エルサレム(2)
いつもと相違ない格好で管制室に戻ったロマニと名前を、ダ・ヴィンチちゃんは明るい笑顔で迎え入れてくれた。
最後のミッションを前にしても、二人が成すべきことは変わらない。人類最後のマスターが歩む道を切り開いていくこと。作戦に関わるスタッフ達を鼓舞し続けること。カルデアが生んだマシュの選択を見届けること。それら全てを受け入れて、何があろうとも前に進んでいくこと。
だからこそ、左手の薬指に揃って嵌めている指輪については、二人きりの秘密にしようと誓ったのだ。
*
最後のレイシフトにおいて、立香ちゃんが果たすべき任務はただ一つ。人理焼却の黒幕である魔術王を撃破することだ。
今回乗り込む特異点は、ソロモンの肉体に内在する魔術回路を基に創造された、言わば小宇宙である。魔力が尽きぬ限り存在し続ける固有結界に乗り込むためには、カルデアの施設ごと敵陣に侵入しなければならない。
特異点と直接接触した上でのレイシフトは地続きの移動となり、マスターがどこにいようとも強制帰還が可能だった今までとは事情がまるで異なる。崩壊していく特異点の中を走って抜け出さなければならないとあって、立香ちゃんもマシュもいつも以上に気を引き締めているようだった。
いよいよブリーフィングも終わり、スタッフ達が次々と彼女達を激励する中、名前はレイシフト直前の二人を呼び止め、まとめて抱き締めた。
驚愕したように目を丸くしながらも、二人はすぐに事情を察したような顔をして名前の胸に擦り寄ってくれる。喉の奥がきゅっと締まるような愛おしさを感じて、思わず指先にも力がこもってしまった。
これが最後の語らいになることを、恐らく全員が本能的に感じ取っていたのだろう。名前は、とにかく生きて帰還するようにと改めて強調した後、心からの笑みをそっと手向けた。
「立香ちゃん、マシュ。これだけは伝えておくね。───カルデアはちゃんと強いよ。だから、何があっても心配しないで」
二人は言葉を噛み砕くように幾度か瞬きをしてから、眩いばかりの笑顔を見せた。その姿はとても綺麗で、名前の背中を力強く支えてくれるだけの力を持っている。 去り際に再び抱擁を交わした後、名前はすっかり定位置となった司令席へと舞い戻った。
「おかえり、名前」
「うん。ただいまロマニ」
「……、やっぱり怖い?」
どこか心配そうな顔に向けて、名前は堂々と胸を張る。
「怖くないって言ったら嘘になるけど。傷付くことから逃げてたら、私はまた同じ間違いを繰り返しちゃうから」
「そっか。……キミならそう言うと思った」
ロマニは、独特の緊迫感に包まれる管制室を懐かしむようにぐるりと見回してから、名前の両頬に手を添える。
出逢ったばかりの頃は、こちらが心配になるくらい頼りない顔ばかり見せていたのに。彼はいつの間にか、こんなにも男らしい表情を向けてくれるようになっていた。
「ごめん、もう一度だけキスをさせてほしい」
瞬く間に重なった唇に、心臓がそっと跳ねた。一瞬の触れ合いの後、彼は赤みが差した頬を緩め、傅くように額を名前の肩に預ける。
「ボクは、もう逃げないよ」
「うん、知ってる。ロマニは強い人だから」
ゆるゆる顔を上げた彼と、目線を重ねて笑い合う。
その後、所長代理は晴れ晴れとした表情で背筋を伸ばし、管制室の中央で最後の作戦開始を告げる。彼を見上げる仲間の顔は、皆一様に凛々しく頼もしいものだった。
*
グランドオーダーの遂行期間中、人理保障機関フィニス・カルデアが絶望に染まることはただの一度もなかった。
当然、個々人の心には不安や恐怖が滲んでいたことだろう。駄目かもしれないと思い悩み、眠れずに過ごした人だっていただろう。
