オケアノス(5)
その瞬間、オケアノスの地は激しく揺れた。先程まで直立不動だった小麦を割くように大地が次々とひび割れ、枯れた実は川の水と共に奈落へと落ちていった。朽ちた大地を呑み込むように生まれた渦潮によって、ナイルの川はみるみるうちに増水していく。瞬く間にエジプトの土地は消え、目の前には太陽の光を乱反射する海が現れた。
濁流に巻き込まれることを危惧して動こうとした海賊達は、己の船が微塵も波の影響を受けていない様子に唖然とする。眼前に広がる大渦潮は、一行の船を避けながら辺り一帯に波を生んでいた。
油断なくディスプレイを睨み付けていた名前は、背筋を走った悪寒のままに口を開いた。
「みんな気を付けて! 下から何かが来る!」
はじめに聞こえたのは、地獄の釜が沸き立ったかのようにブクブクと泡が生まれる音だった。やがて静謐さを纏った巨大な建物が大海原の底からゆっくりと迫り出し、海面にどっしりと聳え立つ。海水が叩きつけられる音が淡々とその場に響き渡る中、その全容が徐々に露わになっていく。
目算ではあるが、それはドレイクの愛船である黄金の鹿号───ゴールデンハインドに比べ、何倍もの高さと大きさを誇っているように見えた。大理石で作られた純白の円柱が周囲をぐるりと等間隔に取り囲み、多種多様な作物の彫像で彩られた屋根をどっしりと支えている。 ギリシャ建築。そう言われて真っ先に思い浮かぶであろう、絢爛豪華な構造の巨大な神殿が海の中心に建っていた。
「女よ。人の身で我が名を呼んだ愚行は赦してやろう」
産毛が逆立つような威圧感のある声に、名前はただ一人ぞくりと震えた。
絹のごとく滑らかな衣を纏った白皙の青年が、ゆっくりと神殿の入口から舞い降りた。陽射しを受けてキラキラと輝く白銀の髪は、精霊が紡いだ生糸のように繊細かつ優美だった。首元で束ねられた長髪が風を受けてさらりと揺れる様は、並の彫刻家であれば裸足で逃げ帰ってしまう程の美しさである。
青年は散歩に出かけたような気軽い様相で、堂々と白い肌を晒しながら海面に足をつけていた。慢心に満ちた神々しい肉体には、しかし不思議なことに一切の隙も伺えない。
身体の芯が急速に冷え切る感覚に唇を噛みながらも、名前は拳を強く握って心を侵食する恐怖に抗った。ここで自分が下手なことを言ってポセイドンを激昴させてしまえば、ますます戦況が悪化するのは目に見えている。
「最後に無駄な足掻きをしたいと云うならば、その貧相なばかりの足で生き汚く我が神殿へ踏み込むがよい。うぬらが何をしたところで結果は変わらぬ。───オケアノスは、かつての栄華と共に復活するのだ」
ポセイドンは高らかに言い放った後、優雅に身を翻して神殿へと帰還していった。
その直後、神殿の前にいくつもの霊基反応が発現する。屈強な肉体を誇る戦士。あどけなく微笑む魔術師。気だるげに目線を投げる槍兵。 何の前触れもなく突然出現した彼らは、神霊が持つ力の一端をカルデアに示していた。 ───神殿内部に存在する霊基反応は、ポセイドンの支配下にある。
だが現在はその力が緩んでいるのか、モニターには彼ら以外のサーヴァント反応も複数映し出されていた。恐らく、これこそがエウリュアレやアタランテなのだろう。 ロマニが解析を他の職員に指示する横で、名前は深々と膝を折った半裸の戦士を見てぐっと眉を寄せた。
「目標、マスト付近に接近! 船員は速やかに撤退して!」
弾丸のように飛来したバーサーカーは、内蔵が浮き上がる程の雄叫びを上げ空間そのものをビリビリと揺らしていく。間一髪で直撃は避けたものの、マシュは丸太のような分厚い腕に弾き飛ばされ甲板に激しく叩き付けられた。 酸素を求めて喘ぐように咳き込むデミ・サーヴァントを助けるべく、アステリオスが一目散に強襲をかけていく。雷光と呼ぶに相応しいその拳を振りかぶれば、砲丸のような鋭さと重さを載せた拳が返ってきた。
体格差はさほど無い筈だが、アステリオスは圧倒的な腕力の前に劣勢を強いられていた。
世界最高峰のガレオン船であるゴールデンハインドは、貨物船としての性能が高い。すなわち船腹に多くの積荷を載せるように設計されているため、全長に比べて圧倒的に幅が狭いのだ。大人三人がめいっぱい腕を広げたくらいの長さしかなく、身長が優に二メートルを超すサーヴァントが二人もいれば必然的に戦場は小規模なものとなっていた。
