第六特異点キャメロット。十三世紀の聖地エルサレムにおいて、カルデアはとある騎士の旅路に立ち会った。

人類保管の理想を掲げた獅子王の下、聖都を守護するべく集結した円卓の騎士。 騎士達の蹂躙に立ち向かい、聖都の奪還を目指すべく息を潜めていた山の民。 人理崩壊の元々の元凶であった十字軍から聖杯を回収し、自らの国を創るべく動きつつも事態を静観していた太陽王。

人類最後のマスターは三つ巴の戦いへ飛び込み、その果てで、騎士の身に隠されていた真実を知った。 自らの短命を知りながらも、未来を夢見た盾の乙女に寄り添った。 自らの臆病さと真摯に向き合い、どこまでも主君への忠誠を貫いた騎士の贖罪を、最後まで見届けた。



第七特異点バビロニア。未だに神秘の力が色濃く残る紀元前の古代メソポタミアにて、カルデアは神々と人類の決別を目の当たりにした。

特異点を滅ぼすために猛攻を繰り返す三人の女神。彼女達が従える魔獣の脅威からウルクを守るべく、要塞都市を再建した賢王ギルガメッシュ。円卓の騎士に名を連ねる伝説の魔術師マーリンに、既に生を終えていた筈の「天の鎖」エルキドゥ。

彼らの思惑が絡み合い、数多の出逢いと別れを繰り返した先で、それは待っていた。 メソポタミア神話における創世の神のひとり、女神ティアマト。人類創世後に切り捨てられ、虚数世界へと追放されていた彼女は、聖杯の力を利用してこの地上に帰還を果たし、本能に従って人類掃討に乗り出した。

人類悪のひとつ、ビーストUとして顕現した彼女を突き動かすものは、混じりけのない喜びであったのかもしれない。それは恐らく、新たな生態系を育む土壌として、すべての母へと返り咲きたいという本能。

生まれつき死の概念を持たないティアマトを打倒したのは、マスターが過去に繋いだ縁の数々だった。人類史に名前を残すことのない星読み───人類最後の希望が、原初の神が世界に齎そうとした滅びを覆したのだ。



七つの特異点を乗り越えたマスターは、本当に素敵な女の子へと成長した。欲張りにも、これからもずっと彼女の歩む道を見守っていたくなるほどに。

だがカルデアには既に、立香ちゃんの涙を拭ってくれるひとが多く存在する。どんな時にでも寄り添って、笑顔にしてくれるひとで溢れている。

だからもういいのだ、と名前は思った。こんな私であっても、きっとまだ出来ることはある筈だから。



妖精が春の訪れを告げるような景色の中心で、ふわふわと七色の髪が舞っていた。機嫌が良さそうに頬を蒸気させた魔術師は、不意の来訪者にますます笑みを深めたようである。

この一年、マーリンとは毎晩のように顔を合わせているとはいえ、こんなにも蕩けたような表情と遭遇するのは初めてだ。きっと、これから待ち受ける結末を思って胸を弾ませているのだろう。

立香ちゃんが黒幕の根城へ乗り込む時は、もうすぐそこまで迫っている。

「やあ名前。恋人には内緒の逢瀬だなんて、毎回のことだが興奮してしまうね」
「……、もう。バビロニアでのことが無かったら帰ってるところだった」
「それなら僕も頑張った甲斐があったというものだ」

彼の声は相変わらず、女の心を自然と砕くような色気を携えている。名前は問答無用でそれらを振り払い、さっそく本題を切り出した。己が自由に使える時間は、残り僅かしか存在しない。

「───、ああ。その件ならば既に手筈を整えているとも」

マーリンは得心したように唇で弧を描くと、指先を名前の背後に向けた。

「キミを呼ぶ声が聞こえる。早く帰った方がいい」
「……そうね」

恐らく、いつも通り睡眠を取っていない名前を見兼ねて、ナイチンゲールかブーディカ辺りが呼びかけているのだろう。

名前は、ざわめく心臓の音を拾い上げるように足元の花に目を遣った。そこに滲んでいるのは、明るい希望に満ちた、可憐で儚い命の色だ。

そもそもの話、彼の魔術師としての腕には特別信頼を寄せている。正直なところ、こうしてわざわざ出向いてまで確認する必要はなかったのだ。

「───、マーリン!」

夢と現実の狭間。帰り道の途中で振り返り、名前は彼の名前を大声で呼んだ。まあるく色付いた紫苑の瞳が、虚をつかれたようにこちらを見つめている。

「私、あなたが思っているよりもずっと、あなたのことが好きだった!」



背中に触れるシーツの感触を頼りに、名前は肉体から離れかかっていた魂を手繰り寄せた。

現在のカルデアは、最後のレイシフトに向けた準備がすべて完了している状態だ。今頃、スタッフ達は作戦開始までの数時間を思い思いに過ごしていることだろう。

ただし、休憩時間に入る前は管制室の中で文句が飛び交っていたものだった。なにせ、ロマニが念のため管制室に一人きりで残ると笑っていたから、同僚たち全員でその背中を小突き、見張りを交代制にしようと決めたのだ。

