エルサレム(4)
───ソロモン。あなたは、デメテルについてどこまで知っていますか。
……ええ、そうです。私は、この世界に初めて冬を齎したとされる豊穣神。 後世ではもしかしたら、男運のない女神として有名かもしれないけれど。なにせ、人間や精霊の恋人を作っても全員ゼウスに奪われてしまったり、弟二人から無理やり迫られたりしていたから。
ですが私は、自ら産んだ子供達のことを心底愛していました。たとえ無理やり交わった結果であったのだとしても、彼らは皆、愛おしく可愛らしかった。 弟や他の神々は、私を女として消費するばかりでしたが、子供達だけは違った。このような私を母として慕い、無償の愛を注いでくれました。
だからこそ、賢くて可愛らしい娘───ペルセポネーが突如目の前から失踪した際には、全てをかなぐり捨てて地上を探し回りました。大地に実りを齎すという役目さえも放棄した末、いつの間にか土地は荒れ果て、……世界に冬が訪れてしまった。
その頃でした。未来からやって来た、と語る少女に出逢ったのは。……そうです、彼女の名こそが苗字名前。 名前は、人間ならば誰もが持っている筈の肉体を失い、魂が傷だらけの状態で海面を漂っていました。
最初は、彼女を見かけても無視するつもりでいたのです。私は、私の哀しみを背負いながら放浪するので精一杯だった。そんな状況で、見知らぬ少女の面倒を見ることなど出来ないでしょう。
けれど名前は、慟哭する私に黙って寄り添ってくれました。肉体なき魂は、次の瞬間消滅する運命を迎えても不思議ではないのに……、彼女は己の苦しみを主張するよりも、他者の悲しみに寄り添う道を選んだのです。
嗚呼、人間とはなんて愚かで愛おしいのだろうと、私は思いました。それからは、きっとあなたの想像通りです。ソロモン。
私は、己の肉体の一部を彼女に分け与えた。普通の人間よりも丈夫な身体を得た彼女を、娘として愛しました。 彼女が何故、未来から過去に遡れたのか。───その理由は今でも不明です。けれど、私はそれでも良かった。ただただ、名前のことが堪らなく愛おしかった。
名前に不自由な思いをさせないため、私は再び己の責務を果たすようになり、やがて地上には春が訪れました。 彼女と二人で暮らしていく中で教わったことはたくさんあります。料理のレシピや掃除の仕方、はたまた人が持つ常識や、彼らが紡いできた歴史について。
元々、私は神にしては温厚だと称されてきましたが……、その時点で完全に、人としての精神が胸の奥に生まれてしまったのでしょうね。
それからしばらくして、ようやく娘ペルセポネーの行方が判明しました。彼女は、冥府の主である弟ハデスに、強引に妻として迎え入れられていたのです。 しかし、ハデスはゼウスやポセイドンに比べて、とても優しい子でした。彼がそんな狼藉を働くのは不自然だと考えて、私は名前と暮らしていた家を飛び出してしまったのです。……ええ、私は今でもこの選択を悔いています。
冥界まで出向き、ハデスを直接問い詰めた結果、全ての裏を引いていたのはゼウスだと分かりました。予想通りの事態に歯噛みしながら、私は愛するペルセポネーを迎えに行こうとしたのです。名前と共に三人で暮らせたならば、どれだけ幸せだろうと夢見ながら。
しかし結果的に、その夢は現実にならなかった。ペルセポネーは、ハデスの隣で心底嬉しそうに顔を綻ばせていたのです。……彼女は、私といた時には見せてくれたことのないくらい、幸せな表情をしていた。
母として、私は気付かざるを得ませんでした。ペルセポネーの幸福は既に、私と共に在ることではなくなっていた。その時に出来るのは、大人しく身を引くことだけでした。
私はすぐさま、名前と共に暮らす家へと戻りました。愛する娘と暮らす我が生活は、未だ潰えてなどいないのですから。
けれどそこで……、ええ。そこで、私は───、地獄を見た。
名前は、愛らしく優しかった彼女は、……神々に傷付けられ、弄ばれた末、その肉体を消滅させていたのです。それは、普通の人間ならば、存在ごと消失していても不思議ではないほどに、……酷い状態でした。
