「ああもう、まったく無茶苦茶だな!?」

隣でロマニが叫ぶ声には、必死に押し隠そうとしているものの確かに悲痛の色が滲んでいた。名前はその痛みに気付きつつも、本当にね、と短く返答する。

結果的に、ダビデがポセイドンに仕掛けた奇襲は失敗に終わった。決死の一突きは霊核を貫いたかに見えたものの、海神はちらりとも動揺せずにダビデを一蹴し、虫けらのごとく扱って地面に這い蹲らせた。あまつさえ、何事も無かったかのように傷一つ無い身体に逆戻りしている。

いくら聖杯の力を得ているとはいえ、神霊として現界している限りポセイドンにも弱点となる核はある筈だ。しかしいくらアタランテがその心臓に向けて矢を放っても、暖簾に腕押しするように肉体をすり抜けていくだけである。

何も解決策が見えない五里霧中な現状を晴らしていくのは、やはり立香ちゃんの凛とした明るい声だった。

「名前さん。わたし、行きます」

ダビデが時間を稼いでくれた間、カルデアとして出来る限りの手立ては打ったつもりだ。今名前がすべきなのは己の無力さを嘆くことではなく、出来る限り彼女が寄りかかれる場所になることしかない。

「うん。立香ちゃん、気を付けてね」
「はい!」

マスターは周囲の仲間をぐるりと見渡し、臆することなく堂々と胸を張った。

「───それじゃ、作戦開始!」

その言葉に、まず月の女神が麗しく微笑みながら前に歩み出る。その顔にどこか冷ややかな色が滲むのは、彼女を慕うアタランテを傷付けられたからなのだろう。人間に愛着は無いと言いつつ、やはり抑止力として世界に召喚されただけのことはある。

「オリオン。昔デメテルを口説いてた件については後できちんと説明してもらうから」
「えっそれ今言う!?」

アルテミスが問答無用で放った矢の吸盤に吸いついたまま、オリオンは情けない叫び声を上げてポセイドンの足元に落下した。船から島までの距離を考えると、素晴らしい命中精度だ。

肩で息をしていたダビデも、さすがに苦笑しながらオリオンの傍に這って近寄っていく。矢を抜けば、熊はくりくりと丸くさせていた目を勢いよく見開いて吠えた。

「死ぬかと思ったわ!!」
「災難だったね。それでどうだい?」
「……おお。半信半疑だったが、確かにいけるな」
「それは良かった。疲れているところ悪いけど、さっそく頼むよ」

完全に外界の音を遮断した様子のポセイドンは、手元の光球に意識を集中させていた。いつの間にか、島の隅に座り込んでいたエウリュアレの身体からも光が迸り、ポセイドンの掌に吸収されている。 未だあどけない少女にさえ見える女神が苦悶に呻く姿は見ているだけで胸が押し潰されるようで、ダビデは改めて血が滲む程に強く拳を握った。

「……、よし出来た! おまえらそのまま飛んで来い!!」

オリオンの叫びに応えるように、サーヴァント達は一斉に船を飛び出して海面に降り立った。

───ポセイドンに近しい者は、立場に関係なく無条件に、海神が持つ権能の恩恵を受けることが可能なのではないか。

名前が最初にこの仮説を立てたのは、カルデアがアルテミスの気配を観測できなかった事実に思い至った時だった。 ポセイドンは、ドレイクの目を誤魔化すべく馬に変貌したことがあった。それは恐らく、デメテルとの間に儲けた子供の一人である名馬の概念を抽出し、投影させたのだと推測できたのだ。

オケアノスを再現する過程において、ポセイドンは自ら手を下さず、配下を使役することで暗躍していた。もしもその際、より気軽にあらゆる生物の概念を操作できるよう、世界の法則を塗り替えていたとしたら。荒唐無稽に思えるかもしれないが、聖杯を得た神霊が相手ならば常識に囚われすぎる方が悪手である。

すなわち、よりポセイドンと関係が深い人間ならば、───ポセイドンの手駒だと世界に錯覚させることで、その力の一端を扱えるかもしれない。 この仮説が正しかったのかどうかは、海面を駆け抜けるサーヴァントとマスターの姿を見ていればよく分かる。



「えうりゅあれ……!」

アステリオスは女神のもとへ一目散に駆け寄り、華奢な身体を支えるように肩へ手を伸ばす。じゅわりと肉が焦げるような音がしたかと思えば、彼の掌が瞬く間に紅く腫れ上がっていた。

「……っ、離れなさい!」

ポセイドンが煩わしそうに目を細めるのを見て、エウリュアレは弱々しく首を振った。その間にも彼女の胸からは純白の光が溢れ出し、透明感のあった櫻色の肌は徐々に青ざめていく。

