全ての記憶を取り戻してからの名前は、カルデアにおいてサーヴァントの情報管理を一手に引き受けていた。

それは戦闘力を数値化し、宝具の効果や発動後に待ち受けるデメリットを明文化し、逸話や性格について詳細に記述する作業であった。そこには名前が直接彼らと対話して得たデータに加えて、その立ち振る舞いに対するマスターや職員達の感想も盛り込んでいる。

立香ちゃんがサーヴァントと絆を深める度、マテリアルの情報量は増えていく。英霊達は善良な一般人である彼女のために一生懸命働き、世話を焼こうとする。それは一見微笑ましい光景だ。

しかし立香ちゃんは、いくら世界の命運を背負っていようとも至って普通の女の子である。 彼女は語った。情が移れば移るほど、戦場の緊迫した場面でサーヴァントの取捨選択をする行為が辛く感じることがあるのだと。 彼女は云った。半ば道具のような形で他者を使役し、優劣をつけて戦闘をこなす行為を重荷に思うこともあるのだと。 それでも、自分を慕ってくれる後輩がいるから、心から笑っていられるのだと。

ただでさえ立香ちゃんは、聖杯探索を始めてからホルモンバランスが崩れることが増えており、食事量だって常に安定している訳ではない。今はまだ小さな変調であっても、いずれ取り返しのつかないことになる可能性だってある。

そこでロマニと話し合った結果、名前は時折彼女と二人きりでお茶会を敢行していた。ささやかながら互いの息抜きと化している女子会は、今日も名前の私室で慎ましく繰り広げられていく。



「名前さんもマシュも、何でそんなにスタイルが良いんですか!」

飲んだくれのごとく拳を机に叩き付けた少女を見て、名前はぎょっとした後に苦笑した。

「いやいや私なんてほら、立香ちゃんとは肌のきめ細やかさが比べ物にならないからね」
「そんなこと言って、全身くまなく綺麗じゃないですか! ドクターが羨ましい! 私も名前さんみたいな彼女が欲しい!」
「……立香ちゃん、もしかして疲れてる?」
「あー、……実は少しだけ」

カルデアに来てからの名前は実験漬けの日々であったが、肉体そのものには傷一つ無かった。身体を構成するパーツが全て紛い物であるため当然なのだが、中身を暴けば欠陥だらけの絡繰もどきと呼称されても仕方ない有り様である。

ロマニが繋ぎとめてくれた命を簡単に投げ出すつもりはないけれど、いつ限界が訪れるかも分からない身なのは事実だ。だからこそ名前は積極的に他のスタッフやサーヴァント達と交流していたし、ダ・ヴィンチちゃんの力作の一つである共同浴場も出来る限り使っている。立香ちゃんと共に広々とした湯船に漬かっていると、いつもより時間がゆったりと流れていく気さえするのだ。

烏滸がましい思考だとは理解しつつも、名前は、心根が真っ直ぐなくせに甘え下手なこの女の子を娘のように想っていた。

「よしよし、お姉さんが甘やかしてあげましょう。おいで」

うー、と唸りながら胸に飛び込んできた立香ちゃんの頭を撫でつつ、名前は服に染みていく僅かな水分に気付かないフリをした。

「……今日も、たくさん失敗しちゃって」
「うん」
「頑張ろうって気合いを入れた時ほど空回りしちゃうの、我ながら本当に馬鹿だなあって思うんですけど」
「分かるなー。私もね、そういう時に限って色々と引きずってモヤモヤしちゃうの」

背中をぽんぽんと摩りながら、名前は彼女が零す弱音を丁寧に掬い取っていく。

───理由もなく、突然故郷が恋しくて泣きそうになってしまうこと。特異点で遭遇する別離と再生があまりにも儚く、気持ちが追い付かない瞬間があること。そんな時、先輩として自分が手を引いていくべきマシュの背中が、無性に遠く見えてしまうこと。

それは、一人の女の子が抱えるにはあまりにも重い課題だ った。名前はそれを彼女と共に背負うと決めたし、周りのスタッフやサーヴァント達も全員巻き込むと決意していた。

立香ちゃんの心が少しでも安らぐようにと願いながら、名前は彼女のつむじに唇を寄せた。己の独り善がりなワガママが、少しでも届くようにと願いつつ。







「名前、おはよう」

頭をぽんぽんと撫でられる感覚を心に刻むように何度か瞬きをした後、名前もまたそっと微笑んだ。

「うん。おはよう、ロマニ」

頭に触れていた熱が離れたかと思えば、いつの間にか自然と互いの手が繋がっていた。手が触れ合うだけで照れるような段階はもう過ぎ去ってしまったが、やはり胸の底が甘く疼くのは変わらない。

