お月見以降、名前は毎晩貪るように書物を読み漁っていた。観測された特異点に関して調査するという名目もあったが、一番の目的は過去に蓄えた知識を呼び覚ますことである。

カルデアに来たばかりの頃、名前は暇さえあれば読書をしていた。理由は単純だ。魔術の類いに一切触れない人生を歩んできたため、実験の成功率を上げるべく知識を植え付けろ、と職員から命令されたのである。 それは強制的なものであったが、未知の事象に触れることができたのは楽しかったと記憶している。そう考えていなければ、きっともっと早くに名前の心は粉々に砕けていたに違いない。

己の身体に巡る魔術回路を正しい形で用いること。そのためならば名前は、忌まわしい記憶に眠っていた唯一の原石を掘り起こすことだって厭わなかった。分厚い用語辞典を引っ張り出し、ロマニへ質問することで欠けた知識を補いながら、空いた時間があればひたすら文字列を追い続けた。 そしてようやく、ダ・ヴィンチちゃんに師事できるレベルにまで達することが出来たのだ。

その日も名前は、大量の書物を抱えながら廊下を歩いていた。書庫に篭ってもいいのだが、あまりに人気のない場所はどうにも落ち着かない。談話室にでも行こうかと考えながらせかせか歩いていると、視界の隅に柔らかな櫻色が揺れるのが見えた。

「名前さん?」
「あ、マシュ。こんばんは」
「はい、こんばんは。今日も勉強をされていたんですね」

マシュは、パーカーに眼鏡といういつも通りのスタイルで、僅かばかりぎこちなく微笑んでいた。その様子に内心首を傾げつつ、名前はおどけたように肩をすくめる。

「マシュはどうしたの? 立香ちゃんの部屋に行く途中?」
「いえ……! ただ、少し散歩でもしようかと」
「そっか。私、これを部屋に置いたらお茶する予定だったんだけど、もし良ければ一緒にどう?」
「はい、ぜひ! お、お邪魔でなければ」

カルデアにおいて、ロマニとダ・ヴィンチちゃんがマシュを発見したのと、名前を保護したのはほぼ同時期だったという。 アニムスフィア家が主導で行った非人道的所業。英霊と人間を融合させるべく遂行されたデミ・サーヴァント実験は、召喚に成功したものの英霊が目覚めないという結果に終わった。 ───名前が踏み台になれたからこそ、マシュ・キリエライトの身体は傷付かずに済んだ。それだけでも、名前がこの世界に来た意味はあったというものである。

二人きりで話すのが久しぶりということもあり、話題に事欠くことはなかった。あっという間に到着した自室へマシュを招き入れた後、名前は控えめに首を傾げて微笑む。

「ねえマシュ。食堂に行ってもいいけど、もし人目が気になるようだったら部屋で話す?」
「え?」
「気のせいだったら流していいんだけど、何か話したいことがあるんじゃないかなと思って」
「あ……。名前さんには、何でもお見通しなんですね」
「私、マシュのことが大好きだからね」

好きな人のことは思わず観察しちゃうものでしょ。名前が続けた言葉を受けて、マシュはほわんと頬を赤らめる。 それを見てまた笑ってから、名前は部屋に備え付けられたポットで流れるようにハーブティーを淹れた。昼間作っておいたクッキーを皿に並べて、ベッドサイドのテーブルに置く。

「はい、準備完了」
「あ、ありがとうございます」
「もう夜も遅くなってきたから、おやつを食べたのは二人きりの秘密ね」
「……はい」

小さくはにかんだマシュは、そっと瞼を伏せる。逡巡するように指先を弄んでから、名前を恐る恐る見上げてきた。

「あの、名前さん。大勢の人から愛されるというのは、一体どういう気持ちなのでしょうか」

この少女も、随分大人びた表情をするようになった。少し寂しく思いながら、名前は髪を耳にかけつつ笑みを浮かべる。

藤丸立香。マシュにとって初めての先輩であり、多くのサーヴァントから一途な信頼と愛情を向けられる少女。マシュの世界に産み落とされた、複雑ながらも慈しむべき感情の多くは、彼女との触れ合いによって様々な色を帯び、今もなお形を変えているのだろう。