殴る。蹴る。弾く。回る。跳ぶ。二人が目にも止まらぬ速さで交わる中、船上に点在していた霊基反応が散開していく。 名前は、海上を滑るように移動する点を見てはたと思い出した。ポセイドンの血統者は海を歩けるのだ。
接近戦においては、確かにヘラクレスの独壇場だと言ってもいい。しかし、こちらだって一方的に遠隔戦を仕掛けることはできる。
「ダーリン、いくわよ!月女神の愛矢恋矢 !」
月の女神が放った愛の矢はヘラクレスの心臓を的確に射抜き、衝撃でよろけたその巨体をアステリオスが力ずくで海底へと沈めた。肩で息をしている様子の純真なバーサーカーは、派手に血が滲んだ腹や腕に構いもせず雄々しく吼える。
だが、それでもヘラクレスの霊基反応は健在だ。海賊達が船首を風上に回して針路変更を試みるも、探査パネルに浮かぶ大きな点は再び動き出そうとしていた。海底へと誘われた巨体がすぐに活動できる点からして、ポセイドンの配下を海中に突き落とす行為は無意味に等しいのだと推察できる。
これでは追い付かれるのも時間の問題だと歯噛みしていると、突如激しい音と共に波しぶきが上がった。ゴールデンハインドを覆い尽くす程の巨大な白い壁は、神殿とこちらを隔てるかのごとく垂直に聳え立つ。
その中心から這い出るように飛び出してきたのは、数多の砲台がぴんと前を向く巨大な海賊船。かつてエドワード・ティーチが数多の海を駆け抜けた相棒、アン女王の復讐───クイーンアンズ・リベンジだ。 船首の上で絶妙なバランスを取りながら堂々と立つのは、獰猛な笑みを浮かべた船長である。
「死にたくなけりゃサーヴァントは全員乗れ! ひとまず逃げるぞ!」
黒髭がポセイドンの敵である根拠は無く、カルデアの味方をしてくれる証拠も無い。だが背筋が痺れるような豪快な声は、我らがマスターの背中を力強く押した。
それは恐らく、本能に似た衝動だったのだろう。立香ちゃんは、戦場の中心にいるとは思えない程に穏やかな笑みでドレイクと頷きあった後、マシュの背中を支えつつ海へと飛び降りた。目的地は当然黒髭の船の甲板だが、ただの少女の脚力では心許なく、そのまま海面へと衝突するかに思われた。
だが驚愕したように息を呑んだシールダーは軽々とマスターを抱え上げ、即座に軌道を修正する。二人が硬い木の床に転がり落ちたのを皮切りに、カルデア側のサーヴァント達が続々とマストの下へ集結した。
そんな彼らに大股で歩み寄った黒髭は、肩で息をする少女を飄々と見下ろしては一人笑む。
「マスターは他人をすぐに信じるお人好しですな」 「わたしを最初に信じてくれたのは黒髭だよ。だから今度は、わたしが黒髭を信じる番」
ぐりんと白目を剥く勢いで天を仰いだ大海賊は、澄み渡った青空に轟くような笑い声を豪快に上げた。
「ならば説明はいりますまい。今はとことん拙者に付き合ってもらいますぞ。───さあ野郎共、突っ込め!」
立香ちゃんを取り囲むように突如現れた船員達が、キャプテンの指示を受けて意気揚々と舵を切る。その進行方向は、絢爛豪華を体現する神殿。
黒幕ポセイドンが待ち受けている、特異点の発生源であった。
*
明るい陽の光に満ちた形なき島。美しき神殿を擁する流刑地は、かつての惨状の気配を滲ませたまま檻のように女神を囲っていた。
「ほう。存外達者ではないか、エウリュアレ」
「此処をそういう場所にしたのはあなたでしょ。まさか、全部忘れたなんて言わないわよね」
刃物のごとく鋭利な言葉を受け止めた海神は、唇に乗せた笑みをそっと深めた。
「感じているだろう。うぬが望んだ男が来たぞ」
「……私は何も望んでなんていない。替えのきく召使に心を傾ける主人がどこにいると言うの?」
「ほう。ならばあれをどう扱おうが構わぬと」
「好きにすればいいじゃない」
「その言葉、違えるなよ」
偶像たる女神は僅かに顔を強張らせた後、可憐な仕草で俯いた。
「これから何をしたところで、彼女はあなたのもとへ戻らない。……いいえ、違うわね。あなたのものであった瞬間なんて一度も無かったんでしょうけど」
空気が張り詰め、視界の隅で花が枯れた。世界に滅びをもたらす海神は、聖杯を手に入れて更にその力を暴走させている。
哀れだ、とエウリュアレは思った。
