イ・プルーリバス・ウナム
ロマニはここ数日、自分の心がやけに尖っていることを認識していた。
特異点ロンドンにて黒幕の正体が発覚してからというもの、カルデアのスタッフ達は今まで以上に多忙な日々を送っている。それもその筈だろう。ソロモンを名乗るグランドキャスターは、誰の心にも芽吹いていた筈の希望の芽すらも、無慈悲に摘み取っていったのだから。
人理焼却という未曾有の事態に見舞われても局員達が正気を保てていたのは、ひたむきに努力するマスターや、強大な力を有した英霊が味方にいたからだ。たとえ得体の知れない敵であろうとも、彼らならば何とかしてくれるのではないかと希望的観測を持つことが出来ていた。
未知とは恐怖を煽るが、同時に人が持つ豊かな想像力を刺激するスパイスにもなり得る。諦めるという選択肢を見つめることなく、明るい未来を展望することだって出来た。
しかし、敵は英霊よりも更に格上の霊基を持った魔術王だと判明してしまった。相手の容貌やその強大さを生々しく感じてしまったら、意気消沈する者がいたって不思議ではない。己の職務から逃げ出したくなったとしてもおかしくはないだろう。
ロマニは所長代理としてそのような振る舞いを許容することは許されなかったが、彼らの懸念を推し量ることは出来た。医者として、業務外のメンタルケアをしなければならないと覚悟もしていた。
しかし予想に反して、彼らの中に表立って弱音を吐く人間はいなかった。 毎日決まった時間に食堂へ集まる度、スタッフ達は軽口を叩くような口調で世界の現状を語り合っていた。絶望的な状況であっても、少しずつ前を向こうと努力する姿勢を知り、ロマニは己の弱さが浮き彫りになっていくのを感じた。
彼女は───名前は時折その会話に交じり、施設のあちこちに明るい花を咲かせているというのに。
深夜のカルデアは意外と人気が無い。夜を好む英霊達は、元来の性質故に気配を消すのが巧みなのだろう。時折耳を打つのは、微かに流れる竪琴やピアノの音くらいなものだった。
管制室での業務を終え、ロマニは首をバキバキと鳴らしながら疲労の滲む身体を引きずっていく。視界の隅がぼんやり霞み始めるとさすがに危機感を覚えたが、今無理をしなければ事態が好転する訳もない。
眠気に抗うべく眉間に皺を寄せて前を向くと、星のように明るい豊かな髪がふわふわと揺れるのを見た。
「やあドクター、今日も辛気臭い顔をしているね」
「やあアマデウス、キミこそ相変わらず愉快な頭をしているじゃないか」
「おや。言うようになったなあ」
揶揄い交じりの声を耳にした瞬間、ロマニは八つ当たりに近い言動を取ってしまった己を恥じた。
「あー、ごめん。少し疲れてたみたいだ」
「ん? 別に気にしてないけど。君に軽口を叩ける相手がいるだなんて、彼女が喜ぶに決まっているじゃないか」
「……キミは」
「名前のことをよく知っているんだね、なんて嫉妬するのはやめてくれよ? 痴話喧嘩に巻き込まれるのは面倒なことこの上ない」
「うっ」
図星をつかれて思わず唸ると、アマデウスはからからと笑った。
「欲張りで自己中心的で承認欲求が高い。うん、今の君はとても人間らしくて好ましいね」
「それ全く褒めてないよね!?」
「むしろ最上級の賛辞だと思うんだけど。僕の言葉が信じられないって言うなら、今すぐ彼女に会いに行けばいいじゃないか」
「……こんな真夜中に、そんなこと出来るわけないだろ」
重々しく返答したロマニを見て、アマデウスは「ふうん」と愉快そうに呟く。
「ドクター、やっぱり女性経験ないんだ?」
「み、身も蓋もないこと言わないでくれる!?」
「外野がとやかく言うものではないんだろうけどさ。君の懸念なんて、名前にとったらちっぽけなものだと思うよ」
ロマニは瞬間的に、鉛を飲み込んだような息苦しさを覚えた。
「───分かってるよ。ボクが臆病だってことも、彼女がとても強い人であることも」
「まあ、君は最も大切にすべき人を蔑ろにしている訳だけど?」