けれどこの場所には、どんな批判に対しても矢面に立つ覚悟を持った心優しい医者がいた。 カルデアで精一杯生き抜こうとする人間に心を寄せ、持ち前の頭脳を惜しみなく発揮してくれた天才がいた。 鮮やかに色付く世界の美しさを知りながら、敬愛する少女を守り抜くため必死に戦った盾の乙女がいた。 目の前で踏み躙られた命にも、人々が持つ悪の心にも真正面から向き合い、どんな時でさえも笑顔を貫いた人類最後の星読みがいた。
だからこそ名前達はこの一年以上、誰も欠けることなくここまで駆け抜けることが出来た。たとえ今後彼らに何が待ち受けているとしても、カルデアという名の星の輝きは、決して色褪せることなく全員の胸に息づいていくのだろう。
ならば───なればこそ。名前・アーキマンは最後まで、己の責務を果たさなければならなかったのだ。
*
人類悪、ビーストの気配に満ちた小宇宙。ロマニは全てに終わりを告げるため、その空間をこう名付けた。終局特異点、冠位時間神殿ソロモンと。
画面の向こうに広がっていたのは、不気味な程に黒々とした穹と地面。生々しい熱と湿り気を帯びた肉の柱は幾重にも絡まり、天へと向かって玉座に繋がる道を形成していた。今にも脈打ちながら動き出しそうなその物体が全て魔神柱であることを、カルデアはレフ・ライノールの発言で知ることとなる。
立香ちゃんは確かに一度、魔神フラウロスを打倒した。しかしそれは、全く同じ場所に、全く同じ状態で復活していく。 彼らは空間そのものに余すところなく蔓延り、魔術王の肉体から無尽蔵の魔力を得ていた。すなわち特異点そのものを破壊しない限り、不死身の存在で在り続けることを意味する。
何か打つ手はないのかと頭を巡らすマスターを嘲笑うように、魔神達はカルデアへの直接攻撃を開始した。そうなれば自然と通信も途絶え、立香ちゃんの自信に満ちた笑顔もかき消えてしまう。
黒幕からすれば、カルデアの要とも言える管制室を真っ先に落とそうとするのは自然な発想だ。こちらとしてもそれを見越し、電力消費を極力抑えて出来る限りの対策を講じてきた。
だが、ソロモンがカルデアを取り込むスピードは、事前の予想を遥かに越えていた。……たとえどんな奇跡が起きたとしても、現状を打破しない限り、この場所は五分と保たないだろう。
その時の名前は、肌を刺す程に鋭利な何者かの執念を感じ取っていた。それは嘆きであり、怒りであり、悲しみであり、純粋なまでの愛の叫びだった。
周囲のスタッフ達が、必死の形相で眼前のモニターに向き合う中。名前は一人、確固たる決意をもってカルデアスの前へと進んでいく。
ふと背後を振り返ると、こちらを優しく見つめる翠と目が合った。一瞬だけ視線を交え、彼の確かな信頼が滲んだ瞳を脳裏に焼き付ける。
酸素を取り込む度に焼けるように痛む心臓も、針で刺されるような痛みが断続的に響く関節も、キシキシと泣くように悲鳴を上げる内臓も、名前の全てが名前の限界を告げていた。だが、そう理解しているからこそ、歩まなければならない道があった。
祈るように深く息を吐き出して、真っ直ぐに前を見つめる。すると、名前の肉体は少しずつ表面が剥がれ落ちて、……容貌が、徐々に人間のそれとは一線を画していった。
右足を一歩踏み出す。
───夜空のごとく澄んだ色をしていた髪が、稲穂のような黄金色へと色を変えた。
左足を一歩踏み出す。
───陶器のような青白さを帯びていた肌が、艶やかでふっくらとした瑞々しいものへと変化した。
右足を大きく前へ進める。
───病人のようにさえ見えた唇や爪が、薔薇のように赤らみ生き生きと華やいでいった。
左足を大きく前へ進める。
───馴染み深いカルデアの制服が、滑らかな白い衣となって豊かな身体を彩った。
そして、管制室の中心へと降り立った瞬間、苗字名前の命は終わりを迎える。
その魂を受け継いだ女は、自身を見守るように鎮座する「シバ」を通して、文字通り世界を見通した。荒れ果てた地球が、慟哭に満ちた神殿が、女を責め立てるように眼下に広がっていく。それは、かつて己が大地に振り撒いた数多くの死を想起させる光景であった。