……ええ、そう。彼女の魂の残滓はまだ空間を漂っていた。けれど、結局、私は無力で。魂の器を再生することは出来ても、彼女の魂を完全な形で呼び戻すことは出来なかった。 愚かな私は最後まで、あの子の苦しみに寄り添うことすら……、出来なかったのです。
名前を奪った犯人に、心当たりはありました。けれど当時の私は、犯人探しをする気力すら湧かなかった。ただ一つ、痛感せざるを得ない事実がありました。私に関わる人々は全員、例外なく不幸になってしまうのだと。
私が豊穣神としての役目を放棄したことで、地上では多くの命が散りました。私に優しさを与えてくれた恋人は亡くなり、愛を教えてくれた娘さえも守ることが出来なかった。ならば、ペルセポネーと共に過ごしても、同じ事態が発生するかもしれないと、そう予感してしまったのです。
そして私は、名前の魂の器を守るため、天界でも地上でもない、澄み渡った空間を探し求めました。……そう。それが、この場所です。
不幸中の幸い、とでも云えばいいのかしら。私は名前に肉体を分け与えたことで、女神としての格が落ちていました。つまり、人間と融合しても害のない存在に成り果てたということ。だからこそ、彼女の魂を私の身体に植え付けて、時が来るまで癒すことにしたのです。
その瞬間、女神デメテルは死にました。名前の存在をこの世界に刻み付けるため、彼女の名を名乗ると決めたのです。
ソロモン、覚えていますか。私は、魔術に関しては素人だと言ったことを。……ええ、その通りです。魔術を操りたいと願ったのは、名前のためです。
私から名前を奪い、未だに私を付け狙う神に対抗するために。死してなお私を支えてくれる名前を、今度こそ守るために。私はただ、力が欲しかった。
けれど、天界に縁のある者と接触すれば、きっと敵に感づかれてしまう。そこで私は、名前の気配を己が身体に纏わせることで神々の目を眩ませ、地上を放浪することにしたのです。
やがて人間の内に出現するであろう、魔術の王と出逢うために。
以前、あなたとの出逢いが必然だと言った意味が、ようやく分かったでしょう。私はあなたを利用しようとしたのです。私が求めたのは、将来的にあなたが得るであろう力でしかない。
ソロモン。あなたが私に惹かれるのも、考えれば当然のことなのです。今でも私を手助けしてくれる大地の精霊達は、魔術と縁が深い存在です。あなたの中に眠っているであろう魔術の源が、精霊の気配を滲ませた女に反応するのは自然な事象でしょう。
……ソロモン。あなたはこれから、国のために数多の妻を迎え入れます。肉体も心も捧げたあなたは、女達に何を与えるのですか。富ですか、名誉ですか、権力ですか。
いえ、いいえ。女がそれで満足する筈もない。彼女達は必ず、あなたの心を求めるに決まっています。その時、あなたは王として何を成すのですか。
*
「自らの過ちを知っているからこそ、与えられる愛がある。これは貴女が教えてくれたことです。名前」
「…………」
「愛には様々な種類が存在する。男として唯一無二の女性に向けるもの、親が我が子に与えるもの。そして、友と語らいながら交わし合うものだってあるのでしょう。私は全てを知り得ないですが、これから知っていきたいと思っています」
「……ええ」
「今の私ならば、将来迎えるであろう妻の一人一人に、多様な愛を向けることも不可能ではないと思うのです。いいえ、必ず成してみせましょう」
「…………っ」
「愛している、名前。私の光、私のすべて」
彼女は俯き、静かに肩を震わせる。今まで全てを一人きりで背負い込んできたその身体はとても小さく、ソロモンは、彼女を抱き締めるだけで全身が燃えるように熱くなった。
やがて、ゆっくりと───彼女の指先が、縋るように背中へと触れた瞬間。ソロモンは、全力で名前をかき抱いた。
「ソロモン」
「はい」
「……私も、あなたを愛しています」
涙を流しながら笑う彼女は、やはり眩いばかりに美しかった。ソロモンは微笑みながら、その柔らかな唇に優しく触れる。
愛するひとと共に、今という時を紡ぐ喜びを、強く強く噛み締めながら。
*
