エルサレム(3)
その日から、ソロモンの胸には一人の女性が棲みついた。 主の教えを諳んじ、学問を学んでいる間にも、ふとした瞬間に彼女の声が少年の胸を締め付けた。
だが幸いなことに、ソロモンの異変に気付く人間は誰もいなかった。そもそも、この瞳に熱が宿ったことを認識できるほど、ソロモンの近くに寄る人など存在しない。最も多くの時間を共にする母でさえ、ソロモンの瞳を通じてソロモンではない誰かを見ているのだから。
神の寵愛を受けているというだけで、自身の一挙一動が周囲の目を惹き、まるで神のように扱われる。この状況を疑問に思ったことなど無かったが、今では微かな違和感が頭の隅にこびり付くようになってしまった。
彼女は女神でありながら、まるで人のごとく感情を剥き出しにしていた。しかしソロモンは感情に名前を付けるのが不得手で、彼女が何を思っていたのか知る術を持たない。彼女の心に触れる方法など、思いつきもしなかったのだ。
「ああ、ソロモン。今日もよく勉学に励んでいるようだな」
力強い声に名を呼ばれて、ソロモンは軽く黙礼する。
「ありがとうございます、兄上。私などまだ未熟者ですが」
その日の昼も、宮殿は明るい活気に満ちていた。城下の散策から帰還した様子のアブサロムは、廊下の隅で書物を抱えたソロモンを見て豪快に笑う。
「そう謙遜せずともよい。おまえの聡明さはよく聞き及んでいるぞ」
ダビデ王には、優秀な跡取りとして期待される息子が多くいる。中でもこのアブサロムは、理性的で礼儀正しく弁舌に優れており、何より美しい青年だった。父が特に目を向けている兄は、ソロモンから見ても王に相応しい器量を持っている。 ほんの少し利口なだけの己とは酷く対照的だと、一切悲観することなくソロモンは感じていた。己が父から期待されないのも自然な流れであるように思えた。
兄姉達は軒並みソロモンを遠巻きに見ていたが、アブサロムだけは例外だった。 時折、何か言いたげな瞳で見つめてくる姉の視線は感じていたものの、結局何も口にしないのだから関わりがないのと同じである。
彼らを観察していく内に、ソロモンが学んだことが一つある。普遍的な人間ならば、誰もが喜怒哀楽の感情を持ち得ているのだ。 ソロモンにとって心とは、突如己が肉体に出現した未知なる臓器のようなものだった。どう扱えば良いのか分からず、激しく息づく感情の奔流に押し潰されそうになってしまう。
しかし、この胸の内を周囲に明かすことだけはしてはならぬのだと、ソロモンは本能的に感じ取っていた。
「……ナマエ、名前」
就寝前の私室にて、ソロモンは彼女の美しい輪郭を追いかけるように呟いた。二人きりでささやかな秘密を共有しているかのように思えて、腹の底が熱く沸き立つ。
夢での邂逅を待ち望みながら瞳を閉じると、数瞬も経たない内に鮮烈な光が瞼の裏で弾けた。肌の表面を指先で柔くなぞられるような、全身が浮遊していくような感覚に襲われて、ソロモンは驚きながら目を開く。
「あら。また来たの?」
綺麗な音が、ソロモンの心臓を鷲掴んだ。木の幹に身体を預けていた彼女───名前が、無表情のままソロモンを一瞥する。
「名前、さま」
「尊称は必要ありません。けれど、ソロモン。あなたは言葉の発音がとても綺麗なのね」
ふわり、と。彼女が小さく微笑んだ。その顔は、花が咲くよりもずっと美しくて可憐で、見つめているだけで息が苦しくなってしまう。名前という名は、きっと彼女にとって特別なものなのだろう。
呆然と立ち尽くす様子を見兼ねたのか、彼女はソロモンに近付いてから僅かに膝を屈めた。
「私に怯えることのない人間の子どもは、あなたが初めてでした」
「……愚かなことに、人は、あまりにも美しいものに出逢うと恐れを抱いてしまいます。ですが私は幸運でした。貴女の優しさに迷いなく触れることが出来た」
