁止。ちゃんと数えてあとでペナルティー与えるから」
「ええ!?」
「ちなみに、一言につきロマニからのキス一回ね」
「そ、……それはペナルティーになってないんじゃ」
「はーいお二人さん! 仲が良いのは分かったから、今はちょーっとこっちを手伝ってくれると嬉しいな」
「ごめん、ダ・ヴィンチちゃん!」
名前は探査プログラムを起動させ当面の業務を終えると、こっそりロマニの耳元に顔を寄せる。
「今の、冗談じゃないから。ちゃんと覚えておいてね」
首筋から耳元まで余すところなく真っ赤にさせたロマニを見て、名前はそっと笑んだ。 自分に残された時間は少ないのだから、これ以上後悔なんてしたくない。やりたいことは何でもやろうと思ったし、言いたいことは何でもその場で言うようにしていた。自分が生きた痕跡を、きちんとこの世に残しておくために。
戦闘に楽々勝利した立香ちゃんは、海賊達の案内の下、近くにある海賊島を目指すことになった。彼らは何かにつけてすぐに歌い出し、話題がよく横道に逸れたが、名前はその朗らかさを素直に好ましく思う。
しばらく海を渡ると、いよいよ海賊島へ辿り着いた。到着した先で襲い掛かってきた海賊を蹴散らせば、これまた道案内を買って出てくれる。戦闘力が物を言う世界は、不必要な話し合いがないのでとても楽だった。
そして判明したのは、海賊島を牛耳っていたのが生前のフランシス・ドレイクだということ。しかも、顔に走った傷すらも倒錯的な色香を放つ、スタイル抜群の美人である。伝聞とは性別が異なる事実にカルデア一同が驚く間、案内役の海賊が彼女に声をかけようとした。
だが、どうやら何かトラブルがあったようだ。その場は動揺したような喧騒で満ちており、無数の海賊達が何かを取り囲むように輪になっている。その中心で胸を張ったドレイクは、その華奢な身体から咆哮じみた声を放っていた。画面越しの名前達でさえ、思わず気圧されてしまう程の怒気だ。 それでも先導してくれた海賊は、こちらに敗北したという結果があるためか、精いっぱい声を張り上げてくれた。
「せ、船長! いかがしやしたか!?」
「ああん? 次から次へとなんだい。……こりゃまたおかしな奴らが来たもんだ。まとめて縛り上げちまいな」
予想していた中でも最悪と呼べる展開に、管制室にまで緊張が走る。彼女の周囲に群がっていた数多の部下達が、一斉に立香ちゃん達を取り囲んだ。
「待ってくだせえ、船長! こいつら、こう見えて見所があるんスよ。アッシらの命を助けたばかりか、船長に憧れてるとかなんとか」
「はあ? アタシが憧れ?」
「あー! そう! 僕もあなたに憧れてここまで来たんです!」
海賊の説得にドレイクが一瞬きょとりと瞳を丸めた後、見知らぬ男の声が大きく響き渡った。両手を小さく上げながら恐る恐る登場した青年は、短髪を揺らしながら冷や汗をかいている。当のドレイクはといえば、彼を胡乱げに一瞥してから鼻を鳴らした。
「さっきと言ってることがまるで違うじゃないか。チキンはチキンらしく火で炙られてな」
「だからね、僕はこれでもイスラエルの王様をやってたんだよ。羊飼いのダビデといえば、この時代でも結構有名だと思うんだけど!」
名前のすぐ隣で、ハッと息を呑む気配がした。ローマの地に出現した魔神柱───彼らを使役したとされる歴史的英雄の名前は、古代イスラエルの王ソロモンだ。ダビデ王と言えば、ソロモン王の父親。かの救い主の血筋の大元となった人物でもある。 マシュも同じ結論に至ったのか、強ばった声でカルデアに通信を繋ぐ。
「ドクター。ダビデ王は、七十二の魔神を召喚したとされるソロモン王の父親です。黒幕と何らかの関わりがあることも推測されますが」
「…………」
「ドクター?」
隣を見れば、その顔がかつて無い程に青ざめていた。 ロマニは、かつて名前に夜な夜なソロモン王の逸話を話して聞かせてくれたものだった。すなわち、それ程にソロモンに対する思い入れは深い。
