05
夕飯に間に合うようにかけたアラームにハッと目が覚めると、ここ最近ずっと重かった頭が少しだけスッキリしていた。
知らない土地で、自分のことを知っている人は誰もいない。
私服から浴衣に着替え、丹前を羽織ると急に旅行感が出て心がうきうきする。
部屋食だし、だれにも邪魔されずにゆっくりと食べられるのがありがたい。
出された食事は見た目も美味しそうでお腹がぐーと大きな音を立てる。
あまりに大きな音が鳴ったので、仲居さんもびっくりしたのか目がバッチリと合った。
「お、お腹空いてて…」
そういえばお昼も食欲がわかなくて食べなかったんだった。
「ふふ、お米、先に持ってきましょうか?」
「いいんですか!?」
「大丈夫ですよ。すぐご用意しますね」
そう言って下がったのも束の間、本当にすぐに艶々の白米が茶碗によそわれてきたのは驚いた。
「若い方だとお肉料理と一緒に召し上がりたいって方も多いんですよ」
「他の料理もご飯に合いそうですもんねぇ…」
「ご飯、おかわりあるんで足りなかったらお声かけてくださいね」
仲居さんが下がるのを待ち、目の前の料理とメニュー表を見比べながら箸を口に運ぶ。
あ、美味しい。
関西の味付けとは異なる少し濃いめの味付け。
でも、決して嫌な感じはしないその味に、気づいたら箸が止まらなかった。
時折料理を運んでくる仲居さんに「お口に合いましたか?」なんて一応聞かれたけれど、答えは聞かなくてもわかると言わんばかりに頬張っている私を見て、お互い顔を見合わせて笑い合った。
ご飯を食べ終えて入ったお風呂も身体が芯から暖まった。
息を吸うと香る硫黄の臭いは温泉らしさを感じ、どこか懐かしい気持ちになる。
「気持ちいいなぁ」
心の底からでた呟きは、一緒に浸かっていた人の耳にも届いたようで「温まりますよねえ」と優しげな声で返された。
「温泉、安らぎますね」
「ホッとしますよね」
えへへ、と互いに笑い合うと、どちらからともなく話せる距離へと近づいた。
「お一人ですか?」
「ちょっと現実逃避に」
「あら、私もなんですよ」
私よりも年配のその女性は悪戯っ子のような顔で舌をぺろりと出し笑った。
「主人と喧嘩して、つい。お嬢さんは?」
「結婚直前でマリッジブルー…なんですかね?なんかぐるぐるしちゃって逃げてきちゃったんです」
「あら、ご結婚されるの?」
「その予定だったんですけど…逃げちゃったんでどうなるんですかねぇ…」
「…ご結婚相手のことが嫌になっちゃったの?」
「んー…自分に自信が持てなくて…。治さん…あ、婚約者の名前なんですけど、優しくて格好良くって、みんなからも好かれてて…」
「不安になっちゃった?」
「隣にいるの私でいいのかなって」
「時代は変わっても思うことはみんな同じなのねえ」
ケラケラと笑う女性は、決して私のことを馬鹿にするといった風ではなく、自嘲を含んだような声で「私も主人と結婚するとき逃げたの」とケロリと白状した。
「えっ、本当ですか?」
「若かったのよね、主人が私と結婚するのが信じられなくて。だって、その時の主人、とっても格好よかったのよ?」
「逃げて、どうしたんですか?」
「すぐわかるところに逃げたのに3日くらい経っても追いかけてこないもんだから怒って帰ったのよ」
「それで…?」
「あの人ったら、怒って帰ってきた私を見て『覚悟はできたかい?』なんて言うのよ」
ぷりぷりと怒っていたはずなのに、その言葉を口にした瞬間、少女のような顔をした女性に、思わず息を呑んだ。
まるで、恋をしているみたいな愛おしいと言わんばかりの表情に、見惚れるしかなかった。
「やだ、こんな昔話。ごめんなさいね」
「いえ、あの…愛してるんですね、ご主人のこと」
「そうね、だって喧嘩してこうして一人ででかけても、つい思い出しちゃうのよ」
「私も、そういう風に思ってもらえるんでしょうか」
「さぁ…?相手がどう思ってるかは、帰ってみたらきっとわかるわ」
「別れようって言われるかも…」
「不安なのは、貴方が相手を好きだからよ。その不安、ちゃんとぶつけないとダメよ。ぶつけて、受け止めてもらいなさい」
「私…」
「直ぐじゃなくたっていいじゃない。ここはいいところよ。観光して、スッキリしたら帰ればいいわ」
その言葉がストンと心に落ちた気がした。
「そうですね、うん…そうします!」
「あら、いい顔つき。私もスッキリしたら帰ろうかしら」
もうのぼせるから私はこれで上がるわね、と手をひらりと振った彼女にありがとうございますとお礼を言い、再度湯の中へと身体を浸けた。
来た時よりも随分と心が凪いだ気がする。
顔にかかる冷たい風もどこか心地よくて、自然と目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、告白の時、私のことを好きだと一生懸命に伝えてくれた治さんの顔だった。
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