オケアノス(6)
ポセイドンの初恋は、慈愛の化身と呼ぶに相応しい姉のデメテルであった。彼女は、苛烈で融通が利かないと周囲から見放されていた己を親身になって可愛がってくれた、唯一の身内である。
豊穣神の名に相応しい稲穂のような黄金色の髪。艶やかでふっくらとした肌は瑞々しく、頬は薔薇のように赤らんでいた。張りのある薄い唇はまろやかな孤を描き、昔はよく耳元でポセイドンの名を甘く呼んでくれたものである。
ああ、その身体を包む滑らかな白い衣を暴いてみたいと、何度考えたことだろう!
幼さ故に抱いた憧憬が、燃え上がるような恋心へ変わるのにそう時間はかからなかった。 しかし幾度となく求婚し愛を囁いても、デメテルがポセイドンの想いに応えることはなかったのだ。
「───ポセイドン。海と大地の支配権を握っても尚、大地母神の力を求めるというのですか」
神が神を愛するのは、相手の全てを支配し、自分の所有物としたいからだ。他の神と関係を結べば結ぶ程、己を奉る人間の数は増えていく。 古代ギリシャで無数に存在する神は、積極的に婚礼や交配を重ね、人々からの信仰を獲得することにより自らの存在を確固たるものとした。
ポセイドンが司るのは海洋と大地。海を荒らし大地を揺らせば、世界を崩壊させることも可能な程の強大な権能だ。その力が内包する破壊力と暴力性は、恐怖と畏怖を飛び越えた絶大な信奉に収斂している。
一方デメテルは、世界で初めに誕生した原初の女神、ガイアを祖母にもつ豊穣神だ。祖母に比べると権能の範囲は狭まるが、デメテルは人間に農耕を伝え、作物の実りを齎す女神である。その穏やかな性格も相まって、彼女に対する信仰は深い。
ポセイドンが持つ絶対的な権能と、デメテルが得た人々からの信頼。この二つが完全に重なり合った時、ポセイドンはゼウスの権威すらも覆す程の圧倒的な力を誇るだろう。
だからこそデメテルは、これ以上世界の均衡を崩すなと言っていた。それは、己の欲望に忠実なギリシャの神々の中では異質とも呼べる思考であった。
だがポセイドンはただひたすらに、彼女が欲しかったのだ。気高い姉の清廉な心を余すところなく手に入れて、共に生きていきたいと本気で願っていた。 デメテルの喜ぶ顔が見たくて、ポセイドンはこの世界にいくつも新しい生き物を生み出した。思いつく限りの美しい景色を、美味な食料を、あらゆる金銀財宝を捧げた。
───しかし、デメテルが身篭ったのは弟ゼウスの子供だった。
以前、デメテルと通じていた大地の精霊がゼウスによって葬られたと聞いた際、ポセイドンは自分にもつけ込む隙が生まれたことに感謝したのだ。他の男に心奪われた彼女に失望する気持ちもあったが、デメテルを自分のものにできることを思えば負の感情など吹き飛んだ。
そのことで舞い上がっていたからだろうか。気付いた時、ポセイドンはデメテルを犯していた。娘の行方が知れず弱っていた姉へ向けて、生まれた頃から抱いていた欲望を余すところなくぶつけた。 だが一時的な征服欲を満たしたところで、しこりのような虚しさが残るだけだったのだ。
「ポセイドン。あなたも結局は、ゼウスと同じなのね」
ポセイドンは知っていた。デメテルがゼウスから無理やり迫られていたことも、彼女がポセイドンへ向ける感情に僅かばかり好意が混じり始めていたことも。 理解していたのに我慢出来なかった。デメテルが己以外の誰かに征服されたことがどうしても赦せなかった。デメテルはいつだって、ポセイドンの所業を赦してくれたというのに。
ただ、彼女の全てを手に入れたかった。彼女の全てを知っていたかった。彼女が見せる感情は全て己に向けてほしかったし、己以外の誰かを見てほしくなんてなかった。
ポセイドンはどうしても、彼女が自由になることを赦せなかったのだ。
そしてデメテルは失意の内に姿を消し、二度とギリシャの海に現れることはなかった。たった一度きりの過ちは、心に一生消えない程の大きな傷を植え付ける。
だからポセイドンは聖杯に願った。姉にもう一度会いたいと。彼女からの愛があれば、それこそ何もいらないと本気で思っていたのだ。
