読書をしていると、不思議なことにいつも肺が透き通っていく。

柔らかな紙を一枚一枚捲りながら、限られた空間に詰め込まれた言葉の一つ一つを丹念に追いかけて。私ではない誰かが辿った道筋をなぞり、あなたではない誰かが爆発させた感情に触れる。
王子様とお姫様がハッピーエンドを迎える童話、異世界を渡った主人公が世界を救うファンタジー、古き良き日本の農村を舞台に巻き起こるミステリー。薄く鮮やかなベールによって現実から隔てられた空想の世界は、常に背中合わせの存在として私を支え続けてくれた。

唯一の肉親であった母が亡くなってからも、その価値観が変わることはなかった。しおらしく涙を流すことさえ出来ないような親不孝の娘であっても、過去に母と共有した思い出を慈しむことはできる。そうした優しい過去と、本の世界を味わいながら、自分なりに生きていこうと決めたのだ。
しかし、自分を奮い立たせるべく固めたその決意は、ある日突然呆気なく崩れ去ってしまうことになる。

母の日記帳が、何の前触れもなく忽然と消えてしまったのだ。

いや、消えたという表現は的確ではないのかもしれない。引き出しの奥に大切に仕舞いこんでいた日記帳そのものは、以前と変わらぬ姿で眠っていた。そこに記されていた筈の直筆の文字がすべて黒く塗り潰されて、……余すところなく喪われていたのである。
何度必死に捲っても戻ることのない母の文字が、どのような色を帯びて、どんな形をしていたのか、記憶の中から手繰り寄せようとしても、全てを再現することなど到底できるはずもない。

途方に暮れながらも、近いうちに親戚の家に身を寄せることが決まった私にはどうすることも出来ず、脆い心を必死に覆い隠しながら生活していくしかなかった。
ただでさえこじんまりとしていた家の中が徐々に閑散としていくのを他人事のように眺めつつ、心の整頓もこなそうと考えていたのに、何も出来ないままあっという間に転居が明日にまで迫ってしまった。

つらい現実に直面すると本の世界に逃げ込んでしまうのは悪い癖だと自覚していたものの、今はそうして逃げる気力さえも湧かなかった。
やはり私は母のように強くはなれないなと深く溜め息を吐きながら、星さえも見えない窓の外を見上げる。
テレビをつけていないだけで、こんなにも空虚な静けさに身を浸す羽目になるのかと、頬杖をつきながら痛感していた、その時だった。

「───ォ、アァ」

はじめに感じたのは、まるで羽虫が耳の周辺を飛び回っているかのような音と、それに伴う不快感だった。
その音は、思い出を反芻していた脳内を無遠慮に墨汁で塗りつぶされるかのような、嫌な感情を私にもたらした。久しく感じることのなかった激しい気持ちで胸が染まり、咄嗟に眉根を寄せながら背後を振り返って、……絶句した。

そこに浮いていたのは、異形と呼ぶに相応しい化け物であった。
書き損じた古紙が折り重なったような、継ぎ接ぎだらけのまるい身体。羊を模したようなその外見は、画面の向こうの存在であったならば可愛いと形容できたのかもしれない。

しかしその異形が宿したふたつの瞳は、ぎょろりと蠢くように私を射抜き、悪意と憎悪を辺り一面にばら撒いていった。

「な、にが目的なの」

それはふわふわと宙に浮くばかりで、返答を口にしない。否、意味のある言語を発することができないのだろう。
指先すらも動かせない緊張感の中、その異形は突如体内の継ぎ目から刀を取り出した。室内の無機質な明かりに照らされた刃は、紛れもなく他者を傷つけるための───私の命を奪うための得物なのだと瞬時に理解した。

柔く温かな思い出が滲むこの家を、見知らぬ獣に侵されるだなんて許せる筈もない。だが今の自分に何ができるというのだろう。恐怖に震え、部屋の隅で相手を睨みつけることしかできない、無力な私に。