ソロモンは近頃、市井の民が娯楽として読むという創作物に手を出していた。結果として理解したのは、彼女が己に与えてくれたものが、優しさや愛と称されるものであったということ。そして、ソロモンもまた彼女に愛を届けたいのだということ。
名前の瞳が更に大きく丸くなるのを見て、ソロモンは不器用に笑みを形づくった。己の歓びが、少しでも彼女に伝われば良いと思った。
「……ソロモン。どうやら、私とあなたの出逢いは必然だったようです」
「必然、ですか」
「ええ」
それ以上多くを語ることなく、名前はソロモンの頭に触れた。夜闇をかき集めたかのような、カラスの羽にも似た黒い髪。それは若草を思わせる父とは異なり、アブサロムと同じ色を宿していた。
「特別に許可します。ソロモン、いつでも好きな時に此処へいらっしゃい」
「……よろしいのですか」
「ええ。私は、あなたに会うためにこの国まで来たのだと気付いたから」
頬を叩かれたような衝撃を受けて、気付けば瞬きさえ忘れていた。
「此処は、本来ならば人間が訪れるような空間ではないの。いくらあなたでも、そろそろ意識を保っていられないでしょう?」
その通りだった。もっと言葉を交わしたいのに、もっと彼女の瞳を見つめていたいのに、視界は霞んで頭の中が白く染まっていく。
「今は素直に休みなさい。子どもの義務は、思う存分眠ることなのですから」
「……はい」
「おやすみなさい、ソロモン。どうか良い夢を」
額に触れた熱を最後に、ソロモンの意識は急速に暗闇へと沈んでいく。それは決して重く空虚なものではなく、全身を真綿で包まれているような感覚だった。
朝の目覚めはとても清々しく、ソロモンは窓の外に咲き誇る薔薇を見て目を細めた。己が生きている世界は、こんなにも色鮮やかなものだったのだと、生まれて初めて実感してしまった。
*
それからというもの、ソロモンは毎晩のように夢の世界へと飛び込んだ。 名前もさすがに毎日訪問するとは考えていなかったようで、呆れた精神力だと微かに笑っていたけれど。
「ソロモン。願わくば、私に魔術を教えてほしいのです」
名前は、凛と背筋を伸ばしながら切り出した。
「……その、ですね。お恥ずかしながら、私は魔術に関しては全くの素人でして」
そして、瞬く間に頬を赤く染める。ソロモンは初めて、心臓が爆発しそうになるという経験をした。
しかしながら、ソロモンは魔術という概念は認知していても自由に使役できる訳ではない。恐る恐る事実を伝えれば、名前は「知っています」と力強く頷いた。
「時が来たらで良いのです。そもそも、この目的を今のあなたに伝えるつもりはなかったのですが」
「はい」
「あなたは、聡明でありながら寂しがり屋のようだったから。私が口を噤んだままでは、不安になってしまうでしょう?」
「……寂しさや不安という感情が、私にはよく分からないのですが」
「そうかしら」
彼女の指が、ソロモンの頬を撫ぜる。輪郭を辿るように肌に触れられて、喉の奥が熱く震えた。
「ほら。今も切なそうな顔をした」
名前が手を頭上に翳すと、青く透き通っていた大空が、疎らに星が散る夜空へと変貌していく。辺りが暗闇に覆われても、彼女の眩いばかりの美しさは変わらず光を放っていた。
「ソロモン、見えますか。低い場所に位置してはいますが、一際明るく輝く白い星が」
「はい」
「あの星の名はフォーマルハウト。とある国では、私を奉るための星として定められているそうです」
「名前、を」
「ええ。正確に言えば私自身ではなくて、私であった者を、ですが」
一息置いてから、彼女はソロモンを真っ直ぐに見つめ返した。
「フォーマルハウトは、一年の中でも限られた時にしか空に出現しない星です。けれど、たとえ目に見えずとも、星の輝きはあなたの心を照らす道導になると思うの」