「……っ、それは」
「まあいいか。ここから先は僕の役目じゃない」
羽のごとく軽やかな足取りで歩みを進めるアマデウスの背中を見送り、ロマニは深く息を吐き出した。指先がやけに冷たくなっている。夜半ということもあり廊下の電気は最小限に抑えられていて、目の前には夜闇がじっとりと広がっていた。夜の深淵を内包したような鋭利な空間に、全身まるごと呑み込まれてしまいそうな気さえした。
「…………、会いたいなあ」
「誰に?」
「うわあっ!?」
つい今しがた曲がり角に差し掛かった様子の名前が、ぎょっと飛び上がったロマニを見て不可解そうに首を傾けている。ばくばくと激しく鳴動する心臓を抑えつつ、乾いた笑い声を上げることしか出来なかった。
「……ええと、キミにね。うん、名前に会いたかったんだ」
後々墓穴を掘るよりはマシかと白状したものの、名前は「ふうん」と平坦な声を出すばかりだった。やらかしたかもしれない、と落ち込んだ心に熱を分け与えるかのように、彼女はいつの間にかロマニの胸にすっぽりと収まっている。
「私も会いたかったから、お揃い」
自らの存在を刻み込むように、名前はロマニの腰へと腕を回した。そのいじらしい温度に触れた途端、胸の底が震えるような愛おしさが込み上げて息が詰まる。
心臓がざらざらするような焦燥感に襲われる度、名前は必ずと言っていいほどロマニに会いに来てくれた。どんなに必死に笑顔を取り繕っても、彼女はすべてを見透かしたような顔でロマニを抱き締めた。
泥のように全身にへばりつく仄暗い感情を上書きしてくれるのは、いつだって目の前の女の子だった。だからこそロマニは、何よりも彼女の心を守っていたかったのに。
*
冷たい聴診器が胸をなぞる度、皮膚がぞわぞわと粟立つのが分かった。実験漬けだった日々を想起させるような温度に身体は震えるものの、名前を見つめる綺麗な翠を認めれば、自然と心は凪いでいく。
カルデアの診断室を主に利用するのは二人。マシュ・キリエライトと苗字名前だ。 マシュは定期的に、一日かけて身体のメンテナンスを行うが、名前は一日おきに簡易的な検診を受けていた。だからといって、二人の間に肉体的な寿命の差が明確にある訳ではない。
名前の細胞は、普通の人間に比べて再生速度が異様に遅いのだという。傷の治りが遅く疲労が溜まりやすい一方で、肉体強度そのものは上がっているために、痛覚等の感覚が全て鈍くなっているらしい。
名前はそもそも、既に使い捨てられている筈の存在だ。本来ならば、デミ・サーヴァント実験の前段階でカルデアに有用なデータを提供して散っているべきだった。今ここに生きている筈のない人間なのだから、いつガタがきても不思議ではないのだ。
傷付きやすく痛みを自覚しづらい身体が、度々強烈な発作が起こしている。その意味を誰よりも理解しているのは、主治医である彼なのだろう。
それでもロマニは、こちらの胸がむず痒くなるような目で名前を見つめてくるから。美しいものを見るような顔で、愛おしそうな色を浮かべながら名前を射抜くから。
だからこそ苗字名前は、彼に負けないくらい強くならなければならないと誓った。大切なひと達が笑っていられるこの場所を守れるくらいに、強くて優しい人で在りたいと願った。
この身が朽ちるその時まで、私は私でいたいと思ったのだ。
*
第五特異点の舞台は、独立戦争時のアメリカ大陸だ。ロンドンに引き続き現代に近く、魔術王と縁の深い神秘の力が弱まっている時代でもある。
しかし事前の予想に反してカルデアが目撃したのは、英霊達の純粋なまでの欲望が渦巻く、神秘と科学の対立だった。 ケルト神話に名高い好戦的な王が率いる古代ケルト軍と、獅子の頭を宿した理知的な大統王率いる機会兵軍団。彼らが引き起こした東西戦争は、インド神話の英雄達をはじめとした数多くのサーヴァントや魔神柱をも巻き込み、神話大戦と称するに相応しい様相を呈した。 マスターは序盤に瀕死の大怪我を負いながらも、看護に長けた女傑と共に戦場を駆け抜け、無事に聖杯を獲得する。
