エルサレム(5)
初めに、光と闇があった。
王が紡いだ言の葉の一つ一つが眩い光を放ち、夜闇を照らす魔術式としての形を成していく。指先が描き出した軌跡は星の輝きにも負けず、闇に包まれた大地を温かく照らした。
それは、なんと愛に溢れた光景だっただろうか。 王の瞳は、この世の奇跡や希望を全てかき集めたかのような、その美しさを映し出した。人の善性を尊び、愛を讃え、主の歓びに満ちた街を展望した。
だが同時にそれは、地上に息づく人類が直面する絶望や苦悶の叫びを、ことごとく無視する行為であった。
王として国民を愛し、家族を慈しみ、愛するひとを守るために自らの力を行使したソロモンは───こうして、ただの人間に成り果ててしまったのだ。
*
「名前さま」
「あら、ゲーティア。今日もひとりで来たの?」
小さな身体で懸命に歩み寄ってきた姿を見て、名前は頬を緩めた。ソロモンが手ずから生み出した魔術式なだけあり、ゲーティアは幼い頃のソロモンによく似ている。太陽のように明るい髪を撫でてから、羽のごとく軽い身体を抱き上げた。
この心優しい子の中に、強大な魔術を司る魔神達が眠っているのかと思うと、複雑な気持ちになるのは事実だ。しかし、それがゲーティアの責務であるというならば、名前は大人として彼を導く義務があると理解していた。
近頃、ソロモンは神殿建築の仕上げに専念している。国をあげての大事業であることは勿論、大規模な魔術を試す良い機会だということもあり、昼夜問わず連日忙しそうにしていた。
今日もゲーティアが一人で来たということは、ソロモンは母親から呼び出されているのだろう。 ソロモンの母、皇太后バト・シェバ。ゆたかさの娘という意味の名を持つ彼女は、ダビデから無理やり関係を持たされた上に夫を奪われ、現在は、自らの子供を心の拠り所にするしかなくなった女性だ。
名前が、バト・シェバに同情する気持ちを抱いているのは確かだ。しかしそれは哀れみではなく、過去の境遇に共感するからこそ、彼女にも愛を知ってほしいという思いからであった。 ソロモンを愛する全ての者に、安らぎがあるように。この願いが傲慢なものであることを理解していても、日々思わずにはいられない。
「ねえゲーティア、私に尊称は必要ないと言った筈だけれど?」
「も、申し訳ございません。ですが、王の許しを得ないことには」
「分かりました、今度ソロモンに直談判しましょう」
彼を困らせないよう会話を早々に切り上げ、しばらく二人きりの散歩を楽しんだ。 小麦や果物が豊かに実る大地を目にする度、ゲーティアは静かに目を輝かせて辺りを見回していく。
「この光景はすべて、名前さまが地上に育まれた恵みなのですね」
「そうね。同時に、私の罪の象徴でもあるけれど」
「罪?」
「そう。此処は、かつて私が摘み取った命で創り上げた、広大な檻と呼ぶべき場所。過ちを忘れたくないという自分勝手な後悔に満ちた、欺瞞の園でしかありません」
「……それでも私は、この景色を美しいものだと感じます」
「ありがとう、ゲーティア。あなたはとても優しい子ね」
無垢な心を得た魔術式は、ソロモンやダビデと同様、眩しい程に真っ直ぐな魂を持っていた。彼の行き着く先が希望に満ちた未来であるようにと、名前は毎日希うばかりだ。
以前に比べて、ソロモンが名前の元に足を運ぶ時間は減った。王として責務を果たしている結果なのだと理解しているし、定期的にシバが訪ねてくれるため寂しいと感じる機会は少ない。
けれど、何故だろうか。ソロモンの気配が遠ざかる度、胸の底をじりじりと焦がされるような、言いようのない不安に襲われて仕方ないのだ。
長年名前が一人で編み上げてきた魔術も、ようやく完成が近付いてきた。何もかもソロモンに頼ってばかりもいられないと、気合いを入れ直しながらゲーティアをそっと抱き締める。
「いつか、三人で共に見てみたいものですね。地上の美しい風景の数々を」
「はい。もしお許し頂けるならば、ぜひともお供させてください」
「許しも何もありません。あなたは、私たちの大切な子なのですから」
「……っ、ですが私は未だ、王や名前さまから恩寵を授けて頂ける程の成果を出しておりません」
「もう、仕方のない子ね。あなたは既に、私からの祝福を受けているというのに」
「え?」
彼の柔らかな額にくちびるを寄せると、ゲーティアの拙く不器用な指先が、名前の背中に恐る恐る触れた。 守るべき命がこの腕の中にあるというだけで、名前はどこまでも強くなれた。
*
濡れ羽色の柔らかな髪が名前の脚を伝い、足元までゆるりと垂れていた。こちらの膝に頭を預けながら、心地好さそうに瞳を閉じる恋人の頭を、名前は幾度も撫でていく。
二人きりの時間は、いつもこうして互いに触れ合ってばかりだ。
「ソロモン、あなたはいつも気を張り詰めすぎです」
