オケアノス(4)
「もう、名前。またこんな所で寝て」
ゆさゆさと優しく肩を揺らされる感覚に、名前は慌てて飛び起きた。燃えるような赤い髪を緩く束ねた美女───ブーディカは、ぷりぷりと怒りながらこちらを睨め付けている。
どうやら彼女は、談話室のベンチで横になっていた名前を探しに来てくれたらしい。未だにくっつきそうな瞼を無理やり抉じ開けつつ、どう言い訳したものかと鈍い頭を回転させる。
「誤魔化そうとしても無駄だよ。名前の時間外労働に関する証言は、ドクターがバッチリしてくれたから」
「うっ、……自分のことは棚に上げるなんてずるい」
「はい、認めたね。さっきまであたし達と料理作って片付けして掃除洗濯もこなした上に、今度はデータ整理のために夜遅くまで勉強? ねえ名前。厳しい言い方をするようだけど、あまり自分を過信しすぎない方がいいんじゃない?」
彼女の気遣いは心底有難く、なりふり構わず甘えたくなるほど胸に沁みた。半ば無理やり形づくった笑みを浮かべつつ、名前は乾かしたばかりの髪をそっと掻きあげる。
「でもほら、私は普通の人より体力あるし」
「ならせめて、あたし達にもっと仕事振ってよ。何もかも全部、一人でやろうとしないで」
「……ブーディカ」
「分かってないようだから何度でも言うよ。名前はマスターと同じで普通の女の子なの。お願いだから、あたし達にも名前を守らせて」
カルデアにいる女性陣───とりわけ生前母親だったブーディカやマリーは、隙さえあれば名前を幼子のように扱ってくる。彼女達から注がれる慈愛に満ちた眼差しは心地好く、同時に焦燥感を強く掻き立てられた。
過去の記憶を思い出してからというもの、名前は毎日何かに追い立てられるように動き回っていた。 とにかく、時間が足りなかったのだ。己の世界に色を与えてくれたロマニのために出来ることは限られており、どんなに目の前の仕事をこなし続けても、自分の未熟さを日々痛感するばかりだった。
「ありがとう、ブーディカ」
「もう、本当に強情なんだから。だったらこっちも遠慮なく手伝うからね」
幼い子どもをあやす様に、ブーディカは名前の頭を優しく撫でる。 名前は咄嗟に俯き、襲い来る激情を耐え忍んだ。
「なら私、ブーディカが作ったパンケーキが食べたい」
「ふふ、了解。お姉さんに任せなさい。その代わり、今日はあたしと一緒に寝ること」
「え? でも……」
「ねえ知ってた? ちょっと前からマリーがね、『名前のために子守唄を練習しなくちゃ』って張り切って、アマデウスを連れ回してるんだよ」
「……マリーの言うことなら、アマデウスも無下に出来ないもんね」
「メディアもね、しばらく工房に籠っていたかと思えば『名前のために可愛いパジャマと抱き枕を作るの!』なんて息巻いちゃってさ」
「えっ」
「エミヤとタマモキャットのここ数日の日課は胃に優しい夜食の研究みたいだし、サンソンは不眠時の対策についてドクターに色々と相談してたし」
「あ、それは嬉しい。スタッフの皆もロマニも、最近なんだか疲れてるような気がしてたから」
「ドクターも同じこと言ってたよ。『名前はボクを頼ってくれないことも多いから、皆が気にかけてくれて嬉しい』って」
「……もう。人のことが言える立場じゃないでしょうに」
「という訳で。彼氏からのお許しも出たことだし、もし迷惑じゃなければ皆呼んでくるけど」
名前は既に泣きそうだった。他者から与えられる思い遣りに甘えるのは、こんなにも居心地が好いのかと驚いた。
「うん、お願い」
「ありがと。それじゃ、今晩は名前が着せ替え人形ね」
「私、絶対フリフリとか似合わないし面白くないって」
「ついでに写真撮ってドクターに自慢しよっと」
「いや待って本気でやめてね!?」
*
フランシス・ドレイクの航海技術は素晴らしく、一行は気候がコロコロと変わる海の中でも比較的快適に過ごすことが出来ていた。海流の流れや湿気、気温の変化を敏感に察知し、時折遭遇する海賊との戦闘も難なくこなす彼女は、この旅を純粋に楽しんでいるようである。
何故こんなにも快く協力してくれるのだろう。疑問をぶつければ、ドレイクはあっけからんと笑うのだ 。
「そりゃ金銀財宝だって嬉しいけど、極上の料理も何よりの宝だからね。恩を仇で返すわけにもいかないだろう」
史実では男性であった彼女だが、歴史がそう定義したのも無理はない。ドレイクは美しい人だった。己の信じた道をどこまでも真っ直ぐに突き進む背中は、荒波だらけの海では一際頼もしく映る。
だが同時に、彼女は根っからの海賊であった。英霊エドワード・ティーチと対峙したドレイクからは、幽霊を怖がっていた愛嬌がすっかり鳴りを潜め、残忍で獰猛な気性が覗いている。 もしも黒髭が史実通りの雄々しい男性として現れたならば、大航海時代も真っ青な激戦が繰り広げられたことだろう。
───先程、船員の脚を的確に射抜いた大男は、蛇のようにしなやかな動作で船へ乗り込んでいた。
「アンタ、どう落とし前つけてくれるんだい?」
「いやいやむしろ謝罪して欲しいのはこっちなんですけどぉ? まだ見ぬマシュマロを求めて飛び込んだのに、いきなりBBAに遭遇した拙者の心が一番傷付いたんですぞ!」
「……、はあ? 何だって?」
生々しい言葉を彩る独特の口調に、暴力的にさえ感じる蕩け切った笑み。黒髭は一行の心を余すことなく蹂躙しきったも のの、結局は屈強な精神でそれに耐えたドレイクに追い詰められ、甲板で銃を突き付けられていた。
「……どうやら本当に、俺の船員はいねえみたいだな」
