ホストの仕事を終えた不破は、住居スペースのリビングにてくつろいでいた。ソファに全身を預けて脱力している不破の瞼はとても重い。今動かなければ自室に辿りつくことすらできそうにない疲労感をまとって、しかし、体に力を込めるのすら億劫だと動けないままでいた。
夜が明けるのももうすぐだろう。カーテンが閉め切られているこの部屋から外様子を伺うことはできないが、帰宅した時間を考えればあと一時間もしないうちに太陽が顔を現すはずである。ソファに体を預ける前、こっそりと覗いた剣持の部屋ではベッドに山ができていたし、今夜は出かけずに眠っていることが確認できた。一応、各部屋に鍵は設置されているし、その鍵も自分が持つ分と万が一のスペアがしまわれているが、大抵、誰も鍵をかけることはしなかった。勝手に立ち入らないという信頼か、それとも単純にめんどくさいのか。それぞれが何を思っているかなんてわかりはしないが、現実として、誰も勝手に人の部屋に入ろうとはしなかった。
時計の秒針だけが響く静かな部屋で、不破が自室としている部屋の隣から物音が聞こえた。何かが落ちる音。そして足音。今目が覚めたのか、起きていたのか。不破は、甲斐田が朝言っていた研究の予定を記憶から掘り起こそうとして、思い出す前に扉が開いた。
「晴、髪の毛」
「かみぃ?」
自室から出てきた甲斐田を迎えた不破は、見慣れない姿を目の前に見えたものをそのまま口にする。ぼんやりとした様子で復唱する甲斐田は、指摘された自身の髪に触れて、あ、と口を丸くした。重たかったはずの瞼は、その姿を目にした瞬間にばっちりと持ち上がって甲斐田を見つめている。――正確には、甲斐田の首回り、であるが。
「なんか、長ない?」
「アー……長い、かもしれないですね……」
全体的に伸びているわけではないが、襟足が肩よりも少し下ぐらいまで長くなっている。不破が仕事に行く前までは肩につかない長さだったはずだ。記憶力にそこまで自信があるわけでもないが、ずっと見てきた、一緒に暮らす仲間の身なりを瞬時に忘れるような記憶力をしているわけでもない。確かに、家を出る前よりも長くなっている。そもそも出会ったときからずっと短い髪ばかり見ていたので、忘れるはずもないのだけれど。
突然現れた見慣れぬ姿に驚きはしたものの、しかし、不破にはひとつ思い当たることがあった。
「それ、魔法?」
「ある意味……?」
はっきりとしない反応に、不破は無意識のうちに顔を顰めていた。普段であればそんなことはないのだけれど、今はどうにも眠くて仕方がない。
視線をあちらこちらに動かしている甲斐田は、不破の反応に気まずさを覚える。今の今まで眠気さえ覚えずに研究に集中していた甲斐田は、ただ喉を潤わせるためにリビングに来ただけだというのに。不破がいることを想定していなかったわけではないが、まさか疲れて気が抜けてしまったせいでこの姿を見られることになるとは思わなかった。
不破の視線を受け止めながらも、そっと移動して冷蔵庫の中から未開封のペットボトルを取り出した。蓋を捻るとプラスチックの外れる音がする。二、三口ほど飲んで喉を潤わせた甲斐田は、そのまま部屋に持っていくために冷蔵庫には戻さず、なぜだかずっと視線を送り続けている不破の前を横切って自室の扉を開けた。部屋の中に入った甲斐田は振り返り、不破と目を合わせる。
「……不破さんも、早く寝てくださいね」
「え、説明なしなん?」
甲斐田はしっかり不破の言葉を聞いていたが、わざと聞こえないフリをして、ぱたん、と扉を閉めた。
一人リビングに取り残された不破は数回瞬きを繰り返したあと、重さの戻ってきた瞼を自覚して、なんとか体を持ち上げた。どうせ朝食を取るときは全員揃っているのだから、そのときにまた聞けばいいだろう。加賀美や剣持もいる場で聞けばさすがに答えるだろう。それに、あの二人だって髪が長くなった甲斐田の姿を知らないはずだ、きっと興味を持つに決まっている。