*
ポセイドンが瞳を開けば、戦況は概ね予想通りであった。
カルデアは凡庸で愚鈍な集団だと評価せざるを得ない。海賊と名乗っていた男は既に散り、牛を模した化物は片腕がもげ、他のサーヴァントや人間達も余裕なく立ち回っている。
対して此方は、トロイアの槍兵が海賊の男と相討ち消滅。コルキスの魔術師はイアソンという名の男を魔神柱に変えて戦場を掻き乱し、バーサーカーは圧倒的な剛腕を振るっていた。
どうせ何者にも大した期待を寄せていなかったのだ。ポセイドンにとっては、聖杯をその身に取り込んだ人間も神話の英雄たる半神半人も同列の存在でしかなかった。
「ダビデ」
「ああ。何だい?」
自身の傍に控えていた脆弱な人間は、飄々とした態度を崩さないまま振り向いた。 召喚した当初から唯唯諾諾として命令に従ってきたこの男は、あくまで計画を構築する上での歯車に過ぎない。だが、部品が一つ足りなければ成就するまでに時間がかかるのもまた事実であった。
「そろそろ飽きた。潰せ」
「了解」
男は軽やかに海面へと降り立ち、ポセイドンの言葉通りアークを用いてとある英霊を消した。此方の主力とも云えたバーサーカーの雄叫びが消えたことで、その場に突如として静寂が横切る。 いくら神として末席が与えられていようとも、ヘラクレスは所詮ただの人間だ。障害となり得る存在はより少ない方が良い。
魔神柱へ立ち向かっていった幼いマスターを視界から遮断し、ポセイドンは自らの身に巣食う聖杯の力を改めて観察した。
───不足はない。不備はない。不満もない。
身体を支配した高揚感のままに海底から迸る力をなぞれば、全ての準備が完了したことを知る。
「行くんだね、ポセイドン」
「我の名を呼ぶ機会はこれで最後と心得よ。うぬは好きなように往ね」
醜く叫喚する声がおぞましく空間に谺響(こだま)したことで、ポセイドンは魔神柱が斃れた事実を知る。だが既に、斯様な出来事を意に介する段階は過ぎ去っていた。
己が目的を果たすべく瞳を開けば、眼下にいくつも点在させていた渦潮が集まり、やがて海そのものを呑み込む程の巨大な大渦潮に成長していった。
時は満ちた。脳天を突き抜けるかのごとく身に秘めていた激情が膨張し、鈴のように可憐で婀娜めいた声が自然と再生される。
───ポセイドン、あなたの瞳は海のように蒼く澄んでいるのね。
───願わくば、その輝きが永久に花開きますように。あなたが信じるものを、曇りなく綺麗に見つめられますように。
───あなたの姉は、いつでもあなたの傍にいます。
「ああ、そうだ! だから我は、主の言葉を信じ抜くのだ! 主の眩い眼差しを、主の柔らかな肌を、主の穏やかな声を我が物とするのだ! 嗚呼、我が愛しの君───デメテル!」
海神の咆哮に呼応するかのごとく、海は荒れて地は揺らぐ。それは歓喜によって生み出された暴力。傷付いた魂が紡いだ純粋なまでの欲望。歪みきった愛に起因する、どこまでも独り善がりな天地創造であった。
*
「───ッ、万古不易の迷宮 !」
血に塗れた拙い叫びには、ただ仲間を守りたいという強い意思が込められていた。
目の前にあった海が瞬く間に消えて、カルデア一行は全員迷宮の奥底へ放り込まれる。その場は疲労が色濃く滲む息遣いで満たされるが、とりあえず首の皮一枚は繋がった。アステリオスによって貼られた巨大な結界は、ゴールデンハインドさえもすっぽりと覆い尽くしている。
「アステリオス、大丈夫!?」
立香ちゃんの声が響いたのをきっかけに、ディスプレイの奥では悲痛な喧騒が飛び交っていく。
度重なる激闘の結果、アステリオスの霊基は致命的なダメージを負ってしまった。宝具を完璧な状態で発動できたのが奇跡に思えるほど、彼の身体は今にも朽ちて消えてしまいそうな状態だ。
オペレーターは無力だが無知ではない。名前はカルデアスタッフが収集してくれた情報をもとに一瞬思索に耽った後、幼くも頼もしいマスターとサーヴァントを真っ直ぐに見据える。 特異点オケアノスにおけるメインオペレーターとして、名前には告げなければならないことがあった。
