岩ちゃんに心配される
※及川短編、エーデルワイスのヒロインです
徹から卒業後はアルゼンチンに行くと言われた日、私の日常がガラガラと音を立てて壊れた気がした。
三者三様の進路なのは言われる前からわかっていたはずなのに、どうしても私の中で徹や一と一緒にいない未来というのが描けなかった。
だって、私は徹のことが好きで、徹も私のことが好きでこれからもずっと付き合っていくものだと信じて疑わなかったし、一がアスレティックトレーナーを目指すのは徹のサポートをするものだと思っていたから。
でも蓋を開ければ、そんな幻想を抱いていたのは私だけで、徹は徹の、一は一の夢を追いかけていて、最終的にまたみんなで一緒にいられる未来なんて欠片もなかった。
それでも、私と徹だけは一緒にいられるのではないかと思ったけれど、僅かな希望すらも徹の「もう日本には帰ってこないかもしれない」という一言に打ち砕かれた。
長年一緒にいたからわかる。
私が徹のことを好きでいるのをやめてくれ、そう言っているのだ。
だから私が返す言葉はたった一つだけ。
「そっか、向こうでも頑張ってね」
徹のこと、これからもずっと好きだよ。
言えなかった言葉は、消えずに今も胸の中に残っている。
**
それから、徹が旅立つまでは恋愛感情なんてなかったことにして、本当に仲の良いただの友だちに戻ったかのように接した。
松川とか花巻にはすごく心配されたけど、自分でも不思議なくらい何の感情もわかなかった。
でも、ずっと辛かったんだ。
それがわかったのは徹が旅立った後、一に「俺じゃ代わりになんねェかもしれないけど、あいつに言いたいことあんなら言えよ。聞くから」とギュッと抱きしめられた時だった。
大丈夫だと思っていたのに、目からは大粒の涙が溢れてきて、胸がギューっと締め付けられたように息ができなくなった。
「好き、だったのに、ずっと、一緒にいたかったのに、なんで…どうして別れなきゃいけなかったの…!」
諦めろなんて、言わないでほしかった。
でも、徹は向こうでずっと生活するから、日本を去るつもりがない私と付き合い続けるのは無理があって、どこかで別れの道を歩むのは必然だった。
それでも、本当に好きだったんだ。
初恋だった。
付き合えた時、本当に天にでも昇るんじゃないかってくらい嬉しかった。
こんなに好きになるのは、後にも先にも徹だけだ。
「さよならなんて、したくなかった…!」
私が泣いている間、一は何も言わないでずっと背中を摩ってくれて、その暖かさに段々と心が落ち着いていった。
涙もある程度止まり、我にかえったら、一に抱きしめられているのが少し恥ずかしくて、照れ隠しに徹が乗った飛行機が飛んでいった空を見上げて「忘れられるかな」と呟いた。
「大事な思い出なんだから忘れることはねえだろ」
「え、でも…」
「お前があいつのこと思い出にできるまで付き合ってやるから安心しとけ。及川に負けない彼氏捕まえて次会った時に悔しがらせてやろうぜ」
「あは、そっか…そうだよね」
「おう」
徹と付き合っていたことはもう過去で、私には未来があるんだ。
一の一言は、沈んだ私の心を少しだけ軽くしてくれた。
**
そんな失恋直後の私を気遣ってくれてか、大学入学後の最初の一年は本当に過保護なくらい世話を焼かれた。
ご飯は食べているか、ちゃんと睡眠はとっているか、変な男にはついていくな等々。
一は私のお母さんなの?と言いたくなるようなくらい酷かった。
それでも、私を心配してくれてのことなのは明白だったし、一が隣にいてくれるのは傷ついた私にはひどく心地がよくて、大学生活はその優しさに甘えてずっと一と一緒にいた。
中高生の時のような激しさはないけれど、じんわりと暖かい気持ちになる、そんな恋を自覚したのは大学の卒業を間近に控え、一が「アメリカに行くんだ」と私に告げた時だった。
かつて同じことを私に言った彼の影が重なった。
あの時と違うのは、もし断られたとしてもついていこう、私がそう強く思ったことだと思う。
ああ、私はいつの間にか一のことがこんなにも好きになっていたのか。
「もう、俺がいなくても大丈夫だよな」
寂しそうに笑った一は、一体何を思っていたのだろうか。
**
元々聞いていた情報もあり、一がどこに行くのかも知っていたし、私の生活の基盤を整えることだけ考えれば何の問題もなかった。
と、言ってもそれがなかなかに大変で結局アメリカに行くまで2年ほどかかってしまったのだけれど。
それでも、一がいてくれたから私は立ち直れたし、その真っ直ぐさは冷たく凍りついた私の心を、春の日差しのように暖かく解かしてくれた。
今回ばかりは諦めろと言われたとしても諦められなかった。
「一、私、一のことが好き」
久しぶりに会った一は、私の言葉に目を丸くして怪訝そうな顔をした。
「…名前は及川のことが好きなんじゃねェの?」
「とっくに吹っ切れてる。私が今好きなのは一、貴方だよ。だからこうしてここまで追いかけてきたの」
振られるかもな、なんて思ったのも束の間、一の顔はみるみる赤く染まり、恥ずかしそうに外方を向いた。
「…名前が及川のこと好きだって気づいた時、この気持ちに蓋をしようって思ったんだけどな」
一はそう言うと、逸らした目線を戻し、真っ直ぐな瞳で私のことを見つめた。
「ずっと、ずっと好きだった。名前のこれからの人生、俺と歩んでほしい」
「もう、離れないでね」
「大丈夫だ、もう離さない」
一は、慣れない手つきで私の頬に手を当て、触れるだけのキスを私の唇へと落としてくれた。
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