当初とは打って変わって生前の面影を覗かせた彼に、ドレイクはその言葉の真意を問う。
「どういう意味だい? アステリオスは、あんたもエウリュアレを狙ってたって言ったんだけどねえ」
「エウリュアレたんを欲しがらない男なんて、もはや男じゃないですぞ!? まあ、BBAと愉快な仲間たちには一生分からないかもしれませんけど?」
「はあ、……どうにも調子が狂う相手だよ」
吐き捨てるように言ったドレイクを内心労りつつ、名前は戦況を好転させるべく口を開いた。
「ドレイク、報告するね。周囲一帯、黒幕と思われるサーヴァント反応は無し。そこにいるエドワードさん以外には、敵性反応も確認できないよ」
「了解、名前。アタシは、ここらの海があまりに静かすぎるのが気になっちまってねえ。早いところ原因を調べたいところなんだけど」
ふざけた言動を取っているように見えるが、目の前の海賊は隙を一切見せていなかった。どうしたものかとドレイクが頭を捻った瞬間、眼前でその巨体が瞬く間に姿を消した。焦燥に駆られたものの、敵の行方はすぐに知れる。
奴は何故か、一瞬にして這い蹲るような体勢を取っていたのだ。土下座に似た姿で肩を震わせる様子に眉を寄せつつ、ドレイクは銃口の照準を合わせ続ける。
「───女神様でござる」
ぽつりと重低音で絞り出された言葉には、妙に凄味があった。一同が頭にクエスチョンマークを浮かべる中、アルテミスのみが「私?」とたおやかに首を傾げた。
「いやリア充過ぎワロタな薄着美女ではなく! 拙者の身体を隅々まで調べ尽くしたと思われる麗しい声を持った女神様はどちらに!?」
目をカッと見開き空を仰いだ黒髭は、辺りを見渡し雄叫びを上げていた。 その言葉が指す意味を熟考した名前は、周囲からの視線を感じつつ恐る恐る唇を開く。カルデアから映像を繋ごうか迷ったが、そのために必要なパネルはロマニが必死に覆い隠していた。
「ええと。まさかとは思いますが、私のことですか?」
「お、おぉ……! 拙者の冷えた心を春風のごとく暖めてくれるこの鈴のような声は! 母性と包容力を兼ね備えた優しい幼馴染属性を持つ女神様!」
「……あ、ありがとうございます。あの、もし良ければ詳しくお話を伺いたいんですが」
これはチャンスだと口火を切ったところで、画面の向こうにいる羊飼いが待ったをかける。
「名前、男はみんな狼なんだ。まずは僕と話をして仲を深めよう」
「ダビデはちょっと黙ってて」
ぴしゃりと一蹴すれば、ダビデは残念そうに肩をすくめた。
「……おっとこれは三つ巴ですかな? 名前殿。拙者は少女漫画も嗜む故、こういう状況には慣れたものですぞ」
「お恥ずかしながら、私がそういう知識に疎くて。もし良ければまた今度教えてください。そういえば今更なんですけど、エドワードさんとお呼びしても大丈夫ですか?」
「え、あ、はい。だ、大丈夫です……。待って拙者こんなに人から優しくされたの久しぶりすぎて泣けてきた」
おいおい男泣きをし始めた黒髭を中心に、特異点でも管制室でも戸惑ったような空気が流れていた。
このどこか緩んだ雰囲気に騙されそうになるが、未だエドワード・ティーチがカルデアの敵であるのか味方であるのかは判明していない。 すなわち、名前が喫緊で得なければならない情報は二つ。一つは、彼がたった一人でドレイクの船を急襲した理由。そして二つ目は、先ほど彼自身が発した「船員がいない」という言葉が示す意味だ。
「エドワードさん、端的に聞きます。あなたにとっての敵は、英霊イアソンですか?」
「まあ、少なくとも味方ではないですな」
「つまり敵でもないと」
「デュフフフ。名前殿には、拙者の発する言葉を瞬時に理解する聡明さもあるご様子。非の打ち所がない百点満点のヒロイン適性に、拙者も畏れおののくしかないでござるな!」
「あ、ありがとうございます……」
普通に言葉を交わしていたつもりが、気付いたら彼のペースに引き込まれてしまう。さすがだと内心唸りつつ目尻を下げた名前の様子を察したのか、モニター越しにドレイクが労るような眼差しを向けてくれた。
「名前は本当に、変な男にばかり好かれるね」
「そうかな? 私には勿体無い素敵な人ばかりだから、少し気後れしちゃって」
実際、ダビデも黒髭もとても魅力的な男性だ。柔和で中性的な美しい容姿に加えて、温厚な性格をした羊飼い。色気を帯びた雄々しい容貌と、自分の信念を曲げない芯の強さを持った大海賊。
だからこそ、彼らがこんな年増に本気で懸想する筈など無いのだ。それに、エドワード・ティーチが真に気にかけている女性は名前ではない。良くも悪くも欲望に素直な海賊の心は、傍から見ていると手に取るように分かった。 ダビデもまた、本当に求めているのは別のひとなのだと名前は知っている。
だが少なからず気に入ってもらえるのは純粋に嬉しく、本心から笑みを零してしまう。
「───いやいや待って何なのこの子は天使なの?」
そんな二人が呟いた言葉に首を傾げていると、何故かロマニが隣で大きく溜め息を吐いた。そんな彼を慰めるように、ダ・ヴィンチちゃんがそっと肩を叩いている。
「……うん。そういうキミだからボクも好きになったんだけど、やっぱり複雑な気持ちだよね」
「ええ……?」
アステリオスなど事態が呑み込めず船の片隅で首を傾げているし、アルテミスはこの状況に飽きたのかオリオンを構い倒していた。辛うじてこちらに注目し続けている立香ちゃんとマシュでさえ、その顔には疲労が滲んでいる。 後ほど皆の好物を差し入れなければ。名前はひっそりと決意した。
───ばしゃん!