異形の正体が何であるのか、母の日記帳が消えたことと何か関係があるのか。事態を詳細に把握することができない中、唯一明確にわかることがあった。私の命は、恐らくもう永くないであろうということ。
ここで死ぬことが己の運命であることを信じたくはない。けれど、母の日記帳さえも守り抜けなかった私が、そんな願望を抱く資格はないと理解した。せめてもの抵抗として、決してそれから目を逸らさないように歯を食いしばる。

次こそは、母にとっての自慢の娘になれたらいいなと、そう願いながら。

「───ッ、ア、オアァ」

しかし、そのささやかな願いは、異形の断末魔と共に瞬く間に散っていった。

目の前で翻った紅葉の揺らめきを呆然と眺めながら、私は、凛と背筋を伸ばす男性の後ろ姿を見つめる。蜃気楼のごとく突然現れたそのひとは、身長ほどの大きさはあろう弓を軽々と携えていた。触ったら柔らかそうな黒髪は清潔に整えられており、凛と伸びた背筋も落ち着いた色の袴も、何もかもが魔法のごとく私の心を穏やかにする力を帯びていた。

異形が消滅し、すっかり静寂に満ちた空間の中で、そのひとがくるりと踵を返して私を見つめてくる。不思議と感じる懐かしさに内心首を傾げつつも、こちらを見定めるようについと細められた黒い瞳に息を呑んだ。

「秋声。……僕の名前は徳田秋声だ。君は?」

とくだ、しゅうせい。過去に図書室で幾度も慣れ親しんだその名に驚いた一方で、摩訶不思議な登場をした彼への不審さは一切感じなかった。むしろ、同じ空気を吸っているだけで心臓が凪いでいくような心地になるのだから、思ったよりも自分が呑気で笑ってしまう。

「私は苗字名前です。よろしくお願いします、徳田さん」
「……やっぱり呑気だな、君は」
「下手に泣き叫ぶよりはマシでしょう?」
「それはそうだけど。こちらも無駄な話をしている余裕はないんだ」

武器を懐に仕舞い込むような仕草をしたかと思えば、大弓は瞬く間に姿を消してしまった。立て続けに怒った不可思議な出来事に驚くよりも前に、私は彼の視線の先を辿って眉を寄せた。そこにあったのは、今の私にとって何より大切な日記帳だ。
母の日記が喪われてしまったことについて、彼は何らかの情報を得ているのだろうか。もしそうだとすれば、私が成すべきことは決まっていた。

「徳田さん。私は、一体何をすればいいんですか」
「……話が早くて助かるけど、君はもう少し人を疑うことを覚えた方がいいよ」

大げさに溜め息が吐き出されたかと思えば、私の両手はいつの間にか彼によって握られていた。口調には呆れが滲んでいるのに、指先の熱はやけに優しいものに思えて仕方ない。

「君が足を運ぶべき場所を、僕は知っている。一緒に来てほしいんだ」

力強い瞳で私に目線を合わせてくれた、そのひとの言葉を信じようと。本能的な決意を固めた私は、精一杯の笑顔を浮かべながら頷いた。



「……図書館?」

母の部屋の壁にぽっかりと開いていた黒い穴───徳田さんはここから来たのだと云う───を抜けると、そこには本棚が所狭しと並んでいた。
まさか自宅が見知らぬ場所に通じていたとは思わず、ぽかんとしながら周囲を眺め回してしまう。

「そう、ここは図書館だ。壊れかけだけどね」

壊れかけ、となぞるように繰り返すものの、ゆるりと揺れる紅葉は一目散に本棚の間をすり抜けていった。慌てながら追いけつつ改めて辺りを観察するものの、此処は今まで訪れたどの図書館よりも広くて美しかった。しかしながら内装の壮麗さに反してどこかもの悲しさを感じるのは、人気が一切ないからだろうか。

「名前」
「え。あ、はい!」

何故か慣れたように私の名を呼んだ徳田さんは、木製のこじんまりとした扉の前に立っていた。呆れたような流し目を頂戴したため足早に近づいていくと、途端に背骨に蜘蛛が這うような悪寒を感じた。……扉の向こうに、何かがいる。得体の知れない混沌とした悪意の塊が、確かにそこにはあった。