「これほどまでに愚鈍であるとは思いもしなかった。さすがは略奪されるために生まれた非力な女神だ」
「そうね、私は愛されるために生まれた。彼女もまたそうだった。だから、あなたは棄てられたのよ」
「───うぬの望みはよく分かった」
華奢な身体で死刑宣告に等しい言葉を受け止めた女神は、再び独りになった島の中心で祈るように瞳を閉じる。
───えうりゅあれ。
その拙く幼い声が、どうにも恋しくて仕方がなかった。
*
神殿内部は、目にも鮮やかな大海原で満ちていた。外観に見合わぬその広大な青の表面を占めるのは、目映いばかりの黄金色を携えた小麦畑。それは生の喜びに溢れた豊穣の象徴であり、ポセイドンがこの海に固執する理由の一端を示しているように思えてならなかった。
クイーンアンズ・リベンジは、ゴールデンハインドと共に悠々と小麦畑の隙間を縫うように航海していた。少なくとも観測できる範囲の中に敵性反応は無いものの、名前は他のスタッフと共に油断なく索敵を繰り返す。
しかし、何度思い返してみても先程の光景は心臓に悪かった。いくらマシュや他のサーヴァントがついていたとはいえ、立香ちゃんを突然敵陣の中心に放り込まれたのだ。黒髭の思惑は薄々察していたものの、想像するのと現実に遭遇するのとでは訳が違う。
ましてやその中心にいたメンバーの心労は察するに余りあるもので、実際マスターはぐったりと身体を横たえている。
「死ぬかと思った! 死ぬかと思った!!」
「おお、さすがはマスター。大事なことは二回言う。現代社会を生きるオタクとして必要不可欠なスキルですな」
立香ちゃんは、少しも悪びれる様子を見せない黒髭を弱々しく睨み付けた。
「うわーん名前さん! 虐められたので助けてください!」
「ちょっ、それは卑怯ですぞマスター!」
「二人とも仲が良くて何よりです。今からロマニが話をするから私は黙っておくね」
「えっ」
隣から戸惑ったような声が上がったが、名前は素知らぬ顔でモニターに解析データを映し出す。それでも頼られたこと自体は嬉しいらしく、ロマニは気合を入れるようにコホンと咳払いをした。
「なら結論から言おうか。恐らく、この神殿内部こそが本物のオケアノスだ」
恐らく、とあくまで推論だと主張する物言いだが、その声音は自信に満ちている。この結論を導いた一人でもあるダ・ヴィンチちゃんは軽やかに頷き、名前もまた全員を見守りつつ相槌を打った。
カルデア側の推測はこうだ。 特異点オケアノスは、海神ポセイドンがとある願望を叶えるために形づくった世界である。十六世紀の大航海時代の座標軸を利用し、神霊が世に蔓延っていた神代の地上───神秘の力が十全に発揮されていたギリシャ神話の海を再現した。
だが、神殿の外は未だ不完全な状態だと言える。ギリシャ神話の地形を基盤にしつつも、特異点の海はドレイクが知るヨーロッパと何ら変わりなかった。端的に言えばどっちつかずなのだ。
「このまま黒幕の思惑を止めることが出来なければ、神殿の内外が融合して完全な姿となったオケアノスが顕現するだろう。大航海時代は人類史の中で消えてしまうし、神霊が再び地上に現れることで物理法則が崩壊するかもしれない」
ロマニは、真摯な色を宿した顔で言い切った。今の立香ちゃんにとっては、絶望的とも言える未来予測だった。しかし、彼女はあっけからんと笑う。
「でも、ポセイドンを倒してしまえば全部解決する。そうですよね?」
「……うん、その通りだよ」
神の手を離れ己の手だけで生きられるようになっていた人類が、再び神によって支配される奴隷のような存在となる。そんな最悪のシナリオさえ浮かんでいた頭の中が、いつの間にか立香ちゃんの笑顔によって明るく晴れ渡っていった。
そして名前は、改めて決意する。たとえ自分の身に何が起ころうとも、この少女だけは絶対に守り抜かなければならない。 呼吸する度わずかに痛む肺を服の上から抑えつつ、名前は心からの笑顔を浮かべた。
「さて、エドワードさん。そろそろ知っていることを全て話して頂けませんか?」
「ふっ……。いよいよ、拙者の全てを解き放つ時がやってきましたな」
「あ、そういうのは求めてないので」
「えっ名前殿が冷たい! でもそんなところも好き!」
好きの言葉があまりにも軽くて笑っていると、穏やかな空気の中心にいた黒髭が急に音もなく表情を無くした。