そして、ほっと息を吐きながらカルデアに戻ってきた彼女が目にしたのは───デザイナーベビーとしての活動限界を迎えたマシュの姿だった。
*
カルデアが過去に積み重ねてきた非人道的実験に関して、ロマニは立香ちゃんへ包み隠さず説明した。
前所長、マリスビリー・アニムスフィアによる英霊召喚実験。それは、召喚の触媒に相応しい魂と魔術回路を有した人間を創り出す、悪魔の所業と呼ぶに値する行いだ。彼が───彼らが踏み躙った命の数が決して少なくないことを、名前は身を以て知っている。
幸か不幸かマシュに降った英霊は、英霊を人間に隷属させようとする所長の奢りを赦さず、召喚後も頑なに沈黙を守り続けた。結果的に実験は失敗と認定され、一年後にマリスビリーは亡くなってしまうのだ。何も知らされないまま、所長としての責務だけを押し付けられたオルガマリーの胸中を思うと、今でも胸が詰まる思いがする。
マシュはロマニによって発見されるまでの間ずっと、睡眠や排泄まで徹底的に管理されたモルモット状態だったと聞いている。デザイナーベビーは約三十年しか生きられないが、マシュの場合は実験の名残で余命がもう一年もない。その事実を聞いた立香ちゃんは、ひとり身体を震わせながらも、今後もマシュの先輩であり続けると宣言した。
強い子だ、と改めて名前は思った。 立香ちゃんには天才的な頭脳もなければ圧倒的な美貌もなく、一流の魔術回路さえもない。けれど、誰であれ自らの手を差し伸べられる善の心を持っていた。それは恐らく、死地にも飛び込む程の高潔さに起因しているのではない。彼女が、好きな人に対して真っ直ぐに好きだと伝えられる愛情深さを有しているからだ。
「立香ちゃん」
「……名前さん」
マシュのメディカルチェックが終了したら、マスターは直ちに第六特異点へ向かうことになっている。だから名前は先ほど、レイシフトまでの時間を少し伸ばしてもらうよう、ロマニにこっそり頼み込んでいた。
───ロマニは名前に甘いなあ、なんてしみじみと呟いていたダ・ヴィンチちゃんに関しては、ひとまず頭の隅に追いやっておく。
管制室の隅に立香ちゃんを招けば、案の定今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめてきた。
ロマニがデミ・サーヴァント実験について言及した際、名前もまた被験体として名前が挙がっていた。 この肉体が全て紛い物であること、下手したらマシュよりも残りの命が短い可能性さえあること。ロマニは、単語を絞り出すように名前について語りながらも、毅然とした顔で固く拳を握りこんでいた。手袋に覆われて見えなかったが、今頃あの指先は白く変色しているのだろう。
大切なひとに辛い顔をさせるのは、こちらとても相当に堪えたのだけれど。
「立香ちゃん、驚かせてごめんね」
丸くて大きな瞳が僅かに潤み、ぐっと喉が鳴る音がした。その目は相変わらず、夜空に瞬く明るい星々のように綺麗な色を宿している。
「……わたし、今までずっと、無神経なことばかり言ってませんでしたか?」
「ぜーんぜん。それを言うなら、ロマニの方がデリカシーないと思うし」
おどけてみせたものの、目の前の表情は曇ったままだった。空気を和ませようとするあまり言葉選びを間違えたことを知り、名前は内心己を叱咤する。今のは明らかに不誠実な態度だった。
「私は、別に気休めを言うつもりはないんだ。ずっと傍にいるよ、とか。果たせない約束をするつもりもないの」
「……っ」
「だからね。私は立香ちゃんのことが好きで、……本当に大好きなんだってこと。これからも、めいっぱい伝え続けていいかな?」
胸に湧いた愛情のままに自然と笑みを浮かべれば、名前の胸に勢いよく飛び込む熱があった。柔らかくて温かな赤色を、慈しむようにそっと撫でつける。
もし、名前の言葉が呪いのように彼女の心を蝕んでしまったとしても、彼女の周りに寄り添った多くの光が晴らしてくれるだろう。その中に、臆病で優しいドクターがいてくれることを、名前は切に願うばかりだった。