「君なら分かるだろう? この先に、さっきも遭遇した侵蝕者がいる」
「……はい」
「侵蝕者。───本の中の世界に出現しては破壊活動を行う生命体のことを、僕たちはそう呼んでいる。国定図書館に勤める司書たちは、文豪を転生させる特殊能力を使って日々彼らに対抗しているんだ」
「……ええと。もしかして徳田さんは転生した文豪で、母はこの図書館で働く司書だった、とか?」
「理解が早くて助かるよ」
「恐縮です。……ちなみに、もし侵蝕者の破壊を防げなかったらどうなるんですか?」
「簡単だよ。その本の記憶が、世界中の人々の記憶から抹消されてしまうんだ」

抹消、と無情にも突きつけられた言葉に息を呑む。そんな私の様子を微動だにせず見つめながら、徳田さんは扉の先をそっと指差した。

「この先に待っているのは、ここにいた司書の過去の記憶。君が手にしている、その日記の中の世界だ」
「……はい」
「もしこのまま彼らの破壊活動が続けば、日記に関する記憶が君の中から消えてしまう。ただし、母親の存在を忘れるなんてことは起きないし、君の命が失われる心配もない。……それを忘れたまま生きていくことになるだけだよ」
「そ、れは。……悲しいなあ」

この日記は、私にとってただの文章の塊ではない。母が直筆で綴ったささやかな日常であり、身体を蝕む病魔と闘いながら喜びや苦悩や悲しみと向き合った軌跡であり、ふたりでつくりあげた思い出がたくさん詰まった宝物であった。

けれど、侵蝕者がどれほど危険な存在かは既に理解しているつもりだ。もし彼らが先ほどの比ではない数で待ち受けているのだとすれば、いくら強くて頼もしい徳田さんといえど無傷では済まないだろう。
たとえ日記が失われようとも、母との思い出が全て消えてしまうわけではない。誰かを犠牲にしてまで守りたいものなんて、今の私には何もなかった。

寂寞に似た複雑な気持ちを飲み下しながら唇を開こうとすれば、それを遮るように徳田さんが話を切り出した。

「司書を喪ったこの図書館は、とっくに使命を終えて消えている筈だった」
「そう、なんですか」
「本来ならば、たとえ血縁者であっても足を踏み入れることすら出来ないんだよ」

あれ、ならば私はなぜ今ここにいるのだろう。首を傾げると、鋭く尖っていた瞳が僅かにゆるりと細まった。

「君は、僕が招いたからね」
「……え」
「他でもない僕自身が、君の記憶を守りたいと思ったんだよ」

徳田さんはいつの間にか背を向けていたものだから、表情を窺い知ることは出来ない。けれどその声音はやけに優しくて、不思議と心臓が真綿にくるまれたような安心感を覚えてしまう。まるで以前から私を知っているような言動をとる男性が目の前に現れたら、もっと不審に思う方が自然なのに。

「徳田さん。私は、あなたの足手まといにはなりたくありません」
「うん。それで?」
「それでも私は、日記の世界を守りたいと思ってしまう。それに、ふたりで生きて帰りたいです。どちらも両立できる道を選びたい、と」

甘ったれた思考だと切り捨てられるだろうか。一瞬後ろ向きな気持ちが頭を過ったが、このひとならば大丈夫だと根拠のない自信が同時に湧き上がってきた。

「当然そのつもりだよ」
「……よかった」

私を導くように差し出された手に、己のそれを重ねる。ほんの少しの不安を振り払うべく目線を上げて、背筋をぴんと伸ばした。

「君は、僕の傍にいてくれるだけでいい」
「それは嫌です」
「……言うと思った」
「そんな甘ったれた思考で臨むくらいなら、記憶は潔く諦めます」

肩をすくめた徳田さんに向かって胸を張っていると、潜書───日記の中の世界に潜入すること───にあたっての注意をいくつか受けた。
騒がない。勝手に走り出さない。指示を聞け。幼子を相手にするような物言いに一瞬むっとするものの、こちらは足手まといを承知で未知の空間に飛び込むのだから、むしろきちんと注意喚起をしてくれる彼は優しいだろう。