「……はい」
「だからソロモン。もし寂しくなったら夜空を見上げなさい。そして、可能ならば寂しいと口にして」
結局のところソロモンには、父と彼女の関係がどういったものか知る術はなく、彼女の心を全て暴くことなど出来ない。だが、もし名前が己を通して父や他の誰かを見ているのだとしても、それで良いと考えていた。
少年は、愛するひとの傍にいられるだけで満足だったのだ。
*
それからしばらく、黄金色の畑を展望しながら言葉を交わす日々が続いた。彼女は、神代から今までずっと一人きりで世界を放浪してきたのだと話し、それを証明するように各国の歴史や情勢を鮮やかに語った。
中でも名前は、戦で血を流すことの無益さをことさら強調した。 たとえば、官僚制度を整備して臣下との意思疎通を図れば、内乱の発生を防ぐことができる。未来を担う子ども達に教育を施すことで、国力を底上げするのも可能だろう。人材が育てば諸外国との交易にも力を入れられる上に、国内の更なる経済発展も見込める。
知恵を駆使して、より良い未来に投資する。 彼女との問答で得た答えはソロモンにとって新鮮なものばかりで、宮殿に一日閉じ込められながら書物で学ぶよりも、余程有意義に感じた。
思えばこの頃から、名前はダビデの息子達が辿る末路を予感していたのだろう。
*
ダビデ王が特に目をかけていた息子アブサロムが、殺人の罪を犯した。相手は、兄弟の一人であるアムノンであるという。
その知らせを耳にした際、ソロモンはまずアブサロムに同情の念を抱いた。大切に想うひとが他の男に犯されたとあれば、誰とて激情に身を浸すだろう。
アムノンが姉タマルと無理やり関係を持ったこともそうだが、何よりアブサロムの心を傷付けたのは、父ダビデがそれを罰せず静観していたことに違いない。 ダビデ自身の罪───部下の妻に想いを寄せ、その部下を戦地で殺害したこと───があるため、後ろ暗い思いに支配されていたのかもしれないが、今回は王としても父としても完全に悪手だった。
ダビデは、己も罪を犯したからこそ息子を罰するべきであったのだ。そうすれば、あの明朗闊達なアブサロムが父親に反旗を翻すこともなかっただろう。
この一件は、アブサロムがダビデの部下によって討たれることで決着がついた。しかし、息子を喪ったことで憔悴したダビデも、やがて後を追うように天に召されてしまった。 父という後ろ盾を失った兄姉達は、次第に宮殿を離れていった。中には、不正を用いて王になることを目論んだ兄もいたが、ソロモンはあらゆる力を駆使して玉座を死守した。
それは、跡継ぎになってほしいという母バト・シェバの願いを叶えるためではなく、父ダビデから示された祝福の道を進むためでもなく、主なる神から授かった神殿建築の指名を果たすためでもなく。ただ、少しでも愛するひとの力になりたいがためであった。
そして、ついにソロモンは王となる。精悍な顔付きをした聡明な王は、持ち前の穏やかな性格により民から広く愛されていった。
国内の治安維持のため、ソロモンはいくつかの命を手にかけることもあった。実行したのは部下であるとはいえ、己も殺人に加担したのは間違いない。
王として毅然と振る舞いながらも、密かに一人で震える夜を過ごすこともあった。そんな折、ソロモンには決まって寄り添ってくれるひとがいた。 泥のように全身にへばりつく仄暗い感情を上書きしてくれるのは、いつだって目の前の女性だったのだ。
*
「名前。今日も、我が国の夜空はとても美しかったよ」
「そう。星は綺麗に見えた?」
「ああ。ただし、とびきりの一番星は私の中に手にあるけれど」
「もう。そんな背伸びしたこと言わないの」
ソロモンの傍らで肩を竦めた名前は、眩い美しさを撒き散らしながら呆れたように息を吐いた。 今までに見かけたどんな金糸よりも綺麗な髪を一房手に取り、指先で弄ぶように梳いていく。