オリンポス十二神に名を連ねた、ゼウスの姉である豊穣神。四季が存在しなかった地球に初めて冬をもたらし、娘への愛情故に己の役目を放棄して人類を滅ぼしかけた、非道な女神。
カルデアを守護するべく立ち上がった、その女の真名を───デメテルという。
「私とシバの前でソロモンを騙った愚かさを、女神としては慈しむべきなのでしょう。……けれど、ごめんあそばせ。私は今、愛する方の妻として此処に在るのです」
女は、たおやかに首を傾けて唇を吊り上げる。すると、まるで示し合わせたかのように、何も無かった筈の上空から大きな杖が降ってきた。 マーリンがベストなタイミングでアシストしてくれたことを知り、本心からの笑みが深まっていく。身長以上の長さを持った杖を右手で強く掴むと、全身を駆け巡る魔力の奔流に耳を傾けた。
「魔力供給域、拡大します。……霊脈との接続を確認。対象領域を確定しました」
女は確かに感じていた。人類最後のマスターのもとに、多種多様な輝きを放つ星々が集う気配を。きっと自身がこうして身を乗り出さずとも、この局面は乗り切れるのだろうと悟っていた。 だからこそ、これはエゴだった。自らの手で愛する未来を守りたいというワガママだった。
ようやく全ての準備が整った事実を確認し、女は全身を使って高らかに咆哮する。
「宝具、展開します! ───冬を齎す破壊の女神 !」
*
ロマニ・アーキマンは、凛と背筋を伸ばす彼女の後ろ姿を見つめていた。
魔神柱の魔力反応が急速に弱まり、カルデアの全施設へと電力供給が行き渡っていく最中。胸を衝く切なさを押し込めるように笑顔を取り繕いながら、ロマニは彼女の美しさを焼き付けるように目を細める。
「名前、ありがとう」
届かなくても構わなかった。けれど彼女は、ロマニが最大限の想いを乗せて呟いた一言を受けて、弾かれたように振り向いた。 すると、どうだろう。少女のようにあどけない表情で目を丸くした後、美しく整った顔をふと緩めて、───春の訪れを告げるかのように柔らかく笑んでくれた。
心臓をぎゅっと掴まれるような感覚に襲われて、ロマニは、困ったなあと独りごちた。時間を共に重ねる度に、彼女というひとを知っていく度に、どんどん好きになってしまう。思わず泣きたくなる程に、いつだってロマニは目の前の女の子に恋をしていた。
彼女の優しさに触れる度、かつて犯した罪を思い返すのは事実だ。 だがロマニは、自らの過ちを知っているからこそ与えられる愛があるのだと知った。彼女からの柔らかな愛を浴びて、こんな自分の腕の中でさえ笑ってくれる優しさに触れてしまった。
そして、ロマニ・アーキマンは思い返す。彼女と初めて出逢ったあの夏の日を。愚かで無知な少年が密かに胸を躍らせた、ささやかな運命の悪戯を。
*** ** *
王宮の庭に咲く色とりどりの花々が、夏の訪れを静かに告げていた。一年の中で最も暑いこの時期は、エルサレムの大通りも毎日賑わうばかりだ。小麦の収穫期は農夫達の稼ぎ時であり、それに伴って物流も拡大するため、国外からの商人も数多く王都に来訪する。
その活気に満ちた気配は、一人になる自由さえ与えられない程に城内で手厚く育てられる少年───ソロモンでさえ感じ取れた。
未だ朝日が眠りに落ち、街も静まり返った早朝のこと。召使からの監視を受けながら、ソロモンはひっそりと屋上の庭に足を運んでいた。
ソロモンは聡明な少年だった。まだ幼いながらも、父ダビデが人知れず屋上を訪れては街を見下ろしていることを知っていたし、母バト・シェバがその行為を快く思っていないことも認識していた。 しかし母が憎々しそうな顔で窓を見る度に、ソロモンは言い知れぬ好奇心が自身の胸に満ちていくのを感じた。周囲から与えられるままに知識を吸収していた頭が、父の秘密を探れと密かに囁いたのだ。