「徳田さん」
「なに?」
「帰ってきたら、一緒にご飯を食べましょう」

胡乱げな視線が降ってくるかと思ったのに、予想に反して彼はゆるりと口角を上げていた。

「いいよ。覚えていたらね」



結果として潜書は成功し、日記は以前の姿を取り戻した。

そもそも母の日記帳は文学的な価値がほぼないため、蔓延っていた侵蝕者たちのレベルが低く、図書館で初期から活躍していた徳田さんにとっては相手にもならなかったのだという。壮大な決意を固めた割にあっさりとした幕引きだったため拍子抜けしてしまったが、円満に事が運んだならば何よりである。

強ばっていた身体の力を抜くように深く息を吐き出しながら、私は約束を果たそうと振り返った。

「……え?」

帰還した先の図書館は大部分が損壊しており、今にも朽ち果ててしまいそうな様相を呈している。本棚に敷き詰められていた蔵書もごっそりと無くなっていて、凪いだ表情の徳田さんだけがぽっかりと浮かんでいるように見えた。

「言っただろう。ここは壊れかけの図書館だって」
「そう、ですけど……!」
「君は記憶を守れた。僕は目的を果たせた。それ以外に何を望むことがあるんだい」
「……目的?」

疑問を投げかけたつもりが、彼は肩をすくめた後にゆるりと歩みを進めてしまう。以前の姿を取り戻した日記を抱え直していると、眼前に漂う鮮やかな紅葉がやけに浮世離れしているように見えた。

「さようなら、名前」



気付いた時には、がらんとした家の中で一人ぼっちになっていた。

再び現実に放り出されてしまった。満足にお別れを告げることさえ出来なかった。……一緒にご飯を食べられなかった。

心臓が締め付けられるような寂しさを振り払うように、私は大切に抱えていた日記帳を開いた。
紙を一枚一枚めくる度に、覚えのない温かな香りが鼻をくすぐる。それは甘くて爽やかで、どことなく懐かしくて、やさしい匂いだった。

「…………あ、」

私はこの香りを知っている。頭の隅に眠っていた記憶がぼんやりと浮かぶのを感じて、私の心臓は早鐘を打った。

かつて子どもだった頃、よく私の面倒を見てくれた『おにいちゃん』がいた。

仕事で忙しい母に代わって、絵本の読み聞かせをしてくれた人。落ち着いた声と柔らかな熱、それから温かな匂いが印象的な年上の男性。
王子様とお姫様がハッピーエンドを迎える童話や、現実離れしたありとあらゆる寓話を語りかけてくれた、ちょっぴりぶっきらぼうなお兄ちゃん。

幼くて夢見がちな私にとっては、彼こそが王子様だった。それなのに、一人で本が読めるくらい成長してからは、家事や学校生活のことに必死で、自然と彼に会いたいと強請らなくなっていった。彼だってきっと、転生した文豪としての使命を果たすのに忙しかった筈だ。

それでも、徳田秋声は私という人間を覚えていたのだろう。昔ほんの少し縁があったというだけで、命に危機に晒された私を助けにやって来て、約束を果たさないまま消えてしまった。

こんなにも大切なことを忘れ去っていた自分にも呆れるけれど、最後の最後まで王子様であり続けた彼への怒りも込み上げてくる。

けれど、だからこそ私は、これからも頑張って生きていかなければならないのだと思った。
こんなにも優しくて素敵な人にたくさん支えてもらったのだから、私は幸せになる義務がある。

何がなんでも特務司書を目指すんだ、と決意を固めていたその時の私はまだ知らなかった。───夢を叶えた後に、再び初恋の人との再会を果たすだなんて。