初めての妻を迎えた夜、ソロモンは主なる神から啓示を受けた。 結果、手に入れたのは二つの力。この世の全てを見通す知恵と、世界そのものに変革を齎す魔術であった。
人間として初めて魔術を確立した王は、イスラエルの栄華を徐々に確固たるものとして確立していく。 外国人の妻を数多く迎えながら、交易の規模を拡大させ、神殿建築に必要な人材を国内外問わず雇い入れた。彼らに奴隷のような労働を強いることの無いよう、建築作業はゆっくりと丁寧に行われていく。
そして、いよいよ作業が終盤に差し掛かった頃。シバの女王が、ソロモンの知恵を試すべく王宮を訪れていた。
「……あら?」
見覚えのない霊鬼 達が足元を駆け抜けていくのを目にして、名前はそっと首を傾げた。
この空間は自分の住処である一方、人ならざる者の憩いの場でもある。ただし、なりそこないとはいえ神が棲う庭なのだ。並の精霊達は近付きもしないため、訪れてくれる子達の顔は自然と全員覚えていた。
名前の声を耳にした彼ら三人は、目を丸くしながら見上げてくる。兎を模した愛らしい姿に頬が緩み、しゃがみ込んで眉を下げた。
「随分と可愛らしいお客様ね。どちらからいらしたの?」
彼らが小さな身に秘めているのは、名前でも目を瞠る程に強大な魔力だった。それは当然ソロモンには劣るものの、彼らが相当な実力を持った魔術師に仕えているのだと伺える。
ジン達は、何か応えるように幾度か口を開閉させた。その様子を微笑ましく眺めていた瞬間、名前の耳が不自然な物音を捉える。 それは、まるで獣が草を踏み締めるかのような騒めきだった。背中を走る悪寒に震えつつも、名前は咄嗟にジン達を抱えて木陰に身を隠す。
もし万が一、敵からの襲撃を受けたのだとすれば、三人を巻き込んでしまう可能性が高かった。たとえ彼らが敵の僕なのだとしても、名前には充分に対抗できる策がある。目の前で無垢な命を散らすくらいならば、多少のリスクは覚悟の上だった。
息を潜めつつ、名前は素早く目線を走らせて来訪者を観察する。そこには、周辺を興味深そうに見回す一人の女性がいた。 褐色の肌に豊かな肢体。腰にまで届くふわふわの髪と、頭の上でぴょこぴょこと動く獣のような耳。知的ながら快活さも滲む愛らしい瞳、馴染み深い精霊の気配を纏わせた顔。彼女は紛れもなく、ソロモンを訪ねて来たシバの女王であった。
名前が目を丸くすると、女王は何かを察したように両耳をぴんと真上に立て、その場でたおやかに頭を垂れる。
「突然の来訪で驚かせてしまい、誠に申し訳ございません。女神様、どうか私の話を聞いては頂けませんでしょうか」
空間に響き渡る澄んだ声に、名前は感嘆した。ソロモンから話を聞いてはいたものの、こうして実際に対峙すると、彼女の王としての器の広さを痛感する。
三人を大切に抱えたまま、名前は女王のもとへ急いだ。
「謝罪する必要はありません。顔を上げてください」
女王は名前の言葉に従ったものの、その場で一気に顔面蒼白となった。
「そっ、その子達は……!」
「あら。あまりの可愛らしさに、思わず抱き上げてしまったのですが……、あなたの子だったのですね。失礼致しました」
「こちらこそ、とんだ御無礼を……! ああっ、こんな筈ではなかったのにぃ」
先程までの凛々しい雰囲気がすっかり霧散し、女王はひたすら慌てふためいている。耳と手があわあわと左右に揺れる様があまりにも可愛らしくて、思わず笑い声が漏れてしまった。
「立ち話もなんですし、ぜひこちらにいらして。ちょうど話し相手が欲しかったところなの」
「お、お気遣い頂いて申し訳ございません……。ですが私は、女神様に相対するには相応しくない身ですので」
「残念、私は女神様ではありません。名前と申します」
女王は瞳が零れ落ちそうな程に目を見開き、あどけない顔で名前を見つめた。
「……ナマエ、さま?」
どこか舌っ足らずな発音を受けて、名前は笑みを深めながら女王の手を取った。 自然と頭に浮かんだのは、幼いながらも明瞭に名前の名を紡いでみせた、ソロモンの顔だった。
此処に訪れたのは偶然なのだと、懺悔するようにシバは項垂れた。ジン達が導くままに、宮殿の庭に生えたオリーブの木に触れたことがきっかけであるのだと。
