貝殻サルビア
 からんころん。
 鈍い音の鈴が店内に響く時、店員は挨拶をするか黙るかの二択である。
 磨りガラス越しでさえ太陽が地球を照りつけていることがわかるぐらいに眩しい。空調の整えられた店内ではわからないが、少しでも扉の隙間を作れば熱気が押し寄せてくる。幸いカウンターの中に届くまで入ってくることはないが、やってくる人間はすぐに冷やされることの身体に文句をひとつ零す。あと一週間程で八月も終わるというのに、太陽は遠慮することを知らない。
 カウンター内に立っていた剣持は外の暑さを想像しながら顔を歪めた。店来店の鈴は音を鳴らしたのに対し、扉は開かない。すすぎ終わったカップを乾いたタオルで拭きながら、剣持は視線を変えずに口を動かした。人の影が動いて誰も座っていないカウンター席に腰かけたのをなんとなく察知したところで、からん。二度目の店内の鈴の音に剣持はカップから顔を上げた。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
 太陽が真上に昇る頃、人はみな暑さから逃れるように店にやってくる。大通りから外れた場所に存在しているこの店に訪れるひとの顔ぶれは、だいたいいつもと変わらない。慣れた客たちはそれぞれお気に入りの席が存在し、案内するよりも先に腰を下ろす。
 剣持の目の前に座った初老の女性はゆっくりとした動作でカウンターに手を置いて、目尻を下げて笑った。
「剣持くんこんにちは。まだ夏休みなの?」
「そうなんです、もう少しで終わりますけどね」
「もう少しで九月だものね。宿題は終わってる?」
「それはもう! 最初の方に終わらせてますよ」
 くふくふと笑いながらコーヒーの豆入った小瓶が並んでいる棚から一つ取り出して、メジャースプーンで豆をすりきり一杯すくった後ミルに落とし入れていく。カラカラと豆がぶつかって落ちていく音が心地好い。スイッチを押せば大きな音を店内に響き渡るが、誰も気にする素振りは見せなかった。豆を挽くことによって一気に芳ばしい香りが辺りを漂う。深煎りで置かれているキリマンジャロの豆は苦味が強いが、この女性の好む味だった。
 剣持自身がコーヒーを飲むことは無いが、その香りは心が落ち着くような気がして好きだった。
 粉状になったそれをフィルターに入れ、表面を平らにしてからドリッパーにセットする。豆を挽いている間に沸騰させたお湯は一度濡れタオルの上へ置いて温度を調節。最初は蒸らしで二十グラム。膨らんだ粉が少し萎んだのを見て、くるくると円を描くようにポットからお湯を三回に分けて注いでいく。最初こそ計りを使って慎重に入れていたが、いつからかは手の感覚だけで入れられるようになっていた。
 慣れましたね。どこか嬉しそうに微笑んでいたのは、いつの季節だったか。
 フィルターを通したお湯が全て落ちきった頃、あらかじめ残ったお湯で温めていたカップの中身を一度捨てて、入れたてのコーヒーを注いでいく。ほくほくと湯気を立てたカップを女性の前に差し出して、スティックシュガーを一本横に添えた。
「ありがとう」
「こちらこそ、いつもありがとうございます」

 街の中にひっそりと存在する喫茶店、夏菫。
 店主である人物は多忙故にあまり顔を出すことは無いが、本業とは別に趣味で始めたらしいこの店は、あまり利益にこだわりが無い。店である以上料金を頂いてはいるが、それでも安価なため剣持は時々、本当に大丈夫なのかと不安に思う事がある。まあ心配したところで剣持はここに住まわせてもらっている立場であり、カウンター内に立っているのもただの手伝いなのだけれど。
「今日も剣持くん一人?」
「そうなんですよ。社長――加賀美さんは本業の方で忙しそうで。そんなにお客さんが来る訳でもないですしいいんですけど」
 従業員は、剣持の他に三人存在する。しかしみなそれぞれ本業と呼ばれる職があるため、基本的にこの店は剣持一人が回していると言っても過言では無かった。人と関わる事を苦手としない――むしろ好ましくすら思っている剣持にとって、嫌だと思ったことは無いけれど。
 頑張ってるのね、と微笑む女性に、剣持も笑みを返した。ゆっくりと時間をかけて味わう女性のカップはもうほとんど空っぽだ。
「はい、二百八十円ね」
「丁度頂きますね。またお越しください」
 落ち着いた動作で椅子を立った女性は、優しい顔をしたまま店を出ていく。
 ――からん。
「もちさーん! 外暑くないですか!? 日本暑い!」
「甲斐田くんいらっしゃい」
「あっちぃ……なんだこの気温……殺す気か……?」
「アイスコーヒーにする?」
「いやホットでいいですぅ……」
 女性と入れ違いになるように入って来たのは、剣持が手伝いを始める前からオーナーである加賀美の友人だと言う甲斐田だった。どこに住んでいて普段何をしているのか、剣持は甲斐田について全く知らないが、気が付けば気を許している内の一人となっていた。ある方面についてめっぽう強く、時折手伝いをしてもらってもいる。
 いつもの定位置に座る甲斐田は、外の暑さに体力を全て奪われてしまっているのか、カウンターに身体を投げ出している。暑い暑いと言いながらアイスではなくホットを頼むのは何故なのか。剣持は笑い声を上げながら、熱を下げるために冷えた水を差し出す。 一気に飲み干した甲斐田は生き返る〜! と店内に大声を響かせていた。
 慣れた手つきで甲斐田がいつも飲むコーヒー豆を取り出して、先程と同じ手順で入れていく。
 からんころん。
 出入口の扉に付いた鈴が音を奏でる。
 扉は、開いていない。
「……もしかして帰らせちゃいました?」
「いいんじゃない? ずっと座ってるだけだったし」
 不意に響いた鈴の音は、女性よりも先にやって来ていたひとが帰った音だった。剣持は扉を見ることなく、そして挨拶をすることなく、目の前で気まずそうにしている甲斐田を見た。剣持の言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろした甲斐田は、しかし次の瞬間にえ!? と大きな驚いた声を出す。
「つまりただ居ただけって事ですか!?」
「うん、そうだよ」
「んぇー? 迷惑なやつ……」
「まあ気にならないしいいよ。はい、いつもの」
 何のためにこの店へやって来たのかはわからないが。向こうからアクションが無ければ、剣持にとってそれは関わらなくていいものと同意だった。
 手際良くコーヒーを入れた剣持は甲斐田の前へカップを置く。ありがとうございます、と嬉しそうにはにかんだ甲斐田は両手で包み込むようにカップを手にした。癖なのか、甲斐田はよくこの持ち方をするが、そういう持ち方をするものでは無いのになぁ、と剣持はいつも思っている。あざとさはあれど優雅さは一切無かった。
 カップの縁に口をつけて、ごくり。夏服により晒された喉仏が上下する。
「はぁ、落ち着く」
「上手くなったでしょ、入れるの」
「……はい、すごく」
「生意気じゃない?」
「いや聞いてきたの知ったでしょ!?」
 鋭いツッコミにケラケラ笑いながら、隅っこに置かれた小さな簡易椅子を引っ張り出して、そこへ腰掛ける。座ったことにより見上げなければ目線が合わなくなったが、今いる客は甲斐田のみ。ゆっくりしていても誰も咎めやしないだろう。
「今度は不破くん連れて来てよ、最近会えてないし」
「アニキ捕まえるの難しいんだよなあ……」
 きちんとした職はあるもののどこかフラフラとしている兄貴分の顔を浮かべて、甲斐田は困ったように、しかし、どこか優しさを含んだ顔をしていた。
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