しかし騒動の中心たる黒髭は、瞬く間に船の手摺から身体を躍らせ海面に飛び込んでいた。逸早くドレイクがその進行方向に銃弾を飛ばすものの、突如何も存在しなかった空間から巨大船を出現させた大海賊の方が一枚上手だったらしい。
「名前殿の愛らしさに免じて、一つだけ置き土産を!」
彼の宝具と思われる巨大な船は、既に彼方へ向かって出航している。それにも拘らず、アステリオスに匹敵する程の長身から発せられた大声は、一行の鼓膜をビリビリと激しく揺らした。
「拙者にとってあの忌むべき金髪リア充は、『敵だと思っていた』存在だと言えますかな」
「……っ、それはどういう」
「ではさらば!」
一瞬の内に遠ざかっていく霊基反応に歯噛みした瞬間、探査パネルの隅に小さな波形が表れる。微弱なサーヴァントの魔力が、当初の目的地たるエジプト付近で観測されていた。このまま黒髭を追うよりも東へ進む方が得策だと結論が出たところで、名前は自身の非力さにそっと唇を噛む。
「名前、反省は後でいくらでも一緒にしよう」
「……うん。ありがと、ロマニ」
「どういたしまして」
*
「だが黒髭のお陰で、敵陣にいるキャスターの候補は絞られたね」
ダ・ヴィンチちゃんが軽やかに口を開くと、名前は強ばっていた顔が僅かばかり緩むのを感じた。
「うん。あのイアソンに近しい女性と言えば、コルキスの魔女メディアだね」
「メディア? 近頃カルデアでGJ姐さんと話題の、可愛いものが大好きなキャスターのメディア氏のことですか?」
「……立香ちゃん。前半の話題は置いておいて、そのメディアで間違いないよ」
先日カルデアで発生した、名前のフリフリパジャマ写真流出事件。その主犯格であった友人達を思い出して頭が痛くなったが、一旦頭から振り払って探査パネルを注視する。やはり、アルテミス───正確に言えばオリオンの霊基反応は微小なままだ。
「なるほど。つまり、カルデアにいるメディアとは別のメディアが召喚されているかもしれないってことですね」
「うん。イアソンに協力的であることを考えると、少なくとも私達が知る彼女よりは若い頃の姿だとは思うんだけど。そうでなくとも、かなり強力なキャスターがいるのは間違いなさそうだね」
少なくとも敵方には、女神ヘカテの弟子たる魔女に匹敵する程の魔術師がいるのだろう。彼女に連なる者ならば、特異点の地形がギリシャ神話世界を模しているのも頷ける。 本来ならばメディアにも協力を仰ぐべきなのだろうが、生前の彼女を凶行へと駆り立てた要因に引き合わせ、傷付けてしまうのは本意ではない。名前は周囲と相談し、緊急時に備えて館内放送の準備をするに留める。
「名前、そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫さ。此処には優秀な魔術師がいるしね」
「うん。頼りにしてるよ、ダ・ヴィンチちゃん」
その後に待ち受けていた船旅は、まさに平穏そのものだった。それはドレイク曰く、何も無さすぎて気持ちが悪い程に順調な航海である。
敵陣に近付く度、水面は徐々に穏やかになっていく。大陸と大陸の狭間に流れる川が幾度も収斂した先で、一行は蒼く煌めく大河に導かれていた。古代エジプトに繁栄をもたらしたナイル川は、不気味な程の静寂を帯びながら鎮座している。
「なんだか急に雰囲気が変わったね。これは……小麦畑なのかな?」
「はい、マスター。見渡す限り一面に広がっていますね。どれも枯れているようですが」
マシュの言う通り、周囲の大地には枯れ果てた小麦が隙間なく植えられていた。船の帆が風を受けて弧を描いているのとは対照的に、栄養を失い萎んだ実は微動だにせず立ち尽くしている。まるで時が止まっているような異様さを助長するかのごとく、周辺には生体反応が一切感知されなかった。
いくら進んでも変わらない風景に、ドレイクは辟易とした声を上げる。
「やっぱりそうだ。この海はあまりにも静かすぎる」
苦々しく顔を歪めた船長の横顔を見て、立香ちゃんは一人首を傾げた。
「そういえば、黒髭に会った時も同じことを言ってたよね。確かに今もまるで凪みたいだし、心なしか寒くもなってきたけど」
「ああ、その通りだよ立香。……いや、最早ここは海とは呼べないかもしれないね。水溜まりの上でする冒険だなんて、それこそ枯れた大地に小麦の種を蒔くようなものさ」
「あら? もしかして、気付いていなかったの?」
たおやかに微笑んだ女神が、淀んだ空気を吹き飛ばすように唇を開いた。 その可憐な笑顔を目にした瞬間、名前は心臓に氷柱が刺さったかのような悪寒に襲われる。何か重大な見落としをしている可能性に思い当たり、必死に頭を回転させた。
「此処の名はオケアノス。名前さんがそう言ったって聞いたわよ?」
「うん。地形がギリシャ神話の世界を模したものだったから、縁のある神の名を取ったんだけど……」
名付けの理由を口にしたところで、名前は額に汗が滲むのを感じた。
神話世界を緻密に再現した特異点オケアノス。偉大なる星の開拓者───海賊ドレイクとの出逢いにより始まった冒険の中で、カルデアは英霊イアソンによる陰謀が異変の原因だと突き止めた。