「そうだね。私は想像することしか出来ないけど……、きっと寂しいんじゃないかな」
「寂しい、ですか?」

マシュは、意外そうに瞬きを繰り返した。赤子のように無垢な瞳を見返してから、名前は視線を外して真っ白な壁を見詰める。

「何かを得るには、何かを失うしかないから。その人はたくさんの愛を得るのと引き換えに、何かを犠牲にしている筈だよ」
「それは……得たもの以上に失ったものの方が大きい、ということでしょうか」
「そうしないために、人間は日々を一生懸命に生きていくんだと思う。あくまで私の意見なんだけどね」
「……ですが分からないんです。そのために何をすればいいのか。一体、自分に何が出来るのか」
「私が選んだ答えと、マシュが選ぶ答えはきっと違うものだからなあ。それでも、敢えて私から一つアドバイスするとすれば───立香ちゃんのことを、全力で愛してみればいいんじゃないかな」
「え、……え!?」

耳元まで綺麗に紅く染めたマシュが慌てているのを横目に、名前はハーブティーをゆっくりと飲み干した。甘さ控えめのクッキーを咀嚼し、我ながら会心の出来栄えだと満足する。

「私はマシュを愛してるよ。立香ちゃんもダ・ヴィンチちゃんも、ロマニのことも愛してる。だけどその感情に優劣なんてないの。比べるなんてとても出来ないくらい、みんなのことを大切にしたいと思ってる」
「……はい」
「だからねマシュ。一番愛したいと思う人を、今はひたすら真っ直ぐに愛すればいい。それで、もしほんの少しでも余裕が出来たら、他の人のことも思い出してみて」
「……名前さん」
「ん?」
「わたしは、名前さんのことを、愛しています」

たどたどしく紡がれた告白に、鼻の奥がつんと痛むのが分かった。僅かに滲んだ視界から逃れるように瞼を閉じて、目の前の小さな身体をそっと抱き締める。

「ふふ、ロマニに羨ましがられちゃうな。最近また一段と、マシュのお父さんみたいに振舞ってるでしょう?」
「その仮説に基づくならば、名前さんはわたしの母親に該当するのでしょうか」
「ん、んん!? そ、それはちょっと話が飛躍しすぎなんじゃないかな!」
「すみません、冗談です」
「……もう。あまり大人を揶揄うんじゃありません」

名前の身体は、度重なる実験によって生殖能力が失われている。血が繋がる我が子を腕に抱くことは二度と出来ないが、この無垢な少女が己を慕ってくれているならばそれでいいと心から思ったのだ。

マシュ・キリエライトの世界が鮮やかな色彩で満ちていく様を、これからもずっと見守っていたかった。







ギリシャ神話において、エウリュアレの名を持つ者は二人いる。一人は、アステリオスの義理の父であるミノス王の娘。もう一人は、ゴルゴン姉妹の次女である女神だ。

今回のグランドオーダーでは、生前縁のあった者同士が出逢う事例が多い。ならば前者かと思われたが、英霊の座に召し上げられる程に名をあげているのは当然女神である。神霊がサーヴァントとして現界した前例もあるため、この仮説の信憑性は高かった。

アステリオスの回復を待つ間、名前達は船上で作戦会議を行っていた。黒幕が神霊を人質にとっているのだとすれば、事態は思った以上に複雑化している。管制室で緊迫した空気が流れる中、ゆったりとした雰囲気を崩さない羊飼いがおもむろに口を開いた。

「確かに彼の狙いは僕自身というより、僕の宝具だったような気がする」
「つまり相手の目的はダビデを消すことじゃなくて、ダビデの宝具を利用することなのかな?」

指先を顎に当てつつ、名前は推論を投げかける。恐らくね、と軽い口調で同調したダビデがへらりと笑みを見せた。

「僕の宝具を使えば、世界なんて簡単に滅びるし」
「……『契約の箱アーク』の話だよね。ダビデ、皆に説明してもらえる?」
「ああ、そうか。君にしか話していなかったね」