「実は拙者も船員を奪われ、殺されておりましてな。報復するべく身を隠し、奴らについて密かに調査を進め……概ね名前殿と同じ結論に至った次第ですが」
「エドワードさんは、イアソンを敵でもなく味方でもない存在だと言いました。私はそれを、真の黒幕がポセイドンである故の発言だと思っていたんです。ですが、あなたは私たちがこの結論を導いた後も不満げな表情をしている」
「不満ではなく、ただただ不可解なのです。名前殿ならば、拙者が言いたいことも既に分かっているのでは?」
鋭い歯を見せながら獰猛に笑む荒々しい顔が、名前を舐め回すように見据える。 見透かされている、と思った。心を落ち着かせるために深く息を吸い込んだところで、この胸に巣食う不安はこびり付いたまま消えそうにない。
俯きながら考えをまとめていると、突如手のひらに穏やかな温もりが宿る。顔を上げれば、ロマニが力強く名前を見つめていた。
───キミのことは、ボクが守るから。
このグランドオーダーが始まるキッカケとなった日、彼が与えてくれた言葉を思い出す。目の前のひとは、何ともキスがしたくなる顔をしていた。
名前は、今度こそディスプレイを真っ直ぐに見据えて口を開く。
「……ポセイドンが馬に変貌してまで生き永らえようとした。ドレイクからその話を聞いた時、私は微かに違和感があったんです」
「その意見に関しては私も同意ね」
海水が染み込んでぐったりした熊を大事に抱えながら、アルテミスは可憐に微笑んだ。
「ポセイドンにとって馬は、とある女性の気を惹くための手段でしかなかったもの」
神話の一節をなぞるかのように、月の女神は空を仰いで周囲を見渡す。黄金色に輝く小麦畑───それは、オリンポス十二神に数えられたとある女神が司る豊穣の印だ。
「けれど、きっと。それほどまでにポセイドンは彼女に焦がれているのね」
名前は、アルテミスの言葉を受けてそっと瞼を伏せた。その意味を掘り下げるよりも前に、白日の下に晒すべきことがあった。
「先程から何度も確認している通り、ポセイドンにはこの特異点を壊す意思はない。すると、今までの大前提がひっくり返ってしまうんです」
ディスプレイの向こう側も、管制室の中さえも、肌を刺すような緊張感に満ちていくのが痛いほどに分かった。誰も彼もが嫌な予感を覚えながらも、名前を一心に見つめていく。
「黒幕が、アークと神霊を使って特異点の崩壊を目論んでいる。何故私たちはずっと、その前提を信じ続けてきたんでしょうか? ……ある人がそう言っていたからです」
「名前」
穏やかな声音が己の名前を優しく呼ぶのを聞いて、名前は改めて船の中心で微笑むサーヴァントを視界に収めた。
「───ねえダビデ。あなたをこの地に召喚したのは、ポセイドンだよね?」
緩やかで美しい微笑が、真っ直ぐ名前に向けられた。
ドレイクが銃を向け、黒髭が剣を振りかざし、マシュが一目散にマスターを守り、アステリオスが一歩前に進み出て、アルテミスが後方で優雅に笑む。その一連の流れをゆったりと眺めつつ、ダビデは朗らかな表情を崩さないまま海風を享受した。
「そうだよ。だけど大丈夫。僕が敵であろうと味方であろうと、君たちに待ち受ける未来は一つだけだ」
淡々と冷静に言葉を紡ぎながら、羊飼いはただ一人を見据えて宣誓する。
「だから僕は君と共に在る。君のために散る。君の生を肯定してみせる。王ではなく父でもない、ただ一人の僕として」
「うぬのその言葉、真実であるならば良いが」
「やだな、僕は嘘はつかないよ。ポセイドン」
気付けば海面に立っていた神霊が、徐にダビデのもとへ歩み寄ってきた。張り詰めた空気をものともせず、大地を割くように小麦畑を横断していく。
「どうだかな。さて、そろそろ遊びは終いだ」
ポセイドンが腕を振り上げれば、それまで何も無かった空間に突如複数のサーヴァントが現れる。海というフィールドにいる限り、敵は世界のあらゆる法則を飛び越えた荒唐無稽な力を振るえるらしい。 それは反則技に近い行為だ。しかし、戦場では常に賢く強い者こそが勝者となる。泣き言を紡ぐ暇などなく、名前はただ世界を守るために立ち上がる少女の背中を支えるのみであった。
そして、身勝手で残忍な神が織り成す無慈悲な蹂躙は始まった。