物心ついた頃から、ソロモンは、己が主なる神からとりわけ愛されている子供なのだと言い聞かされてきた。その期待に応えるため、自身の役割を果たすため、真面目であり続けることは決して苦ではない。
ならば、なぜ母の意思に背くような行為を望んだのか。それは、自身に関心を向けることのない父を少しでも知りたい、という子供らしい思いだったのかもしれない。
今となっては思い出せないが、その選択が運命の引き金を引いたことは確かだ。
ソロモンは、庭の片隅に鎮座するオリーブの木に目を遣った。白い小ぶりの花が暗闇の中でも一際輝いているように見えて、幾度か瞬きを繰り返す。光を放つ花など生まれてこの方見たことがない。試しに近づいて触れてみると、突如視界が真っ白に染まっていく。
濁流に押し潰されるような衝撃をなんとか受け流した後、ソロモンは見知らぬ小麦畑の傍で尻をついていた。晴天の眩しさに目を細めつつも、自身に鋭い視線を投げる美しい女性に釘付けになってしまう。ソロモンは、そのひとが自身とは根本的に全く異なる存在であることを、本能的に認識した。
麦の穂より何倍も美しく輝く金の髪。彼女の豊かな身体を覆う白い衣は眩しく、薔薇のように色づく肢体を鮮やかに引き立てていた。頭の天辺から爪先まで、余すところなく完璧な美貌を備えている。
「あなた、ダビデの息子なの?」
鈴が転がるような音が幼い少年の胸を柔く引っ掻き、心に強く爪を立てた。初めての感覚に瞠目しながら、ソロモンは己が早速父の秘密を握ったことを知る。
「……はい、ソロモンと申します」
「そう。よりにもよって、戦に明け暮れた男の子どもがシャローム に因んだ名を持つなんて、なんとも皮肉だこと」
「失礼ながら貴女は、……」
神と呼ばれる方なのか。と問いかけそうになるが、咄嗟に、これは主なる神に背く行為になのではと踏み止まる。ソロモンは、主の怒りを買うのは最も恥ずべき愚行だと教えこまれていた。
「此処は、どんな神でさえも見通すことの出来ない隔絶された場です。好きに言葉を語りなさい」
思考を見透かされている。恐れを感じるよりも前に、ソロモンは自身の心が鮮やかに浮遊するのを感じた。 書物に記された言葉を暗唱する機会はあれど、自身の素直な心情を吐露する機会など今までに無かった。母は多くの妻を持つ父にばかり目を向け、召使や講師達は王子たるソロモンに対して常にへりくだっていたからだ。
初めてだった。こんなにも、己を真っ直ぐに見つめてくれるひとは。
「貴女は、神であらせられるのですか」
「少なくとも私は、関わる人間すべてを不幸に突き落とす存在を女神とは呼びません」
「そうですか。この畑を見るに、豊穣を司る女神でいらっしゃるのでしょうか」
「……聞く耳を持たない性格だなんて、ますますダビデに似ているのね」
彼女は、父ダビデを偉大なるイスラエル王としてではなく、個人の男として語っていた。 そこに驚くよりも前に、ソロモンは、顔を歪ませていてもこんなに美しいのか、と熱に浮かされたように彼女の美しさを讃える。感情の発露がこんなにも神聖な行為として映るなど、どんな書物にも記されていなかった。
「けれど豊穣神であることを否定は出来ません。さあ、質問には答えました。早く立ち去りなさい」
目に見えない風が全身にまとわりつく。空間が急速に閉じて、ソロモンを押し出そうとしているのを感じた。
「待ってください! せめて最後に、貴女の名前を……!」
オリーブの木を背にして毅然と立つ彼女は、薄暗い瞳でソロモンをじっと見つめた。
「───名前。苗字名前です。その頭によく刻み付けなさい」
気が付けば、ソロモンは王宮の庭でオリーブの花に触れていた。暗闇に沈んだ小さな花が、先程の光景は幻なのだと言い聞かせるようにそこに在った。
「……、ナマエ」
頭に響く彼女の声を追いかけるように、恐る恐る呟く。