契約の箱───アークには、古代イスラエルにおける預言者モーセが神から授かった十戒が納められている。箱を開けたり壊そうとした者には災いが訪れるとされる、云わばパンドラの箱だ。 ただでさえ存在が不安定な特異点でアークが開け放たれた場合、空間そのものが消滅する可能性がある。さらにアークへ神霊が捧げられたとすれば、大航海時代そのものが歴史上から綺麗に消え去る恐れさえあるのだ。 人類史への打撃は凄まじいため、黒幕はそれが狙いなのではないかとダビデは話を締め括る。

「だから諸君、僕のことをしっかり守ってくれたまえ」
「そんなわけで、今回は聖杯探索とダビデのお守りが同価値の任務になるんだ。ダビデは目を離したらすぐにいなくなりそうだから、皆ちゃんと面倒見てくれる?」
「……ねえ名前、気のせいかな。僕、完全に子供扱いされている気がするんだけど」
「気付いたならきちんと自覚してね。それで、敵のアジトについてなんだけど」

拗ねたような顔をしたダビデは放置しつつ、名前はモニターに映し出された海図に一瞬視線を配った。

「今回の特異点は主に三つの大陸で構成されているんだけど、海や陸地そのものは歴史上のものとほぼ同一だと考えられるの。過去の座標軸や様々な海図と照らし合わせた結果、今いる場所は地中海だと推測できたよ」
「ああ、アタシも同じ意見だ。この潮の感じはギリシャに近いんじゃないかねえ」

こちらの予想をピタリと当てられて、思わず名前は微笑む。アステリオスと出逢うまでにいくつか海図を得ていたため、ドレイクは確信を持って話しているようだ。 何度か通信をしている内に敬語を封じられた名前は、脳内で言葉を選びつつ彼女に同意する。

「うん、カルデアも同様の認識だ。実は、さっき一瞬だけ微力な敵性反応が観測できたの。此処から東へ真っ直ぐ進んだ、ナイル川の辺りなんだけど」
「成程ね。確かにアタシが知る地形とはまるで違うや。……うん、東に進むのは賛成だよ。立香はどうだい?」
「はい、答えを出す前に聞きたいんですけど……名前さん。一瞬だけの反応ということは、エウリュアレの可能性は低いんですよね?」

相手には、元々あった反応を巧みに消すだけの技量があるのではないか。マスターの瞳に滲む不安を感じ取り、名前は何の躊躇いもなく肯いた。

「うん、そうだね。エウリュアレだったら気配を消す必要なんて無いし、相手方に有能なキャスターかルーラーがいるのは間違いないと思う。でも幸いなことに、こちらは遠距離支援が得意な面々が揃っているからね。カルデアも全力でバックアップするし」
「ありがとうございます。……はい、わたしも異論無しです!」
「うん、ありがとう。よし、少し長めの航海になるとは思うんだけど皆気をつけて……、っ!?」

突如、ヒュンと鋭く風を切る音が届いたかと思えば、先ほどまで隅で膝を抱えていたダビデが甲板に寝転がっていた。逸早く敵襲の可能性を感じ取ったドレイクは、ピストルを構えながら辺りを注意深く見回していく。周囲には小さな無人島が連なるように点在していた。

「あいてて……。ん、何だいこれは?」

ダビデは自らの額に付着していた吸盤付きの矢を手に取り、興味深そうな瞳で見詰めていた。一気に空気が緩むものの、ドレイクだけは群島の中で最も遠くにある森に視線を置き、険しい顔をしている。

名前もまた、心臓に鉛を流し込まれたような危機感を覚えていた。感知される筈の魔力反応が全く無かったのだ。キャスターならまだしも、アーチャーと推測される相手の気配が微塵も感じられなかったのは違和感しかない。