濁流に巻き込まれることを危惧して動こうとした海賊達は、己の船が微塵も波の影響を受けていない様子に唖然とする。眼前に広がる大渦潮は、一行の船を避けながら辺り一帯に波を生んでいた。
油断なくディスプレイを睨み付けていた名前は、背筋を走った悪寒のままに口を開いた。
「みんな気を付けて! 下から何かが来る!」
はじめに聞こえたのは、地獄の釜が沸き立ったかのようにブクブクと泡が生まれる音だった。やがて静謐さを纏った巨大な建物が大海原の底からゆっくりと迫り出し、海面にどっしりと聳え立つ。海水が叩きつけられる音が淡々とその場に響き渡る中、その全容が徐々に露わになっていく。
目算ではあるが、それはドレイクの愛船である黄金の鹿号───ゴールデンハインドに比べ、何倍もの高さと大きさを誇っているように見えた。大理石で作られた純白の円柱が周囲をぐるりと等間隔に取り囲み、多種多様な作物の彫像で彩られた屋根をどっしりと支えている。 ギリシャ建築。そう言われて真っ先に思い浮かぶであろう、絢爛豪華な構造の巨大な神殿が海の中心に建っていた。
「女よ。人の身で我が名を呼んだ愚行は赦してやろう」
産毛が逆立つような威圧感のある声に、名前はただ一人ぞくりと震えた。
絹のごとく滑らかな衣を纏った白皙の青年が、ゆっくりと神殿の入口から舞い降りた。陽射しを受けてキラキラと輝く白銀の髪は、精霊が紡いだ生糸のように繊細かつ優美だった。首元で束ねられた長髪が風を受けてさらりと揺れる様は、並の彫刻家であれば裸足で逃げ帰ってしまう程の美しさである。
青年は散歩に出かけたような気軽い様相で、堂々と白い肌を晒しながら海面に足をつけていた。慢心に満ちた神々しい肉体には、しかし不思議なことに一切の隙も伺えない。
身体の芯が急速に冷え切る感覚に唇を噛みながらも、名前は拳を強く握って心を侵食する恐怖に抗った。ここで自分が下手なことを言ってポセイドンを激昴させてしまえば、ますます戦況が悪化するのは目に見えている。
「最後に無駄な足掻きをしたいと云うならば、その貧相なばかりの足で生き汚く我が神殿へ踏み込むがよい。うぬらが何をしたところで結果は変わらぬ。───オケアノスは、かつての栄華と共に復活するのだ」
ポセイドンは高らかに言い放った後、優雅に身を翻して神殿へと帰還していった。
その直後、神殿の前にいくつもの霊基反応が発現する。屈強な肉体を誇る戦士。あどけなく微笑む魔術師。気だるげに目線を投げる槍兵。 何の前触れもなく突然出現した彼らは、神霊が持つ力の一端をカルデアに示していた。 ───神殿内部に存在する霊基反応は、ポセイドンの支配下にある。
だが現在はその力が緩んでいるのか、モニターには彼ら以外のサーヴァント反応も複数映し出されていた。恐らく、これこそがエウリュアレやアタランテなのだろう。 ロマニが解析を他の職員に指示する横で、名前は深々と膝を折った半裸の戦士を見てぐっと眉を寄せた。
「目標、マスト付近に接近! 船員は速やかに撤退して!」
弾丸のように飛来したバーサーカーは、内蔵が浮き上がる程の雄叫びを上げ空間そのものをビリビリと揺らしていく。間一髪で直撃は避けたものの、マシュは丸太のような分厚い腕に弾き飛ばされ甲板に激しく叩き付けられた。 酸素を求めて喘ぐように咳き込むデミ・サーヴァントを助けるべく、アステリオスが一目散に強襲をかけていく。雷光と呼ぶに相応しいその拳を振りかぶれば、砲丸のような鋭さと重さを載せた拳が返ってきた。
体格差はさほど無い筈だが、アステリオスは圧倒的な腕力の前に劣勢を強いられていた。
世界最高峰のガレオン船であるゴールデンハインドは、貨物船としての性能が高い。すなわち船腹に多くの積荷を載せるように設計されているため、全長に比べて圧倒的に幅が狭いのだ。大人三人がめいっぱい腕を広げたくらいの長さしかなく、身長が優に二メートルを超すサーヴァントが二人もいれば必然的に戦場は小規模なものとなっていた。
殴る。蹴る。弾く。回る。跳ぶ。二人が目にも止まらぬ速さで交わる中、船上に点在していた霊基反応が散開していく。 名前は、海上を滑るように移動する点を見てはたと思い出した。ポセイドンの血統者は海を歩けるのだ。
接近戦においては、確かにヘラクレスの独壇場だと言ってもいい。しかし、こちらだって一方的に遠隔戦を仕掛けることはできる。
「ダーリン、いくわよ!