ギリシャ神話に関係するサーヴァントばかりが誘拐されていること。英雄ヘラクレスによってダビデの宝具『アーク』が狙われていること。数多の海を駆け抜けたドレイクが感じ取った死の香り。オリンポス十二神の一柱であるアルテミスが気付いたこの空間の異変。そして、辺り一面に広がる枯れた小麦畑。
散り散りになった点を丁寧に線で繋いでいくと、名前は一つの可能性に思い至る。
「待って。もしかして……逆だったの?」
ダ・ヴィンチちゃんとロマニは驚愕したように息を詰めたものの、先の言葉を促すようにこちらを見詰めている。今の名前にとっては、何よりも支えになる温かな視線だった。
「私はずっと、この特異点を神話世界に似せて作られた世界なんだと思ってた。だけどそれは逆で……むしろ神話世界の方が大航海時代を模した空間だったとしたら」
特異点オケアノスは、ギリシャ神話に語られた世界の模造品であり、決してオリジナルと同一にはなれないレプリカ。そんな名前の認識そのものが間違っていたのだとしたら。
慎重に言葉を選ぶ名前の横で、ロマニも明瞭に自らの考察を述べていく。
「でも、そこの座標は間違いなく十六世紀のエジプトである筈だ。時空の道理を歪める程の強大な力を持った神霊なら、あるいは世界の法則性を変えるのも可能かもしれないけど……。いや、そういうことか!」
「うん。そもそも特異点を崩壊させるためには、『アーク』に神霊を捧げるだけで事足りるの。カルデアにわざと霊基反応を見せつけて、こんな場所まで誘導する必要はない。さっさと自分の目的を果たせばいいのにそれをしない、ということは」
「何故そんな手間をかけたのか、という理由を考えなければならないね」
ダ・ヴィンチちゃんが引き継いでくれた言葉に微笑みつつ、名前は震える腕を己の掌で押さえつける。
「これはあくまで私の考えだけど。黒幕の目的はこの空間を壊すことじゃなくて、守ることなんじゃないかな」
「……ですが名前さん、イアソンはエウリュアレさんやアタランテさんを誘拐し、ダビデ王の宝具も狙っています。矛盾した行動に思えるのですが」
「そう、私もそこが疑問だったの。でもねマシュ、黒幕がイアソンでないとしたらどう? たとえば……もし神霊が聖杯の力を手にしたのだとしたら、部下であるイアソンの影に隠れて暗躍しつつ、この特異点を思うままに操ることだって出来る」
名前は瞬く間に顔を青くさせた友人へ向けて微笑むと、己の予想を確信へと変えるため再び唇を押し開く。
ロマニの柔らかな手が、名前を励ますように背中に添えられる。ダ・ヴィンチちゃんの温かな指先が、名前を力付けるように肩へと触れる。 穏やかな感情が流れ込んだ名前の心臓が、再び熱く鼓動を刻んでいった。
「ねえドレイク。聖杯を手に入れる時、馬になったサーヴァントを討ったと言っていたよね?」
「ああ、そうだよ。海神だなんて大口を叩いてた割に、呆気ない最期だったからよく覚えてる」
「一つ確認させてほしいの。───その海神が馬に変化する瞬間を見た?」
「……、いや。追い詰めたと思ったら一度見失ってね。気付いた時には馬になってた」
「ありがとう。これで、確信を持って私の考えを話せるよ」
もしこの仮説が事実だとすれば、カルデアにとっては致命的な状況だと言ってもいい。その空気をひしひしと感じ取っている筈のマスターは、それでも笑みを浮かべたまま名前を真っ直ぐに見つめていた。
ブーディカの言う通り、立香ちゃんは普通の女の子だ。本来ならばこんな戦場には似つかわしくない、愛らしく聡明で明るい女の子。 だがそれでも彼女は、世界のために戦うことを選んだ。無垢な後輩の手を取って、共に恐怖を分かち合うと誓った。ならば自分も、彼女の決意に報いるために仕事をしよう。
ディスプレイに映る小麦畑を眺めながら、名前はかつて読んだ書物の粗筋をなぞっていく。
「ギリシャ神話において、最高神ゼウスに次ぐ権能を持つとされる神。海洋だけでなく大地も支配し、怒りによって世界を崩壊させる程の地震を引き起こした海神。───特異点オケアノスを創り上げた黒幕の名は、恐らくポセイドンだ」
ゆさゆさと優しく肩を揺らされる感覚に、名前は慌てて飛び起きた。燃えるような赤い髪を緩く束ねた美女───ブーディカは、ぷりぷりと怒りながらこちらを睨め付けている。
どうやら彼女は、談話室のベンチで横になっていた名前を探しに来てくれたらしい。未だにくっつきそうな瞼を無理やり抉じ開けつつ、どう言い訳したものかと鈍い頭を回転させる。
「誤魔化そうとしても無駄だよ。名前の時間外労働に関する証言は、ドクターがバッチリしてくれたから」
「うっ、……自分のことは棚に上げるなんてずるい」
「はい、認めたね。さっきまであたし達と料理作って片付けして掃除洗濯もこなした上に、今度はデータ整理のために夜遅くまで勉強? ねえ名前。厳しい言い方をするようだけど、あまり自分を過信しすぎない方がいいんじゃない?」