オケアノスの一件以来、ロマニは今までよりも距離を詰めてくることが増えたように思う。 彼の心にどんな変化があったのか知る由もないが、引き金となったであろう出来事については凡そ察していた。どうやら、ロマニ自身は完全に無自覚のようなのだが。

しかし何より嬉しいのは、他のスタッフやサーヴァントへの関わり方にも変化が見られたことだ。今までは全て一人で溜め込んでいた仕事を積極的に割り振ったり、休憩時間には自らコミュニケーションを取っている光景をよく目にするようになった。 リア充爆発しろと呪詛のように呟く黒髭のような例外は除き、カルデアの面々はそんなロマニを温かく見守っている。

今日はいよいよ、第四特異点へのレイシフトを行う日であった。

ロマニは、先程まで談話室にて女性サーヴァントに絡まれてしまい、根掘り葉掘り名前とのことを聞かれたのだと話していた。彼の顔には疲労と共に僅かばかり喜色が滲んでいて、相槌を打ちながらも自然と口角が上がってしまう。どうやら、緩衝材としての自分もいずれお役御免になりそうだった。

第四の特異点は、十九世紀の大英帝国が舞台だ。産業革命をきっかけに著しく文明を発展させた首都ロンドンは、一方で階級と貧富の格差により生まれた悪の温床としての一面も併せ持っていた。 切り裂きジャックなどの殺人事件をはじめ、ゴシップ記事が数多く載った新聞を娯楽として楽しむロンドン市民がいる一方、貧困街ではアヘンが流通していたとも聞く。

現代に近い時代だからこそ、マシュが人間の生々しく薄暗い側面を直接目の当たりにしてしまうのでは、と名前は心配していたのだが、どうやら杞憂に終わりそうだった。

なにせ街は視界が阻害されてしまう程の魔力で満ちており、ロンドン市民は一様に屋内に閉じ篭っていた。魔力感知が行えないレベルで充満するその霧は、どうやら生命体にとっては相当有害であるらしい。となれば現地の人々から手掛かりを得る手立てはほぼ皆無であり、サーヴァントとの遭遇に期待する他無かった。

名前は今回、メインオペレーターの任を外れてロマニのサポートに徹していた。先日の反省を踏まえて話し合った結果なのだが、この街の性質を考慮すると最適な配置だったのかもしれない。

ここ最近名前が取り組んでいたのは、近未来観測レンズ「シバ」を利用した探査パネルの性能向上だった。 オルレアンからオケアノスに至るまで、カルデアはありとあらゆる生命体のデータを得ることに成功していた。特に神霊や魔神柱の戦闘データを取得した成果は大きく、より詳細な解析をするために必要な材料は豊富に揃っていたのだ。

そもそも名前は、グランドオーダー開始以前から情報解析を主な業務としていた。実験漬けの日々の中で得た魔術や機械工学に関する知識は当然ながら、「シバ」の開発者と細々ながらも交流した経験が功を奏したのだろう。 どうやら自分はオペレーターとして、最低限カルデアに尽力できる程の人材にはなれたらしい。

一瞬胸を過ぎった薄暗い感情を押しやりつつ、名前は眼前のディスプレイを真っ直ぐに見据える。

魔霧に覆われた街ロンドンにて、立香ちゃんは早速一人の快活な騎士と出逢った。アーサー王伝説に名高い彼女───モードレッドは、活動拠点であるアパルトメントに招待してくれる程にはカルデアを信用してくれたらしい。 霊薬調合や碩学の知識を持つ科学者と共に、彼女は街の治安維持に務めていた。特異点の修正を目標に掲げるカルデアと手を組むことは、モードレッドにとっても悪い話では無かったのだろう。

そんな彼女と共に外へ飛び出し、街に蔓延る様々な問題を解決していくマスターのサポートは、現在ロマニが請け負っている。 名前の役割は、アパルトメントに残り諜報活動をするジキルと協力し、少しでも多くこの街の実態を暴くことであった。