ソロモンは、明日ファラオの娘を妻に迎え入れる。エジプトと同盟関係を結ぶことで、イスラエル王としての権力基盤を更に盤石なものとするためだ。
主の御名を讃えるための神殿建築は、父ダビデの悲願であり、ソロモンが主から授けられた使命でもある。己の責務を果たすことを厭う筈はなく、外国からの経済支援を受けるためにあらゆる手を尽くす覚悟だった。
しかしその一方で、名前は頑なに、ソロモンからの愛を受け取ろうとはしなかった。他の女性と婚姻関係を結べば、更に彼女の心が離れることを予感していた。だからソロモンには、今こそ伝えなければならない言葉があったのだ。
「名前。君の真名を口にしても良いだろうか」
「……、ソロモン。一体何を」
「───デメテル。世界に初めて冬を齎した君」
彼女の肩が強張るように跳ねて、指先で触れていた熱が急速に離れていく。顔を隠すように深く俯いた名前が、今どんな表情をしているのか、ソロモンには分からなかった。
「……ソロモン。あなたが私の正体に勘づいていることは知っていました。けれどあなたは優しいから、最後まで騙されてくれると思っていたのに」
「これでも私はただの男です。貴女の前ではいつだってそうだった。だからもう、逃がしはしない」
彼女に近付くために、大きく一歩を踏み出した。出逢ったばかりの頃は見上げるばかりだった身体が、いつの間にかこんなにも小さくなっていたのかと、ソロモンはそっと目を細める。
「知っているのでしょう? 愚かな女が辿った哀れな末路を」
「ええ、知っています。私は、貴女がどんなに愛情深くて優しいのか知っている」
「……っ」
「だから、どうか教えてください。貴女の心を蝕む哀しみの正体を。願わくば、貴女の苦しみを私にも背負わせてほしい」
「……なら、言わせてもらうけれど」
この肉体は、彼女をまるごと抱き締められる程には大きく成長した。それでも今のままでは、彼女の心に寄り添うことすら出来ないと理解していた。
「私は既に、女神ですらない。人々の願いを聞き届けることすら叶わない。苦しみに喘ぐ人へ、手を差し伸べることすら出来ないのです。それどころか、……っ」
名前は顔を上げて、ソロモンを真っ直ぐに見つめる。苦悶を浮かべながらも凛とした視線を向ける彼女の芯の強さが、やはり堪らなく愛おしかった。
「私は、私の弱さを受け止めてくれる誰かを望んでしまう。私にとっての、私だけの神が欲しくて、……傍にいてほしくて堪らなくなってしまうの」
「ならば、私が貴女の神となりましょう。貴女を一番に想い、慈しみ、愛する男で在りましょう」
「一国を背負う王が、私のような出来損ないに心を傾けるなどあってはなりません。……過去の歴史が物語っています。待ち受ける未来は破滅のみだと。賢いあなたならば分かるでしょう、ソロモン」
名前の身体は震え、懺悔するように両手を組んでいた。
「名前、君が言いたいことは理解している。やがて私が主から啓示を授かった際、どのような未来が待ち受けているのか、予想もついている」
「……ええ」
「けれどね、名前。私は君を愛している。それだけではいけないのだろうか」
ソロモンは彼女の両手を取り、指先を包み込んで、その白く滑らかな甲に額を寄せる。
「この世に生を受けた瞬間から、私の肉体は主に捧げるべきものとして定められた。けれどこの心は未来永劫、貴女に預けます。名前」
「……そのようなもの、私は受け取れません」
「それでも構いません。私が貴女を愛したいから愛するだけなのだから」
「…………そういえば、あなたは昔から意固地でしたね。ソロモン」
ゆっくり目線を上げると、柳眉を下げた彼女と視線が重なった。
「ええ、あなたの覚悟は分かりました。───私のすべてを話しましょう」
