紫苑
夜の風が草木の香りを纏い始めた初夏、ベランダでぼんやりと空を眺めていたら、ひどく懐かしい匂いが鼻を掠めた。
もう過去のことだと割り切ったつもりでいたが、香りを嗅いだだけで最も簡単に蘇る思い出に胸がギュッと締め付けられる。
**
私が彼に会ったのは、まだランドセルも汚れを知らないピカピカの小学校一年生の時。
不幸にも同じ学区に幼稚園の友だちはおらず、新しい環境に慣れなくて泣いてばかりの私に優しくしてくれたのが当時四年生の一静くんだった。
私が朝マンションのエントランスで行きたくないと駄々を捏ねているのを見て、私と同じ目線に高さを合わせ「同じ学校の子だよね?俺もね、最初は行くの嫌だったよ」と声をかけてくれた。
「…今は?」
「今?友だちもできたし、勉強はちょっと難しいけど楽しいよ」
「本当?お友だちできる?」
「できるよ。ねえ、名前はなんていうの?」
「…名前」
「名前ちゃん、俺とお友だちになってくれる?」
「…うん!!お兄ちゃんの名前は?」
「一静。松川一静だよ」
「一静くん…!」
「さ、学校行こうか。急がないと遅刻しちゃうよ」
「うん!」
──小さな私にとって、初めての恋だった。
**
「え、一静くんは青城に行くの?」
「うん。バレー部強いし、偏差値もちょうどいいから」
てっきり近くの学校に通うのだと思っていた私には、青天の霹靂だった。
青葉城西は決して遠くはないが、ここからだと電車に乗らないと通えない。
かつバレー部に入るとなると朝早く帰りは遅くなるだろう。
つまり、一静くんと会える時間はほぼなくなるわけだ。
「…名前も次は中学生なんだから、勉強に部活と忙しくなるよ」
「でも一静くんと会えなるなるのやだぁ…」
「同じとこ住んでるんだからそんなことないでしょ」
一静くんはそう軽く笑ったけれど、結局私が中学生の間一静くんと会えたのはほんの数日だけだった。
街中で見かけることはあれど、見知らぬ同級生たちと楽しそうに話している一静くんに敢えて話しにいけるほどの度胸はない。
背がグンと高くなり、筋肉もついてもう大人みたいな見た目の一静くんに比べて、前から数えた方が早い背丈の自分が並ぶとまるでお子ちゃまのよう。
つい最近まで仲の良いお兄ちゃんだった一静くんは、すごく遠いところの人のようになってしまった。
**
「一静くん…?」
私が彼を久しぶりに見かけたのは、ゼミの飲み会帰りの繁華街だった。
思わず声をかけてとめてしまったけれど、一静くんの周りには知らない男の人が何人かいて、“突然声をかけた知らない女の子”に興味を惹かれたらしく、値踏みするような視線が私に突き刺さる。
「なに、松川知り合い?」
「若いね、大学生?」
次々と投げられる質問にどう答えようかと慌てていたら、一静くんが私を隠すように前に立った。
「あー、小さい頃から知ってる近所の女の子。…俺、この子送ってくからこれで帰るわ」
送り狼になるなよ、なんて軽口を叩かれながらも周りの人たちは快く送り出してくれる。
折角楽しく遊んでいたのに、迷惑だったかもしれない。
声、かけなきゃよかった。
「…名前はなんでここに?」
「あ、えっと…大学の飲み会で…」
「え、未成年…」
「私は飲んでないよ」
ホッと息を吐き出されたのも束の間。
「女の子がこんな遅くまで飲んでたら危ないでしょ。他の子たちはどうしたの?少なくとも駅までは誰かと一緒じゃないと…」
一静くんの中で私はいつまで子どものままなんだろうか。
そりゃ高校を卒業してすぐ社会人になった一静くんからしてみたらまだまだお子ちゃまなのかもしれない。
でも、好きな人にいつまでも恋愛対象として見られていないのは結構くるものがある。
「一静くん、私もう子どもじゃないよ。背だって伸びたし、来年には成人してもう大人になるんだよ」
「いくら名前が大きくなったからっていってもね、ほら、駅までは暗い道もあるからさ」
眉を下げ、困ったように笑う。
「なるべく誰かと一緒に帰った方が安全だよ」
