ニゲラ
「名前」
名前を呼ばれ目を開けると、見知った顔が目の前にあった。
「ん…松川…くん?」
「…その呼び方久しぶりに聞いた。なに、寝ぼけてるの?」
くすくすと笑う彼は、クラスメイトの松川一静くんで間違いないと思う。
“と思う”というのも、私の知っている松川くんよりも大分大人びている上に、彼は私のことを“名前”と下の名前で呼んだりしないからで。
「…ここどこ?」
キョロキョロと辺りを見渡しても心当たりのない間取りと家具で、本当に自分が寝ぼけているんじゃないかと疑う。
だって、見ないふりをしてたけれど隣にいる松川くんの上半身は何も着ていなくて、布団を被っている私自身も服を着ている感覚がない。
何がどうなって今の状況になっているのかさっぱり検討もつかないのだ。
「名前?どうしたの?」
状況が飲み込めなくて泣きそうな私の頬をそっと撫で、心底心配している表情の松川くんにまさか何もわからないんですなんて言えなくて、私はただ首を振るしかなかった。
「怖い夢でも見た?」
「うん…」
そう曖昧に言葉を濁せば、松川くんは何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれたけれど、男の人に免疫のない私には刺激が強すぎた。
ふわりと香る甘い匂いと、男の人の汗の香り。
それに加えて、とんでもなく色気の含んだ柔らかな声が耳元で囁かれる。
「名前、大好きだよ」
蜂蜜よりももっと甘い愛の言葉が降ってきて、松川くんの唇が私の唇に優しく触れた。
目を閉じれば角度をかえて何度も、何度も。
心底愛おしいと言わんばかりのキスは、私自身がその甘さで蕩けてしまうんじゃないかと思わせた。
「名前」
自分の名前がこんなにも優しい声で呼ばれるなんて、幸せな夢の中にいるみたいだ。
ピピピピピ──
けたたましい音が耳元で鳴り、すごい勢いで飛び起きた。
目の前に見えるのは見慣れた自分の部屋。
夢…だった…。
ぼーっとした頭がだんだんと冴えていくと、恋人でもなんでもないただのクラスメイトの松川くんであんな夢を見てしまった現実がどっと押し寄せてきて、かつてないほどの自己嫌悪に陥る。
今日も学校で会うというのに、一体どんな顔で彼を見ればいいのか。
あれは夢、夢なんだ。
現実の松川くんとは別物で、本人と会っても大丈夫。
そう言い聞かせてはみるものの、あの甘い声がまだ耳に残っているようで、少なくとも今日一日はまともに目を合わすこともできなさそうである。
なるべく話しかけられませんように。
**
──そう願ったはずなのに、いつもよりも少し遅く出たのが祟ったのか、体育館を過ぎたところで松川くんと目がバッチリあってしまった。
「あれ、名字今日は遅いんだ?」
何も知らない松川くんは私を見つけると、気さくに声をかけてくれた。
いつもだったらなんてことない会話なのに、今日はあんな夢を見てしまった後ろめたい気持ちが私の声を吃らせる。
「松川くん…!お、は…よう…」
「…あれ?どうしたの?なんか元気ない?」
「や、そんなことないよ…」
あはは、なんて笑って誤魔化してみたけれど、どうしても松川くんの顔が見られない。
「顔、赤くない?具合悪いの?」
そう言って覗き込もうとした松川くんに、今朝の夢が見事に被った。
「そ!そうかも!ちょっとお腹痛いかも!?私先行くね!!」
先に行ったところで行く先は同じなのだけれど、今は少しでも松川くんと離れたい。
脱兎の如く逃げた私の耳には、松川くんがその後何を呟いていたかなんて届く由もなかった。
**
──どうしてこうなったのだろうか。
顔を見るとどうしても今朝の夢を思い出してしまうから目線を合わせないようにしたのに、それに目敏く気がついた松川くんが面白いものを見つけたと言わんばかりに四六時中私のそばにいる。
「名字、ここの問題教えてよ」
「…私より松川くんの方が数学得意だよね?」
「あれ、俺が数学得意って知ってくれてるの?」
ニコニコと笑いながら聞いてくるけれど、頼むから今日だけはその顔で私のことを見ないでほしい。
「っていうか自分の席戻ったらどうかな」
「自習だし、みんな好きな席でやってるよ」
「…松川くんが移動しないなら私が移動する」
そう言って席をたとうとしたのに。
「名字は俺と勉強するの嫌?」
手をぎゅっと握られ悲しそうな顔で言われたら、最早そのまま自分の席に戻るしかない。
「ちゃんと前向いて勉強してクダサイ…」
真っ赤になった顔を教科書で隠して伝えた言葉のなんと頼りないことか。
朝からずっと心臓のドキドキがとまらない。
気のせいだと何回自分に言い聞かせても、声をかけられるたびに夢の中で言われた『大好きだよ』が脳内でリフレインする。
今まで異性として意識したことなんてなかったはずなのに、このままだと好きになってしまいそうだ。
でも、その好きは一体どの松川くんに向けられたものなのだろう。
夢で見た松川くん?