彼女の気遣いは心底有難く、なりふり構わず甘えたくなるほど胸に沁みた。半ば無理やり形づくった笑みを浮かべつつ、名前は乾かしたばかりの髪をそっと掻きあげる。
「でもほら、私は普通の人より体力あるし」
「ならせめて、あたし達にもっと仕事振ってよ。何もかも全部、一人でやろうとしないで」
「……ブーディカ」
「分かってないようだから何度でも言うよ。名前はマスターと同じで普通の女の子なの。お願いだから、あたし達にも名前を守らせて」
カルデアにいる女性陣───とりわけ生前母親だったブーディカやマリーは、隙さえあれば名前を幼子のように扱ってくる。彼女達から注がれる慈愛に満ちた眼差しは心地好く、同時に焦燥感を強く掻き立てられた。
過去の記憶を思い出してからというもの、名前は毎日何かに追い立てられるように動き回っていた。 とにかく、時間が足りなかったのだ。己の世界に色を与えてくれたロマニのために出来ることは限られており、どんなに目の前の仕事をこなし続けても、自分の未熟さを日々痛感するばかりだった。
「ありがとう、ブーディカ」
「もう、本当に強情なんだから。だったらこっちも遠慮なく手伝うからね」
幼い子どもをあやす様に、ブーディカは名前の頭を優しく撫でる。 名前は咄嗟に俯き、襲い来る激情を耐え忍んだ。
「なら私、ブーディカが作ったパンケーキが食べたい」
「ふふ、了解。お姉さんに任せなさい。その代わり、今日はあたしと一緒に寝ること」
「え? でも……」
「ねえ知ってた? ちょっと前からマリーがね、『名前のために子守唄を練習しなくちゃ』って張り切って、アマデウスを連れ回してるんだよ」
「……マリーの言うことなら、アマデウスも無下に出来ないもんね」
「メディアもね、しばらく工房に籠っていたかと思えば『名前のために可愛いパジャマと抱き枕を作るの!』なんて息巻いちゃってさ」
「えっ」
「エミヤとタマモキャットのここ数日の日課は胃に優しい夜食の研究みたいだし、サンソンは不眠時の対策についてドクターに色々と相談してたし」
「あ、それは嬉しい。スタッフの皆もロマニも、最近なんだか疲れてるような気がしてたから」
「ドクターも同じこと言ってたよ。『名前はボクを頼ってくれないことも多いから、皆が気にかけてくれて嬉しい』って」
「……もう。人のことが言える立場じゃないでしょうに」
「という訳で。彼氏からのお許しも出たことだし、もし迷惑じゃなければ皆呼んでくるけど」
名前は既に泣きそうだった。他者から与えられる思い遣りに甘えるのは、こんなにも居心地が好いのかと驚いた。
「うん、お願い」
「ありがと。それじゃ、今晩は名前が着せ替え人形ね」
「私、絶対フリフリとか似合わないし面白くないって」
「ついでに写真撮ってドクターに自慢しよっと」
「いや待って本気でやめてね!?」
*
フランシス・ドレイクの航海技術は素晴らしく、一行は気候がコロコロと変わる海の中でも比較的快適に過ごすことが出来ていた。海流の流れや湿気、気温の変化を敏感に察知し、時折遭遇する海賊との戦闘も難なくこなす彼女は、この旅を純粋に楽しんでいるようである。
何故こんなにも快く協力してくれるのだろう。疑問をぶつければ、ドレイクはあっけからんと笑うのだ 。
「そりゃ金銀財宝だって嬉しいけど、極上の料理も何よりの宝だからね。恩を仇で返すわけにもいかないだろう」
史実では男性であった彼女だが、歴史がそう定義したのも無理はない。ドレイクは美しい人だった。己の信じた道をどこまでも真っ直ぐに突き進む背中は、荒波だらけの海では一際頼もしく映る。
だが同時に、彼女は根っからの海賊であった。英霊エドワード・ティーチと対峙したドレイクからは、幽霊を怖がっていた愛嬌がすっかり鳴りを潜め、残忍で獰猛な気性が覗いている。 もしも黒髭が史実通りの雄々しい男性として現れたならば、大航海時代も真っ青な激戦が繰り広げられたことだろう。
───先程、船員の脚を的確に射抜いた大男は、蛇のようにしなやかな動作で船へ乗り込んでいた。
「アンタ、どう落とし前つけてくれるんだい?」
「いやいやむしろ謝罪して欲しいのはこっちなんですけどぉ? まだ見ぬマシュマロを求めて飛び込んだのに、いきなりBBAに遭遇した拙者の心が一番傷付いたんですぞ!」
「……、はあ? 何だって?」
生々しい言葉を彩る独特の口調に、暴力的にさえ感じる蕩け切った笑み。黒髭は一行の心を余すことなく蹂躙しきったも のの、結局は屈強な精神でそれに耐えたドレイクに追い詰められ、甲板で銃を突き付けられていた。
「……どうやら本当に、俺の船員はいねえみたいだな」
当初とは打って変わって生前の面影を覗かせた彼に、ドレイクはその言葉の真意を問う。
「どういう意味だい? アステリオスは、あんたもエウリュアレを狙ってたって言ったんだけどねえ」
「エウリュアレたんを欲しがらない男なんて、もはや男じゃないですぞ!? まあ、BBAと愉快な仲間たちには一生分からないかもしれませんけど?」
「はあ、……どうにも調子が狂う相手だよ」
吐き捨てるように言ったドレイクを内心労りつつ、名前は戦況を好転させるべく口を開いた。