「そうかな。君の前では、そうでもないと思うけれど」
「……子どもみたいなことを言わないで」
「今、少し照れただろう?」
「そ、そんなことはありません」
空虚で切ない顔をしていた幼い少年が、気付けばこんなにも懐の深い男性になってしまった。その変化があまりにも儚くて、まるで夜空に散った星々を見つめているような気持ちになる。
褐色の頬を柔く撫ぜれば、太陽のように明るい瞳に射抜かれた。ゆるりと微笑んだソロモンに導かれて、名前は瞳を閉じる。暗闇の中で、唇にやさしい熱が宿った。
───最初のきっかけは、彼とあの子の髪の色が似通っていると思ったから。次に気になったのは、何もない空っぽな心を持ちながら生きる姿が、過去の自分と重なったから。そして、娘には与えてあげられなかった愛や優しさを、彼ならば受け止めてくれるような気がしたから。
けれどいつの間にか、ソロモンは、名前の弱さをすべて受け入れ、豊かな愛情で精一杯包み込めんでくれる人にまで成長していた。その姿がとても眩しくて、いじらしくて、愛おしくて。名前は、彼の幸福のために全力を尽くそうと決心した。
自分が齎してしまった歪みを正すため、愛するひとにすべてを捧げようと決めたのだ。
*
十年もの歳月をかけて、神殿はエルサレムの北にある丘の上に築かれた。
王の信仰心を表したかのような純白の壁が、天にも届きそうな高さにまで聳え立っている。内装は見わたす限り純金で覆われており、ナツメヤシと花模様の浮き彫りが各部屋に細かく施されていた。
入口の正面に設置された祭壇は、契約の箱を捧げるに相応しい確かな威厳を湛えている。オリーブ材で作成された扉や壁が聖なる場所を厳かに彩り、室内に散りばめられた金の祭具を鮮やかに引き立てた。
天井を支える青銅の柱は、青く澄み渡った大空のごとく鮮やかな色で、神殿を訪れる者を迎え入れる。それは、ダビデ王の財が収められた宝物庫をも支え、静かに見守るように鎮座していた。
神殿を構築する全ての要素が、神の祝福を受けた証であることを示しているかのようだった。
先代からの悲願が果たされたとあって、その日は国民の誰もが心から喜びの声を上げた。 街の外壁から神殿にかけての道には、老若男女を問わず一万人を越す人々が詰めかけた。毎日石を積み木を切り崩していた男たちも、工事に従事する男のために一日中パンを焼き続けた女たちも、皆一様にひび割れた両手を空に掲げる。
そうして国民が思い思いに高らかな声を上げる様を、ソロモンは行進の先頭にて眺めていた。いつもは責務を果たさんと難しい顔ばかりの祭司達でさえ、今日ばかりは晴れやかな表情を見せながら自身に付き従っている。
常に玉座の傍に控えている母も、今日ばかりは群衆の一人に徹すると宣言していた。もしかしたら、母が父への妄執から解き放たれる日も近いのかと、ソロモンは密かな喜びを感じていたのだ。
国民を神殿の中に迎え入れ、扉を完全に閉め切った後。契約の箱を捧げるための儀式は、順調に進行していった。 やがて全てが終わり、ソロモンが祭壇の上で人々の顔を見渡しながら唇を開こうとした瞬間。
───突如、大規模な厄災がエルサレムを襲った。
大地を激しく揺らす振動は、脳内まで強く揺さぶられるような衝撃を人々に与える。大部分は逃げ惑う暇すら与えられず、その場で這い蹲ることしか出来なかった。祭壇の最上部で一際大きな揺れに襲われたソロモンも、膝をついて状況把握に努めていく。
そして、逸早く理解した。これが人為的な魔術によるものではなく、人ならざる者が引き起こした地震であることを。 ずっと危惧していた未来が───千里眼を用いても断片的にしか視ることの出来なかった未来が、いよいよ訪れてしまったことを。
「ソロモン!」
この場にいる筈のない恋人の声を耳にして、ソロモンは静かに息を呑む。祭壇の真下に目を向ければ、揺れをものともせずに凛と佇んだ女性と視線が重なった。石造りの階段を前にした彼女の容姿は、普段のそれとは異なり、純朴さが滲む黒髪の少女のものであった。
彼女は両掌を地面に翳し、神殿を起点として結界を張り巡らせる。すると徐々に揺れは収まり始め、困惑の声を上げる民の騒めきがその場に満ちていった。
ソロモンは彼女の鮮やかな手腕を賞賛しつつも、背筋を絶えず這い回る悪寒に内心震えていた。その正体を掴むため、階段を舞い上がった彼女に近付き、柔らかな頬に触れる。
……血だ。血の臭いだ。何よりも平和を愛する美しい恋人が、何とも似つかわしくない生々しい臭味を全身に纏わせている。 しかし、彼女の身体には傷一つ存在しない。恐らく、普段とは容貌を変えているのも、その身に負った怪我を誤魔化すためなのだろう。
名前に名前を与えた少女は、普遍的な幸福を日々享受しているような顔で、狂おしい程に幼い笑みを形づくった。