ロマニにとってソロモン王が黒幕であることは、己が全幅の信頼を置いていた人物に裏切られたような心情なのだろう。ローマ以降、ロマニはその苦悩からあまり眠れていないようだったし、名前も先日の誘拐事件で心労を与えてしまったことを反省している。
唇を強く引き締め、名前はオペレーターとしての職務を代わりに引き受ける。
「マシュ。少なくとも、彼が敵対サーヴァントである可能性は低いよ。観測される魔力の質や揺らぎから推察するに、敵性は限りなく微小なの」
「あー、うん。名前が言うならそうなんだろう、うん」
魂が抜けたように腑抜けた声を出すロマニの背中を、名前は軽くぽんと叩いた。
「二人とも。ドレイクさんもダビデさんも、きっとこちらの味方になってくれる人だよ。話し合いで解決出来なければ、なるべく相手を傷付けないように峰打ち。できる?」
「はい、了解しました!」
とは言うものの、両者の言い争いは既にヒートアップしており手が付けられそうになかった。聞いていれば、ドレイクが手に入れた食料をダビデが根こそぎ食べてしまったらしい。どちらが悪いかなど一目瞭然だが、もしはぐれサーヴァントならば貴重な戦力となる。それに、彼の柔和で明るい表情からはどこか憎めない性格も感じ取れた。
「君たち! 僕に味方してくれるんだね!?」
「ああ!? 楯突くってんなら容赦はしないよ。アンタらも、話を聞いてほしけりゃアタシを倒してからにするんだね!」
「……これは駄目だね。立香ちゃん、マシュ。作戦開始」
「はい! マシュ、いくよ」
「了解です、マスター!」
元気よく返ってきた声に笑い、名前は戦闘のサポートをこなしていく。立香ちゃんは、ダビデと共に酔っ払いの海賊達を確実にいなしていった。手加減しながら味方も相手も気遣うという高度な芸当をやってのけたのは、さすがカルデアが誇る我らがマスターだと評価できる。 しかし、生身の人間である筈なのにサーヴァントと対等に戦えるドレイクも素晴らしい。彼女からは魔力も観測でき、生きながらにして伝説になっただけのことはあると感心してしまった。
「アンタら強いじゃないか! 酔いもすっかり醒めちまったよ」
ドレイクはそう言って豪快に笑うも、次の瞬間目に見えて眉を下げる。ぐううう、と盛大に鳴った腹の虫が原因だろう。 再びダビデが冷や汗をかき始めたのを見計らい、名前は先ほどから考えていたことをマシュに伝える。
「ねえマシュ。ドレイクさんに、手持ちの食料を差し上げましょう」
「え? ですが名前さん……いいのですか」
「うん。現在地からは霊脈も近いし、すぐに物資は送ってあげられる。宴会に突然乱入したのはこちらだしね。義理は通さないと」
「……はい。分かりました」
「そんなに落ち込まなくても大丈夫だよ。用意してある食料も私の手作りだから。マシュの好きな物もたくさん作ってあるからね」
「う、ありがとうございます……!」
「立香ちゃん用にアップルパイも作っておいたよ」
「本当ですか? やったー!」
「───というわけで、お待たせしましたドレイク船長。もし宜しければ、腹ごしらえしながらお話を聞いて頂きたいのですが」
「ああ、そりゃ有難いけどさ。アタシ達は別に食料が無いことに困ってるわけじゃない。足が欲しいってんなら、勝者らしく命令すればいいじゃないか」
ドレイクは、異国の旅人が望む物をあっさりと言い当てる。 カルデアには航海に関する知識はあっても、実際に大海原を旅した者はいない。海流の流れ、気候の変動、無人島で生き抜く術など、本場の海賊にしか分からないことは多いのだ。味方になったのならば彼女以上に心強い人もなかなかいないだろう。
未だ垢抜けない少女達に大海賊が敗北したのだから、こちらを拒否したって不思議ではない。だがドレイクは彼女達を頭から否定せず、協力の姿勢すら見せてくれている。 粗暴だが頭の回転は早く、その上さっぱりとした性格の好ましい女性だ。手元の探査パネルを確認しつつ、名前はにっこりと笑う。
「たしかに立香ちゃんとマシュにはその権利があります。ですが、お願いをするのはあくまでも私たちカルデアなので。失礼だとは承知の上ですが、ドレイクさんとは対等な立場で友好的な関係を結びたいんです。その証だと思っていただければ」