不破は帰宅したときとなに一つ変わらない姿のまま、ベッドの倒れこんで、数秒前まで思考を巡らせていたのが噓のように、すぐ意識を手放した。
「おはよぉございます」
基本的に、研究に集中している日以外は早い時間帯から眠りに入っている甲斐田は、起きる時間帯も比較的早めになる。しかし、昨晩のように夜更かしした日の朝は起きてくるのが一番遅い。夜遅くに働いて疲れているはずの不破よりも起床が遅くなってしまうため、大抵目が覚めたときには全員がリビングに集まっていることがほとんどだった。
「あれ、髪の毛戻ってるやん」
「えぇ……覚えてたんですか。絶対忘れてると思ってたのに」
「髪の毛?」
「髪の毛がどうかされましたか?」
不破の一言に、今までの話題が消えて全員の興味と視線が集まった。三人の視線を受けながら定位置となっている椅子に腰を下ろして、甲斐田は苦笑いを浮かべる。
昨晩見たのは幻だったかとも思ったが、甲斐田の反応から現実だったのだとわかる。しかし、おはようとリビングにやってきた甲斐田の髪は、いつも通りの見慣れた長さに戻っており不破は首を傾げた。
別に、特別な秘密があるとかではない。本当に。だからこそ、この状態で心底くだらない理由を話すのが憚られているだけで。
好奇心の上乗せされた視線を受け、甲斐田はわざとらしく息を吐きだした。そして口の中で言葉を転がしながら、目を閉じる。じんわりと体を巡る血液があたたかくなって、次に甲斐田が目を開けたときには、昨晩不破が見たときと同じ髪の長さに変わっていた。ずっと甲斐田を観察していた三人は突然伸び始めた髪に驚き、目を丸くしている。
「え、伸びた? そんなことあるの?」
「やっぱり魔法なんやん」
「えぇ……すごいですね……。魔法ってそんなこともできるんだ……」
「昨日不破さんに見られたのはこれです。別に魔法で伸ばしたわけじゃないです」
え? 口を開いたのは三人のうち誰か。それとも全員か。
今確かに魔法を使っているところを目撃しているのに、魔法ではないと?
甲斐田は視線を外して唇にきゅっと力を込めたが、結局、緩めることにした。どうせ黙っていたって変に捉えられるだけだ。特にこれといった理由ではないのに、あとに引き延ばせば引き延ばすほど、話すことに戸惑いが増えるだけだろう。
「あのぉ……、僕、これが本来の長さ、だったり……?」
「そうなの?」
「そぉ、っすねぇ」
「それでは、短いときに魔法を使って?」
「はい……。いや、あの誤解されたくないので言いますけど! 切るのがめんどくさくて! でも長いのは鬱陶しくて! 魔法使って短くしてるだけなので!! 大した理由はないんです……!」
決して大きな声ではないけれど、叫ぶように投げやりになって理由を説明する。どうか変な誤解だけはしないでほしい。居た堪れなくなるので。投げやりになればなるほど叫んだ理由が嘘のように聞こえてしまうのだけれど、それはさておき。勢いの消えた甲斐田の言葉に不破が横から声をかける。
「俺が切ったろか?」
「えっ、絶対嫌ですけど」
「はーん? 生意気ちゃう?」
「なんで!? 不破さんに任せるの怖いって!!」
身を守るように椅子ごと体を引いた甲斐田に、手を伸ばす。狭い可動域で逃げることの叶わなかった甲斐田は簡単に捕まって、肉のついていない頬が左右に引っ張られた。そこまで強く引っ張っているわけではないが、そもそも伸びない頬である。少量の力でだって痛みを与えるには十分だった。
助けを求めるように向かい側に座っている加賀美と剣持を横目で見ると、いつの間にか自分たちを無視して朝食を食べ始めている。
「ねーぇ!!」
不破の手を取り自分の頬を解放した甲斐田は、頬を赤くさせながらリビングに声を響かせた。
「でもまぁ、くだらない理由でよかったですよ」
本当に。心の底からそう思う。
なんてったって甲斐田は、魔法使いであるので。