「いや、名前か。……そうか」
最後のミッションを前にしても、二人が成すべきことは変わらない。人類最後のマスターが歩む道を切り開いていくこと。作戦に関わるスタッフ達を鼓舞し続けること。カルデアが生んだマシュの選択を見届けること。それら全てを受け入れて、何があろうとも前に進んでいくこと。
だからこそ、左手の薬指に揃って嵌めている指輪については、二人きりの秘密にしようと誓ったのだ。
*
最後のレイシフトにおいて、立香ちゃんが果たすべき任務はただ一つ。人理焼却の黒幕である魔術王を撃破することだ。
今回乗り込む特異点は、ソロモンの肉体に内在する魔術回路を基に創造された、言わば小宇宙である。魔力が尽きぬ限り存在し続ける固有結界に乗り込むためには、カルデアの施設ごと敵陣に侵入しなければならない。
特異点と直接接触した上でのレイシフトは地続きの移動となり、マスターがどこにいようとも強制帰還が可能だった今までとは事情がまるで異なる。崩壊していく特異点の中を走って抜け出さなければならないとあって、立香ちゃんもマシュもいつも以上に気を引き締めているようだった。
いよいよブリーフィングも終わり、スタッフ達が次々と彼女達を激励する中、名前はレイシフト直前の二人を呼び止め、まとめて抱き締めた。
驚愕したように目を丸くしながらも、二人はすぐに事情を察したような顔をして名前の胸に擦り寄ってくれる。喉の奥がきゅっと締まるような愛おしさを感じて、思わず指先にも力がこもってしまった。
これが最後の語らいになることを、恐らく全員が本能的に感じ取っていたのだろう。名前は、とにかく生きて帰還するようにと改めて強調した後、心からの笑みをそっと手向けた。
「立香ちゃん、マシュ。これだけは伝えておくね。───カルデアはちゃんと強いよ。だから、何があっても心配しないで」
二人は言葉を噛み砕くように幾度か瞬きをしてから、眩いばかりの笑顔を見せた。その姿はとても綺麗で、名前の背中を力強く支えてくれるだけの力を持っている。 去り際に再び抱擁を交わした後、名前はすっかり定位置となった司令席へと舞い戻った。
「おかえり、名前」
「うん。ただいまロマニ」
「……、やっぱり怖い?」
どこか心配そうな顔に向けて、名前は堂々と胸を張る。
「怖くないって言ったら嘘になるけど。傷付くことから逃げてたら、私はまた同じ間違いを繰り返しちゃうから」
「そっか。……キミならそう言うと思った」
ロマニは、独特の緊迫感に包まれる管制室を懐かしむようにぐるりと見回してから、名前の両頬に手を添える。
出逢ったばかりの頃は、こちらが心配になるくらい頼りない顔ばかり見せていたのに。彼はいつの間にか、こんなにも男らしい表情を向けてくれるようになっていた。
「ごめん、もう一度だけキスをさせてほしい」
瞬く間に重なった唇に、心臓がそっと跳ねた。一瞬の触れ合いの後、彼は赤みが差した頬を緩め、傅くように額を名前の肩に預ける。
「ボクは、もう逃げないよ」
「うん、知ってる。ロマニは強い人だから」
ゆるゆる顔を上げた彼と、目線を重ねて笑い合う。
その後、所長代理は晴れ晴れとした表情で背筋を伸ばし、管制室の中央で最後の作戦開始を告げる。彼を見上げる仲間の顔は、皆一様に凛々しく頼もしいものだった。
*
グランドオーダーの遂行期間中、人理保障機関フィニス・カルデアが絶望に染まることはただの一度もなかった。
当然、個々人の心には不安や恐怖が滲んでいたことだろう。駄目かもしれないと思い悩み、眠れずに過ごした人だっていただろう。
けれどこの場所には、どんな批判に対しても矢面に立つ覚悟を持った心優しい医者がいた。 カルデアで精一杯生き抜こうとする人間に心を寄せ、持ち前の頭脳を惜しみなく発揮してくれた天才がいた。 鮮やかに色付く世界の美しさを知りながら、敬愛する少女を守り抜くため必死に戦った盾の乙女がいた。 目の前で踏み躙られた命にも、人々が持つ悪の心にも真正面から向き合い、どんな時でさえも笑顔を貫いた人類最後の星読みがいた。