「ごめんなさい。あなたの国民を巻き込んでしまいました」
「今は構わない。君が抱える状況を知るのが先だ。全てを話してくれ、名前」
この事態はやはり彼女を付け狙う者の仕業か、と歯噛みする。 主なる神からの啓示を受けて、ソロモンは過去と未来を見通す千里眼を得た。だが唯一、名前に纏わる出来事に関しては感知することが叶わない。
───神は人を守るために存在するのだから、あなたは自分の責務を果たすことに集中なさい。そう言って、彼女は笑っていたけれど。
「ソロモン、その前に一つ確認をさせて。今日あなたは、何度地震を体感しましたか? ……先に、こちらの答えを述べましょう。二度です」
頭を殴られたような衝撃に息が止まった。一度きりだ、と声を絞り出せば、彼女は心底安堵したように頬を緩める。
名前の話によれば、地震は二回発生したという。 一度目は、ソロモンが神殿内部に足を踏み入れた直後。突如エルサレムの街が外界と切り離され、局地的に大きな揺れに襲われたのだという。 二度目は、ソロモン自身も体感したあの揺れだ。一度目と同じく、神殿周辺が一つの空間として隔離された直後に起こったと、彼女は語る。
「地震を引き起こすのは、弟にとって造作もないことです。本来ならば、イスラエルだけではなく世界中を混乱に陥れることだって出来たでしょう。……けれど、彼は私が存在した場所だけを狙った。私以外を傷付ける意思はないのだと、明確に理解しました」
「……ああ」
「だからこそ私は、この手で厄災の大元を断たねばなりません」
「君の怪我は、それを試みた結界なのだろう?」
「……、ええ。やはりあなたには隠せないのね」
彼女の肉体が、表面から少しずつ剥がれ落ちて、……その胸に生々しく血が滲んでいくのを、ソロモンは見た。 恐らく、細長い刃物が心臓の横を貫通したのだろう。目に痛い程の鮮血が、強烈な意思をもって彼女を汚しているように見えた。白く清廉な身体は、欲に塗れたおぞましい色に侵食されていく。
「……ッ」
───大地に恵みを齎した女神として、あなたの街を守るための力になりたいのです。
ソロモンは、彼女のその言葉を信頼したからこそ、魔術の使用を許可したのだ。 エルサレムを守護するべく張り巡らされた彼女の結界に触れる度、日々ソロモンは心臓が温かな感情に満ちていくのを感じていた。自分を顧みようとしない名前が、この国を居場所として認めてくれたのだと、そう信じていた。
だが実際、彼女の行動は全てソロモンのためであったのだろう。いずれ訪れる災厄を一身に受け止めるための、……自らが傷付くための、布石にしか過ぎなかったのだろう。
ソロモンは堪らず名前を強くかき抱いて、自身の胸に染み渡る生暖かな血の感触を享受した。腕の中の熱が急速に失われていく度、心臓の鼓動が徐々に弱まっていく度、全身が氷柱になっていくような無力感に襲われる。
「ソロモン。私の身体は、もう永くはないでしょう」
「……ああ」
名前はその身に、娘として慈しむ少女の魂を宿していた。彼女の体内には既に、二人分の命を支えていける程の生命力が存在しない。たとえ自分一人ならば生き永らえる術があるとしても、それを選択することは決してないだろう。
ソロモンが愛した名前という女性は、そういうひとだった。
「ゲーティアの助力によって、彼に対しては既に一矢報いました。彼らが活動できる時間も、永くはない筈です」
「我が国の内通者は、何人だった?」
「……あなたを愛する人が、ふたりほど」
「そうか。……結局は私も、父上と同じか」
瞼の裏に、自分を恨みがましく見つめる母と姉の目が過ぎった。 血縁者から全てを奪われたバト・シェバとタマルは、ソロモンに並々ならぬ感情を抱いていた。その事実を認識していても尚、家族として変わらぬ愛を向け続けた自分が愚かだったのだ。
愛と名付けられた衝動が、予想のつかない結末さえ齎すことを、ソロモンはよく理解していた筈なのに。
彼女の背を掌でなぞって、柔らかな肌に刻み付けられた傷痕を辿る。 嗚呼、彼女の心はどれほど痛かっただろうか。名前が一身に捧げてくれたその愛が、その優しさが、その笑顔が、───あまりにも愛 しくて仕方なかった。
「魔術を駆使して国に厄災を齎した女が、魔術の王に倒される。……彼女達の計画通りにいけば、イスラエルの歴史は、今後も何事もなく紡がれていくでしょう」
神殿内部に海のごとく広がっていた喧騒が、潮が満ちるように徐々に怒号へと変わっていく。ソロモンは、背筋が粟立つようなそれらの声を耳にしながらも、彼女を強く抱き締め続けた。
───悪霊使いの女はどこだ! ───国を滅ぼそうとした、あの異形の女は! ───こちらが殺される前に殺せ! ───殺せ! 殺せ! 殺せ!