なるほど、と名前は頷く。あの木に対しては出来る限りの結界を施していたのだが、相応の魔力を有した人間ならば問題なく通過できてしまうらしい。
オリーブは名前にとって特別な存在だった。 こんな『私』を友と呼んでいた、馬鹿な羊飼いの顔が自然と頭を過ぎる。平和の象徴とされる小ぶりの花を見つめながら、ひとりで快活に笑ってみせたあの男は、ついぞ名前に弱みを見せることが無かった。
だからこそ、アビシャグという名の娘に寄り添われながら死んだと聞いた時は、ほんの少し安心したものだったのだけれど。 そろそろ、過去の記憶にも区切りを付けておかなければならないだろう。
「事情はよく分かりました。シバ、私とお友達になりましょう」
「……は、はいぃ!?」
「私、あなたのことがもっと知りたくなってしまったの。駄目かしら」
シバは両耳をぺたりと伏せて、名前の顔を窺うように視線を配った。
「確かに、私が此処へ来訪したのは偶然なのですけれど。ナマエさ……、名前にお目にかかりたいと願ったのは、私の傲慢な感情故でした」
「それは、ソロモンのことですね?」
「……はい。王が心を寄せる方を一目見ておきたいと。お会いしたところで、何が出来るわけもないと理解していたのですが」
「シバ」
「……、はい」
「ソロモンを愛してくれてありがとう」
名前とソロモンは、種族や年齢、寿命さえも圧倒的に異なる二人だ。いずれ彼を一人にしてしまうであろう名前にとって、彼と同じ立場で愛を与えてくれる人がいるというのは、何よりも喜ばしい。
シバが心底驚いたように目を瞠った隙に、名前は彼女の手を握った。柔らかくて滑らかで、女の子らしい温かな肌だ。……遥か昔に触れたあの子の手も、こんな風に優しい熱を宿していたことをよく覚えている。
「ねえシバ。もし良ければ、私とも仲良くしてもらえたら嬉しいのだけれど」
「はい、喜んで。……貴女がこんなにも素敵なひとで、本当に良かった」
互いの指を絡めながら、秘密を共有するように微笑み合う。 それから、政務により遅れて来訪したソロモンが声をかけるまで、二人は話に花を咲かせていた。
……ええ、そうです。私は、この世界に初めて冬を齎したとされる豊穣神。 後世ではもしかしたら、男運のない女神として有名かもしれないけれど。なにせ、人間や精霊の恋人を作っても全員ゼウスに奪われてしまったり、弟二人から無理やり迫られたりしていたから。
ですが私は、自ら産んだ子供達のことを心底愛していました。たとえ無理やり交わった結果であったのだとしても、彼らは皆、愛おしく可愛らしかった。 弟や他の神々は、私を女として消費するばかりでしたが、子供達だけは違った。このような私を母として慕い、無償の愛を注いでくれました。
だからこそ、賢くて可愛らしい娘───ペルセポネーが突如目の前から失踪した際には、全てをかなぐり捨てて地上を探し回りました。大地に実りを齎すという役目さえも放棄した末、いつの間にか土地は荒れ果て、……世界に冬が訪れてしまった。
その頃でした。未来からやって来た、と語る少女に出逢ったのは。……そうです、彼女の名こそが苗字名前。 名前は、人間ならば誰もが持っている筈の肉体を失い、魂が傷だらけの状態で海面を漂っていました。
最初は、彼女を見かけても無視するつもりでいたのです。私は、私の哀しみを背負いながら放浪するので精一杯だった。そんな状況で、見知らぬ少女の面倒を見ることなど出来ないでしょう。
けれど名前は、慟哭する私に黙って寄り添ってくれました。肉体なき魂は、次の瞬間消滅する運命を迎えても不思議ではないのに……、彼女は己の苦しみを主張するよりも、他者の悲しみに寄り添う道を選んだのです。
嗚呼、人間とはなんて愚かで愛おしいのだろうと、私は思いました。それからは、きっとあなたの想像通りです。ソロモン。
私は、己の肉体の一部を彼女に分け与えた。普通の人間よりも丈夫な身体を得た彼女を、娘として愛しました。 彼女が何故、未来から過去に遡れたのか。───その理由は今でも不明です。けれど、私はそれでも良かった。ただただ、名前のことが堪らなく愛おしかった。