だが幸いなことに、ソロモンの異変に気付く人間は誰もいなかった。そもそも、この瞳に熱が宿ったことを認識できるほど、ソロモンの近くに寄る人など存在しない。最も多くの時間を共にする母でさえ、ソロモンの瞳を通じてソロモンではない誰かを見ているのだから。
神の寵愛を受けているというだけで、自身の一挙一動が周囲の目を惹き、まるで神のように扱われる。この状況を疑問に思ったことなど無かったが、今では微かな違和感が頭の隅にこびり付くようになってしまった。
彼女は女神でありながら、まるで人のごとく感情を剥き出しにしていた。しかしソロモンは感情に名前を付けるのが不得手で、彼女が何を思っていたのか知る術を持たない。彼女の心に触れる方法など、思いつきもしなかったのだ。
「ああ、ソロモン。今日もよく勉学に励んでいるようだな」
力強い声に名を呼ばれて、ソロモンは軽く黙礼する。
「ありがとうございます、兄上。私などまだ未熟者ですが」
その日の昼も、宮殿は明るい活気に満ちていた。城下の散策から帰還した様子のアブサロムは、廊下の隅で書物を抱えたソロモンを見て豪快に笑う。
「そう謙遜せずともよい。おまえの聡明さはよく聞き及んでいるぞ」
ダビデ王には、優秀な跡取りとして期待される息子が多くいる。中でもこのアブサロムは、理性的で礼儀正しく弁舌に優れており、何より美しい青年だった。父が特に目を向けている兄は、ソロモンから見ても王に相応しい器量を持っている。 ほんの少し利口なだけの己とは酷く対照的だと、一切悲観することなくソロモンは感じていた。己が父から期待されないのも自然な流れであるように思えた。
兄姉達は軒並みソロモンを遠巻きに見ていたが、アブサロムだけは例外だった。 時折、何か言いたげな瞳で見つめてくる姉の視線は感じていたものの、結局何も口にしないのだから関わりがないのと同じである。
彼らを観察していく内に、ソロモンが学んだことが一つある。普遍的な人間ならば、誰もが喜怒哀楽の感情を持ち得ているのだ。 ソロモンにとって心とは、突如己が肉体に出現した未知なる臓器のようなものだった。どう扱えば良いのか分からず、激しく息づく感情の奔流に押し潰されそうになってしまう。
しかし、この胸の内を周囲に明かすことだけはしてはならぬのだと、ソロモンは本能的に感じ取っていた。
「……ナマエ、名前」
就寝前の私室にて、ソロモンは彼女の美しい輪郭を追いかけるように呟いた。二人きりでささやかな秘密を共有しているかのように思えて、腹の底が熱く沸き立つ。
夢での邂逅を待ち望みながら瞳を閉じると、数瞬も経たない内に鮮烈な光が瞼の裏で弾けた。肌の表面を指先で柔くなぞられるような、全身が浮遊していくような感覚に襲われて、ソロモンは驚きながら目を開く。
「あら。また来たの?」
綺麗な音が、ソロモンの心臓を鷲掴んだ。木の幹に身体を預けていた彼女───名前が、無表情のままソロモンを一瞥する。
「名前、さま」
「尊称は必要ありません。けれど、ソロモン。あなたは言葉の発音がとても綺麗なのね」
ふわり、と。彼女が小さく微笑んだ。その顔は、花が咲くよりもずっと美しくて可憐で、見つめているだけで息が苦しくなってしまう。名前という名は、きっと彼女にとって特別なものなのだろう。
呆然と立ち尽くす様子を見兼ねたのか、彼女はソロモンに近付いてから僅かに膝を屈めた。
「私に怯えることのない人間の子どもは、あなたが初めてでした」
「……愚かなことに、人は、あまりにも美しいものに出逢うと恐れを抱いてしまいます。ですが私は幸運でした。貴女の優しさに迷いなく触れることが出来た」