子どもに諭すような優しい声色。
これで何か言い返せば私が駄々をこねているようだ。
「…次はそうする」
私の返事に満足したのか、ニッコリと笑い「そういえばおばさんは元気?」と当たり障りのない話題へとうつる。
「大学はどう?慣れた?」
「うん、まぁ…それなりに。勉強難しいけど、ゼミの人たちは一緒いて楽しいし頑張れるかな」
「…よかった。慣れなくて泣いてたあの頃よりも強くなったんだね」
ハッと顔を上げると、一静くんは笑って「名前は覚えてないかもしれないけど、名前が小一の時にそうやってマンションのエントランスで泣いてたんだよ」と言った。
「──てるよ」
「え?」
「覚えてるよ!!!」
優しくて、ずっと大好きだった。
久々に会えた喜びと、初めて会った時から何も変わっていない一静くんに、今まで伝えられなかった想いが一気に込み上げる。
「だって、その頃からずっと…私、ずっと一静くんのことが…」
好き──。
そう言い終わる前に、頬に一静くんの大きな手が触れ、煙草の香りがふわりと鼻を掠める。
手から香る甘い匂いの中に混じったほんの少しの苦さ、その香りが大人と子どもの境界線のように感じた。
段々と近づく一静くんの顔に目を閉じると、唇に触れる柔らかい温もり。
腕を一静くんに回そうとした瞬間、一静くんは私の身体を押し返し、そっと離れた。
「名前」
甘く、色気をふんだんに含んだ低い声で名前を呼ばれ、自然と喉がゴクリと音を鳴らす。
「悪い大人を好きになっちゃダメだよ」
続けられた言葉は私が思っていたものとは違っていて、明確な拒絶を表していた。
弧を描いた唇と、寂しそうに細められた目。
一静くんは、いつからこんな大人びた表情をするようになったのだろう。
「じゃ、またね」
決して突き放すような言い方ではなかったけれど、その“また”がもう二度と来ないことを理解するのは難しくはない。
「一静、くん」
私の呼ぶ声に少しピクリと肩を動かしたものの、一静くんはこちらを振り返ることなく夜の街へと消えていった。
もう会えない──。
突きつけられた事実に、私はただ呆然とするしかなかった。
**
大学を卒業して、地元で就職する選択もあった。
政令指定都市なだけあって業種も職種も選択肢は多かったし、こだわりのない私がわざわざ県外の企業に就職する意味なんてほぼ皆無に等しい。
でも、県外に出なければ一生追いつかない背中を追い続ける未来しか見えなくて、親の反対も余所に他県でさっさと就活を終えてしまった。
一静くんの思い出が残る実家とも、これでおさらばだ。
上京してからの一年は一日を過ごすのに必死で、一静くんのことどころか恋愛のれの字も考えられないくらい忙しかった。
仕事を覚えるのも、家事をするのも、初めてのことだらけ。
化粧だって芋っぽくならないようにメイク動画を見ては自分に合うものを探した。
──いつの間にか、仙台にいた時の“自分”とは似ても似つかなくなった。
社会を知らない、おぼこい私。
そりゃ相手にもされないわけだ。
自分の中で納得がいったころ、私に初めての彼氏ができた。
会社の先輩で、入社した頃から厳しいながらも可愛がってくれた、とても優しい人。
会社にいる時と違って、手を繋げば照れながらも優しく握り返してくれるし、初めてキスをした時はそれこそ溶けてなくなるんじゃないかってくらいに真っ赤になった。
年上の、可愛い先輩。
そんな先輩とは、結婚もするのかなとぼんやりと考えるくらいには長く付き合った。
5年目の記念日に、プロポーズでもされるのかと思っていたら、悲しい顔で別れを告げられるなんて誰が思うだろう。
しかも、私のことを嫌いになったとかではなく。
「…名前が俺のことを好きなのはわかるし伝わるけど、いつまでも一番になれないのは辛い」
そう伝えられた時、本当に頭を殴られたんじゃないかってくらい衝撃が走った。
大好きな彼にそんなことを思わせていたなんて。