名前に不自由な思いをさせないため、私は再び己の責務を果たすようになり、やがて地上には春が訪れました。 彼女と二人で暮らしていく中で教わったことはたくさんあります。料理のレシピや掃除の仕方、はたまた人が持つ常識や、彼らが紡いできた歴史について。
元々、私は神にしては温厚だと称されてきましたが……、その時点で完全に、人としての精神が胸の奥に生まれてしまったのでしょうね。
それからしばらくして、ようやく娘ペルセポネーの行方が判明しました。彼女は、冥府の主である弟ハデスに、強引に妻として迎え入れられていたのです。 しかし、ハデスはゼウスやポセイドンに比べて、とても優しい子でした。彼がそんな狼藉を働くのは不自然だと考えて、私は名前と暮らしていた家を飛び出してしまったのです。……ええ、私は今でもこの選択を悔いています。
冥界まで出向き、ハデスを直接問い詰めた結果、全ての裏を引いていたのはゼウスだと分かりました。予想通りの事態に歯噛みしながら、私は愛するペルセポネーを迎えに行こうとしたのです。名前と共に三人で暮らせたならば、どれだけ幸せだろうと夢見ながら。
しかし結果的に、その夢は現実にならなかった。ペルセポネーは、ハデスの隣で心底嬉しそうに顔を綻ばせていたのです。……彼女は、私といた時には見せてくれたことのないくらい、幸せな表情をしていた。
母として、私は気付かざるを得ませんでした。ペルセポネーの幸福は既に、私と共に在ることではなくなっていた。その時に出来るのは、大人しく身を引くことだけでした。
私はすぐさま、名前と共に暮らす家へと戻りました。愛する娘と暮らす我が生活は、未だ潰えてなどいないのですから。
けれどそこで……、ええ。そこで、私は───、地獄を見た。
名前は、愛らしく優しかった彼女は、……神々に傷付けられ、弄ばれた末、その肉体を消滅させていたのです。それは、普通の人間ならば、存在ごと消失していても不思議ではないほどに、……酷い状態でした。
……ええ、そう。彼女の魂の残滓はまだ空間を漂っていた。けれど、結局、私は無力で。魂の器を再生することは出来ても、彼女の魂を完全な形で呼び戻すことは出来なかった。 愚かな私は最後まで、あの子の苦しみに寄り添うことすら……、出来なかったのです。
名前を奪った犯人に、心当たりはありました。けれど当時の私は、犯人探しをする気力すら湧かなかった。ただ一つ、痛感せざるを得ない事実がありました。私に関わる人々は全員、例外なく不幸になってしまうのだと。
私が豊穣神としての役目を放棄したことで、地上では多くの命が散りました。私に優しさを与えてくれた恋人は亡くなり、愛を教えてくれた娘さえも守ることが出来なかった。ならば、ペルセポネーと共に過ごしても、同じ事態が発生するかもしれないと、そう予感してしまったのです。
そして私は、名前の魂の器を守るため、天界でも地上でもない、澄み渡った空間を探し求めました。……そう。それが、この場所です。
不幸中の幸い、とでも云えばいいのかしら。私は名前に肉体を分け与えたことで、女神としての格が落ちていました。つまり、人間と融合しても害のない存在に成り果てたということ。だからこそ、彼女の魂を私の身体に植え付けて、時が来るまで癒すことにしたのです。
その瞬間、女神デメテルは死にました。名前の存在をこの世界に刻み付けるため、彼女の名を名乗ると決めたのです。
ソロモン、覚えていますか。私は、魔術に関しては素人だと言ったことを。……ええ、その通りです。魔術を操りたいと願ったのは、名前のためです。
私から名前を奪い、未だに私を付け狙う神に対抗するために。死してなお私を支えてくれる名前を、今度こそ守るために。私はただ、力が欲しかった。
けれど、天界に縁のある者と接触すれば、きっと敵に感づかれてしまう。そこで私は、名前の気配を己が身体に纏わせることで神々の目を眩ませ、地上を放浪することにしたのです。
やがて人間の内に出現するであろう、魔術の王と出逢うために。