「ソロモン、……酷なことを口にしているとは分かっているのですが」
「構わない。何でも言ってくれ、名前」
彼女の声が僅かに濡れていく。肩口に寄せられた額の感触に、心臓がきしきしと痛んだ。
「もしも、この命を落とすことになるならば、私はあなたの手にかかりたい」
「……貴女は本当に、ずるいひとだ」
「ええ。だからソロモン。私の心はすべて、あなたに預けます」
彼女の両手が、そっとソロモンの胸に添えられた。出逢った時よりもずっと輝いて見える笑顔が、ささやかに手向けられる。
「私が必要な時は、いつでも名前を呼んで。寂しかったら夜空を見上げて、あの星を見つけて」
今後は、寂しいと口にしても、二度と名前の笑顔を目にすることは出来ない。けれど、それこそが自分に対する罰なのだろう。
ソロモンは微笑みながら、彼女と重ねた過去を想った。王として家族に注いだ愛情を省みて、彼女から受けた優しさを受け止めて、一生向き合うことのなかった父の弱さにようやく気付いて。
…………やがて淡々と、名前の腹を貫いた。
魔術式が見届けた彼らの結末は、後世にまで広く語り継がれることとなる。悪霊使いの女を打倒したソロモン王は、三日三晩の死闘により、濡れ羽色の美しい髪が白く変化したという。
人類史は、ふたりが胸の内に抱いていた感情さえも、無慈悲に踏み躙るばかりであったのだ。
* ** ***
「……好きです」
それは彼女にしては珍しく、ひどくか細い声だった。
「私は、ロマニのことが好きです」
耳元まで紅く色付いた顔が、こちらを伺うように強張った表情を見せている。緊張したようにきゅっと引き結ばれた唇が愛らしくて、呼吸をまるごと盗まれたような気持ちになった。
カルデアで初めて彼女を一目見た瞬間、ロマニは、名前が名前のままであることを理解した。
たとえ全ての記憶を失っていたとしても、あの頃とはまるで肉体の構造が異なるのだとしても、魂の一部が欠けていたのだとしても。彼女は彼女として、昔と変わらない笑顔を携えながらロマニの前に現れた。愛するひとを手にかけた過去を持つ、罪深い男の元に現れてしまった。
彼女がどのように三千年の時を歩んだのか、ついに詳細を語ることはなかった。けれど、その目的は容易に想像がついた。いつか生まれるであろう娘を守るために、全てを掛ける覚悟でカルデアに乗り込んだのだろうと。
彼女がそんな強い女性であることを、ロマニは痛いほどに知っていた。
だからこそ、苗字名前が普通の女の子として生きられる可能性を、自分だけは潰してはならないと考えた。 愚かにもロマニ・アーキマンは、ただ一人の男として再び彼女に恋をしてしまったから。ソロモンであった頃の感情など関係なく、ロマニ自身が彼女の幸福を願ってしまったから、……彼女からの告白を断った。
その後、かの天才から馬鹿だ阿呆だと散々発破をかけられて、ようやく考えを改めることになったのだが。これが今では笑い話になっているなんて、人間は変わるものだと驚くばかりだ。
グランドオーダーが始まってから、ロマニはずっと考えていたことがある。
もしもオルレアンにおいて、ジャンヌ・ダルクが真名看破のスキルを失っていなければ。 もしもローマにおいて、女神ステンノと彼女が言葉を交わしていたならば。 もしもお月見において、アルテミスが彼女を連れ去っていなければ。 もしもオケアノスにおいて、ダビデが彼女の仇を討つことがなかったのならば。
名前は、誰もが当たり前に享受できる筈の、ありふれた幸せを手に入れることが出来たのではないだろうかと。
けれど、後ろ向きになる度に実感した。もし何度生まれ変わったとしても、自分はまた懲りずに彼女に恋をするだろう。 ならば今度こそ、最後の時も笑って見送ることができるように、ふたりで寄り添いあって歩んでいきたい。
名前にプロポーズをしたのは、そんな覚悟の表れだった。
結局のところ、何が最前の選択であったのかロマニは今でも分からないままだ。きっと一生かかっても、人生における完璧な正解を見つけ出すことは叶わないのだろう。だが、それが生きるということだ。どんなに迷っても、挫けても、すべてを受け入れて前に進んでいくしかない。
カルデアという地が育んでくれた全ての出逢いが、ロマニにそう教えてくれた。だから、もう何も躊躇うことはない。
───ボク は、名前・アーキマンにすべてを捧げよう。
王が紡いだ言の葉の一つ一つが眩い光を放ち、夜闇を照らす魔術式としての形を成していく。指先が描き出した軌跡は星の輝きにも負けず、闇に包まれた大地を温かく照らした。
それは、なんと愛に溢れた光景だっただろうか。 王の瞳は、この世の奇跡や希望を全てかき集めたかのような、その美しさを映し出した。人の善性を尊び、愛を讃え、主の歓びに満ちた街を展望した。