名前は身体のことがあるため当番を外されたが、どうやら皆の判断は正解だったようだ。いつも以上に疲労が蓄積しているのを実感し、自嘲気味に笑みを零したところで、自身を見つめる視線があることに気付く。

「名前さん、良かった!」
「……立香ちゃん?」

こちらを見下ろす少女は、瞳をキラキラと輝かせながら微笑んだ。医務室の殺風景な雰囲気も、立香ちゃんがいるだけでこんなにも華やかなものとなってしまうのか。

視界の端に映った時計は、未だ時間に余裕があることを示している。何よりも、レイシフトに関わるような喫緊の状況でないことは、目の前の少女の様子でよく分かった。

「わたし、名前さんを迎えに来たんです。行きましょう!」
「え?」

未だ頭が夢現の中にあるせいか、事態が上手く呑み込めず首を傾げることしか出来ない。だが、少女の力強い掌は名前の背中を後押しするような温かさを持っていた。 その事実に、ほんの少しだけ寂しさを覚える。今までずっと彼女を支えてきたつもりだったのに、いつの間にか名前の方が支えられてばかりだった。

ロマニがいつも座っていた椅子を背に部屋を出て、二人は廊下をぐるりと回るように進んでいく。地下に降りる階段の手前には、作り手の個性が滲み出た多種多様な扉が立ち並んでいた。名前自身も馴染み深い、キャスター陣の工房が密集する一角だ。

迷いなく一番奥の扉に手をかけた立香ちゃんの背中に続いて、名前も木の温もりに溢れた一室に足を踏み入れる。

「ダ・ヴィンチちゃん、連れてきたよ!」
「はーい、待ってました! ささっ、名前はこっちに来て」

満面の笑みで近寄ってきた彼に肩を抱かれ、部屋の中心にある丸椅子まで導かれた。

「ダ・ヴィンチちゃん、どういうこと?」
「まあまあ、とにかく名前はリラックスしててくれ」
「でも、管制室には今ロマニしかいないでしょ? そんなの申し訳ないし、……」

目線を合わせるように腰を屈めたダ・ヴィンチちゃんは、人差し指を立ててそっと名前の唇に添えた。言葉を奪われた名前は、幾度か瞬きをして彼の美しい微笑みを見つめる。

「これは、ロマニからの頼みでもあるんだ」
「ロマニの……?」
「ああ。だからね名前。他でもない私の手で、君を世界で一番キレイな女の子にしてあげよう」

万能の天才はそう言って胸を張り、柔らかく微笑んだ。悪戯に成功した子どものような表情を見て、名前はほんの少しだけ既視感を覚える。

思えば、ロマニが何か隠し事をしてくるのは珍しかった。胸に安堵が染み渡るのを感じつつ、名前は友人の言葉通り瞳を閉じる。自分を着飾るために化粧をする瞬間は、いつだって心が鮮やかに浮遊するものだった。



「───はい、名前。終わったよ」

時間にしてはそこまで経っていない筈なのに、随分と長い間拘束されていたような気がした。 着替えを手伝ってくれた立香ちゃんの熱の篭った視線を感じながら、目の前に用意された全身鏡を確認する。

名前に用意されていたのは、純白のドレスだった。

手首まで覆われたシースルーの袖と、チュールのスカートが描くふんわりとしたシルエット。デコルテ部分を柔らかく彩る花の刺繍レースが可愛らしく、ラウンドネックのデザインから上品さも感じるクラシカルなドレスだ。裾の長さもヒールに合わせて調節されており、一人でも歩きやすいようにと配慮されているのを感じた。

名前は、制作に携わったであろう友人達のことを考え、このドレスを名前に贈ろうとした恋人に思いを馳せる。せっかくの化粧が崩れそうになって上を向いたところで、透き通った声が己の名を呼ぶのを聞いた。

「名前さん、お待たせしました」
「マシュ?」

扉を背に近付いてくる少女は、年相応の無邪気な笑顔を浮かべている。その可愛らしい顔に目を奪われるのと同時に、彼女が大切そうに抱えたベールを見て眉を下げることしか出来ない。

マシュは意を決したように深く息を吐いた後、慎重に名前の頭へとベールを被せた。背中にふわりとしなだれる柔らかな感覚は、マシュの心のような優しさで溢れている。

「とてもお綺麗です、名前さん」
「……ありがとう。マシュも、とても素敵な女の子になったね」

身体を突き抜ける衝動のままに目の前の少女を抱き締めて、続いて立香ちゃんやダ・ヴィンチちゃんともハグを交わす。 このカルデアで思い残すことは何もないと、名前は改めて強く思った。充足感が身体の隅々まで満ち満ちていく一方で、そこに寂しさは微塵も混じっていない。

そんな名前の思考を断ち切るように、コンコンと軽いノックの音が数度響く。ダ・ヴィンチちゃんがドアの向こうにも聞こえるように入室の許可を出せば、柔和な笑みを浮かべた羊飼いがひょっこりと顔を見せた。