「んー、手紙は特に見当たらないね。とりあえず飛んできた方向に行ってみるかい?」
「もしかしたら味方かもしれないですよね。うん、そうしましょう!」

立香ちゃんの凛とした掛け声に、一同が大きく賛同する。名前は緊張を崩さないまま、目標に近付いている間も探索パネルを注視していた。敵対した場合を想定して、サポートに徹するべく管制室側の映像は切っておくことにする。

しかし実際に現れたのは───熊のぬいぐるみを抱えた、スイーツ脳の女神だったのだ。

「あら、あなたがマスターなのね? 随分可愛らしい子だわ。ね、ダーリン」
「うんうん、そうだな。スタイル抜群の美少女と美女が揃っててすばら、……って痛い痛い尾てい骨をグリグリするのはやめて!?」

アルテミスには、やはりお月見の時の記憶が無いようだ。名前が記憶を思い出すキッカケとなったため御礼を言いたかったのだが、それはまたの機会で良いだろう。探索に集中するべく、名前は音声のみの通信を継続していた。

一通り自己紹介を済ませてから───熊の正体は驚くことに、かの有名なオリオンだった───彼女がわざわざこちらを呼び出した理由を語り出す。 ギリシャ神話において、狩人として名高いアタランテ。彼女とアルテミスは召喚されてからずっと行動を共にしていたのだが、突如複数のサーヴァントから襲撃されたのだと言う。
その正体は、アタランテが属するアルゴナイタイを率いていた英雄イアソン。ヘラクレスを巧みに操る彼の急襲から敬愛する女神を守るため、気高き弓兵である彼女は身を呈し、結果的に攫われてしまったそうだ。 そんなアタランテの想いに反することだとは分かっているが、どうしても彼女を助けに行きたい。ならば自分の味方になってくれそうなマスターにお願いしよう、と思い立ったのが事の顛末だったらしい。

「アルテミス、こちらこそよろしく。とても心強いよ」

立香ちゃんが手を差し出すと、玲瓏な女神は甘く微笑んだ。

「うふふ、良かったわ。断られたらどうしようかと思っちゃった」
「うわあバイオレンスな気配を感じるー」
「私に怒られるような何かをしてなければダーリンに向くことはないから安心してね」
「ひぃっ、ノンブレス怖い!」

夫婦漫才を見せつけられて苦笑する一同を見守りつつ、名前はアルテミスの反応が未だ微弱にしか観測できないことに首を傾げていた。

「お困りのようだね、名前」
「あ、ダ・ヴィンチちゃん。ちょうど良かった」
「君のダーリンじゃなくて悪いけど」
「もう。ダ・ヴィンチちゃんがわざわざ来てくれたことが嬉しいんだから、今ロマニは関係ないの」
「……うん、そうだね。すまない」

万能の天才は、名前の座る椅子に寄り添うようにして体重をかけてきた。ふむと顎に手を当てつつ、さらりと揺れた豊かな髪を掻き上げている。

「今ロマニにも確認してきたけど、オルレアンで観測したアルテミスの霊基と、今回の彼女に明確な差異はないみたいだ」
「ありがとう。特異点そのものがギリシャ神話の地形を模しているから、そこと関係があるのかも。何にせよ、今後も観測できないサーヴァントがいるかもしれないね。注意しなきゃ」

その時、気合を入れ直そうと深呼吸をする名前の背後で、壁にもたれ掛かるように立つ影があった。

「───それで、もしも観測が失敗してこちらが被害を被った場合、キミ一人で責任を負うつもりなのかい?」

自身に向けられた固い声に肩を震わせつつ、名前は恐る恐る後方へと目を向けた。ロマニはいつもと同じ微笑みを湛えているが、その瞳には冷ややかな色が滲んでいる。胸が押し潰されそうになった名前は、この場に相応しい言葉を見付けられず冷や汗をかくしかない。 そんな緊迫した空気を壊したのは、おどけたように首を傾げたダ・ヴィンチちゃんだった。