だが同時にそれは、地上に息づく人類が直面する絶望や苦悶の叫びを、ことごとく無視する行為であった。
王として国民を愛し、家族を慈しみ、愛するひとを守るために自らの力を行使したソロモンは───こうして、ただの人間に成り果ててしまったのだ。
*
「名前さま」
「あら、ゲーティア。今日もひとりで来たの?」
小さな身体で懸命に歩み寄ってきた姿を見て、名前は頬を緩めた。ソロモンが手ずから生み出した魔術式なだけあり、ゲーティアは幼い頃のソロモンによく似ている。太陽のように明るい髪を撫でてから、羽のごとく軽い身体を抱き上げた。
この心優しい子の中に、強大な魔術を司る魔神達が眠っているのかと思うと、複雑な気持ちになるのは事実だ。しかし、それがゲーティアの責務であるというならば、名前は大人として彼を導く義務があると理解していた。
近頃、ソロモンは神殿建築の仕上げに専念している。国をあげての大事業であることは勿論、大規模な魔術を試す良い機会だということもあり、昼夜問わず連日忙しそうにしていた。
今日もゲーティアが一人で来たということは、ソロモンは母親から呼び出されているのだろう。 ソロモンの母、皇太后バト・シェバ。ゆたかさの娘という意味の名を持つ彼女は、ダビデから無理やり関係を持たされた上に夫を奪われ、現在は、自らの子供を心の拠り所にするしかなくなった女性だ。
名前が、バト・シェバに同情する気持ちを抱いているのは確かだ。しかしそれは哀れみではなく、過去の境遇に共感するからこそ、彼女にも愛を知ってほしいという思いからであった。 ソロモンを愛する全ての者に、安らぎがあるように。この願いが傲慢なものであることを理解していても、日々思わずにはいられない。
「ねえゲーティア、私に尊称は必要ないと言った筈だけれど?」
「も、申し訳ございません。ですが、王の許しを得ないことには」
「分かりました、今度ソロモンに直談判しましょう」
彼を困らせないよう会話を早々に切り上げ、しばらく二人きりの散歩を楽しんだ。 小麦や果物が豊かに実る大地を目にする度、ゲーティアは静かに目を輝かせて辺りを見回していく。
「この光景はすべて、名前さまが地上に育まれた恵みなのですね」
「そうね。同時に、私の罪の象徴でもあるけれど」
「罪?」
「そう。此処は、かつて私が摘み取った命で創り上げた、広大な檻と呼ぶべき場所。過ちを忘れたくないという自分勝手な後悔に満ちた、欺瞞の園でしかありません」
「……それでも私は、この景色を美しいものだと感じます」
「ありがとう、ゲーティア。あなたはとても優しい子ね」
無垢な心を得た魔術式は、ソロモンやダビデと同様、眩しい程に真っ直ぐな魂を持っていた。彼の行き着く先が希望に満ちた未来であるようにと、名前は毎日希うばかりだ。
以前に比べて、ソロモンが名前の元に足を運ぶ時間は減った。王として責務を果たしている結果なのだと理解しているし、定期的にシバが訪ねてくれるため寂しいと感じる機会は少ない。
けれど、何故だろうか。ソロモンの気配が遠ざかる度、胸の底をじりじりと焦がされるような、言いようのない不安に襲われて仕方ないのだ。
長年名前が一人で編み上げてきた魔術も、ようやく完成が近付いてきた。何もかもソロモンに頼ってばかりもいられないと、気合いを入れ直しながらゲーティアをそっと抱き締める。
「いつか、三人で共に見てみたいものですね。地上の美しい風景の数々を」
「はい。もしお許し頂けるならば、ぜひともお供させてください」
「許しも何もありません。あなたは、私たちの大切な子なのですから」
「……っ、ですが私は未だ、王や名前さまから恩寵を授けて頂ける程の成果を出しておりません」
「もう、仕方のない子ね。あなたは既に、私からの祝福を受けているというのに」
「え?」
彼の柔らかな額にくちびるを寄せると、ゲーティアの拙く不器用な指先が、名前の背中に恐る恐る触れた。 守るべき命がこの腕の中にあるというだけで、名前はどこまでも強くなれた。
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濡れ羽色の柔らかな髪が名前の脚を伝い、足元までゆるりと垂れていた。こちらの膝に頭を預けながら、心地好さそうに瞳を閉じる恋人の頭を、名前は幾度も撫でていく。
二人きりの時間は、いつもこうして互いに触れ合ってばかりだ。
「ソロモン、あなたはいつも気を張り詰めすぎです」
「そうかな。君の前では、そうでもないと思うけれど」
「……子どもみたいなことを言わないで」
「今、少し照れただろう?」
「そ、そんなことはありません」