以前、あなたとの出逢いが必然だと言った意味が、ようやく分かったでしょう。私はあなたを利用しようとしたのです。私が求めたのは、将来的にあなたが得るであろう力でしかない。
ソロモン。あなたが私に惹かれるのも、考えれば当然のことなのです。今でも私を手助けしてくれる大地の精霊達は、魔術と縁が深い存在です。あなたの中に眠っているであろう魔術の源が、精霊の気配を滲ませた女に反応するのは自然な事象でしょう。
……ソロモン。あなたはこれから、国のために数多の妻を迎え入れます。肉体も心も捧げたあなたは、女達に何を与えるのですか。富ですか、名誉ですか、権力ですか。
いえ、いいえ。女がそれで満足する筈もない。彼女達は必ず、あなたの心を求めるに決まっています。その時、あなたは王として何を成すのですか。
*
「自らの過ちを知っているからこそ、与えられる愛がある。これは貴女が教えてくれたことです。名前」
「…………」
「愛には様々な種類が存在する。男として唯一無二の女性に向けるもの、親が我が子に与えるもの。そして、友と語らいながら交わし合うものだってあるのでしょう。私は全てを知り得ないですが、これから知っていきたいと思っています」
「……ええ」
「今の私ならば、将来迎えるであろう妻の一人一人に、多様な愛を向けることも不可能ではないと思うのです。いいえ、必ず成してみせましょう」
「…………っ」
「愛している、名前。私の光、私のすべて」
彼女は俯き、静かに肩を震わせる。今まで全てを一人きりで背負い込んできたその身体はとても小さく、ソロモンは、彼女を抱き締めるだけで全身が燃えるように熱くなった。
やがて、ゆっくりと───彼女の指先が、縋るように背中へと触れた瞬間。ソロモンは、全力で名前をかき抱いた。
「ソロモン」
「はい」
「……私も、あなたを愛しています」
涙を流しながら笑う彼女は、やはり眩いばかりに美しかった。ソロモンは微笑みながら、その柔らかな唇に優しく触れる。
愛するひとと共に、今という時を紡ぐ喜びを、強く強く噛み締めながら。
*
初めての妻を迎えた夜、ソロモンは主なる神から啓示を受けた。 結果、手に入れたのは二つの力。この世の全てを見通す知恵と、世界そのものに変革を齎す魔術であった。
人間として初めて魔術を確立した王は、イスラエルの栄華を徐々に確固たるものとして確立していく。 外国人の妻を数多く迎えながら、交易の規模を拡大させ、神殿建築に必要な人材を国内外問わず雇い入れた。彼らに奴隷のような労働を強いることの無いよう、建築作業はゆっくりと丁寧に行われていく。
そして、いよいよ作業が終盤に差し掛かった頃。シバの女王が、ソロモンの知恵を試すべく王宮を訪れていた。
「……あら?」
見覚えのない
この空間は自分の住処である一方、人ならざる者の憩いの場でもある。ただし、なりそこないとはいえ神が棲う庭なのだ。並の精霊達は近付きもしないため、訪れてくれる子達の顔は自然と全員覚えていた。
名前の声を耳にした彼ら三人は、目を丸くしながら見上げてくる。兎を模した愛らしい姿に頬が緩み、しゃがみ込んで眉を下げた。
「随分と可愛らしいお客様ね。どちらからいらしたの?」
彼らが小さな身に秘めているのは、名前でも目を瞠る程に強大な魔力だった。それは当然ソロモンには劣るものの、彼らが相当な実力を持った魔術師に仕えているのだと伺える。
ジン達は、何か応えるように幾度か口を開閉させた。その様子を微笑ましく眺めていた瞬間、名前の耳が不自然な物音を捉える。 それは、まるで獣が草を踏み締めるかのような騒めきだった。背中を走る悪寒に震えつつも、名前は咄嗟にジン達を抱えて木陰に身を隠す。
もし万が一、敵からの襲撃を受けたのだとすれば、三人を巻き込んでしまう可能性が高かった。たとえ彼らが敵の僕なのだとしても、名前には充分に対抗できる策がある。目の前で無垢な命を散らすくらいならば、多少のリスクは覚悟の上だった。
息を潜めつつ、名前は素早く目線を走らせて来訪者を観察する。そこには、周辺を興味深そうに見回す一人の女性がいた。 褐色の肌に豊かな肢体。腰にまで届くふわふわの髪と、頭の上でぴょこぴょこと動く獣のような耳。知的ながら快活さも滲む愛らしい瞳、馴染み深い精霊の気配を纏わせた顔。彼女は紛れもなく、ソロモンを訪ねて来たシバの女王であった。