「なるほどねえ。アンタ、結構欲張りな女なんだ」
「はい。ドレイクさんの舌も唸らせてみせますよ」
「あっはっは、言うねえ。いいよ、話を聞こうじゃないか」
堅苦しい話の前に、まずは交流を深めようじゃないか。ドレイクがそう高らかに宣言したのを皮切りにそのまま宴会へ突入するものの、やはりダビデは居心地が悪いのか肩身を狭くしている。 宝具から餃子の皮で作ったピザをいそいそと取り出すマシュの様子を見つつ、名前は笑顔で彼に声をかけた。
「ダビデ王も、お一ついかがですか」
「え、いや……。でも僕は」
「なら、先ほど一緒に戦ってくださったお礼ということで」
「僕は君たちに迷惑をかけただろう。何故そんなに優しくしてくれるんだい?」
へにゃりと眉を下げる様子を見て、名前は微笑ましく思った。誰かさんに似て不器用というか、なんとも可愛らしい人だ。
「あなたが必要だから」
「え……」
「私たちはあなたが欲しい。だから、その対価として食べていただけたら嬉しいです。お代の前払いみたいなものでしょうか」
「……そういうことなら喜んで。ねえ君、名前は?」
彼の端正で甘い顔に、初めて真摯な色が宿っていた。急激な変化に戸惑いつつも、名前はそっと唇を押し開く。
「ええと、失礼しました。名前と申します」
「名前か。うん、綺麗な名前だ。それと、そんなに畏まる必要はないよ。僕はしがない羊飼いでしかないからね」
「恐縮です。ええと、ダビデさん?」
「うん。ねえ名前、君の好みのタイプって何?」
「へ?」
「ああ、少しいきなりすぎたかな。それじゃ好きな食べ物は? 休みの日は何してる? どこに住んでるの?」
「ええ? 別に何でも答えられますけど、そんなに気になります?」
「うん、気になる」
「特に有益な情報は無いと思うんですが……」
「そんなことないよ。僕はただ、君のことが知りたいだけだから」
矢継ぎ早に飛んでくる質問を脳内で処理していると、突如通信が映像から音声のみへと切り替わる。プログラムの操作を担当していたロマニは、見たことが無い程に顔を青くしていた。名前はぎょっと飛び上がってから、ロマニの手を包み込むように握り締める。
「すみません、電力消費を抑えるために通信を切り替えますね。このままお話を続けてもいいですか?」
「ああ、構わないよ。名前の可愛い顔が見られないのは残念だけど」
「…………ええと、私の好きなタイプ、でしたっけ?」
「うん、そうそう。どんな男がいいんだい?」
ロマニは滅多に容姿を褒めてくれることはないし、マーリンの言葉は真に受けてはいけないと分かっている。ダビデさんもまたマーリンと同じ部類の男性だとは分かっているのだが、やはり美青年からの賛辞には照れてしまった。 片手でパタパタと顔を仰いでいると、もう一方の手をぎゅうと力強く握られる。ロマニは俯いていて、その表情が完全には見えない。けれど、不思議と彼が泣いているような気がした。
「私のタイプは、毎日隣にいて色々な幸せを分け合ってくれる人、ですかね」
「……なるほど。君には既に、心に決めている人がいるんだね」
「ふふ、はい。私には勿体ないくらいですけど」
「だからって諦めないけどね! むしろその方が燃えるし!」
「もう。ダビデさんにはたくさんの美人な奥さんがいたでしょう? 私じゃとても敵いませんって。それよりもほら。ピザ、いっぱい作ったので食べてみてください」
立香ちゃんもマシュも、勿論ドレイク船長だってとびきりの美人である。喜んで宴の輪に飛び込んでいったダビデさんを見送ってから、名前は項垂れるロマニの頭をぽんぽんと撫でた。片手をディスプレイに添えつつ、いつでも通信業務を開始できるように準備しておく。
「好みのタイプまで答える必要はなかっただろう……?」
弱々しく絞り出された声に瞠目しつつ、名前はデータの解析作業に没頭するダ・ヴィンチちゃんの背中を一瞬見詰めた。 レイシフト先では盛大な酒盛りが始まっており、島のどこにも敵性反応は確認できない。多少個人的な会話を交わしても問題なさそうだった。