「いや、だ」
「なら、愚図なあなたにも分かるように……っ、言ってあげる。足でまといなのよ。邪魔なの!」
「じゃまなのは、しってる。それでもぼくは、……えうりゅあれを、まもりたい、んだ」
「───よく言ったね。君は将来とても良い男になるだろう」

ダビデは飄々とした表情を崩さないまま、二人を庇うように一歩前に進み出る。続いて、遅れて到着した立香ちゃんやマシュの姿を認めて薄く微笑み、彼女達の手元に目線を向けた。

その時確かに、名前はディスプレイ越しにダビデと見つめ合った。一瞬だけ交えたその瞳は、まるで子を見守る父親のごとく温かな色を宿している。

「覚えておくといい、エウリュアレ。人は、誰かに愛されたいから誰かを愛するんじゃない。目の前のひとをただ愛したいから愛してしまう生き物なんだよ」
「…………」
「アステリオスは君を心から信じて、愛して、慈しんでいる。彼は君からどんなに冷たい言葉を投げかけられても諦めないよ。きっとアステリオスは君に裏切られたって後悔はしないんだ。彼の願いはただ、君を愛することだから」
「随分と、生意気な口を叩くのね」

ぽつりと絞り出すようにその言葉が漏れた瞬間、彼女から滲み出ていた光は急速に収まり、そのまま音もなく膝をついた。 今度こそアステリオスはエウリュアレの肩を支え、恐る恐る彼女の顔を覗き込んだ。女神は気丈に振る舞いつつも、その大きくて傷だらけの手を振り払おうとはしない。

「えうりゅあれ、ありがとう」
「……ばかね。それは私が言うべき言葉でしょう。それと、そこの男」
「ん、僕のことかな」

ダビデがきょとんと首を傾げると、エウリュアレはそっと柳眉を吊り上げた。

「今回は大目に見てあげるけど、次は容赦しないんだからね」
「それは光栄です、女神様」

恭しくお辞儀をした後、ダビデはマスターにちらりと目線を配った。燃えるような赤い髪を宿した少女は、何の躊躇いもない様子で羊飼いと肩を並べていた。

ポセイドンの周囲には、不気味な程に静謐な空気が鎮座している。その場にいる誰もが嵐前の静けさだと知りながら、決して逃げ出そうとはしない。後ろを向くよりも前にやるべきことがあったからだ。

「立香、勝負は一瞬だよ。気を抜かないでくれ」
「了解、任せて」
「良い返事だ。それにしても、よく僕のことを信じたね?」

たとえ名前からの力添えがあったとしても、最終的にダビデを信じると決めたのはカルデア側の責任者であり、目の前にいる人類最後のマスターだ。 この少女が底抜けの善人であり、愛を受けて育った一般人であることはこれまでの旅で理解したつもりだ。だからこそ、彼女自身の言葉が欲しいとダビデは思った。

「わたし、分かるんだ。大切な人に限って嘘をついちゃったり、見栄を張ったり、褒めてもらうために何でもしたくなる気持ち」
「……そうか。それでこそ私が命を預けるに足るマスターだ。ならば少しだけ、老婆心から言わせてもらおうかな」

奇襲するべきタイミングまでには余裕があった。ダビデは身体の隅々に満ちていく充足感のままに、ゆったりと目を細めていく。

「本来ならば僕が言える立場にないことには目を瞑ってくれ」
「うん」
「君が背負う責務は、一人の人間が抱えるには重すぎる。だから辛い時は逃げてもいい。自分の役目から目を逸らしてもいい」
「……うん」
「世界を守るために身体を張るのは立派かもしれないが、そのために己の命を捧げるのはただの自己犠牲でしかないんだ。カルデアには、何よりも君の生を望む人間がいることを忘れないでくれ」
「うん。……ありがとう」
「やはり君は、そうやって笑っている方がいいね。さあ、時間だ」

ポセイドンが手を翳したそれは、徐々に生物としての姿をかたちどっていく。暗闇に光を優しく照らすように、小さく丸かった光は強大な魔力を帯びながら女神の造形を模していく。

島の中心に顕れた微笑は、世界中に散らばる美しさを余すところなく閉じ込めたかのごとく、流麗かつ耽美だった。並の人間であれば見つめるだけで自然と四肢の力が抜けていくような、暴力的とまで言える柔和さをも秘めている。