「おいおいドクター。恋人をそんなに怖がらせるなよ」
「え……、ボクそんなに怖かった?」

きょとんと目を丸くしたロマニからは、先程の強張った空 気がすっかり霧散していた。内心胸を撫で下ろしつつ、名前は目線をそろりと左下に向ける。

「うん、こわかった」
「うっ、……ごめん名前! その、少し心配になっただけで、別に怒っていたわけでは」
「なあロマニ、君自身の感情の否定することはないだろ。愛してるから心配するし好きだから怒るし、何より自分を頼ってくれないことがもどかしいんだろう?」
「……なんだか、改めて客観的に言われると照れくさいものがあるね」
「本当に面倒くさい男だな、君は」
「ひ、酷いな!」

ダ・ヴィンチちゃんから勢いよく背中を叩かれ、ロマニは転がり落ちるように名前の目の前で地面に這いつくばった。後頭部を擦りながらも、彼はしっかりとこちらを見据え、困ったように微笑んでいる。

「ねえ名前。ボクにキミを支えさせてくれないかな」
「……うん。お願い、助けてロマニ」

心底ほっとしたように唇を緩ませたロマニは、すかさず名前の隣に腰を下ろした。 先程まで医療班は、メディカルチェックと並行して敵の情報収集にあたっていた。そのデータを共有しつつ、新たに判明した事実を分析する作業へと移っていく。

「名前さん!」
「立香ちゃん? どうしたの、何かあった!?」

大声で名前を呼ばれて慌てるも、彼女の声は喜色に満ちており溌剌としていた。

「はい、アステリオスが完全復活しました!」
「わ、本当に!?」

島の砂浜まで出た際、彼はしっかりとした足取りで一同を出迎えてくれたのだと言う。力持ち故に海賊達からも頼りにされて嬉しそうにしているとの話を聞き、自然と名前の口元も緩んだ。

「それで、アステリオスが名前さんと話したいみたいなんです。もしお忙しくなければ、と思って」
「へ?……うん、私は大歓迎だよ。ちょっと待っててね」

ロマニとアイコンタクトを交わせば、彼の方が何故か破顔しながら名前の頭をぽんぽんと撫でてくる。甘やかされているような気がして悔しさを覚えつつ、「お願い」とだけ唇を動かした。「任せて」と小さく返ってきた言葉に今度こそ微笑んでから、名前は急いで映像を繋げた。

「あ、アステリオス?……うん、調子が良さそうで安心した。ふふ、そうだよ。名前です」





「───ねえドクター。可愛いですね、名前さん」
「うん。……ありがとうね、立香ちゃん」
「いえいえ。そういえば前から気になってたんですけど、ドクターって名前さんにプロポーズしないんですか?」
「ぶっ!?」

完全に気が緩んでいたところに爆弾を放り込まれ、ロマニは一人で大きく噎せてしまった。名前をちらりと横目で確認すれば、こちらを気にすることなく楽しそうに会話を続けている。ほっと安堵しながら、ロマニは自身の胸に穏やかな感情が湧き上がるのを感じた。 己だけでは埋められない彼女の心の隙間に、純真なアステリオスは寄り添ってくれるだろうから。などと軽く現実逃避をしつつ、ロマニは純粋に疑問を投げかけている様子の立香に目を向ける。

「ええとね、立香ちゃん。考えていないわけじゃないけど、今は一緒にいられるだけで満足だから」
「……何でそんなに欲が無いんですか?」
「あはは、だって現状で充分幸せなんだ。でもね、将来こうなれたらいいなっていう夢はあるよ」

きょとりと目を丸くする少女は、あどけない顔でこちらの言葉を待っている。本来庇護されるべき子供達に、この世界の命運を背負わせている傲慢さを自覚しつつ、ロマニはゆったりと目を細めた。

「───いつか、直接伝えてみたいなとは思っているんだけど」

なんとも欲張りで分不相応な願いだと分かってはいる。だがそれでも、望むこと自体が間違いではないとロマニに教えてくれたのは、他の誰でもない名前だったのだ。