「これからのことを考えると、信頼関係は築いておかないといけないなって思ったの」
「いや、うん。……分かってるんだ。ボク、女々しいよね」
「ロマニ、迷子の子供みたいに縮こまってたもんね」
「うう、情けない限りです」
「あとでいっぱい甘やかしてあげるから、もうちょっと待ってて。我慢できる?」
「は、はい。……あはは、ボクって本当に情けないよね」
「んー? むしろ、不安にさせてごめんねって謝りたいくらいだよ」
ふわふわに色付いた髪を撫でていると、過去の記憶が鮮明に甦ってきた。此処ではない遠い世界で、幼い子供をめいっぱい抱き締めた時に感じた温もり。あの柔らかいお日様の香りには、きっと永遠に巡り会うことはないのだろう。だが、それでいいと名前は思っていた。 身勝手にも捨ててしまった家族のことは、未だ朧気にしか思い出せない。だからこそ名前は、今この出逢いを大切にしなければならなかった。
*
フランシス・ドレイクは、文字通り世界を救った英雄だった。彼女の身体に吸い込まれていく聖杯を見て、カルデアの管制室は一時騒然となる。 黒幕が各特異点へ送り込んだ聖杯とは別に、元々この海には別の聖杯が存在したのだ。ドレイクは、カルデアがレイシフトする以前に発生していた世界崩壊の危機を、身を呈して消し去っていた。だからこそ彼女は聖杯から認められているのだ。
「かーっ美味いねえ! 名前、これはなんだい?」
「ワイバーンの肉味噌炒めですね。独特の風味なので、お酒のつまみには最適かと思います」
「ああ、ラム酒にはよく合うよ。こんな上品な料理をアタシらが食べてもいいのが疑問だけどねえ」
「あはは。ワイバーンって、こっちではゲテモノ扱いされてるんですよ? 皆あんまり食べてくれなかったので、むしろ有難かったです」
「そりゃ勿体ない。名前、アタシの船でコックとして働いてみないかい?」
「ふふ、魅力的なお誘いをありがとうございます。お気持ちだけ受け取っておきますね」
「あっはっは、フラれちまったね」
ドレイクは、甘ったるいラム酒をなみなみと注いだ聖杯を呷っている。先程から彼女の周りには絶えず船員が押し寄せ、船長の冒険譚を名前に話して聞かせてくれた。
───太陽の光を奪われた七つの海。世界の終焉を告げるような大渦潮の中心に出現した、幻の古代都市アトランティス。そこに君臨したのは、文明を一掃するべく猛威を奮った海神ポセイドンであった。大地を震わせ、海を荒らし、傲慢で粗暴な振る舞いを見せたポセイドンは、ドレイクに追い詰められた末、馬へと変貌し息絶えたのだという。
あまりのことに、名前は頭がクラクラするのを感じていた。オリンポス十二神の中でも、ゼウスやポセイドンは乱暴で女癖が悪いことで知られている。次々に身内と関係を持っていった彼らは、強大な力と引き換えに様々な事物を司る役割を負っていた。海神として名高いポセイドンは馬の神でもある。なにせ、女神と交わるために瞬時に馬へと変化したくらいだ。 彼らにとって、女とは屈服させ自らに従わせるだけの存在でしかない。ドレイクもきっと女であるというだけで侮られ、貶められたことだろう。だがそれでも彼女は豪胆に清々しく笑っていた。とても強くて、とびきり魅力的な女性である。
年相応にはしゃぐ立香ちゃんの声をBGMに、名前は手元のキーボードを操作した。かつて修めた学問や魔術の知識を頼りに、特異点の海図を再びディスプレイに映し出し、とある海図と重ね合わせる。
「ああ、やっぱりそうだ。ねえロマニ」
「ん、どうかした?」
名前は一時的にメインオペレーターの役割を勝ち取ったため、当面の間ロマニをメディカルチェックに専念させていた。だが、この事実はカルデアに責任者たる彼には即座に報告しなければならないだろう。
円盤状の世界に配置された三つの大陸、砂のように散らばる無数の孤島。ギリシャ神話の世界観を恐ろしいほど緻密に再現しているこの海域には、無数の海流や河川を支配した、実直な海神の名が相応しい。
「───此処はオケアノス。身勝手で残忍な神々が君臨する、忘れ去られた世界だ」