「アステリオス」
「あ、ナマエ……?」
「すぐ近くに、エウリュアレがいる。今はもうポセイドンによる地震は収まったから、宝具を解除すればすぐに会えるよ」
這いつくばり肩で息をしていたアステリオスの瞳に、期待の色が柔らかく滲む。彼が少しでも永くこの特異点でエウリュアレと共に時間を重ねるためには、即座に身体を休めてもらう必要があった。 立香ちゃんもそれを察し、名前の言葉に同意した。ここには頼もしい仲間達がいるから問題ないと、力強く宣言した。しかし彼は何の迷いもない顔で、弱々しく首を横に振った。
「いやだ。ぼくは……、みんな、をまもる」
「ようやくエウリュアレに会えるんだよ? ほら、わたしの頼れる後輩マシュもいるから、守りの面では心配ないし」
「はい、わたしも精一杯努めます!」
「だって、やくそくしたんだ。たいせつなひとを、……まもれるくらい、つよいおとこになるって」
「……アステリオス」
「みんな、やさしかった。ぼくのなまえをよんで、ぼくのめをみて、ぼくのあたまを、なでてくれた。うれ、しかったんだ」
「…………」
「えうりゅあれも、みんなも、だいすきだから。ぼくは、まもりたい。ずっと、けがをしてて……やくに、たてなかったから」
「なあに言ってんだい。アステリオス、あんた良い男だけどバカだねえ」
献身的な愛に溢れたアステリオスの言葉を、ドレイクが一刀両断する。マシュは反論しようと口を開きかけるものの、立香ちゃんが無言で制した後に首を振った。
「女だって、仲間を守ることは出来るんだよ。それにアタシは強い。聖杯だか海神だかなんだか知らないけど、アステリオスが少し休んでる間にちょちょいと全部終わらせちまうよ。元はと言えば、アタシが仕留め損ねた責任もあるしね」
「……どれいく」
「だから信じな。あんたを信じるあんたの仲間に、黙って背中を預けとくれよ」
アステリオスはドレイクの言葉を噛み締めるように瞬きを繰り返し、やがて顔をそっと綻ばせた。
*
神殿は既にその形を失い、オケアノスは巨大な一つの海と化していた。
特異点の基盤として据えられていた大航海時代の海はもはや力を喪い、躯としてポセイドンの足元に横たわるのみ。オケアノスが復活した暁には、元々その土地に住んでいた人々の魂もエネルギーへと変換され、完全に生を絶たれるだろう。それはつまり、直截的に言って人類史の断絶を意味する。 だからこそカルデアは、今すぐにでもポセイドンを打倒しなければならなかった。
逸る気持ちを抑えつつ海上へ戻ったマスターを待ち受けていたのは、海に浮かぶささやかで美しい楽園だった。
それは、船の甲板と変わらないほど小さな島に見えた。海岸線の近くで蹲る少女の足元に、四季が全て詰め込まれたかと錯覚するほど多様な植物が咲き乱れている。宝石のように眩く煌めく彼女が女神と呼ばれる存在であることを、その場にいた誰もが本能的に察した。
「えう、りゅあれ! だびで……!」
アステリオスが激しく吼える。 後者の名を持つ羊飼いは、脇腹から大量の血を流しつつ手元の杖をポセイドンの喉元に突き付けていた。出会った頃と変わらぬ朗らかさを湛えながら、ダビデはただ笑う。
その笑みは、初めて彼の竪琴に耳を澄ませた夜を自然と名前に想起させた。
『名前、ここだけの話だよ。僕のとっておきの秘密を教えよう』
『秘密?』
『そう。僕はこの先、君たちを一度だけ裏切ることになる。───だけど心配しなくていい。僕の心は、そのとき一番大切な女の子のもとに置いておくから』
夜と朝の狭間、濃紺の空がすっかり大地を覆い尽くした頃。カルデア職員すらも大半が仮眠を取っていた午前三時過ぎに、ダビデは内緒話をするように声を潜めていた。
重大な秘密を明かそうとしているくせにその口調は軽やかで、名前は思わず笑ってしまったものだった。
『まさか、誰かを寝取りでもするつもり?』
『おっと手厳しいな。少なくとも此処ではそんなことしないよ。だから一瞬だけでいい。君の心が欲しいんだ』
『……まるごとあげることは出来ないけど、私の心は預けておく。だからダビデ、約束して』