だからこそ名前達はこの一年以上、誰も欠けることなくここまで駆け抜けることが出来た。たとえ今後彼らに何が待ち受けているとしても、カルデアという名の星の輝きは、決して色褪せることなく全員の胸に息づいていくのだろう。
ならば───なればこそ。名前・アーキマンは最後まで、己の責務を果たさなければならなかったのだ。
*
人類悪、ビーストの気配に満ちた小宇宙。ロマニは全てに終わりを告げるため、その空間をこう名付けた。終局特異点、冠位時間神殿ソロモンと。
画面の向こうに広がっていたのは、不気味な程に黒々とした穹と地面。生々しい熱と湿り気を帯びた肉の柱は幾重にも絡まり、天へと向かって玉座に繋がる道を形成していた。今にも脈打ちながら動き出しそうなその物体が全て魔神柱であることを、カルデアはレフ・ライノールの発言で知ることとなる。
立香ちゃんは確かに一度、魔神フラウロスを打倒した。しかしそれは、全く同じ場所に、全く同じ状態で復活していく。 彼らは空間そのものに余すところなく蔓延り、魔術王の肉体から無尽蔵の魔力を得ていた。すなわち特異点そのものを破壊しない限り、不死身の存在で在り続けることを意味する。
何か打つ手はないのかと頭を巡らすマスターを嘲笑うように、魔神達はカルデアへの直接攻撃を開始した。そうなれば自然と通信も途絶え、立香ちゃんの自信に満ちた笑顔もかき消えてしまう。
黒幕からすれば、カルデアの要とも言える管制室を真っ先に落とそうとするのは自然な発想だ。こちらとしてもそれを見越し、電力消費を極力抑えて出来る限りの対策を講じてきた。
だが、ソロモンがカルデアを取り込むスピードは、事前の予想を遥かに越えていた。……たとえどんな奇跡が起きたとしても、現状を打破しない限り、この場所は五分と保たないだろう。
その時の名前は、肌を刺す程に鋭利な何者かの執念を感じ取っていた。それは嘆きであり、怒りであり、悲しみであり、純粋なまでの愛の叫びだった。
周囲のスタッフ達が、必死の形相で眼前のモニターに向き合う中。名前は一人、確固たる決意をもってカルデアスの前へと進んでいく。
ふと背後を振り返ると、こちらを優しく見つめる翠と目が合った。一瞬だけ視線を交え、彼の確かな信頼が滲んだ瞳を脳裏に焼き付ける。
酸素を取り込む度に焼けるように痛む心臓も、針で刺されるような痛みが断続的に響く関節も、キシキシと泣くように悲鳴を上げる内臓も、名前の全てが名前の限界を告げていた。だが、そう理解しているからこそ、歩まなければならない道があった。
祈るように深く息を吐き出して、真っ直ぐに前を見つめる。すると、名前の肉体は少しずつ表面が剥がれ落ちて、……容貌が、徐々に人間のそれとは一線を画していった。
右足を一歩踏み出す。
───夜空のごとく澄んだ色をしていた髪が、稲穂のような黄金色へと色を変えた。
左足を一歩踏み出す。
───陶器のような青白さを帯びていた肌が、艶やかでふっくらとした瑞々しいものへと変化した。
右足を大きく前へ進める。
───病人のようにさえ見えた唇や爪が、薔薇のように赤らみ生き生きと華やいでいった。
左足を大きく前へ進める。
───馴染み深いカルデアの制服が、滑らかな白い衣となって豊かな身体を彩った。
そして、管制室の中心へと降り立った瞬間、苗字名前の命は終わりを迎える。
その魂を受け継いだ女は、自身を見守るように鎮座する「シバ」を通して、文字通り世界を見通した。荒れ果てた地球が、慟哭に満ちた神殿が、女を責め立てるように眼下に広がっていく。それは、かつて己が大地に振り撒いた数多くの死を想起させる光景であった。