ソロモンは近頃、市井の民が娯楽として読むという創作物に手を出していた。結果として理解したのは、彼女が己に与えてくれたものが、優しさや愛と称されるものであったということ。そして、ソロモンもまた彼女に愛を届けたいのだということ。
名前の瞳が更に大きく丸くなるのを見て、ソロモンは不器用に笑みを形づくった。己の歓びが、少しでも彼女に伝われば良いと思った。
「……ソロモン。どうやら、私とあなたの出逢いは必然だったようです」
「必然、ですか」
「ええ」
それ以上多くを語ることなく、名前はソロモンの頭に触れた。夜闇をかき集めたかのような、カラスの羽にも似た黒い髪。それは若草を思わせる父とは異なり、アブサロムと同じ色を宿していた。
「特別に許可します。ソロモン、いつでも好きな時に此処へいらっしゃい」
「……よろしいのですか」
「ええ。私は、あなたに会うためにこの国まで来たのだと気付いたから」
頬を叩かれたような衝撃を受けて、気付けば瞬きさえ忘れていた。
「此処は、本来ならば人間が訪れるような空間ではないの。いくらあなたでも、そろそろ意識を保っていられないでしょう?」
その通りだった。もっと言葉を交わしたいのに、もっと彼女の瞳を見つめていたいのに、視界は霞んで頭の中が白く染まっていく。
「今は素直に休みなさい。子どもの義務は、思う存分眠ることなのですから」
「……はい」
「おやすみなさい、ソロモン。どうか良い夢を」
額に触れた熱を最後に、ソロモンの意識は急速に暗闇へと沈んでいく。それは決して重く空虚なものではなく、全身を真綿で包まれているような感覚だった。
朝の目覚めはとても清々しく、ソロモンは窓の外に咲き誇る薔薇を見て目を細めた。己が生きている世界は、こんなにも色鮮やかなものだったのだと、生まれて初めて実感してしまった。
*
それからというもの、ソロモンは毎晩のように夢の世界へと飛び込んだ。 名前もさすがに毎日訪問するとは考えていなかったようで、呆れた精神力だと微かに笑っていたけれど。
「ソロモン。願わくば、私に魔術を教えてほしいのです」
名前は、凛と背筋を伸ばしながら切り出した。
「……その、ですね。お恥ずかしながら、私は魔術に関しては全くの素人でして」
そして、瞬く間に頬を赤く染める。ソロモンは初めて、心臓が爆発しそうになるという経験をした。
しかしながら、ソロモンは魔術という概念は認知していても自由に使役できる訳ではない。恐る恐る事実を伝えれば、名前は「知っています」と力強く頷いた。
「時が来たらで良いのです。そもそも、この目的を今のあなたに伝えるつもりはなかったのですが」
「はい」
「あなたは、聡明でありながら寂しがり屋のようだったから。私が口を噤んだままでは、不安になってしまうでしょう?」
「……寂しさや不安という感情が、私にはよく分からないのですが」
「そうかしら」
彼女の指が、ソロモンの頬を撫ぜる。輪郭を辿るように肌に触れられて、喉の奥が熱く震えた。
「ほら。今も切なそうな顔をした」
名前が手を頭上に翳すと、青く透き通っていた大空が、疎らに星が散る夜空へと変貌していく。辺りが暗闇に覆われても、彼女の眩いばかりの美しさは変わらず光を放っていた。
「ソロモン、見えますか。低い場所に位置してはいますが、一際明るく輝く白い星が」
「はい」
「あの星の名はフォーマルハウト。とある国では、私を奉るための星として定められているそうです」
「名前、を」
「ええ。正確に言えば私自身ではなくて、私であった者を、ですが」
一息置いてから、彼女はソロモンを真っ直ぐに見つめ返した。
「フォーマルハウトは、一年の中でも限られた時にしか空に出現しない星です。けれど、たとえ目に見えずとも、星の輝きはあなたの心を照らす道導になると思うの」
「……はい」
「だからソロモン。もし寂しくなったら夜空を見上げなさい。そして、可能ならば寂しいと口にして」