『何だい?』
『私の知らないところで、勝手にいなくならないで』
『……分かった。僕からも一つお願いがある』
『うん』
『この先何があっても、君だけは笑っていて』
『……それだけ?』
『それだけ』
『欲が無さすぎない?』
『あはは。幸い僕は昔、富も地位も名声も充分すぎるほどに得たからね。今はただの羊飼いで在りたいんだ。……それに』
『…………』
『……いや、何でもないよ』
『ダビデ』
『うん』
『────────────』
名前がその言葉を届けた瞬間、ダビデは幼子のように目を丸くして、やがて柔らかく笑みを零した。 パチパチと焚き火が爆ぜる音を包み込むように、彼は竪琴を柔らかく奏で始める。心にそっと寄り添ってくれるような温かな音色がとても心地好かった。
その時に名前は思い知った。ダビデはきっと最後まで己の心の内を晒さない。腹の底を不必要にひけらかしたり、弱さを他者に見せようとしない。 だから名前は、せめて彼に対して誠実でありたいと思った。そう在ろうとする心持ちこそが、何より彼の求めるものだと感じたから。
「僕の役目は、ポセイドンが計画を円滑に進めるための潤滑油だった」
部下の謀反に微塵も動揺していない様子のポセイドンは、高らかに声を上げたダビデを見て嗤う。それでも羊飼いはその顔に負の感情を宿さず、カルデア一行からの視線を受け止めながら堂々と胸を張っていた。
その背中は許しを乞う罪人のものではなく、民を教え導く王そのものであった。生きるために数多の骸を踏み越え、それでも己の信念を貫くことを誓った指導者の魂が宿っている。
「僕とポセイドンの契約内容は三つあった。一つ。カルデアを極力この神殿に近付けず、オケアノスが創造された目的を悟らせないこと。二つ。カルデアからの信用を得て、必要とあらば戦力を削いだ後に自決すること。そして三つ。女神を復活させるために、僕が君に契約の箱を貸し与えること」
「…………」
「君が僕に微塵も期待していないことは分かっていたから、こちらも好きにやらせてもらったよ。幸い頼もしい味方も出来たことだしね」
その瞬間ポセイドンの背後に出現したのは、凛と背筋を伸ばした美しい弓兵だった。黄金と深緑が混ざった長髪から覗く獣の耳は光沢を帯び、知的ながら獰猛な狩人のごとく鬼気迫る空気を纏っている。 ダビデと同様に深手を負う彼女は標的から一瞬たりとも目を離そうとせず、弓を限界まで引き絞った状態で歯を食い縛った。
「無事で何よりだ、アタランテ」
「何があろうと生き延びろと言ったのは貴様だろう」
二人は目線を合わさないまま微笑みを交わし、自然とその場には柔らかな沈黙が生まれた。
*
しかしポセイドンは目の前の出来事に何も反応せず、その顔には羽虫を見るかのごとく嘲る色が浮かぶのみであった。妄執に囚われた神の目には、もはや己の命を狙うサーヴァントの姿など映ってはいない。
姉と交わったいつかの楽園、姉に捧げたかつての海、姉が生を謳歌していた遥か昔の世界。それら全てを手中に収める力を、海神は確かに備えていたのだ。
神の願望に呼応するように、幾つもの光線が海面から垂直に聳え立った。ポセイドンが立つ島を包囲するように生まれていく柱達は、徐々に数を増やしながら天高く突き出していく。その直径は人間の身長を優に越しており、サーヴァントが放つ矢さえも瞬く間に砕く程の強度を有していた。
島を完全に光の壁が取り囲んだのを見計らい、ポセイドンは掌を天穹に掲げた。膨大な魔力を孕んだ光は質量を得た後、大気中に滲む濃密なマナを余す所なく吸い込み、やがて掌と同等の光球へと変貌していく。
そしてポセイドンが唇を大きく歪ませた瞬間、───その腹を古めかしい杖が勢いよく穿いた。
豊穣神の名に相応しい稲穂のような黄金色の髪。艶やかでふっくらとした肌は瑞々しく、頬は薔薇のように赤らんでいた。張りのある薄い唇はまろやかな孤を描き、昔はよく耳元でポセイドンの名を甘く呼んでくれたものである。
ああ、その身体を包む滑らかな白い衣を暴いてみたいと、何度考えたことだろう!