名前が目を丸くすると、女王は何かを察したように両耳をぴんと真上に立て、その場でたおやかに頭を垂れる。
「突然の来訪で驚かせてしまい、誠に申し訳ございません。女神様、どうか私の話を聞いては頂けませんでしょうか」
空間に響き渡る澄んだ声に、名前は感嘆した。ソロモンから話を聞いてはいたものの、こうして実際に対峙すると、彼女の王としての器の広さを痛感する。
三人を大切に抱えたまま、名前は女王のもとへ急いだ。
「謝罪する必要はありません。顔を上げてください」
女王は名前の言葉に従ったものの、その場で一気に顔面蒼白となった。
「そっ、その子達は……!」
「あら。あまりの可愛らしさに、思わず抱き上げてしまったのですが……、あなたの子だったのですね。失礼致しました」
「こちらこそ、とんだ御無礼を……! ああっ、こんな筈ではなかったのにぃ」
先程までの凛々しい雰囲気がすっかり霧散し、女王はひたすら慌てふためいている。耳と手があわあわと左右に揺れる様があまりにも可愛らしくて、思わず笑い声が漏れてしまった。
「立ち話もなんですし、ぜひこちらにいらして。ちょうど話し相手が欲しかったところなの」
「お、お気遣い頂いて申し訳ございません……。ですが私は、女神様に相対するには相応しくない身ですので」
「残念、私は女神様ではありません。名前と申します」
女王は瞳が零れ落ちそうな程に目を見開き、あどけない顔で名前を見つめた。
「……ナマエ、さま?」
どこか舌っ足らずな発音を受けて、名前は笑みを深めながら女王の手を取った。 自然と頭に浮かんだのは、幼いながらも明瞭に名前の名を紡いでみせた、ソロモンの顔だった。
此処に訪れたのは偶然なのだと、懺悔するようにシバは項垂れた。ジン達が導くままに、宮殿の庭に生えたオリーブの木に触れたことがきっかけであるのだと。
なるほど、と名前は頷く。あの木に対しては出来る限りの結界を施していたのだが、相応の魔力を有した人間ならば問題なく通過できてしまうらしい。
オリーブは名前にとって特別な存在だった。 こんな『私』を友と呼んでいた、馬鹿な羊飼いの顔が自然と頭を過ぎる。平和の象徴とされる小ぶりの花を見つめながら、ひとりで快活に笑ってみせたあの男は、ついぞ名前に弱みを見せることが無かった。
だからこそ、アビシャグという名の娘に寄り添われながら死んだと聞いた時は、ほんの少し安心したものだったのだけれど。 そろそろ、過去の記憶にも区切りを付けておかなければならないだろう。
「事情はよく分かりました。シバ、私とお友達になりましょう」
「……は、はいぃ!?」
「私、あなたのことがもっと知りたくなってしまったの。駄目かしら」
シバは両耳をぺたりと伏せて、名前の顔を窺うように視線を配った。
「確かに、私が此処へ来訪したのは偶然なのですけれど。ナマエさ……、名前にお目にかかりたいと願ったのは、私の傲慢な感情故でした」
「それは、ソロモンのことですね?」
「……はい。王が心を寄せる方を一目見ておきたいと。お会いしたところで、何が出来るわけもないと理解していたのですが」
「シバ」
「……、はい」
「ソロモンを愛してくれてありがとう」
名前とソロモンは、種族や年齢、寿命さえも圧倒的に異なる二人だ。いずれ彼を一人にしてしまうであろう名前にとって、彼と同じ立場で愛を与えてくれる人がいるというのは、何よりも喜ばしい。
シバが心底驚いたように目を瞠った隙に、名前は彼女の手を握った。柔らかくて滑らかで、女の子らしい温かな肌だ。……遥か昔に触れたあの子の手も、こんな風に優しい熱を宿していたことをよく覚えている。
「ねえシバ。もし良ければ、私とも仲良くしてもらえたら嬉しいのだけれど」
「はい、喜んで。……貴女がこんなにも素敵なひとで、本当に良かった」
互いの指を絡めながら、秘密を共有するように微笑み合う。 それから、政務により遅れて来訪したソロモンが声をかけるまで、二人は話に花を咲かせていた。