オリンポス十二神に名を連ねた、ゼウスの姉である豊穣神。四季が存在しなかった地球に初めて冬をもたらし、娘への愛情故に己の役目を放棄して人類を滅ぼしかけた、非道な女神。
カルデアを守護するべく立ち上がった、その女の真名を───デメテルという。
「私とシバの前でソロモンを騙った愚かさを、女神としては慈しむべきなのでしょう。……けれど、ごめんあそばせ。私は今、愛する方の妻として此処に在るのです」
女は、たおやかに首を傾けて唇を吊り上げる。すると、まるで示し合わせたかのように、何も無かった筈の上空から大きな杖が降ってきた。 マーリンがベストなタイミングでアシストしてくれたことを知り、本心からの笑みが深まっていく。身長以上の長さを持った杖を右手で強く掴むと、全身を駆け巡る魔力の奔流に耳を傾けた。
「魔力供給域、拡大します。……霊脈との接続を確認。対象領域を確定しました」
女は確かに感じていた。人類最後のマスターのもとに、多種多様な輝きを放つ星々が集う気配を。きっと自身がこうして身を乗り出さずとも、この局面は乗り切れるのだろうと悟っていた。 だからこそ、これはエゴだった。自らの手で愛する未来を守りたいというワガママだった。
ようやく全ての準備が整った事実を確認し、女は全身を使って高らかに咆哮する。
「宝具、展開します! ───
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ロマニ・アーキマンは、凛と背筋を伸ばす彼女の後ろ姿を見つめていた。
魔神柱の魔力反応が急速に弱まり、カルデアの全施設へと電力供給が行き渡っていく最中。胸を衝く切なさを押し込めるように笑顔を取り繕いながら、ロマニは彼女の美しさを焼き付けるように目を細める。
「名前、ありがとう」
届かなくても構わなかった。けれど彼女は、ロマニが最大限の想いを乗せて呟いた一言を受けて、弾かれたように振り向いた。 すると、どうだろう。少女のようにあどけない表情で目を丸くした後、美しく整った顔をふと緩めて、───春の訪れを告げるかのように柔らかく笑んでくれた。
心臓をぎゅっと掴まれるような感覚に襲われて、ロマニは、困ったなあと独りごちた。時間を共に重ねる度に、彼女というひとを知っていく度に、どんどん好きになってしまう。思わず泣きたくなる程に、いつだってロマニは目の前の女の子に恋をしていた。
彼女の優しさに触れる度、かつて犯した罪を思い返すのは事実だ。 だがロマニは、自らの過ちを知っているからこそ与えられる愛があるのだと知った。彼女からの柔らかな愛を浴びて、こんな自分の腕の中でさえ笑ってくれる優しさに触れてしまった。
そして、ロマニ・アーキマンは思い返す。彼女と初めて出逢ったあの夏の日を。愚かで無知な少年が密かに胸を躍らせた、ささやかな運命の悪戯を。
*** ** *
王宮の庭に咲く色とりどりの花々が、夏の訪れを静かに告げていた。一年の中で最も暑いこの時期は、エルサレムの大通りも毎日賑わうばかりだ。小麦の収穫期は農夫達の稼ぎ時であり、それに伴って物流も拡大するため、国外からの商人も数多く王都に来訪する。
その活気に満ちた気配は、一人になる自由さえ与えられない程に城内で手厚く育てられる少年───ソロモンでさえ感じ取れた。
未だ朝日が眠りに落ち、街も静まり返った早朝のこと。召使からの監視を受けながら、ソロモンはひっそりと屋上の庭に足を運んでいた。
ソロモンは聡明な少年だった。まだ幼いながらも、父ダビデが人知れず屋上を訪れては街を見下ろしていることを知っていたし、母バト・シェバがその行為を快く思っていないことも認識していた。 しかし母が憎々しそうな顔で窓を見る度に、ソロモンは言い知れぬ好奇心が自身の胸に満ちていくのを感じた。周囲から与えられるままに知識を吸収していた頭が、父の秘密を探れと密かに囁いたのだ。