そんなことない、とすぐ否定できればよかったのに、私の頭に浮かんだのは初恋の彼、一静くんだった。
「ごめ…ん…」
いいんだ、と優しく首を振った先輩は、最後にそっと触れるだけの抱擁をして、大好きだったよと笑ってくれた。
**
その後すぐ、私には転勤の辞令がでた。
仙台に進出するから、土地に明るい人がいいと白羽の矢が立ったみたいだ。
流石に実家に住むのは今更感があったので、支社の近くに独身者向けのマンションを借りた。
GWが過ぎるまでは支店の立ち上げに忙しくて、帰ってお風呂に入りすぐ寝ることしかできなかった。
やっと落ち着いてきた5月の終わり、夜風に当たろうと窓を開けると──。
**
昨日は、走馬灯のように流れる思い出を早く忘れようといつもよりも早くベッドに入った。
なのに、香ってきた匂いが記憶を呼び起こすのか、夢の中にまで一静くんが出てきた。
イライラしながらもゴミを纏め、半ば蹴るようにしてドアを開ける。
眠りが浅かったのだろう。
目は上手く開かないし、肌も荒れて化粧のノリが悪い。
はぁ、と盛大なため息を吐いた時、待っていたエレベーターのドアが開いた。
ふわり
鼻に届いた香りに、思わず息を飲み込んだ。
昨日、ベランダで香ったものと同じ。
反射で顔を上げると、懐かしい顔が目の前にあった。
「いっ…せいくん…」
手に持っていたゴミ袋がガサリと音を立てて落ちる。
「名前…?」
驚いたのは向こうも同じみたいで、お互い微動だにしないで数分が過ぎた。
正気に戻ったのは私が先。
落ちたゴミ袋を拾い、背後にあった階段を駆け降りる。
なんで一静くんがここに?
もしかして同じマンションに住んでいる?
しかもよりによって同じ階?
運命なんて可愛い言葉で片付けられるものではない。
最早呪いに近しい。
神様は私に一生結婚しないでいろとでも言うのか。
ただでさえ結婚も考えた彼氏にひどいことをしたというのに、本人が近くにいたら誰とも恋愛なんてできる気がしない。
「ど、どうしよ…。また引っ越しとか考えたくない」
**
それからというもの、自宅に帰っているはずなのにどうも気持ちが落ち着かない。
顔を見ただけでギュッと締め付けられた胸は、確かに痛みを覚えたはずだった。
しかし、それ以上に息が苦しくなるほど焦がれずにはいられない恋を思い出した。
会ったところでどうにもならないのはわかりきっている。
でも、一静くんが近くにいる。
会いたい、でも、会ってどうするというのか。
理性ではわかっているのに、心が、感情が、こんなにも思い通りにならないなんて。
あの時一静くんの手から香った煙草の匂いも、唇に触れた柔らかい感触も、全部、奥底に仕舞っていたはずなのに。
空いてしまった箱から飛び出した想いは、まるで意思を持っているかのように駆け出した。
ああ、好きすぎて辛いなんてそんな気持ち、わからなくていいのに。
**
あの日会ってから一か月、気をつけていたのもあるが、一静くんと鉢合わせることは一切なくて拍子抜けしてしまった。
生活リズムが違うのか、それともたまたま来ていただけでここには住んでいないのか。
一ヶ月も会わなければこの先も会ったたりしないでしょ。
そんな風に思い始めて、大分気も楽になった。
──そう、油断していたとしか言いようがない。
「名前」
廊下で優しく呼ばれた自分の名前に、ヒュッと喉が鳴った。
「やっぱり名前だったんだね。元気にしてた?」
「うん、まあ…そこそこ…」
「こっち帰ってきてたんだ?おばさんが県外で就職したって言ってたから。この間見た時驚いたよ」
「あー…仙台に支社ができて、そこに転勤になったの」
「そっか、じゃあしばらくはこっちにいるんだ?」
「うん、そう…」
あの時のことなんて、まるでなかったかのように話しかけられる。
忘れられないのは、自分だけ。
一静くんにとっては揶揄っただけなのかもしれない。
もしそうなら覚えてないのも頷ける。
「名前は変わらないね」
その一言に、たいした意味なんてないのはわかっているのに。