空虚で切ない顔をしていた幼い少年が、気付けばこんなにも懐の深い男性になってしまった。その変化があまりにも儚くて、まるで夜空に散った星々を見つめているような気持ちになる。
褐色の頬を柔く撫ぜれば、太陽のように明るい瞳に射抜かれた。ゆるりと微笑んだソロモンに導かれて、名前は瞳を閉じる。暗闇の中で、唇にやさしい熱が宿った。
───最初のきっかけは、彼とあの子の髪の色が似通っていると思ったから。次に気になったのは、何もない空っぽな心を持ちながら生きる姿が、過去の自分と重なったから。そして、娘には与えてあげられなかった愛や優しさを、彼ならば受け止めてくれるような気がしたから。
けれどいつの間にか、ソロモンは、名前の弱さをすべて受け入れ、豊かな愛情で精一杯包み込めんでくれる人にまで成長していた。その姿がとても眩しくて、いじらしくて、愛おしくて。名前は、彼の幸福のために全力を尽くそうと決心した。
自分が齎してしまった歪みを正すため、愛するひとにすべてを捧げようと決めたのだ。
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十年もの歳月をかけて、神殿はエルサレムの北にある丘の上に築かれた。
王の信仰心を表したかのような純白の壁が、天にも届きそうな高さにまで聳え立っている。内装は見わたす限り純金で覆われており、ナツメヤシと花模様の浮き彫りが各部屋に細かく施されていた。
入口の正面に設置された祭壇は、契約の箱を捧げるに相応しい確かな威厳を湛えている。オリーブ材で作成された扉や壁が聖なる場所を厳かに彩り、室内に散りばめられた金の祭具を鮮やかに引き立てた。
天井を支える青銅の柱は、青く澄み渡った大空のごとく鮮やかな色で、神殿を訪れる者を迎え入れる。それは、ダビデ王の財が収められた宝物庫をも支え、静かに見守るように鎮座していた。
神殿を構築する全ての要素が、神の祝福を受けた証であることを示しているかのようだった。
先代からの悲願が果たされたとあって、その日は国民の誰もが心から喜びの声を上げた。 街の外壁から神殿にかけての道には、老若男女を問わず一万人を越す人々が詰めかけた。毎日石を積み木を切り崩していた男たちも、工事に従事する男のために一日中パンを焼き続けた女たちも、皆一様にひび割れた両手を空に掲げる。
そうして国民が思い思いに高らかな声を上げる様を、ソロモンは行進の先頭にて眺めていた。いつもは責務を果たさんと難しい顔ばかりの祭司達でさえ、今日ばかりは晴れやかな表情を見せながら自身に付き従っている。
常に玉座の傍に控えている母も、今日ばかりは群衆の一人に徹すると宣言していた。もしかしたら、母が父への妄執から解き放たれる日も近いのかと、ソロモンは密かな喜びを感じていたのだ。
国民を神殿の中に迎え入れ、扉を完全に閉め切った後。契約の箱を捧げるための儀式は、順調に進行していった。 やがて全てが終わり、ソロモンが祭壇の上で人々の顔を見渡しながら唇を開こうとした瞬間。
───突如、大規模な厄災がエルサレムを襲った。
大地を激しく揺らす振動は、脳内まで強く揺さぶられるような衝撃を人々に与える。大部分は逃げ惑う暇すら与えられず、その場で這い蹲ることしか出来なかった。祭壇の最上部で一際大きな揺れに襲われたソロモンも、膝をついて状況把握に努めていく。
そして、逸早く理解した。これが人為的な魔術によるものではなく、人ならざる者が引き起こした地震であることを。 ずっと危惧していた未来が───千里眼を用いても断片的にしか視ることの出来なかった未来が、いよいよ訪れてしまったことを。
「ソロモン!」
この場にいる筈のない恋人の声を耳にして、ソロモンは静かに息を呑む。祭壇の真下に目を向ければ、揺れをものともせずに凛と佇んだ女性と視線が重なった。石造りの階段を前にした彼女の容姿は、普段のそれとは異なり、純朴さが滲む黒髪の少女のものであった。
彼女は両掌を地面に翳し、神殿を起点として結界を張り巡らせる。すると徐々に揺れは収まり始め、困惑の声を上げる民の騒めきがその場に満ちていった。
ソロモンは彼女の鮮やかな手腕を賞賛しつつも、背筋を絶えず這い回る悪寒に内心震えていた。その正体を掴むため、階段を舞い上がった彼女に近付き、柔らかな頬に触れる。
……血だ。血の臭いだ。何よりも平和を愛する美しい恋人が、何とも似つかわしくない生々しい臭味を全身に纏わせている。 しかし、彼女の身体には傷一つ存在しない。恐らく、普段とは容貌を変えているのも、その身に負った怪我を誤魔化すためなのだろう。
名前に名前を与えた少女は、普遍的な幸福を日々享受しているような顔で、狂おしい程に幼い笑みを形づくった。