「───嗚呼、そうだ。我のために在りてこそ主は輝く」

海神は恍惚とした声音で呟き、女神のもとへ歩み寄っていく。女神は何の言葉も発することなく微笑み続け、やがて祈るように瞼を閉じて弟を迎え入れた。

「主の玉音を、我以外に聞かせてやる気は毛頭ない。この意味が分かるな?」
「…………」

女神は瞳を開き、優美かつ従順に頷く。 彼女が纏った純白の布がはためいた次の瞬間、突如として世界が真っ白な光に覆われた。







人が抱く献身的なまでの愛情は、本来ならば決して神には届かない。神は常に全ての物事を俯瞰し、無駄を排除し、傷付く心を持たないからだ。 だが、それでも神を完璧な機構と定義することは出来ないだろう。彼らには喜怒哀楽の感情があり、中には愛情と呼ぶに値する執着心さえも持ち得ている。

だがしかし神はあくまで神であり、人のごとく人に愛を与えることは叶わない。人のごとく愛を持つことも叶わない。

神が愛を得るためには、神としての存在価値を自らの手で消滅させるしかないのだ。







特異点オケアノスにおいて強制的に呼び覚まされた女神デメテルは、云わば不完全な人形でしかなかった。 ポセイドンによって収集されたサーヴァントという名の生贄を土台として、エウリュアレから削り取った魂の欠片を宛てがわれ、ようやく動くことを赦された傀儡のような状態だ。

デメテルは比較的穏やかな豊穣神として名高い一方、破壊の女神として人類を滅ぼしかけた逸話がある。土地に実りをもたらす自らの役目を放棄し、世界中に飢餓と冬を与えた季節創成の神話。 オケアノスに召喚された彼女は、その破壊兵器としての側面が全面的に押し出されていた。

この世界に産み落とされたばかりの女神の精神は、未だ親を知ったばかりの雛鳥に等しい。弟こそが現時点で彼女の全てであり、弟の願望実現を阻む敵のためならばその力を容赦なく振るっていた。

サーヴァントが所有する貯蔵魔力を根こそぎ奪い尽くす程の大魔術。擬似的に冬を再現し、周囲に存在する生命体を消滅に追い込むその術は、対界宝具に等しい威力を発揮した。 カルデア側でその攻撃を唯一涼しい顔で受け流したのは、対魔力と共に神性を有したアーチャー。羊飼いとしてオケアノスの海を放浪し続けたイスラエル王───ダビデは、凄まじい熱量の奔流が終息した頃合いを見計らい、女神の心臓部へ向けて矢を放った。

デメテルを模した傀儡は瞬く間に形を喪い、純白の光が飛び散っていく。だがポセイドンは、背後で笑んだまま余裕の姿勢を崩そうとはしなかった。

「無駄なことを」

その言葉通り、デメテルは瞬時に同じ場所へ復活する。何事も無かったかのように微笑んだ彼女は、瞳を閉じて再び海面に掌を翳した。

カルデアからの莫大な魔力供給があるとはいえ、このまま二発目が来てしまえばダビデもさすがにただでは済まない。今にも消えてしまいそうな他のアーチャーの気配を感じながら、ふと手に宿る温もりに心を寄せて微笑んだ。

「ああ、そうだね。僕だけであればこの行為は無駄でしかなかった」
「またお得意の、仲間との絆とやらか」
「僕が絆を語るというのも皮肉な話だけどね」

矢尻に指を添えた後、ダビデはしなやかな動作で弓を引く。その先端が女神の核を捉える瞬間、海神の胸もまた鋭い一矢に射抜かれていた。 どうやらアタランテは、最後の気力を振り絞って最高の仕事をしてくれたようだ。 金の粒子が彼女の残滓を彩る様を見て、己の背後で銃口が鳴動する音を聞いて、視線の先でマスターが笑みを浮かべる様子を認めて、大切な者のために身体を張る少年少女を慈しんで、ダビデは天に在す主へと祈った。







『神を生かすのも殺すのも、人間なくしては有り得ない』

ダビデの言葉を受けると、名前はそうねと軽やかに返事をした。外行きの顔をする彼女の口調は上品で、ほんの僅かばかり高圧的な色も垣間見える。 恐らく、現時点で名前がこのように軽口を叩ける相手は少ないのだろう。なまじ自分の弱味を周囲に隠し続けるのが巧妙であるから、これは彼さえも気付いていない事実なのだと薄ら悟る。

心を許す仲であることと、冗談を言い合える仲であることは似ているようで全く違う。もしも、彼女が無意識に溜め込んでいた心の膿を吐き出せているのだとすれば、自身がこの場に召喚された甲斐があるというものだ。