結局のところソロモンには、父と彼女の関係がどういったものか知る術はなく、彼女の心を全て暴くことなど出来ない。だが、もし名前が己を通して父や他の誰かを見ているのだとしても、それで良いと考えていた。
少年は、愛するひとの傍にいられるだけで満足だったのだ。
*
それからしばらく、黄金色の畑を展望しながら言葉を交わす日々が続いた。彼女は、神代から今までずっと一人きりで世界を放浪してきたのだと話し、それを証明するように各国の歴史や情勢を鮮やかに語った。
中でも名前は、戦で血を流すことの無益さをことさら強調した。 たとえば、官僚制度を整備して臣下との意思疎通を図れば、内乱の発生を防ぐことができる。未来を担う子ども達に教育を施すことで、国力を底上げするのも可能だろう。人材が育てば諸外国との交易にも力を入れられる上に、国内の更なる経済発展も見込める。
知恵を駆使して、より良い未来に投資する。 彼女との問答で得た答えはソロモンにとって新鮮なものばかりで、宮殿に一日閉じ込められながら書物で学ぶよりも、余程有意義に感じた。
思えばこの頃から、名前はダビデの息子達が辿る末路を予感していたのだろう。
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ダビデ王が特に目をかけていた息子アブサロムが、殺人の罪を犯した。相手は、兄弟の一人であるアムノンであるという。
その知らせを耳にした際、ソロモンはまずアブサロムに同情の念を抱いた。大切に想うひとが他の男に犯されたとあれば、誰とて激情に身を浸すだろう。
アムノンが姉タマルと無理やり関係を持ったこともそうだが、何よりアブサロムの心を傷付けたのは、父ダビデがそれを罰せず静観していたことに違いない。 ダビデ自身の罪───部下の妻に想いを寄せ、その部下を戦地で殺害したこと───があるため、後ろ暗い思いに支配されていたのかもしれないが、今回は王としても父としても完全に悪手だった。
ダビデは、己も罪を犯したからこそ息子を罰するべきであったのだ。そうすれば、あの明朗闊達なアブサロムが父親に反旗を翻すこともなかっただろう。
この一件は、アブサロムがダビデの部下によって討たれることで決着がついた。しかし、息子を喪ったことで憔悴したダビデも、やがて後を追うように天に召されてしまった。 父という後ろ盾を失った兄姉達は、次第に宮殿を離れていった。中には、不正を用いて王になることを目論んだ兄もいたが、ソロモンはあらゆる力を駆使して玉座を死守した。
それは、跡継ぎになってほしいという母バト・シェバの願いを叶えるためではなく、父ダビデから示された祝福の道を進むためでもなく、主なる神から授かった神殿建築の指名を果たすためでもなく。ただ、少しでも愛するひとの力になりたいがためであった。
そして、ついにソロモンは王となる。精悍な顔付きをした聡明な王は、持ち前の穏やかな性格により民から広く愛されていった。
国内の治安維持のため、ソロモンはいくつかの命を手にかけることもあった。実行したのは部下であるとはいえ、己も殺人に加担したのは間違いない。
王として毅然と振る舞いながらも、密かに一人で震える夜を過ごすこともあった。そんな折、ソロモンには決まって寄り添ってくれるひとがいた。 泥のように全身にへばりつく仄暗い感情を上書きしてくれるのは、いつだって目の前の女性だったのだ。
*
「名前。今日も、我が国の夜空はとても美しかったよ」
「そう。星は綺麗に見えた?」
「ああ。ただし、とびきりの一番星は私の中に手にあるけれど」
「もう。そんな背伸びしたこと言わないの」
ソロモンの傍らで肩を竦めた名前は、眩い美しさを撒き散らしながら呆れたように息を吐いた。 今までに見かけたどんな金糸よりも綺麗な髪を一房手に取り、指先で弄ぶように梳いていく。