特異点ロンドンにて黒幕の正体が発覚してからというもの、カルデアのスタッフ達は今まで以上に多忙な日々を送っている。それもその筈だろう。ソロモンを名乗るグランドキャスターは、誰の心にも芽吹いていた筈の希望の芽すらも、無慈悲に摘み取っていったのだから。
人理焼却という未曾有の事態に見舞われても局員達が正気を保てていたのは、ひたむきに努力するマスターや、強大な力を有した英霊が味方にいたからだ。たとえ得体の知れない敵であろうとも、彼らならば何とかしてくれるのではないかと希望的観測を持つことが出来ていた。
未知とは恐怖を煽るが、同時に人が持つ豊かな想像力を刺激するスパイスにもなり得る。諦めるという選択肢を見つめることなく、明るい未来を展望することだって出来た。
しかし、敵は英霊よりも更に格上の霊基を持った魔術王だと判明してしまった。相手の容貌やその強大さを生々しく感じてしまったら、意気消沈する者がいたって不思議ではない。己の職務から逃げ出したくなったとしてもおかしくはないだろう。
ロマニは所長代理としてそのような振る舞いを許容することは許されなかったが、彼らの懸念を推し量ることは出来た。医者として、業務外のメンタルケアをしなければならないと覚悟もしていた。
しかし予想に反して、彼らの中に表立って弱音を吐く人間はいなかった。 毎日決まった時間に食堂へ集まる度、スタッフ達は軽口を叩くような口調で世界の現状を語り合っていた。絶望的な状況であっても、少しずつ前を向こうと努力する姿勢を知り、ロマニは己の弱さが浮き彫りになっていくのを感じた。
彼女は───名前は時折その会話に交じり、施設のあちこちに明るい花を咲かせているというのに。
深夜のカルデアは意外と人気が無い。夜を好む英霊達は、元来の性質故に気配を消すのが巧みなのだろう。時折耳を打つのは、微かに流れる竪琴やピアノの音くらいなものだった。
管制室での業務を終え、ロマニは首をバキバキと鳴らしながら疲労の滲む身体を引きずっていく。視界の隅がぼんやり霞み始めるとさすがに危機感を覚えたが、今無理をしなければ事態が好転する訳もない。
眠気に抗うべく眉間に皺を寄せて前を向くと、星のように明るい豊かな髪がふわふわと揺れるのを見た。
「やあドクター、今日も辛気臭い顔をしているね」
「やあアマデウス、キミこそ相変わらず愉快な頭をしているじゃないか」
「おや。言うようになったなあ」
揶揄い交じりの声を耳にした瞬間、ロマニは八つ当たりに近い言動を取ってしまった己を恥じた。
「あー、ごめん。少し疲れてたみたいだ」
「ん? 別に気にしてないけど。君に軽口を叩ける相手がいるだなんて、彼女が喜ぶに決まっているじゃないか」
「……キミは」
「名前のことをよく知っているんだね、なんて嫉妬するのはやめてくれよ? 痴話喧嘩に巻き込まれるのは面倒なことこの上ない」
「うっ」
図星をつかれて思わず唸ると、アマデウスはからからと笑った。
「欲張りで自己中心的で承認欲求が高い。うん、今の君はとても人間らしくて好ましいね」
「それ全く褒めてないよね!?」
「むしろ最上級の賛辞だと思うんだけど。僕の言葉が信じられないって言うなら、今すぐ彼女に会いに行けばいいじゃないか」
「……こんな真夜中に、そんなこと出来るわけないだろ」
重々しく返答したロマニを見て、アマデウスは「ふうん」と愉快そうに呟く。
「ドクター、やっぱり女性経験ないんだ?」
「み、身も蓋もないこと言わないでくれる!?」
「外野がとやかく言うものではないんだろうけどさ。君の懸念なんて、名前にとったらちっぽけなものだと思うよ」
ロマニは瞬間的に、鉛を飲み込んだような息苦しさを覚えた。
「───分かってるよ。ボクが臆病だってことも、彼女がとても強い人であることも」
「まあ、君は最も大切にすべき人を蔑ろにしている訳だけど?」
「……っ、それは」