幼さ故に抱いた憧憬が、燃え上がるような恋心へ変わるのにそう時間はかからなかった。 しかし幾度となく求婚し愛を囁いても、デメテルがポセイドンの想いに応えることはなかったのだ。
「───ポセイドン。海と大地の支配権を握っても尚、大地母神の力を求めるというのですか」
神が神を愛するのは、相手の全てを支配し、自分の所有物としたいからだ。他の神と関係を結べば結ぶ程、己を奉る人間の数は増えていく。 古代ギリシャで無数に存在する神は、積極的に婚礼や交配を重ね、人々からの信仰を獲得することにより自らの存在を確固たるものとした。
ポセイドンが司るのは海洋と大地。海を荒らし大地を揺らせば、世界を崩壊させることも可能な程の強大な権能だ。その力が内包する破壊力と暴力性は、恐怖と畏怖を飛び越えた絶大な信奉に収斂している。
一方デメテルは、世界で初めに誕生した原初の女神、ガイアを祖母にもつ豊穣神だ。祖母に比べると権能の範囲は狭まるが、デメテルは人間に農耕を伝え、作物の実りを齎す女神である。その穏やかな性格も相まって、彼女に対する信仰は深い。
ポセイドンが持つ絶対的な権能と、デメテルが得た人々からの信頼。この二つが完全に重なり合った時、ポセイドンはゼウスの権威すらも覆す程の圧倒的な力を誇るだろう。
だからこそデメテルは、これ以上世界の均衡を崩すなと言っていた。それは、己の欲望に忠実なギリシャの神々の中では異質とも呼べる思考であった。
だがポセイドンはただひたすらに、彼女が欲しかったのだ。気高い姉の清廉な心を余すところなく手に入れて、共に生きていきたいと本気で願っていた。 デメテルの喜ぶ顔が見たくて、ポセイドンはこの世界にいくつも新しい生き物を生み出した。思いつく限りの美しい景色を、美味な食料を、あらゆる金銀財宝を捧げた。
───しかし、デメテルが身篭ったのは弟ゼウスの子供だった。
以前、デメテルと通じていた大地の精霊がゼウスによって葬られたと聞いた際、ポセイドンは自分にもつけ込む隙が生まれたことに感謝したのだ。他の男に心奪われた彼女に失望する気持ちもあったが、デメテルを自分のものにできることを思えば負の感情など吹き飛んだ。
そのことで舞い上がっていたからだろうか。気付いた時、ポセイドンはデメテルを犯していた。娘の行方が知れず弱っていた姉へ向けて、生まれた頃から抱いていた欲望を余すところなくぶつけた。 だが一時的な征服欲を満たしたところで、しこりのような虚しさが残るだけだったのだ。
「ポセイドン。あなたも結局は、ゼウスと同じなのね」
ポセイドンは知っていた。デメテルがゼウスから無理やり迫られていたことも、彼女がポセイドンへ向ける感情に僅かばかり好意が混じり始めていたことも。 理解していたのに我慢出来なかった。デメテルが己以外の誰かに征服されたことがどうしても赦せなかった。デメテルはいつだって、ポセイドンの所業を赦してくれたというのに。
ただ、彼女の全てを手に入れたかった。彼女の全てを知っていたかった。彼女が見せる感情は全て己に向けてほしかったし、己以外の誰かを見てほしくなんてなかった。
ポセイドンはどうしても、彼女が自由になることを赦せなかったのだ。
そしてデメテルは失意の内に姿を消し、二度とギリシャの海に現れることはなかった。たった一度きりの過ちは、心に一生消えない程の大きな傷を植え付ける。
だからポセイドンは聖杯に願った。姉にもう一度会いたいと。彼女からの愛があれば、それこそ何もいらないと本気で思っていたのだ。
*
ポセイドンが瞳を開けば、戦況は概ね予想通りであった。
カルデアは凡庸で愚鈍な集団だと評価せざるを得ない。海賊と名乗っていた男は既に散り、牛を模した化物は片腕がもげ、他のサーヴァントや人間達も余裕なく立ち回っている。