「ごめんなさい。あなたの国民を巻き込んでしまいました」
「今は構わない。君が抱える状況を知るのが先だ。全てを話してくれ、名前」
この事態はやはり彼女を付け狙う者の仕業か、と歯噛みする。 主なる神からの啓示を受けて、ソロモンは過去と未来を見通す千里眼を得た。だが唯一、名前に纏わる出来事に関しては感知することが叶わない。
───神は人を守るために存在するのだから、あなたは自分の責務を果たすことに集中なさい。そう言って、彼女は笑っていたけれど。
「ソロモン、その前に一つ確認をさせて。今日あなたは、何度地震を体感しましたか? ……先に、こちらの答えを述べましょう。二度です」
頭を殴られたような衝撃に息が止まった。一度きりだ、と声を絞り出せば、彼女は心底安堵したように頬を緩める。
名前の話によれば、地震は二回発生したという。 一度目は、ソロモンが神殿内部に足を踏み入れた直後。突如エルサレムの街が外界と切り離され、局地的に大きな揺れに襲われたのだという。 二度目は、ソロモン自身も体感したあの揺れだ。一度目と同じく、神殿周辺が一つの空間として隔離された直後に起こったと、彼女は語る。
「地震を引き起こすのは、弟にとって造作もないことです。本来ならば、イスラエルだけではなく世界中を混乱に陥れることだって出来たでしょう。……けれど、彼は私が存在した場所だけを狙った。私以外を傷付ける意思はないのだと、明確に理解しました」
「……ああ」
「だからこそ私は、この手で厄災の大元を断たねばなりません」
「君の怪我は、それを試みた結界なのだろう?」
「……、ええ。やはりあなたには隠せないのね」
彼女の肉体が、表面から少しずつ剥がれ落ちて、……その胸に生々しく血が滲んでいくのを、ソロモンは見た。 恐らく、細長い刃物が心臓の横を貫通したのだろう。目に痛い程の鮮血が、強烈な意思をもって彼女を汚しているように見えた。白く清廉な身体は、欲に塗れたおぞましい色に侵食されていく。
「……ッ」
───大地に恵みを齎した女神として、あなたの街を守るための力になりたいのです。
ソロモンは、彼女のその言葉を信頼したからこそ、魔術の使用を許可したのだ。 エルサレムを守護するべく張り巡らされた彼女の結界に触れる度、日々ソロモンは心臓が温かな感情に満ちていくのを感じていた。自分を顧みようとしない名前が、この国を居場所として認めてくれたのだと、そう信じていた。
だが実際、彼女の行動は全てソロモンのためであったのだろう。いずれ訪れる災厄を一身に受け止めるための、……自らが傷付くための、布石にしか過ぎなかったのだろう。
ソロモンは堪らず名前を強くかき抱いて、自身の胸に染み渡る生暖かな血の感触を享受した。腕の中の熱が急速に失われていく度、心臓の鼓動が徐々に弱まっていく度、全身が氷柱になっていくような無力感に襲われる。
「ソロモン。私の身体は、もう永くはないでしょう」
「……ああ」
名前はその身に、娘として慈しむ少女の魂を宿していた。彼女の体内には既に、二人分の命を支えていける程の生命力が存在しない。たとえ自分一人ならば生き永らえる術があるとしても、それを選択することは決してないだろう。
ソロモンが愛した名前という女性は、そういうひとだった。
「ゲーティアの助力によって、彼に対しては既に一矢報いました。彼らが活動できる時間も、永くはない筈です」
「我が国の内通者は、何人だった?」
「……あなたを愛する人が、ふたりほど」
「そうか。……結局は私も、父上と同じか」
瞼の裏に、自分を恨みがましく見つめる母と姉の目が過ぎった。 血縁者から全てを奪われたバト・シェバとタマルは、ソロモンに並々ならぬ感情を抱いていた。その事実を認識していても尚、家族として変わらぬ愛を向け続けた自分が愚かだったのだ。
愛と名付けられた衝動が、予想のつかない結末さえ齎すことを、ソロモンはよく理解していた筈なのに。
彼女の背を掌でなぞって、柔らかな肌に刻み付けられた傷痕を辿る。 嗚呼、彼女の心はどれほど痛かっただろうか。名前が一身に捧げてくれたその愛が、その優しさが、その笑顔が、───あまりにも
「魔術を駆使して国に厄災を齎した女が、魔術の王に倒される。……彼女達の計画通りにいけば、イスラエルの歴史は、今後も何事もなく紡がれていくでしょう」
神殿内部に海のごとく広がっていた喧騒が、潮が満ちるように徐々に怒号へと変わっていく。ソロモンは、背筋が粟立つようなそれらの声を耳にしながらも、彼女を強く抱き締め続けた。
───悪霊使いの女はどこだ! ───国を滅ぼそうとした、あの異形の女は! ───こちらが殺される前に殺せ! ───殺せ! 殺せ! 殺せ!