「まあいいか。ここから先は僕の役目じゃない」
羽のごとく軽やかな足取りで歩みを進めるアマデウスの背中を見送り、ロマニは深く息を吐き出した。指先がやけに冷たくなっている。夜半ということもあり廊下の電気は最小限に抑えられていて、目の前には夜闇がじっとりと広がっていた。夜の深淵を内包したような鋭利な空間に、全身まるごと呑み込まれてしまいそうな気さえした。
「…………、会いたいなあ」
「誰に?」
「うわあっ!?」
つい今しがた曲がり角に差し掛かった様子の名前が、ぎょっと飛び上がったロマニを見て不可解そうに首を傾けている。ばくばくと激しく鳴動する心臓を抑えつつ、乾いた笑い声を上げることしか出来なかった。
「……ええと、キミにね。うん、名前に会いたかったんだ」
後々墓穴を掘るよりはマシかと白状したものの、名前は「ふうん」と平坦な声を出すばかりだった。やらかしたかもしれない、と落ち込んだ心に熱を分け与えるかのように、彼女はいつの間にかロマニの胸にすっぽりと収まっている。
「私も会いたかったから、お揃い」
自らの存在を刻み込むように、名前はロマニの腰へと腕を回した。そのいじらしい温度に触れた途端、胸の底が震えるような愛おしさが込み上げて息が詰まる。
心臓がざらざらするような焦燥感に襲われる度、名前は必ずと言っていいほどロマニに会いに来てくれた。どんなに必死に笑顔を取り繕っても、彼女はすべてを見透かしたような顔でロマニを抱き締めた。
泥のように全身にへばりつく仄暗い感情を上書きしてくれるのは、いつだって目の前の女の子だった。だからこそロマニは、何よりも彼女の心を守っていたかったのに。
*
冷たい聴診器が胸をなぞる度、皮膚がぞわぞわと粟立つのが分かった。実験漬けだった日々を想起させるような温度に身体は震えるものの、名前を見つめる綺麗な翠を認めれば、自然と心は凪いでいく。
カルデアの診断室を主に利用するのは二人。マシュ・キリエライトと苗字名前だ。 マシュは定期的に、一日かけて身体のメンテナンスを行うが、名前は一日おきに簡易的な検診を受けていた。だからといって、二人の間に肉体的な寿命の差が明確にある訳ではない。
名前の細胞は、普通の人間に比べて再生速度が異様に遅いのだという。傷の治りが遅く疲労が溜まりやすい一方で、肉体強度そのものは上がっているために、痛覚等の感覚が全て鈍くなっているらしい。
名前はそもそも、既に使い捨てられている筈の存在だ。本来ならば、デミ・サーヴァント実験の前段階でカルデアに有用なデータを提供して散っているべきだった。今ここに生きている筈のない人間なのだから、いつガタがきても不思議ではないのだ。
傷付きやすく痛みを自覚しづらい身体が、度々強烈な発作が起こしている。その意味を誰よりも理解しているのは、主治医である彼なのだろう。
それでもロマニは、こちらの胸がむず痒くなるような目で名前を見つめてくるから。美しいものを見るような顔で、愛おしそうな色を浮かべながら名前を射抜くから。
だからこそ苗字名前は、彼に負けないくらい強くならなければならないと誓った。大切なひと達が笑っていられるこの場所を守れるくらいに、強くて優しい人で在りたいと願った。
この身が朽ちるその時まで、私は私でいたいと思ったのだ。
*
第五特異点の舞台は、独立戦争時のアメリカ大陸だ。ロンドンに引き続き現代に近く、魔術王と縁の深い神秘の力が弱まっている時代でもある。
しかし事前の予想に反してカルデアが目撃したのは、英霊達の純粋なまでの欲望が渦巻く、神秘と科学の対立だった。 ケルト神話に名高い好戦的な王が率いる古代ケルト軍と、獅子の頭を宿した理知的な大統王率いる機会兵軍団。彼らが引き起こした東西戦争は、インド神話の英雄達をはじめとした数多くのサーヴァントや魔神柱をも巻き込み、神話大戦と称するに相応しい様相を呈した。 マスターは序盤に瀕死の大怪我を負いながらも、看護に長けた女傑と共に戦場を駆け抜け、無事に聖杯を獲得する。
