菩提樹
今日も仕事で帰りが遅くなり、夕飯も作る気力もないくらいに疲れて家に帰ると、誰もいないはずの部屋に電気がついていた。
泥棒?
そう思いドアノブに手をかけると、鍵がかかっているはずなのになんの抵抗もなく下へと動いた。
そっとドアを開け、何かあった時のためにと玄関の傘を手に持ち部屋へと向かう。
今まで生きてきた中でこんなに緊張した瞬間もなかっただろう。
しかし、部屋のドアを開けるとキッチンの方から見知った顔がこちらを覗いた。
「おかえり〜!名前ちゃん元気にしてた?」
「え!?徹!?なんで!?」
私の部屋にいたのは高校時代からの彼氏である徹で、本来なら彼はアルゼンチンにいる筈だ。
昨日だって私にアルゼンチンでの写真を送りつけてきたのにどうして今ここにいるのだろうか。
「昨日の写真はフェイクでした!今日は記念日だからサプライズで帰ってきちゃった」
ドヤ顔で言う徹に、覚えていたのかと驚きを隠せない。
どうせまた一人で過ごすものだと思っていた。
もしかしたら、と毎年毎年その少ない希望を胸に待っていたけれど彼は連絡のひとつもよこさないでいたのに、何故今年に限って来たのだろうか。
「名前ちゃん?」
一向に喋らない私の顔を覗きこんで、「さあさあ、お疲れでしょ?今日は疲れてる名前ちゃんにご飯作っておいたから、早く着替えて食べよう!」と笑った。
本当に気まぐれできたのだろうと自分に言い聞かせ、手を洗いうがいをし、スカートとブラウスを脱いでルームウェアに着替える。
準備を終えた私を早く早くと席に着かせ、目の前に彼が作った料理を並べてくれた。
「お酒飲めるよね?」そう聞かれ頷けば「途中で日本酒買ってきたんだ」とウキウキしながら瓶を出してきた。
「ちょうどいいグラスもあったし!」と渡されたのは隠していたはずのペアグラス。
会えない間も記念日や誕生日、クリスマスなどの特別な日に彼に贈るプレゼントを買っていた。
渡せたものもあるし、結局渡せないままクローゼットの奥へと仕舞われたままのものもある。
このグラスは買ったけれど渡せていないもののうちの一つで、気に入っていたので片方だけ出して使っていたやつだ。
徹の分はしまっておいたままの筈で、どうやって見つけたというのだろうか。
「なんでって顔してるね」
ニコニコと笑いながらも、どこか意地の悪そうな目をした彼に隠し事はできないなとため息をついた。
「名前ちゃんがお揃いのもの買ってくれてるなんて意外だったな〜」
「それ、綺麗だったから」
「どんな理由だろうと俺は嬉しいけどね」
グラスにお酒を注ぎ、光にかざして目を細める彼は本当に嬉しそうだった。
「さ、飲もうか」そう言われ、お互いのグラスを交わし自分の口へと傾ける。
徹の買ってきた日本酒は私好みの甘いもので、辛口が苦手と言った私の言葉を覚えていてくれたのだろうなと嬉しく思う。
ご飯も食べ、買ってきた瓶が軽くなりはじめたころ徹が深刻な顔で私を見つめた。
「名前ちゃん、俺今日話さなきゃいけないことがあってきたんだ」
徹の口から出た言葉にやはり、と覚悟を決める。
お別れだろうか。
もしそうなら記念日に帰って言うのは悪質過ぎないか。
嫌な考えが頭をよぎり俯く。
「アルゼンチンに帰化することに決めたんだ」
驚いて顔を上げれば「名前ちゃんも決めて。日本に残るか、俺とアルゼンチンへ行くか」と言われた。
「このグラス、名前ちゃんも俺との未来を考えてくれてるって思っていいよね?」
頼むからそう言ってくれ、そう聞こえた気がした。
「うん、私の隣に徹がいない未来はないよ」
そう伝えれば、どこから出したのか彼の手には指輪が握られていて、光り輝くそれを私の左手へと収める。
「Te prometo quererte para siempre.」
スペイン語なのだろう、意味はわからないが彼はそう言って私の薬指へキスを落とした。
『君のことを永遠に愛すことを誓うよ』
花言葉:結婚
お題:お揃いのグラス
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