「それでは名前さん、よろしくお願いします」
「よろしく、ジキルくん。早速だけど、こちらの技術者が解析してくれたデータを共有するね」

ジキルは、あくまで自分はサーヴァントではなくただの人間でしかないのだと語った。事実その通りなのだが、聖杯による異変に対しても物怖じしない度胸や、現状を冷静に把握できるだけの判断力を持つ彼の頭脳は、紛れもなく賞賛すべきものであった。 その人当たりの良さから、街の至る場所に存在する協力者とも情報を共有してくれるため、名前は魔力反応を探知する作業に没頭することが出来た。

この異常な魔力の出処を聖杯と仮定した際、名前がまず取り掛かったのは、特異点の大気から不純物を分離する作業だった。複雑に絡み合った複数の魔力を種類別に分け、それぞれの純度を高めることでその正体を探っていく。 結果的に名前は、魔霧の構成要素を具体的に分類し、管制室のシステムに組み込むことには成功した。過去の観測結果と合致しない成分が検出された場合でも、有毒さの数値を瞬時に測定できる様は、さながら高性能のダウジングマシンのようだった。

これはどうやら、ダ・ヴィンチちゃんから口笛やハグのご褒美を貰える程の手柄ではあったらしい。名前は心穏やかな気持ちでコーヒーを流し込んだ後、早速またディスプレイとの睨み合いを始めた。

野良サーヴァントであるアンデルセンやシェイクスピアがアパルトメントに合流し、更に考察要員が増えたとはいえ、ロマニの隣に座る身として油断する訳にはいかない。

たとえ、作家陣がオケアノスでの出来事───特にアークへ強い興味を示し、何故か偶然管制室を訪れていたダビデが嬉々としてインタビューに応じていたとしても。「シバ」の改良にも協力してくれたメディアに通信を試みたところ、何故かブーディカやエミヤまでもが管制室を訪れ、必要以上に世話を焼かれたとしても。

立香ちゃん達が、地下深くに設置された魔霧の発生源の在り処を突き止め、星の開拓者やアーサー王の名を持つサーヴァントを打倒した際も。

───人理焼却の首謀者であるソロモン王と対峙した瞬間でさえも、名前はざわめく管制室の中心で毅然と振る舞い続けた。だからといって、決して恐怖を感じなかった訳でも強がっていた訳でもない。自分だけはそう在らなければならないと、名前は明確に理解していたからだ。

しかし定礎復元から数日経った現在でも、胸の底が掻き毟られるような焦燥感はしこりのように残存し続けている。







「やあ名前、調子はどうかな?」
「あ、……ロマニさん。特に問題はないです。ありがとうございます」
「そうか、それなら良かった」

そう言ってぎこちなく笑ったドクターは、ベッドの脇に立てかけられていたパイプ椅子を開いて座った。

この世界に───カルデアに突然放り込まれてからというもの、彼は度々名前に会いに来てくれた。情けないことに暇なんだよね、とおどけたようによく零していたが、実際は違うことを薄々悟っていた。

「おや、読書中だったのかい?」

現在の名前はベッドで上半身を起こしつつ、栞を挟んだ本を手に抱えている。こちらを気遣うような彼の声音に笑い返した後、そうなんですと返答した。

「実はダ・ヴィンチちゃんから本を借りまして」
「へえ、それはいいことだね」
「聖書について知りたいと伝えたら、ソロモン王の逸話に関するものがいいだろうと言って、これを」
「ぶっ!?」

何故か勢いよく噎せたドクターの背中をそっと擦れば、彼は片手を挙げて弱々しく横に振った。大丈夫だから構うな、ということなのだろう。その意思を汲んで距離を取ったものの、ドクターはどこか名残惜しそうに瞼を伏せていた。

「ロマニさん、本当に大丈夫ですか?」
「あ、あはは。うん、平気だよ。……それにしても、何で突然聖書を?」
「今の私は、客観的に見て何も知らないお荷物でしかないので。まずは西洋社会の思想を学ぼうと思ったんです」
「……名前、キミはもっと自分自身を大切にしなければダメだよ。向上心があるのは良いことだけど、自分で自分を傷付けるのは良くない」
「そっくりそのまま、同じ言葉をお返しします」
「え」
「前から言いたかったんですけど、ロマニさんって笑顔が下手ですよね」