「ドレイク、報告するね。周囲一帯、黒幕と思われるサーヴァント反応は無し。そこにいるエドワードさん以外には、敵性反応も確認できないよ」
「了解、名前。アタシは、ここらの海があまりに静かすぎるのが気になっちまってねえ。早いところ原因を調べたいところなんだけど」
ふざけた言動を取っているように見えるが、目の前の海賊は隙を一切見せていなかった。どうしたものかとドレイクが頭を捻った瞬間、眼前でその巨体が瞬く間に姿を消した。焦燥に駆られたものの、敵の行方はすぐに知れる。
奴は何故か、一瞬にして這い蹲るような体勢を取っていたのだ。土下座に似た姿で肩を震わせる様子に眉を寄せつつ、ドレイクは銃口の照準を合わせ続ける。
「───女神様でござる」
ぽつりと重低音で絞り出された言葉には、妙に凄味があった。一同が頭にクエスチョンマークを浮かべる中、アルテミスのみが「私?」とたおやかに首を傾げた。
「いやリア充過ぎワロタな薄着美女ではなく! 拙者の身体を隅々まで調べ尽くしたと思われる麗しい声を持った女神様はどちらに!?」
目をカッと見開き空を仰いだ黒髭は、辺りを見渡し雄叫びを上げていた。 その言葉が指す意味を熟考した名前は、周囲からの視線を感じつつ恐る恐る唇を開く。カルデアから映像を繋ごうか迷ったが、そのために必要なパネルはロマニが必死に覆い隠していた。
「ええと。まさかとは思いますが、私のことですか?」
「お、おぉ……! 拙者の冷えた心を春風のごとく暖めてくれるこの鈴のような声は! 母性と包容力を兼ね備えた優しい幼馴染属性を持つ女神様!」
「……あ、ありがとうございます。あの、もし良ければ詳しくお話を伺いたいんですが」
これはチャンスだと口火を切ったところで、画面の向こうにいる羊飼いが待ったをかける。
「名前、男はみんな狼なんだ。まずは僕と話をして仲を深めよう」
「ダビデはちょっと黙ってて」
ぴしゃりと一蹴すれば、ダビデは残念そうに肩をすくめた。
「……おっとこれは三つ巴ですかな? 名前殿。拙者は少女漫画も嗜む故、こういう状況には慣れたものですぞ」
「お恥ずかしながら、私がそういう知識に疎くて。もし良ければまた今度教えてください。そういえば今更なんですけど、エドワードさんとお呼びしても大丈夫ですか?」
「え、あ、はい。だ、大丈夫です……。待って拙者こんなに人から優しくされたの久しぶりすぎて泣けてきた」
おいおい男泣きをし始めた黒髭を中心に、特異点でも管制室でも戸惑ったような空気が流れていた。
このどこか緩んだ雰囲気に騙されそうになるが、未だエドワード・ティーチがカルデアの敵であるのか味方であるのかは判明していない。 すなわち、名前が喫緊で得なければならない情報は二つ。一つは、彼がたった一人でドレイクの船を急襲した理由。そして二つ目は、先ほど彼自身が発した「船員がいない」という言葉が示す意味だ。
「エドワードさん、端的に聞きます。あなたにとっての敵は、英霊イアソンですか?」
「まあ、少なくとも味方ではないですな」
「つまり敵でもないと」
「デュフフフ。名前殿には、拙者の発する言葉を瞬時に理解する聡明さもあるご様子。非の打ち所がない百点満点のヒロイン適性に、拙者も畏れおののくしかないでござるな!」
「あ、ありがとうございます……」
普通に言葉を交わしていたつもりが、気付いたら彼のペースに引き込まれてしまう。さすがだと内心唸りつつ目尻を下げた名前の様子を察したのか、モニター越しにドレイクが労るような眼差しを向けてくれた。
「名前は本当に、変な男にばかり好かれるね」
「そうかな? 私には勿体無い素敵な人ばかりだから、少し気後れしちゃって」
実際、ダビデも黒髭もとても魅力的な男性だ。柔和で中性的な美しい容姿に加えて、温厚な性格をした羊飼い。色気を帯びた雄々しい容貌と、自分の信念を曲げない芯の強さを持った大海賊。
だからこそ、彼らがこんな年増に本気で懸想する筈など無いのだ。それに、エドワード・ティーチが真に気にかけている女性は名前ではない。良くも悪くも欲望に素直な海賊の心は、傍から見ていると手に取るように分かった。 ダビデもまた、本当に求めているのは別のひとなのだと名前は知っている。
だが少なからず気に入ってもらえるのは純粋に嬉しく、本心から笑みを零してしまう。
「───いやいや待って何なのこの子は天使なの?」
そんな二人が呟いた言葉に首を傾げていると、何故かロマニが隣で大きく溜め息を吐いた。そんな彼を慰めるように、ダ・ヴィンチちゃんがそっと肩を叩いている。
「……うん。そういうキミだからボクも好きになったんだけど、やっぱり複雑な気持ちだよね」
「ええ……?」
アステリオスなど事態が呑み込めず船の片隅で首を傾げているし、アルテミスはこの状況に飽きたのかオリオンを構い倒していた。辛うじてこちらに注目し続けている立香ちゃんとマシュでさえ、その顔には疲労が滲んでいる。 後ほど皆の好物を差し入れなければ。名前はひっそりと決意した。
───ばしゃん!