『つまりダビデはこう言いたいの?……人は誰であろうと神を殺せるって』
『さすがは飲み込みが早いね』
『私は皆を戦場に送り出すことしか出来ない立場だから、こんなことを言う資格は無いのかもしれないけど。あの子のことだけじゃなくて、あなた自身のこともちゃんと大切にして』
『……名前は優しいね』
『臆病なだけでしょ』
『自分の弱さを自覚している人間はそれだけで強い』
『かの有名なイスラエル王には及ばないけどね』
『おっと。君は随分と人を喜ばせるのが上手みたいだ』

二人きりで過ごした初めての夜は鮮やかで、砂糖菓子のごとく甘く儚いものだったと想起する。 そう。あれはまるで、───清らかで美しい乙女アビシャグが見せてくれた夢のようだった。







「……我が君に傷を付けたか」

ポセイドンは、神霊としての核の大部分をデメテルに移植していた。そこで彼らを同時に射抜き、勝機を零から一に引き上げる───というのが、ダビデが仲間と共に立てた企てであった。

しかしそれはあくまで、無敵だった相手へようやく攻撃が通るようになっただけのこと。絶望的なまでの実力差を埋めるためには、善良な一般人であるマスターの力こそが必要だった。

ポセイドンは胸を抑えながら蹲るデメテルに寄り添い、薄暗い色を宿した瞳を鋭く細める。

「愚かしい」
「それはどうかな」

瞬間、ドレイクの船から放たれた弾丸の雨が海神の視界を塞いだ。鉛色の絨毯のごとく覆い被さった物理的な攻撃は、しかしながら神霊の身体を貫通する筈もない。

瞬きをするような感覚で全て振り払うと、いかにも無力な魔術師の少女が堂々と胸を張りながら海面に立っていた。 思わず感嘆してしまう程の才気も無く、目鼻立ちが抜群に優れている訳でもなく、ただただ平凡という形容が似合う子供。それなのに、その晴れやかな笑顔は不思議とポセイドンの目を惹いた。

「海神ポセイドン!───わたしは、あなたを拒絶する!」

戯れ言を、と発しようとした喉が乾いて張り付いていることに気付いたのは、デメテルに触れようとした指先が微塵も動かないと認識した時だった。しかもこれは、単に身体が固まっているという状況ではない。

ポセイドンの存在そのものを、この世界が否定しているかのようだった。

(馬鹿な、馬鹿な! 馬鹿な……!!)

溶岩のような憤怒が身体を突き抜け、視界をどろりと真っ赤に染めても、ポセイドンは身動ぎすることさえ許されなかった。唯一自由に動く眼球をぎょろりと回し、穏やかに笑む羊飼いを睨み付ける。

「知っているだろう、ポセイドン。オケアノスにおいて、神は人が生み出した概念だと定義されている。すなわち人がいるから神は在るし、人が消えれば神も消えてしまう」
「…………」
「だからこそ君は、この世界に生きていた人間に余す所なく催眠を施したね。殺すのではなく、一人残らず全員を生かす道を選んだんだ。少なくとも聖杯を持った大海賊さえ残っていれば、君の存在は確固たるものであり続ける」
「………………」
「だが、この特異点には彼ら以外の自由な意思を持った人間が存在した。正確に言えば、君の息子の働きによって世界にそう認識させたわけだけど」

息切れしたようにぐったりと地に伏せる熊は、現在アルテミスに甲斐甲斐しく世話を焼かれている。

「神への信仰を断つのはね、とても簡単なことなんだよ。人がそう望めば、神はそう在るしかないんだから。……ああ、来たね」

急速な勢いで近付いてきた船の甲板から、一人の女性がひらりと華麗に舞い降りた。獰猛と形容しても差し支えないその笑顔は、現状では何よりも頼もしく映る。

「やられっぱなしってのは、アタシの性に合わないもんでねえ」
「助かったよ、船長」
「あいよ。少しはいい顔になったじゃないか、ダビデ」

ドレイクがダビデの肩を軽く小突くと、羊飼いは僅かばかり目尻を下げた。その余韻に浸る間も無く、怒りに震えることすら出来ない海神を真っ直ぐに見据える。

「さて、ポセイドン。聖杯を得た海賊によって、この特異点における君への信仰は完全に断ち切られた。この海は、君を信じる者など誰もいない世界へと生まれ変わった。そんな状態にあっても君がまだ存在していられるのは、───ひとえに彼女がいるからだろう?」

ダビデの言葉に反応を見せた女神は、海神の足元で丸まっていた身体をゆっくりと起こした後、不思議そうに弟を見上げた。彼の身体を掌で幾度も触ったところで何の反応も無く、彼女は可憐な仕草で首を傾げるしかない。