今の名前には失うものが何も無い。だからこそ誰に対しても───とは言え、会いに来てくれる人は限られているのだが───怖いもの知らずな言動を取ることが出来たし、完全に表情が凍った恩人に対してもずけずけと物を言うことが出来た。 それにダ・ヴィンチちゃんからも、ドクターに言いたいことは我慢せず吐き出していいと了承を貰っている。

「ロマニさんから優しくして頂けるのは凄く嬉しいです。此処に来てからはずっと、私の支えになっています。これだけは間違いないと心から言えます。でも同時にそれは、あなたの笑顔を犠牲にしてまで得たいものじゃないんです」
「……、名前」
「私の中身は空っぽです。きっとこの世界の誰よりも空虚で、スポンジかミジンコみたいな脳みそしか持っていません。だからこそ私は何でも吸収できます。どんなに重いものでも受け止めることができます。聞いたことを全部忘れることだって出来ちゃいます」
「……うん」
「私ほど、誰かにとっての逃げ道に向いている人間もいないと思いませんか?」
「…………参ったな」

ドクターは掌ですっぽりと顔を覆った。感情をゆっくりと呑み込むように軽く俯いた後、ゆるゆると目線を上げて名前と視線を重ねる。

「君には、情けないところばかり見られている気がするなあ」
「ロマニさんは割といつも情けないので大丈夫です」
「ちょっとそれ一番ダメなパターンじゃない!?」

初めて見る表情を引き出せたことに喜びつつ、名前もまた腹の底から己の感情を引き摺り出した。

「だから、苦しい時はちゃんと苦しいって言ってください」
「……ありがとう、名前。ボクもそっくりそのまま同じ言葉を返すよ」
「私は平気ですよ。ロマニさんが傍にいてくれるから」
「……っ」
「ダ・ヴィンチちゃんもよくお話ししてくれますし、勉強するための本もたくさんありますし」
「あーうんそうだよね!」
「はい。だから、もし良ければまた遊びに来てください ね」

控えめに笑い声を零す名前を見て、ドクターは眩しそうに瞳を細めた。照れたようにはにかんだ頬があどけなく色付いていたことを、───名前は今でもよく覚えている。

この頃の名前は、自分の未来だなんて想像もつかなかった。日々生きていくことだけで精一杯で、せめて最低限の知識くらいは蓄えなければと常に気を張り詰めていた。けれど唯一、これからもずっと彼の笑顔を見ていたいと、そんな欲張りな願望を胸の内に抱いていたものだった。







胸の奥がツキツキと痛み、喉が塞がるような息苦しさを覚える。喘息のような呼吸音が断続的に自室に響く度、関節のあちこちが熱をもっていくのが分かった。壁へと体重をかけつつ症状が治まるのを待っていると、視界がぼやけて全身に汗が滲んでいった。

「…………っ」

よろよろと這い蹲りながらも、名前はベッドサイドに置いてあった薬を口に含む。水をゆっくりと噛み砕くように飲み干して、仕事着のままシーツの海に沈んだ。

近頃は、以前にも増してよく発作が起きるようになった。マシュと異なりサーヴァントとしては出撃していない身だが、そもそも名前の肉体は継ぎ接ぎだらけの人形と言っても差し支えない。それに加えて魂と身体の繋ぎ目さえもがチグハグなのだから、激務に明け暮れる日々を過ごしていればこうなるのも当然だろう。

ロマニは名前が発作を起こしている事実は知っているが、詳しい頻度までは知らない筈だ。もし自室以外で強い痛みを感じた際には「シバ」で観測された映像をすり替えているし、何よりも彼と直接顔を合わせている時は心身共に穏やかな状態が続いていた。 ロマニと時間を重ねている間だけは、まるで自分が普通の女になったような幻想を抱いてしまう。この感情は彼が意図的に育んでくれたものであることも、名前はしっかりと認識していた。

名前は、自分が消えることで悲しんでくれる人がいるのを知っていた。己の死が周囲の人に与える影響について少なからず理解していたし、だからこそ自分がいなくとも仕事が滞りなく進むように、仕事の引き継ぎ資料だって過不足なく用意していた。苗字名前の消失が無意味なものとならぬように、日々を全力で楽しく生きようと心に決めていた。

けれど、……けれど。こうして死が生々しく間近に迫る度に思うのだ。

「……ろ、まに。ロマニ」

彼をもっと愛していたいと、私の心が叫ぶのだ。