彼が運んでくれたブーケは綺麗な丸い形をしていて、色とりどりの薔薇やガーベラが鮮やかに色付いている。

「それじゃ行こうか、名前」
「……うん」

ダビデから差し出された掌に己のそれを重ねて、力強くヒールを鳴らした。



多くの思い出が詰まったカルデアの施設を見て回れる機会は、恐らくこれが最後だろう。ダビデに手を引かれながら、名前は視線をゆったりと滑らせていく。

自分のことを普通の人間だと思い込んでいた頃から通い詰めていた、ダ・ヴィンチちゃんの工房。どこか頭のネジが抜けている天才と言葉を交わすのが面白くて、気付けば何も用が無くとも足を運ぶ憩いの場となっていた。

聖杯探索が始まってから、たくさんの腹ぺこ達を迎え入れてきた食堂。眠れない夜を過ごすマスターやサーヴァントのために差し入れを作ったり、キッチン担当のメンバーで集まって定期的に試食会を行うのも楽しかった。後者に関しては結局いつも、通りかかった英霊達がわらわらと参加して大規模な食事会になっていたものだ。

知識を詰め込むために夜な夜な足を運んでいた、あまり人気のない書庫。偶然遭遇した作家陣にオススメの本を聞いてみたり、魔術の心得があるキャスターからその場で教えを乞うたりと、常に充実した時間を過ごしていた。自分が題材となった同人誌らしきものを発見した際には、何も見なかったことにしてその場を立ち去った覚えがある。

ちょっと寂しくなった時、人知れず訪れていた談話室。子ども達と一緒に絵本を読んだり、女性サーヴァント達と女子会をしたり、同僚達とお菓子をつつきあったり、一人で考え事をしたりしていた。どうしようもなく孤独を感じた時には、不思議とロマニがふらりと訪れては寄り添ってくれたものだった。

一つ一つを胸の奥底に仕舞い込む度、名前は全てに厳重に鍵をかけていく。過去の記憶は色褪せてしまうことはあれど、完全に消えてしまうことはない。 己の笑顔を望んでくれた人達がいたことを、名前は決して忘れてはならないのだ。きらきらした愛おしい宝物を抱えながら前に進んでいくことこそが、何よりも果たすべき苗字名前の義務だった。

「───さあ、着いたよ」

シミュレーションルームの一室を指差して、ダビデは朗らかに微笑んだ。

「本当は、僕が最後までエスコートしたかったんだけどね」
「ありがとう。でも、この先は私一人で歩いていくべきだと思うから」
「そうだね、うん。僕もそう思う」

視線を重ねて、二人してくすくすと笑い合う。掌に触れていた熱が離れた次の瞬間、ダビデは名前の背中に軽く手を添えていた。

「いってらっしゃい、シェメシュ世界を光で満たす者。君の歩む道が、どうか幸福に満ちたものでありますように」



触れることを躊躇っていたのは、一体どちらだったのだろう。 私たちは二人とも臆病で、未来を望むことすら避けていたというのに、今では彼から離れるなんて選択肢すらも浮かばない。

扉を開けた先で待っていたロマニの笑顔を見つめて、名前は溢れ出る感情を拾い上げるように笑った。どうせならば、少しでも可愛いと思ってもらいたい。私という人間がいたこの世界にいた証を、少しでも彼の心に刻み付けてしまいたいと思った。

白いタキシードを着たロマニは、堂々とした足取りで名前に歩み寄る。丸く形どられたジャケットの裾がふわりと揺れるモーニングコートと、隙間から覗く大空のように明るいブルーのベスト。いつもより下の位置で括られた髪も上品に整えられていて、普段は制服で隠れてしまうスタイルの良さが存分に引き立てられている。

こんなにも素敵なひとを独り占めしてしまえるのか、と名前の心臓は熱く震えた。

「名前、来てくれてありがとう」
「うん。こちらこそ、素敵なプレゼントをありがとう」

この部屋に再現されているのは、こじんまりとした可愛らしい教会だ。華美な装飾は施されておらず、二人を祝福する列席者は一人もいなかったけれど、互いがいればそれで充分だった。それ以外に望むものなんて、他に何もなかったのだ。

「ずっと考えていたんだ。キミと一緒に繋いでいく未来のこと」
「……うん」
「今まで名前から貰った言葉とか、ボク自身がキミに贈った言葉を思い返す度にね、実感したんだよ」

手袋を取り払ったロマニの指先が、名前の手を慈しむように覆った。

「これから先もずっと、ボクはキミを愛していたい」

ロマニは笑った。照れくさそうな色を浮かべながらも、力強い視線で名前を包む。

「だから、もし良かったら……で、いいんだけど」
「うん」
「ボクと、結婚してくれませんか」

その言葉を───ずっと待ち望んでいた筈の、決して聞きたくなかった筈の言葉を噛み締めるように、名前は瞳を閉じた。そして。