しかし騒動の中心たる黒髭は、瞬く間に船の手摺から身体を躍らせ海面に飛び込んでいた。逸早くドレイクがその進行方向に銃弾を飛ばすものの、突如何も存在しなかった空間から巨大船を出現させた大海賊の方が一枚上手だったらしい。
「名前殿の愛らしさに免じて、一つだけ置き土産を!」
彼の宝具と思われる巨大な船は、既に彼方へ向かって出航している。それにも拘らず、アステリオスに匹敵する程の長身から発せられた大声は、一行の鼓膜をビリビリと激しく揺らした。
「拙者にとってあの忌むべき金髪リア充は、『敵だと思っていた』存在だと言えますかな」
「……っ、それはどういう」
「ではさらば!」
一瞬の内に遠ざかっていく霊基反応に歯噛みした瞬間、探査パネルの隅に小さな波形が表れる。微弱なサーヴァントの魔力が、当初の目的地たるエジプト付近で観測されていた。このまま黒髭を追うよりも東へ進む方が得策だと結論が出たところで、名前は自身の非力さにそっと唇を噛む。
「名前、反省は後でいくらでも一緒にしよう」
「……うん。ありがと、ロマニ」
「どういたしまして」
*
「だが黒髭のお陰で、敵陣にいるキャスターの候補は絞られたね」
ダ・ヴィンチちゃんが軽やかに口を開くと、名前は強ばっていた顔が僅かばかり緩むのを感じた。
「うん。あのイアソンに近しい女性と言えば、コルキスの魔女メディアだね」
「メディア? 近頃カルデアでGJ姐さんと話題の、可愛いものが大好きなキャスターのメディア氏のことですか?」
「……立香ちゃん。前半の話題は置いておいて、そのメディアで間違いないよ」
先日カルデアで発生した、名前のフリフリパジャマ写真流出事件。その主犯格であった友人達を思い出して頭が痛くなったが、一旦頭から振り払って探査パネルを注視する。やはり、アルテミス───正確に言えばオリオンの霊基反応は微小なままだ。
「なるほど。つまり、カルデアにいるメディアとは別のメディアが召喚されているかもしれないってことですね」
「うん。イアソンに協力的であることを考えると、少なくとも私達が知る彼女よりは若い頃の姿だとは思うんだけど。そうでなくとも、かなり強力なキャスターがいるのは間違いなさそうだね」
少なくとも敵方には、女神ヘカテの弟子たる魔女に匹敵する程の魔術師がいるのだろう。彼女に連なる者ならば、特異点の地形がギリシャ神話世界を模しているのも頷ける。 本来ならばメディアにも協力を仰ぐべきなのだろうが、生前の彼女を凶行へと駆り立てた要因に引き合わせ、傷付けてしまうのは本意ではない。名前は周囲と相談し、緊急時に備えて館内放送の準備をするに留める。
「名前、そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫さ。此処には優秀な魔術師がいるしね」
「うん。頼りにしてるよ、ダ・ヴィンチちゃん」
その後に待ち受けていた船旅は、まさに平穏そのものだった。それはドレイク曰く、何も無さすぎて気持ちが悪い程に順調な航海である。
敵陣に近付く度、水面は徐々に穏やかになっていく。大陸と大陸の狭間に流れる川が幾度も収斂した先で、一行は蒼く煌めく大河に導かれていた。古代エジプトに繁栄をもたらしたナイル川は、不気味な程の静寂を帯びながら鎮座している。
「なんだか急に雰囲気が変わったね。これは……小麦畑なのかな?」
「はい、マスター。見渡す限り一面に広がっていますね。どれも枯れているようですが」
マシュの言う通り、周囲の大地には枯れ果てた小麦が隙間なく植えられていた。船の帆が風を受けて弧を描いているのとは対照的に、栄養を失い萎んだ実は微動だにせず立ち尽くしている。まるで時が止まっているような異様さを助長するかのごとく、周辺には生体反応が一切感知されなかった。
いくら進んでも変わらない風景に、ドレイクは辟易とした声を上げる。
「やっぱりそうだ。この海はあまりにも静かすぎる」
苦々しく顔を歪めた船長の横顔を見て、立香ちゃんは一人首を傾げた。
「そういえば、黒髭に会った時も同じことを言ってたよね。確かに今もまるで凪みたいだし、心なしか寒くもなってきたけど」
「ああ、その通りだよ立香。……いや、最早ここは海とは呼べないかもしれないね。水溜まりの上でする冒険だなんて、それこそ枯れた大地に小麦の種を蒔くようなものさ」
「あら? もしかして、気付いていなかったの?」
たおやかに微笑んだ女神が、淀んだ空気を吹き飛ばすように唇を開いた。 その可憐な笑顔を目にした瞬間、名前は心臓に氷柱が刺さったかのような悪寒に襲われる。何か重大な見落としをしている可能性に思い当たり、必死に頭を回転させた。