月の女神が放った愛の矢はヘラクレスの心臓を的確に射抜き、衝撃でよろけたその巨体をアステリオスが力ずくで海底へと沈めた。肩で息をしている様子の純真なバーサーカーは、派手に血が滲んだ腹や腕に構いもせず雄々しく吼える。
だが、それでもヘラクレスの霊基反応は健在だ。海賊達が船首を風上に回して針路変更を試みるも、探査パネルに浮かぶ大きな点は再び動き出そうとしていた。海底へと誘われた巨体がすぐに活動できる点からして、ポセイドンの配下を海中に突き落とす行為は無意味に等しいのだと推察できる。
これでは追い付かれるのも時間の問題だと歯噛みしていると、突如激しい音と共に波しぶきが上がった。ゴールデンハインドを覆い尽くす程の巨大な白い壁は、神殿とこちらを隔てるかのごとく垂直に聳え立つ。
その中心から這い出るように飛び出してきたのは、数多の砲台がぴんと前を向く巨大な海賊船。かつてエドワード・ティーチが数多の海を駆け抜けた相棒、アン女王の復讐───クイーンアンズ・リベンジだ。 船首の上で絶妙なバランスを取りながら堂々と立つのは、獰猛な笑みを浮かべた船長である。
「死にたくなけりゃサーヴァントは全員乗れ! ひとまず逃げるぞ!」
黒髭がポセイドンの敵である根拠は無く、カルデアの味方をしてくれる証拠も無い。だが背筋が痺れるような豪快な声は、我らがマスターの背中を力強く押した。
それは恐らく、本能に似た衝動だったのだろう。立香ちゃんは、戦場の中心にいるとは思えない程に穏やかな笑みでドレイクと頷きあった後、マシュの背中を支えつつ海へと飛び降りた。目的地は当然黒髭の船の甲板だが、ただの少女の脚力では心許なく、そのまま海面へと衝突するかに思われた。
だが驚愕したように息を呑んだシールダーは軽々とマスターを抱え上げ、即座に軌道を修正する。二人が硬い木の床に転がり落ちたのを皮切りに、カルデア側のサーヴァント達が続々とマストの下へ集結した。
そんな彼らに大股で歩み寄った黒髭は、肩で息をする少女を飄々と見下ろしては一人笑む。
「マスターは他人をすぐに信じるお人好しですな」 「わたしを最初に信じてくれたのは黒髭だよ。だから今度は、わたしが黒髭を信じる番」
ぐりんと白目を剥く勢いで天を仰いだ大海賊は、澄み渡った青空に轟くような笑い声を豪快に上げた。
「ならば説明はいりますまい。今はとことん拙者に付き合ってもらいますぞ。───さあ野郎共、突っ込め!」
立香ちゃんを取り囲むように突如現れた船員達が、キャプテンの指示を受けて意気揚々と舵を切る。その進行方向は、絢爛豪華を体現する神殿。
黒幕ポセイドンが待ち受けている、特異点の発生源であった。
*
明るい陽の光に満ちた形なき島。美しき神殿を擁する流刑地は、かつての惨状の気配を滲ませたまま檻のように女神を囲っていた。
「ほう。存外達者ではないか、エウリュアレ」
「此処をそういう場所にしたのはあなたでしょ。まさか、全部忘れたなんて言わないわよね」
刃物のごとく鋭利な言葉を受け止めた海神は、唇に乗せた笑みをそっと深めた。
「感じているだろう。うぬが望んだ男が来たぞ」
「……私は何も望んでなんていない。替えのきく召使に心を傾ける主人がどこにいると言うの?」
「ほう。ならばあれをどう扱おうが構わぬと」
「好きにすればいいじゃない」
「その言葉、違えるなよ」
偶像たる女神は僅かに顔を強張らせた後、可憐な仕草で俯いた。
「これから何をしたところで、彼女はあなたのもとへ戻らない。……いいえ、違うわね。あなたのものであった瞬間なんて一度も無かったんでしょうけど」
空気が張り詰め、視界の隅で花が枯れた。世界に滅びをもたらす海神は、聖杯を手に入れて更にその力を暴走させている。
哀れだ、とエウリュアレは思った。
「これほどまでに愚鈍であるとは思いもしなかった。さすがは略奪されるために生まれた非力な女神だ」
「そうね、私は愛されるために生まれた。彼女もまたそうだった。だから、あなたは棄てられたのよ」
「───うぬの望みはよく分かった」
華奢な身体で死刑宣告に等しい言葉を受け止めた女神は、再び独りになった島の中心で祈るように瞳を閉じる。