物心ついた頃から、ソロモンは、己が主なる神からとりわけ愛されている子供なのだと言い聞かされてきた。その期待に応えるため、自身の役割を果たすため、真面目であり続けることは決して苦ではない。
ならば、なぜ母の意思に背くような行為を望んだのか。それは、自身に関心を向けることのない父を少しでも知りたい、という子供らしい思いだったのかもしれない。
今となっては思い出せないが、その選択が運命の引き金を引いたことは確かだ。
ソロモンは、庭の片隅に鎮座するオリーブの木に目を遣った。白い小ぶりの花が暗闇の中でも一際輝いているように見えて、幾度か瞬きを繰り返す。光を放つ花など生まれてこの方見たことがない。試しに近づいて触れてみると、突如視界が真っ白に染まっていく。
濁流に押し潰されるような衝撃をなんとか受け流した後、ソロモンは見知らぬ小麦畑の傍で尻をついていた。晴天の眩しさに目を細めつつも、自身に鋭い視線を投げる美しい女性に釘付けになってしまう。ソロモンは、そのひとが自身とは根本的に全く異なる存在であることを、本能的に認識した。
麦の穂より何倍も美しく輝く金の髪。彼女の豊かな身体を覆う白い衣は眩しく、薔薇のように色づく肢体を鮮やかに引き立てていた。頭の天辺から爪先まで、余すところなく完璧な美貌を備えている。
「あなた、ダビデの息子なの?」
鈴が転がるような音が幼い少年の胸を柔く引っ掻き、心に強く爪を立てた。初めての感覚に瞠目しながら、ソロモンは己が早速父の秘密を握ったことを知る。
「……はい、ソロモンと申します」
「そう。よりにもよって、戦に明け暮れた男の子どもが
「失礼ながら貴女は、……」
神と呼ばれる方なのか。と問いかけそうになるが、咄嗟に、これは主なる神に背く行為になのではと踏み止まる。ソロモンは、主の怒りを買うのは最も恥ずべき愚行だと教えこまれていた。
「此処は、どんな神でさえも見通すことの出来ない隔絶された場です。好きに言葉を語りなさい」
思考を見透かされている。恐れを感じるよりも前に、ソロモンは自身の心が鮮やかに浮遊するのを感じた。 書物に記された言葉を暗唱する機会はあれど、自身の素直な心情を吐露する機会など今までに無かった。母は多くの妻を持つ父にばかり目を向け、召使や講師達は王子たるソロモンに対して常にへりくだっていたからだ。
初めてだった。こんなにも、己を真っ直ぐに見つめてくれるひとは。
「貴女は、神であらせられるのですか」
「少なくとも私は、関わる人間すべてを不幸に突き落とす存在を女神とは呼びません」
「そうですか。この畑を見るに、豊穣を司る女神でいらっしゃるのでしょうか」
「……聞く耳を持たない性格だなんて、ますますダビデに似ているのね」
彼女は、父ダビデを偉大なるイスラエル王としてではなく、個人の男として語っていた。 そこに驚くよりも前に、ソロモンは、顔を歪ませていてもこんなに美しいのか、と熱に浮かされたように彼女の美しさを讃える。感情の発露がこんなにも神聖な行為として映るなど、どんな書物にも記されていなかった。
「けれど豊穣神であることを否定は出来ません。さあ、質問には答えました。早く立ち去りなさい」
目に見えない風が全身にまとわりつく。空間が急速に閉じて、ソロモンを押し出そうとしているのを感じた。
「待ってください! せめて最後に、貴女の名前を……!」
オリーブの木を背にして毅然と立つ彼女は、薄暗い瞳でソロモンをじっと見つめた。
「───名前。苗字名前です。その頭によく刻み付けなさい」
気が付けば、ソロモンは王宮の庭でオリーブの花に触れていた。暗闇に沈んだ小さな花が、先程の光景は幻なのだと言い聞かせるようにそこに在った。
「……、ナマエ」
頭に響く彼女の声を追いかけるように、恐る恐る呟く。
「いや、名前か。……そうか」