それとも、今私の目の前にいる松川くん?
「名字」
先ほどから何回も呼ばれる名字を聞くたびに、名前で呼んでほしいと思うなんて、本当に馬鹿げてる。
好きになってしまいそう?
もうとっくに恋に落ちてるじゃないか。
**
どんなにアプローチしても全然靡かない子がいた。
なるべく意識してもらおうと声をかける回数を多くしたり、さりげなく触れたりもしたけれど何も思わないのかその他大勢と同じ扱い。
いつまで経ってもクラスメイトの域をこえず、異性の友だちにすらなれなかった。
最早万策尽きたりと思っていたのに、突然その日はやってきた。
名字を呼べば一瞬身体が跳ね、視線がふらふらと当てもなく彷徨う。
手に触れてみれば顔を真っ赤にして情けない声で「ヒェ」と悲鳴をあげられた。
昨日までの名字とは似ても似つかない反応に、最早別人なのではないかと疑うほどだ。
「なんで急にああなったかなぁ」
部活のロッカーで独り言のように呟いたのに、及川にはピンときたようで「名字ちゃん?」と的確な返事が返ってきた。
「そ。昨日までなんてことなかったのに今日になっていきなり意識されるとかある?」
「まっつんが名字ちゃんのこと好きだってのを誰かから聞いたとか?」
「やー…そういう感じじゃないんだよねぇ」
「ふーん…?」
そう、照れてるとかそういう反応じゃない。
例えるならあれは。
「なんか、やましいことをしちゃった後、みたいな…?」
「なに、まっつん付き合ってもないのに名字ちゃんに手だしたの?」
「ンなわけないデショ」
「じゃあなんでそんな反応されてんの」
「そんなの俺が聞きたいよ」
キスだってしたことないのに、あんな事後みたいな反応されるなんて。
「…まっつんのエッチ」
「なにが」
「ちょっと想像したでしょ」
「…」
何をと聞かなくてもわかるし、沈黙は肯定でしかない。
**
「ねぇ、友だちだった人が恋人として夢に出てきさ、その相手を現実でも好きになるってあり?…あ、友だちの話なんだけどね!?」
「…別にきっかけはなんであれ好きになったならそれはそれでいいんじゃないの」
とってつけたような言い訳に、心底呆れた目をしつつも敢えて突っ込むようなことはしない友人にホッと胸を撫で下ろした。
「でもさ、好きになったのは夢の中のその人なのか、それとも現実のその人なのかわからなくない?」
「どっちでもよかない?夢の中の人とは現実で会えるわけじゃないし…っていうか誰?友だちの話とかアホなこと言ってないで早く白状しなさいよ」
「友だちの話だってば〜」
「ま、それでもいいけどね。付き合った暁には教えてよね」
「はーい」
「…友だちの話じゃなかったの?」
「ソウデシタ」
「しかし松川ねぇ…今まで全然興味ないって感じだったのになんでかなって思ったらそういうことかぁ」
友人の口から当然のように出た名前に、飲んでいたお茶が変なところに入る。
「ゲホッ、な、な、なんで!」
「今日一日あんな挙動不審だったのにわからいでか」
「やっぱり挙動不審だった!?松川くん変に思ってないかな!?」
「松川からしたら…いや、なんでもない」
「なに!?最後まで言ってよ!」
まあまあ、気にしないでと言いながら私の口にクッキーを突っ込む友人の顔はまるで面白いおもちゃを見つけたかのよう。
「ねぇ、悪いこと考えてないよね?」
「さぁね」
我が親友ながら悪い顔で笑うものだ。
明日からの学校生活、一体どうなることやら。
***
「オハヨ」
確かに昨日よりも早く出たはずなのに、体育館前で松川くんと会った。
「お、おはよう…」
一日寝れば夢の記憶も薄れるかと思いきや、現実の松川くんがそれを許してくれない。
昨日はそれどころじゃなくて全然気づかなかったけれど、松川くん、私と話すときは普段花巻くんたちと話すより柔らかい口調だし、時折こちらを見る瞳がすごく優しい。
それこそ夢の中で“恋人”として私を見ていた時のような、そんな雰囲気がある。
「名字さん?」
首を傾げて覗き込む表情も、全部。
勘違いとかじゃないと思う。
もしかしなくとも、松川くんて私のこと好きだったりするんじゃないか。
そう思うと、途端に思い出される“名前”と呼んだ夢の中の松川くんの声。
「名前、がいいな」
ポロリと溢れた声に、慌てて口に手を当てたがもう遅い。
松川くんの方を見ると、今まで見たことがないくらい真っ赤な顔をしていた。
うん、これはもう間違いないんじゃないかな。
「松川くん、あの…」
「待って、それは俺から言わせて。でも、今ここで言いたくないから、放課後俺に時間頂戴」
最初はどうなるかって思ったけれど、現実の松川くんもちゃんと好きだ。
私の言葉一つでこんなに真っ赤になってくれて、なあなあに済まそうとしないできちんと言葉にしてくれる。
「ふふ、大好きだよ」
「…!俺に言わせてって言ったのに!」
花言葉:夢の中の恋
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