───えうりゅあれ。
その拙く幼い声が、どうにも恋しくて仕方がなかった。
*
神殿内部は、目にも鮮やかな大海原で満ちていた。外観に見合わぬその広大な青の表面を占めるのは、目映いばかりの黄金色を携えた小麦畑。それは生の喜びに溢れた豊穣の象徴であり、ポセイドンがこの海に固執する理由の一端を示しているように思えてならなかった。
クイーンアンズ・リベンジは、ゴールデンハインドと共に悠々と小麦畑の隙間を縫うように航海していた。少なくとも観測できる範囲の中に敵性反応は無いものの、名前は他のスタッフと共に油断なく索敵を繰り返す。
しかし、何度思い返してみても先程の光景は心臓に悪かった。いくらマシュや他のサーヴァントがついていたとはいえ、立香ちゃんを突然敵陣の中心に放り込まれたのだ。黒髭の思惑は薄々察していたものの、想像するのと現実に遭遇するのとでは訳が違う。
ましてやその中心にいたメンバーの心労は察するに余りあるもので、実際マスターはぐったりと身体を横たえている。
「死ぬかと思った! 死ぬかと思った!!」
「おお、さすがはマスター。大事なことは二回言う。現代社会を生きるオタクとして必要不可欠なスキルですな」
立香ちゃんは、少しも悪びれる様子を見せない黒髭を弱々しく睨み付けた。
「うわーん名前さん! 虐められたので助けてください!」
「ちょっ、それは卑怯ですぞマスター!」
「二人とも仲が良くて何よりです。今からロマニが話をするから私は黙っておくね」
「えっ」
隣から戸惑ったような声が上がったが、名前は素知らぬ顔でモニターに解析データを映し出す。それでも頼られたこと自体は嬉しいらしく、ロマニは気合を入れるようにコホンと咳払いをした。
「なら結論から言おうか。恐らく、この神殿内部こそが本物のオケアノスだ」
恐らく、とあくまで推論だと主張する物言いだが、その声音は自信に満ちている。この結論を導いた一人でもあるダ・ヴィンチちゃんは軽やかに頷き、名前もまた全員を見守りつつ相槌を打った。
カルデア側の推測はこうだ。 特異点オケアノスは、海神ポセイドンがとある願望を叶えるために形づくった世界である。十六世紀の大航海時代の座標軸を利用し、神霊が世に蔓延っていた神代の地上───神秘の力が十全に発揮されていたギリシャ神話の海を再現した。
だが、神殿の外は未だ不完全な状態だと言える。ギリシャ神話の地形を基盤にしつつも、特異点の海はドレイクが知るヨーロッパと何ら変わりなかった。端的に言えばどっちつかずなのだ。
「このまま黒幕の思惑を止めることが出来なければ、神殿の内外が融合して完全な姿となったオケアノスが顕現するだろう。大航海時代は人類史の中で消えてしまうし、神霊が再び地上に現れることで物理法則が崩壊するかもしれない」
ロマニは、真摯な色を宿した顔で言い切った。今の立香ちゃんにとっては、絶望的とも言える未来予測だった。しかし、彼女はあっけからんと笑う。
「でも、ポセイドンを倒してしまえば全部解決する。そうですよね?」
「……うん、その通りだよ」
神の手を離れ己の手だけで生きられるようになっていた人類が、再び神によって支配される奴隷のような存在となる。そんな最悪のシナリオさえ浮かんでいた頭の中が、いつの間にか立香ちゃんの笑顔によって明るく晴れ渡っていった。
そして名前は、改めて決意する。たとえ自分の身に何が起ころうとも、この少女だけは絶対に守り抜かなければならない。 呼吸する度わずかに痛む肺を服の上から抑えつつ、名前は心からの笑顔を浮かべた。
「さて、エドワードさん。そろそろ知っていることを全て話して頂けませんか?」
「ふっ……。いよいよ、拙者の全てを解き放つ時がやってきましたな」
「あ、そういうのは求めてないので」
「えっ名前殿が冷たい! でもそんなところも好き!」
好きの言葉があまりにも軽くて笑っていると、穏やかな空気の中心にいた黒髭が急に音もなく表情を無くした。
「実は拙者も船員を奪われ、殺されておりましてな。報復するべく身を隠し、奴らについて密かに調査を進め……概ね名前殿と同じ結論に至った次第ですが」