少なくとも現段階において女神デメテルには意思がなく、世界を破滅へ導く力しか持ち得ていなかった。ポセイドンの我欲で生み出されただけの姉は、圧倒的な美しさを内包したまま無垢な子供のごとく狼狽えるばかりだった。

「やあ、デメテル」
「…………!」

警戒を全面に浮かべた顔で、デメテルは弟を庇うように前に進み出た。

───嗚呼、そうか。やはり君は、何よりもいじらしくて可憐で、愛情深い女神さまなんだね。

ダビデは深呼吸しながら腕をゆっくりと後ろに引いた後、杖で女神と海神の腹を穿いた。綺麗に丸く空いた風穴の内側から、ころりと聖杯が転がり落ちる。 身勝手で残忍で愛を知り得なかった神は、無償の愛に包まれたまま朽ち果て、驚くほどに呆気なく散っていく。

こうして、特異点オケアノスの定礎復元は完了した。







───毎度のことながら、帰還したばかりの立香ちゃんが大歓声に包まれている様子を見ると目頭が熱くなってしまう。

マスターとマシュをベッドに送り出した後、名前はオペレーターとしての雑務に一区切りをつけ、一人きりで足早にキッチンへと向かった。ご飯の下拵えは頼もしいサーヴァント達がしっかりと行ってくれるため、本当ならば全て任せてしまっても良いのだが、名前はそれでも毎食必ず台所へ立つと決めていた。

今日のメニューは、野菜たっぷりのポトフに白だしを使った和風のペペロンチーノだ。立香ちゃんの心に少しでも癒しをもたらせるように、名前は日々エミヤと共に和風料理の研究を重ねていた。中でもパスタはアレンジがしやすく、量や味付けの調整が大変楽なので重宝している。ちなみに今回は、サンマを加えることでタンパク質も摂取できるようにしてあった。

大鍋を火にかけながら、名前は何の揺らぎも見せない透明な水面をじっと眺めていた。明るい喧騒から離れてこうして一人ぼっちになると、考えなくても良いことばかり考えてしまう。心臓がじくじくと痛みだし、カサブタから血が滲み出たかのように瞼が熱くなる。

床に涙が零れた音さえも聞こえてしまいそうな静寂の中、名前の背中に柔らかな温もりが触れた。その持ち主が誰であるかだなんて、振り向かなくても分かる。

「ごめん、名前。勝手についてきちゃった」
「……また今日も徹夜する羽目になるよ」
「キミが一人で泣くことになるよりずっと良い」

コンロの火を止めてから、名前は腰に回る大きな掌にそっと触れた。

「…………ロマニ」
「うん?」
「好き」
「うえっ!? ……ええと。うん、ボクも好きです」

未だ緊張したように声を震わせる様子が、たまらなく愛おしい。名前は身動ぎしてからロマニの腕からするりと抜け出し、真正面からその胸に飛び込む。

「前は何かと理由をつけて断ってたくせにね?」
「うっ、ごめん……。だけどボクはもう、迷わないって決めたから。名前のことを二度と諦めたくないから」
「……あのね」
「うん」
「今回、オペレーターとしてあの席に座って痛感したの。ロマニはいつも、こんなに重たいものを一人で背負っているんだって」
「……うん」
「それがとても怖かった。あんな恐怖を全て抱え込んで、それでも笑っているあなたを思うと、……私は」
「名前」
「……うん」
「ボクの隣にはずっとキミがいてくれる。だから一人じゃないんだよ」

ロマニは笑った。それは子どものように無邪気で悪戯っぽく、心から安心しきったような顔だった。 初めて見る表情だと頭の片隅で認識した瞬間、名前は喉から漏れ出る嗚咽を止めることが出来なくなってしまった。

名前の身体を包むように覆いかぶさったロマニは、壊れ物を扱うように頬に触れ、ふにゃりと優しく微笑んでいく。

「ボクを選んでくれてありがとう。名前」







それから程なくして、羊飼いは飄々とした笑みを携えてカルデアにやってきた。

「やあ名前、ご飯はまだかい?」
「ダビデ、お昼もいっぱい食べてたよね!? ……うーん、さっきマリー達のために作ったドーナツなら余ってるんだけど」
「ああ、それならちょうどいい。甘い物が欲しいとドクターが嘆いているのを見かけたんだ」
「……そういうことなら喜んで。ちょっと待っててね」
「悪いね、ありがとう」
「今日はロマニの好きな物を作るから、くれぐれも食べ過ぎないようにって伝えておいて」
「えー、僕が橋渡し役になるのかい?」
「文句を言うならあげません」
「それは嫌だなあ」