ソロモンは、明日ファラオの娘を妻に迎え入れる。エジプトと同盟関係を結ぶことで、イスラエル王としての権力基盤を更に盤石なものとするためだ。
主の御名を讃えるための神殿建築は、父ダビデの悲願であり、ソロモンが主から授けられた使命でもある。己の責務を果たすことを厭う筈はなく、外国からの経済支援を受けるためにあらゆる手を尽くす覚悟だった。
しかしその一方で、名前は頑なに、ソロモンからの愛を受け取ろうとはしなかった。他の女性と婚姻関係を結べば、更に彼女の心が離れることを予感していた。だからソロモンには、今こそ伝えなければならない言葉があったのだ。
「名前。君の真名を口にしても良いだろうか」
「……、ソロモン。一体何を」
「───デメテル。世界に初めて冬を齎した君」
彼女の肩が強張るように跳ねて、指先で触れていた熱が急速に離れていく。顔を隠すように深く俯いた名前が、今どんな表情をしているのか、ソロモンには分からなかった。
「……ソロモン。あなたが私の正体に勘づいていることは知っていました。けれどあなたは優しいから、最後まで騙されてくれると思っていたのに」
「これでも私はただの男です。貴女の前ではいつだってそうだった。だからもう、逃がしはしない」
彼女に近付くために、大きく一歩を踏み出した。出逢ったばかりの頃は見上げるばかりだった身体が、いつの間にかこんなにも小さくなっていたのかと、ソロモンはそっと目を細める。
「知っているのでしょう? 愚かな女が辿った哀れな末路を」
「ええ、知っています。私は、貴女がどんなに愛情深くて優しいのか知っている」
「……っ」
「だから、どうか教えてください。貴女の心を蝕む哀しみの正体を。願わくば、貴女の苦しみを私にも背負わせてほしい」
「……なら、言わせてもらうけれど」
この肉体は、彼女をまるごと抱き締められる程には大きく成長した。それでも今のままでは、彼女の心に寄り添うことすら出来ないと理解していた。
「私は既に、女神ですらない。人々の願いを聞き届けることすら叶わない。苦しみに喘ぐ人へ、手を差し伸べることすら出来ないのです。それどころか、……っ」
名前は顔を上げて、ソロモンを真っ直ぐに見つめる。苦悶を浮かべながらも凛とした視線を向ける彼女の芯の強さが、やはり堪らなく愛おしかった。
「私は、私の弱さを受け止めてくれる誰かを望んでしまう。私にとっての、私だけの神が欲しくて、……傍にいてほしくて堪らなくなってしまうの」
「ならば、私が貴女の神となりましょう。貴女を一番に想い、慈しみ、愛する男で在りましょう」
「一国を背負う王が、私のような出来損ないに心を傾けるなどあってはなりません。……過去の歴史が物語っています。待ち受ける未来は破滅のみだと。賢いあなたならば分かるでしょう、ソロモン」
名前の身体は震え、懺悔するように両手を組んでいた。
「名前、君が言いたいことは理解している。やがて私が主から啓示を授かった際、どのような未来が待ち受けているのか、予想もついている」
「……ええ」
「けれどね、名前。私は君を愛している。それだけではいけないのだろうか」
ソロモンは彼女の両手を取り、指先を包み込んで、その白く滑らかな甲に額を寄せる。
「この世に生を受けた瞬間から、私の肉体は主に捧げるべきものとして定められた。けれどこの心は未来永劫、貴女に預けます。名前」
「……そのようなもの、私は受け取れません」
「それでも構いません。私が貴女を愛したいから愛するだけなのだから」
「…………そういえば、あなたは昔から意固地でしたね。ソロモン」
ゆっくり目線を上げると、柳眉を下げた彼女と視線が重なった。
「ええ、あなたの覚悟は分かりました。───私のすべてを話しましょう」