「ソロモン、……酷なことを口にしているとは分かっているのですが」
「構わない。何でも言ってくれ、名前」
彼女の声が僅かに濡れていく。肩口に寄せられた額の感触に、心臓がきしきしと痛んだ。
「もしも、この命を落とすことになるならば、私はあなたの手にかかりたい」
「……貴女は本当に、ずるいひとだ」
「ええ。だからソロモン。私の心はすべて、あなたに預けます」
彼女の両手が、そっとソロモンの胸に添えられた。出逢った時よりもずっと輝いて見える笑顔が、ささやかに手向けられる。
「私が必要な時は、いつでも名前を呼んで。寂しかったら夜空を見上げて、あの星を見つけて」
今後は、寂しいと口にしても、二度と名前の笑顔を目にすることは出来ない。けれど、それこそが自分に対する罰なのだろう。
ソロモンは微笑みながら、彼女と重ねた過去を想った。王として家族に注いだ愛情を省みて、彼女から受けた優しさを受け止めて、一生向き合うことのなかった父の弱さにようやく気付いて。
…………やがて淡々と、名前の腹を貫いた。
魔術式が見届けた彼らの結末は、後世にまで広く語り継がれることとなる。悪霊使いの女を打倒したソロモン王は、三日三晩の死闘により、濡れ羽色の美しい髪が白く変化したという。
人類史は、ふたりが胸の内に抱いていた感情さえも、無慈悲に踏み躙るばかりであったのだ。
* ** ***
「……好きです」
それは彼女にしては珍しく、ひどくか細い声だった。
「私は、ロマニのことが好きです」
耳元まで紅く色付いた顔が、こちらを伺うように強張った表情を見せている。緊張したようにきゅっと引き結ばれた唇が愛らしくて、呼吸をまるごと盗まれたような気持ちになった。
カルデアで初めて彼女を一目見た瞬間、ロマニは、名前が名前のままであることを理解した。
たとえ全ての記憶を失っていたとしても、あの頃とはまるで肉体の構造が異なるのだとしても、魂の一部が欠けていたのだとしても。彼女は彼女として、昔と変わらない笑顔を携えながらロマニの前に現れた。愛するひとを手にかけた過去を持つ、罪深い男の元に現れてしまった。
彼女がどのように三千年の時を歩んだのか、ついに詳細を語ることはなかった。けれど、その目的は容易に想像がついた。いつか生まれるであろう娘を守るために、全てを掛ける覚悟でカルデアに乗り込んだのだろうと。
彼女がそんな強い女性であることを、ロマニは痛いほどに知っていた。
だからこそ、苗字名前が普通の女の子として生きられる可能性を、自分だけは潰してはならないと考えた。 愚かにもロマニ・アーキマンは、ただ一人の男として再び彼女に恋をしてしまったから。ソロモンであった頃の感情など関係なく、ロマニ自身が彼女の幸福を願ってしまったから、……彼女からの告白を断った。
その後、かの天才から馬鹿だ阿呆だと散々発破をかけられて、ようやく考えを改めることになったのだが。これが今では笑い話になっているなんて、人間は変わるものだと驚くばかりだ。
グランドオーダーが始まってから、ロマニはずっと考えていたことがある。
もしもオルレアンにおいて、ジャンヌ・ダルクが真名看破のスキルを失っていなければ。 もしもローマにおいて、女神ステンノと彼女が言葉を交わしていたならば。 もしもお月見において、アルテミスが彼女を連れ去っていなければ。 もしもオケアノスにおいて、ダビデが彼女の仇を討つことがなかったのならば。
名前は、誰もが当たり前に享受できる筈の、ありふれた幸せを手に入れることが出来たのではないだろうかと。
けれど、後ろ向きになる度に実感した。もし何度生まれ変わったとしても、自分はまた懲りずに彼女に恋をするだろう。 ならば今度こそ、最後の時も笑って見送ることができるように、ふたりで寄り添いあって歩んでいきたい。
名前にプロポーズをしたのは、そんな覚悟の表れだった。
結局のところ、何が最前の選択であったのかロマニは今でも分からないままだ。きっと一生かかっても、人生における完璧な正解を見つけ出すことは叶わないのだろう。だが、それが生きるということだ。どんなに迷っても、挫けても、すべてを受け入れて前に進んでいくしかない。
カルデアという地が育んでくれた全ての出逢いが、ロマニにそう教えてくれた。だから、もう何も躊躇うことはない。
───