そして、ほっと息を吐きながらカルデアに戻ってきた彼女が目にしたのは───デザイナーベビーとしての活動限界を迎えたマシュの姿だった。
*
カルデアが過去に積み重ねてきた非人道的実験に関して、ロマニは立香ちゃんへ包み隠さず説明した。
前所長、マリスビリー・アニムスフィアによる英霊召喚実験。それは、召喚の触媒に相応しい魂と魔術回路を有した人間を創り出す、悪魔の所業と呼ぶに値する行いだ。彼が───彼らが踏み躙った命の数が決して少なくないことを、名前は身を以て知っている。
幸か不幸かマシュに降った英霊は、英霊を人間に隷属させようとする所長の奢りを赦さず、召喚後も頑なに沈黙を守り続けた。結果的に実験は失敗と認定され、一年後にマリスビリーは亡くなってしまうのだ。何も知らされないまま、所長としての責務だけを押し付けられたオルガマリーの胸中を思うと、今でも胸が詰まる思いがする。
マシュはロマニによって発見されるまでの間ずっと、睡眠や排泄まで徹底的に管理されたモルモット状態だったと聞いている。デザイナーベビーは約三十年しか生きられないが、マシュの場合は実験の名残で余命がもう一年もない。その事実を聞いた立香ちゃんは、ひとり身体を震わせながらも、今後もマシュの先輩であり続けると宣言した。
強い子だ、と改めて名前は思った。 立香ちゃんには天才的な頭脳もなければ圧倒的な美貌もなく、一流の魔術回路さえもない。けれど、誰であれ自らの手を差し伸べられる善の心を持っていた。それは恐らく、死地にも飛び込む程の高潔さに起因しているのではない。彼女が、好きな人に対して真っ直ぐに好きだと伝えられる愛情深さを有しているからだ。
「立香ちゃん」
「……名前さん」
マシュのメディカルチェックが終了したら、マスターは直ちに第六特異点へ向かうことになっている。だから名前は先ほど、レイシフトまでの時間を少し伸ばしてもらうよう、ロマニにこっそり頼み込んでいた。
───ロマニは名前に甘いなあ、なんてしみじみと呟いていたダ・ヴィンチちゃんに関しては、ひとまず頭の隅に追いやっておく。
管制室の隅に立香ちゃんを招けば、案の定今にも泣き出しそうな顔でこちらを見つめてきた。
ロマニがデミ・サーヴァント実験について言及した際、名前もまた被験体として名前が挙がっていた。 この肉体が全て紛い物であること、下手したらマシュよりも残りの命が短い可能性さえあること。ロマニは、単語を絞り出すように名前について語りながらも、毅然とした顔で固く拳を握りこんでいた。手袋に覆われて見えなかったが、今頃あの指先は白く変色しているのだろう。
大切なひとに辛い顔をさせるのは、こちらとても相当に堪えたのだけれど。
「立香ちゃん、驚かせてごめんね」
丸くて大きな瞳が僅かに潤み、ぐっと喉が鳴る音がした。その目は相変わらず、夜空に瞬く明るい星々のように綺麗な色を宿している。
「……わたし、今までずっと、無神経なことばかり言ってませんでしたか?」
「ぜーんぜん。それを言うなら、ロマニの方がデリカシーないと思うし」
おどけてみせたものの、目の前の表情は曇ったままだった。空気を和ませようとするあまり言葉選びを間違えたことを知り、名前は内心己を叱咤する。今のは明らかに不誠実な態度だった。
「私は、別に気休めを言うつもりはないんだ。ずっと傍にいるよ、とか。果たせない約束をするつもりもないの」
「……っ」
「だからね。私は立香ちゃんのことが好きで、……本当に大好きなんだってこと。これからも、めいっぱい伝え続けていいかな?」
胸に湧いた愛情のままに自然と笑みを浮かべれば、名前の胸に勢いよく飛び込む熱があった。柔らかくて温かな赤色を、慈しむようにそっと撫でつける。
もし、名前の言葉が呪いのように彼女の心を蝕んでしまったとしても、彼女の周りに寄り添った多くの光が晴らしてくれるだろう。その中に、臆病で優しいドクターがいてくれることを、名前は切に願うばかりだった。