「…変わってなくないよ。向こうで彼氏だってできたし、もう一静くんが思ってる子どもの頃の私じゃないんだよ」
じわっと瞼の端に滲んだ涙が溢れそうになる。
こんなことで泣くな。
泣いたって困らせるだけだ。
「…名前?泣いてるの?」
涙を拭おうとしてくれたのか、私の頬に一静くんの大きな手が伸びる。
「さ、触らないで!!」
拒絶の言葉は思いの外大きくなってしまい、廊下を歩く人が驚いたように私たちの方を振り返った。
「…とりあえず、部屋入ろうか?」
「…わかった」
**
招かれた部屋は、一静くんらしいシンプルな家具で纏まっていた。
「ちょっと散らかってるけど、そこのソファにでも座って」
ソファに座ると、先ほどまでの取り乱した自分が情けなく思えた。
部屋ひとつとっても、一静くんには大人の余裕を感じられる。
丁寧にハンガーに掛けられた仕事着や、突然の訪問にもかかわらず整えられたベッド、窓際に置かれた観葉植物、ほのかに香る煙草の香りでさえオシャレだ。
「よかったら飲んで」
出された紅茶は、私が昔好きだと言って一静くんの実家で喜んで飲んでいたものだった。
「…取り乱して、ごめん」
「いや、こっちこそごめんね?彼氏でもないやつから触られそうになったら嫌だよね」
困ったように笑う一静くんに、堪えてた涙がポロポロと溢れた。
「ち、ちがうの。私…ずっと一静くんのことが好きだったの。他の人とも付き合ってみたけど、一番になれないのは辛いって振られたくらいなの。…だからね、こうやって優しくされるのが辛い。恋愛対象として見れないなら、お願いだからもう構わないで」
絞り出した言葉は、嘆きに近かった。
「大学生の時に好きだって伝えたよね?なのに、何もなかったようにしないで。他の人と付き合っても、ずっと、ずっとあの日のことが忘れられないんだよ」
…言ってしまった。
でも、聡い一静くんに隠し通すなんて無理だから仕方ない。
一静くんが、何か言おうと息を吸うのが聞こえた。
「…ごめん」
振られることはわかっていたのに。
こんなにも悲しいものなのか。
「さっき、変わってないねって言ったのは、俺の願望。あの頃から、変わってないといいなって思ってた」
「…え?」
私の告白への返答かと思った謝罪は、どうやら違ったらしい。
「名前はすごく綺麗になったよね」
続けられた言葉に、唖然とする。
「名前が大学生の時にキスしたのも覚えてるよ。好きだった子が、街で声かけてくれて嬉しかったんだよね。でも、その時の名前と俺とだと子どもと大人でしょ?だから、踏み出せなかったんだ」
「一静くんも…私のこと好きでいてくれたの?」
「うん、そう。この間久々に会えて、もう年齢も気にしなくていいのかって思ったら嬉しくてさ。名前の気持ち、何も考えてなかった」
「ま、待って?」
「ごめん。もう、待てない」
あの時と同じように、一静くんの手が私の頬に触れる。
「名前が好きなんだ」
真剣な眼差しで、私を見つめる一静くんに頭がクラクラする。
鼻腔を蕩かす甘い香水、仄かな煙草の香り。
あの時と違うのは、一静くんが私に気持ちを伝えてくれたこと。
「名前は俺のこと、好き?」
最早、頷くことしかできなかった。
近づいてくる顔にそっと目を閉じると、唇に柔らかいものが押し当てられた。
いつの間にか握られた手は、お互いの指を確かめ合うように弄られる。
一静くんの身体が隙間なくくっついているせいで、心臓の音がダイレクトに頭に響いているような錯覚を起こす。
優しくて、蕩けるような甘いキスだった。
「名前」
優しく名前を呼ばれて目を開けると、私以上に泣きそうな顔の一静くんがいた。
「一静くん…」
「ずっと好きでいてくれて、ありがとう」
ふわりと笑った顔はとても幸せそうで、きっと私はこの先の人生でずっとこの表情を忘れないんだろうなと、そう思った。
花言葉:君を忘れない
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