対して此方は、トロイアの槍兵が海賊の男と相討ち消滅。コルキスの魔術師はイアソンという名の男を魔神柱に変えて戦場を掻き乱し、バーサーカーは圧倒的な剛腕を振るっていた。
どうせ何者にも大した期待を寄せていなかったのだ。ポセイドンにとっては、聖杯をその身に取り込んだ人間も神話の英雄たる半神半人も同列の存在でしかなかった。
「ダビデ」
「ああ。何だい?」
自身の傍に控えていた脆弱な人間は、飄々とした態度を崩さないまま振り向いた。 召喚した当初から唯唯諾諾として命令に従ってきたこの男は、あくまで計画を構築する上での歯車に過ぎない。だが、部品が一つ足りなければ成就するまでに時間がかかるのもまた事実であった。
「そろそろ飽きた。潰せ」
「了解」
男は軽やかに海面へと降り立ち、ポセイドンの言葉通りアークを用いてとある英霊を消した。此方の主力とも云えたバーサーカーの雄叫びが消えたことで、その場に突如として静寂が横切る。 いくら神として末席が与えられていようとも、ヘラクレスは所詮ただの人間だ。障害となり得る存在はより少ない方が良い。
魔神柱へ立ち向かっていった幼いマスターを視界から遮断し、ポセイドンは自らの身に巣食う聖杯の力を改めて観察した。
───不足はない。不備はない。不満もない。
身体を支配した高揚感のままに海底から迸る力をなぞれば、全ての準備が完了したことを知る。
「行くんだね、ポセイドン」
「我の名を呼ぶ機会はこれで最後と心得よ。うぬは好きなように往ね」
醜く叫喚する声がおぞましく空間に谺響(こだま)したことで、ポセイドンは魔神柱が斃れた事実を知る。だが既に、斯様な出来事を意に介する段階は過ぎ去っていた。
己が目的を果たすべく瞳を開けば、眼下にいくつも点在させていた渦潮が集まり、やがて海そのものを呑み込む程の巨大な大渦潮に成長していった。
時は満ちた。脳天を突き抜けるかのごとく身に秘めていた激情が膨張し、鈴のように可憐で婀娜めいた声が自然と再生される。
───ポセイドン、あなたの瞳は海のように蒼く澄んでいるのね。
───願わくば、その輝きが永久に花開きますように。あなたが信じるものを、曇りなく綺麗に見つめられますように。
───あなたの姉は、いつでもあなたの傍にいます。
「ああ、そうだ! だから我は、主の言葉を信じ抜くのだ! 主の眩い眼差しを、主の柔らかな肌を、主の穏やかな声を我が物とするのだ! 嗚呼、我が愛しの君───デメテル!」
海神の咆哮に呼応するかのごとく、海は荒れて地は揺らぐ。それは歓喜によって生み出された暴力。傷付いた魂が紡いだ純粋なまでの欲望。歪みきった愛に起因する、どこまでも独り善がりな天地創造であった。
*
「───ッ、
血に塗れた拙い叫びには、ただ仲間を守りたいという強い意思が込められていた。
目の前にあった海が瞬く間に消えて、カルデア一行は全員迷宮の奥底へ放り込まれる。その場は疲労が色濃く滲む息遣いで満たされるが、とりあえず首の皮一枚は繋がった。アステリオスによって貼られた巨大な結界は、ゴールデンハインドさえもすっぽりと覆い尽くしている。
「アステリオス、大丈夫!?」
立香ちゃんの声が響いたのをきっかけに、ディスプレイの奥では悲痛な喧騒が飛び交っていく。
度重なる激闘の結果、アステリオスの霊基は致命的なダメージを負ってしまった。宝具を完璧な状態で発動できたのが奇跡に思えるほど、彼の身体は今にも朽ちて消えてしまいそうな状態だ。
オペレーターは無力だが無知ではない。名前はカルデアスタッフが収集してくれた情報をもとに一瞬思索に耽った後、幼くも頼もしいマスターとサーヴァントを真っ直ぐに見据える。 特異点オケアノスにおけるメインオペレーターとして、名前には告げなければならないことがあった。
「アステリオス」
「あ、ナマエ……?」