「此処の名はオケアノス。名前さんがそう言ったって聞いたわよ?」
「うん。地形がギリシャ神話の世界を模したものだったから、縁のある神の名を取ったんだけど……」
名付けの理由を口にしたところで、名前は額に汗が滲むのを感じた。
神話世界を緻密に再現した特異点オケアノス。偉大なる星の開拓者───海賊ドレイクとの出逢いにより始まった冒険の中で、カルデアは英霊イアソンによる陰謀が異変の原因だと突き止めた。
ギリシャ神話に関係するサーヴァントばかりが誘拐されていること。英雄ヘラクレスによってダビデの宝具『アーク』が狙われていること。数多の海を駆け抜けたドレイクが感じ取った死の香り。オリンポス十二神の一柱であるアルテミスが気付いたこの空間の異変。そして、辺り一面に広がる枯れた小麦畑。
散り散りになった点を丁寧に線で繋いでいくと、名前は一つの可能性に思い至る。
「待って。もしかして……逆だったの?」
ダ・ヴィンチちゃんとロマニは驚愕したように息を詰めたものの、先の言葉を促すようにこちらを見詰めている。今の名前にとっては、何よりも支えになる温かな視線だった。
「私はずっと、この特異点を神話世界に似せて作られた世界なんだと思ってた。だけどそれは逆で……むしろ神話世界の方が大航海時代を模した空間だったとしたら」
特異点オケアノスは、ギリシャ神話に語られた世界の模造品であり、決してオリジナルと同一にはなれないレプリカ。そんな名前の認識そのものが間違っていたのだとしたら。
慎重に言葉を選ぶ名前の横で、ロマニも明瞭に自らの考察を述べていく。
「でも、そこの座標は間違いなく十六世紀のエジプトである筈だ。時空の道理を歪める程の強大な力を持った神霊なら、あるいは世界の法則性を変えるのも可能かもしれないけど……。いや、そういうことか!」
「うん。そもそも特異点を崩壊させるためには、『アーク』に神霊を捧げるだけで事足りるの。カルデアにわざと霊基反応を見せつけて、こんな場所まで誘導する必要はない。さっさと自分の目的を果たせばいいのにそれをしない、ということは」
「何故そんな手間をかけたのか、という理由を考えなければならないね」
ダ・ヴィンチちゃんが引き継いでくれた言葉に微笑みつつ、名前は震える腕を己の掌で押さえつける。
「これはあくまで私の考えだけど。黒幕の目的はこの空間を壊すことじゃなくて、守ることなんじゃないかな」
「……ですが名前さん、イアソンはエウリュアレさんやアタランテさんを誘拐し、ダビデ王の宝具も狙っています。矛盾した行動に思えるのですが」
「そう、私もそこが疑問だったの。でもねマシュ、黒幕がイアソンでないとしたらどう? たとえば……もし神霊が聖杯の力を手にしたのだとしたら、部下であるイアソンの影に隠れて暗躍しつつ、この特異点を思うままに操ることだって出来る」
名前は瞬く間に顔を青くさせた友人へ向けて微笑むと、己の予想を確信へと変えるため再び唇を押し開く。
ロマニの柔らかな手が、名前を励ますように背中に添えられる。ダ・ヴィンチちゃんの温かな指先が、名前を力付けるように肩へと触れる。 穏やかな感情が流れ込んだ名前の心臓が、再び熱く鼓動を刻んでいった。
「ねえドレイク。聖杯を手に入れる時、馬になったサーヴァントを討ったと言っていたよね?」
「ああ、そうだよ。海神だなんて大口を叩いてた割に、呆気ない最期だったからよく覚えてる」
「一つ確認させてほしいの。───その海神が馬に変化する瞬間を見た?」
「……、いや。追い詰めたと思ったら一度見失ってね。気付いた時には馬になってた」
「ありがとう。これで、確信を持って私の考えを話せるよ」
もしこの仮説が事実だとすれば、カルデアにとっては致命的な状況だと言ってもいい。その空気をひしひしと感じ取っている筈のマスターは、それでも笑みを浮かべたまま名前を真っ直ぐに見つめていた。
ブーディカの言う通り、立香ちゃんは普通の女の子だ。本来ならばこんな戦場には似つかわしくない、愛らしく聡明で明るい女の子。 だがそれでも彼女は、世界のために戦うことを選んだ。無垢な後輩の手を取って、共に恐怖を分かち合うと誓った。ならば自分も、彼女の決意に報いるために仕事をしよう。
ディスプレイに映る小麦畑を眺めながら、名前はかつて読んだ書物の粗筋をなぞっていく。
「ギリシャ神話において、最高神ゼウスに次ぐ権能を持つとされる神。海洋だけでなく大地も支配し、怒りによって世界を崩壊させる程の地震を引き起こした海神。───特異点オケアノスを創り上げた黒幕の名は、恐らくポセイドンだ」