「エドワードさんは、イアソンを敵でもなく味方でもない存在だと言いました。私はそれを、真の黒幕がポセイドンである故の発言だと思っていたんです。ですが、あなたは私たちがこの結論を導いた後も不満げな表情をしている」
「不満ではなく、ただただ不可解なのです。名前殿ならば、拙者が言いたいことも既に分かっているのでは?」
鋭い歯を見せながら獰猛に笑む荒々しい顔が、名前を舐め回すように見据える。 見透かされている、と思った。心を落ち着かせるために深く息を吸い込んだところで、この胸に巣食う不安はこびり付いたまま消えそうにない。
俯きながら考えをまとめていると、突如手のひらに穏やかな温もりが宿る。顔を上げれば、ロマニが力強く名前を見つめていた。
───キミのことは、ボクが守るから。
このグランドオーダーが始まるキッカケとなった日、彼が与えてくれた言葉を思い出す。目の前のひとは、何ともキスがしたくなる顔をしていた。
名前は、今度こそディスプレイを真っ直ぐに見据えて口を開く。
「……ポセイドンが馬に変貌してまで生き永らえようとした。ドレイクからその話を聞いた時、私は微かに違和感があったんです」
「その意見に関しては私も同意ね」
海水が染み込んでぐったりした熊を大事に抱えながら、アルテミスは可憐に微笑んだ。
「ポセイドンにとって馬は、とある女性の気を惹くための手段でしかなかったもの」
神話の一節をなぞるかのように、月の女神は空を仰いで周囲を見渡す。黄金色に輝く小麦畑───それは、オリンポス十二神に数えられたとある女神が司る豊穣の印だ。
「けれど、きっと。それほどまでにポセイドンは彼女に焦がれているのね」
名前は、アルテミスの言葉を受けてそっと瞼を伏せた。その意味を掘り下げるよりも前に、白日の下に晒すべきことがあった。
「先程から何度も確認している通り、ポセイドンにはこの特異点を壊す意思はない。すると、今までの大前提がひっくり返ってしまうんです」
ディスプレイの向こう側も、管制室の中さえも、肌を刺すような緊張感に満ちていくのが痛いほどに分かった。誰も彼もが嫌な予感を覚えながらも、名前を一心に見つめていく。
「黒幕が、アークと神霊を使って特異点の崩壊を目論んでいる。何故私たちはずっと、その前提を信じ続けてきたんでしょうか? ……ある人がそう言っていたからです」
「名前」
穏やかな声音が己の名前を優しく呼ぶのを聞いて、名前は改めて船の中心で微笑むサーヴァントを視界に収めた。
「───ねえダビデ。あなたをこの地に召喚したのは、ポセイドンだよね?」
緩やかで美しい微笑が、真っ直ぐ名前に向けられた。
ドレイクが銃を向け、黒髭が剣を振りかざし、マシュが一目散にマスターを守り、アステリオスが一歩前に進み出て、アルテミスが後方で優雅に笑む。その一連の流れをゆったりと眺めつつ、ダビデは朗らかな表情を崩さないまま海風を享受した。
「そうだよ。だけど大丈夫。僕が敵であろうと味方であろうと、君たちに待ち受ける未来は一つだけだ」
淡々と冷静に言葉を紡ぎながら、羊飼いはただ一人を見据えて宣誓する。
「だから僕は君と共に在る。君のために散る。君の生を肯定してみせる。王ではなく父でもない、ただ一人の僕として」
「うぬのその言葉、真実であるならば良いが」
「やだな、僕は嘘はつかないよ。ポセイドン」
気付けば海面に立っていた神霊が、徐にダビデのもとへ歩み寄ってきた。張り詰めた空気をものともせず、大地を割くように小麦畑を横断していく。
「どうだかな。さて、そろそろ遊びは終いだ」
ポセイドンが腕を振り上げれば、それまで何も無かった空間に突如複数のサーヴァントが現れる。海というフィールドにいる限り、敵は世界のあらゆる法則を飛び越えた荒唐無稽な力を振るえるらしい。 それは反則技に近い行為だ。しかし、戦場では常に賢く強い者こそが勝者となる。泣き言を紡ぐ暇などなく、名前はただ世界を守るために立ち上がる少女の背中を支えるのみであった。
そして、身勝手で残忍な神が織り成す無慈悲な蹂躙は始まった。