「すぐ近くに、エウリュアレがいる。今はもうポセイドンによる地震は収まったから、宝具を解除すればすぐに会えるよ」
這いつくばり肩で息をしていたアステリオスの瞳に、期待の色が柔らかく滲む。彼が少しでも永くこの特異点でエウリュアレと共に時間を重ねるためには、即座に身体を休めてもらう必要があった。 立香ちゃんもそれを察し、名前の言葉に同意した。ここには頼もしい仲間達がいるから問題ないと、力強く宣言した。しかし彼は何の迷いもない顔で、弱々しく首を横に振った。
「いやだ。ぼくは……、みんな、をまもる」
「ようやくエウリュアレに会えるんだよ? ほら、わたしの頼れる後輩マシュもいるから、守りの面では心配ないし」
「はい、わたしも精一杯努めます!」
「だって、やくそくしたんだ。たいせつなひとを、……まもれるくらい、つよいおとこになるって」
「……アステリオス」
「みんな、やさしかった。ぼくのなまえをよんで、ぼくのめをみて、ぼくのあたまを、なでてくれた。うれ、しかったんだ」
「…………」
「えうりゅあれも、みんなも、だいすきだから。ぼくは、まもりたい。ずっと、けがをしてて……やくに、たてなかったから」
「なあに言ってんだい。アステリオス、あんた良い男だけどバカだねえ」
献身的な愛に溢れたアステリオスの言葉を、ドレイクが一刀両断する。マシュは反論しようと口を開きかけるものの、立香ちゃんが無言で制した後に首を振った。
「女だって、仲間を守ることは出来るんだよ。それにアタシは強い。聖杯だか海神だかなんだか知らないけど、アステリオスが少し休んでる間にちょちょいと全部終わらせちまうよ。元はと言えば、アタシが仕留め損ねた責任もあるしね」
「……どれいく」
「だから信じな。あんたを信じるあんたの仲間に、黙って背中を預けとくれよ」
アステリオスはドレイクの言葉を噛み締めるように瞬きを繰り返し、やがて顔をそっと綻ばせた。
*
神殿は既にその形を失い、オケアノスは巨大な一つの海と化していた。
特異点の基盤として据えられていた大航海時代の海はもはや力を喪い、躯としてポセイドンの足元に横たわるのみ。オケアノスが復活した暁には、元々その土地に住んでいた人々の魂もエネルギーへと変換され、完全に生を絶たれるだろう。それはつまり、直截的に言って人類史の断絶を意味する。 だからこそカルデアは、今すぐにでもポセイドンを打倒しなければならなかった。
逸る気持ちを抑えつつ海上へ戻ったマスターを待ち受けていたのは、海に浮かぶささやかで美しい楽園だった。
それは、船の甲板と変わらないほど小さな島に見えた。海岸線の近くで蹲る少女の足元に、四季が全て詰め込まれたかと錯覚するほど多様な植物が咲き乱れている。宝石のように眩く煌めく彼女が女神と呼ばれる存在であることを、その場にいた誰もが本能的に察した。
「えう、りゅあれ! だびで……!」
アステリオスが激しく吼える。 後者の名を持つ羊飼いは、脇腹から大量の血を流しつつ手元の杖をポセイドンの喉元に突き付けていた。出会った頃と変わらぬ朗らかさを湛えながら、ダビデはただ笑う。
その笑みは、初めて彼の竪琴に耳を澄ませた夜を自然と名前に想起させた。
『名前、ここだけの話だよ。僕のとっておきの秘密を教えよう』
『秘密?』
『そう。僕はこの先、君たちを一度だけ裏切ることになる。───だけど心配しなくていい。僕の心は、そのとき一番大切な女の子のもとに置いておくから』
夜と朝の狭間、濃紺の空がすっかり大地を覆い尽くした頃。カルデア職員すらも大半が仮眠を取っていた午前三時過ぎに、ダビデは内緒話をするように声を潜めていた。
重大な秘密を明かそうとしているくせにその口調は軽やかで、名前は思わず笑ってしまったものだった。
『まさか、誰かを寝取りでもするつもり?』
『おっと手厳しいな。少なくとも此処ではそんなことしないよ。だから一瞬だけでいい。君の心が欲しいんだ』
『……まるごとあげることは出来ないけど、私の心は預けておく。だからダビデ、約束して』
『何だい?』
『私の知らないところで、勝手にいなくならないで』
『……分かった。僕からも一つお願いがある』
『うん』
『この先何があっても、君だけは笑っていて』
『……それだけ?』
『それだけ』
『欲が無さすぎない?』
『あはは。幸い僕は昔、富も地位も名声も充分すぎるほどに得たからね。今はただの羊飼いで在りたいんだ。……それに』
『…………』
『……いや、何でもないよ』
『ダビデ』
『うん』
『────────────』
名前がその言葉を届けた瞬間、ダビデは幼子のように目を丸くして、やがて柔らかく笑みを零した。 パチパチと焚き火が爆ぜる音を包み込むように、彼は竪琴を柔らかく奏で始める。心にそっと寄り添ってくれるような温かな音色がとても心地好かった。
その時に名前は思い知った。ダビデはきっと最後まで己の心の内を晒さない。腹の底を不必要にひけらかしたり、弱さを他者に見せようとしない。 だから名前は、せめて彼に対して誠実でありたいと思った。そう在ろうとする心持ちこそが、何より彼の求めるものだと感じたから。
「僕の役目は、ポセイドンが計画を円滑に進めるための潤滑油だった」
部下の謀反に微塵も動揺していない様子のポセイドンは、高らかに声を上げたダビデを見て嗤う。それでも羊飼いはその顔に負の感情を宿さず、カルデア一行からの視線を受け止めながら堂々と胸を張っていた。
その背中は許しを乞う罪人のものではなく、民を教え導く王そのものであった。生きるために数多の骸を踏み越え、それでも己の信念を貫くことを誓った指導者の魂が宿っている。
「僕とポセイドンの契約内容は三つあった。一つ。カルデアを極力この神殿に近付けず、オケアノスが創造された目的を悟らせないこと。二つ。カルデアからの信用を得て、必要とあらば戦力を削いだ後に自決すること。そして三つ。女神を復活させるために、僕が君に契約の箱を貸し与えること」
「…………」
「君が僕に微塵も期待していないことは分かっていたから、こちらも好きにやらせてもらったよ。幸い頼もしい味方も出来たことだしね」
その瞬間ポセイドンの背後に出現したのは、凛と背筋を伸ばした美しい弓兵だった。黄金と深緑が混ざった長髪から覗く獣の耳は光沢を帯び、知的ながら獰猛な狩人のごとく鬼気迫る空気を纏っている。 ダビデと同様に深手を負う彼女は標的から一瞬たりとも目を離そうとせず、弓を限界まで引き絞った状態で歯を食い縛った。
「無事で何よりだ、アタランテ」
「何があろうと生き延びろと言ったのは貴様だろう」
二人は目線を合わさないまま微笑みを交わし、自然とその場には柔らかな沈黙が生まれた。
*
しかしポセイドンは目の前の出来事に何も反応せず、その顔には羽虫を見るかのごとく嘲る色が浮かぶのみであった。妄執に囚われた神の目には、もはや己の命を狙うサーヴァントの姿など映ってはいない。
姉と交わったいつかの楽園、姉に捧げたかつての海、姉が生を謳歌していた遥か昔の世界。それら全てを手中に収める力を、海神は確かに備えていたのだ。
神の願望に呼応するように、幾つもの光線が海面から垂直に聳え立った。ポセイドンが立つ島を包囲するように生まれていく柱達は、徐々に数を増やしながら天高く突き出していく。その直径は人間の身長を優に越しており、サーヴァントが放つ矢さえも瞬く間に砕く程の強度を有していた。
島を完全に光の壁が取り囲んだのを見計らい、ポセイドンは掌を天穹に掲げた。膨大な魔力を孕んだ光は質量を得た後、大気中に滲む濃密なマナを余す所なく吸い込み、やがて掌と同等の光球へと変貌していく。
そしてポセイドンが唇を大きく歪ませた瞬間、───その腹を古めかしい杖が勢いよく穿いた。