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 ――おぎゃあ。
 産声をあげた瞬間から自我のあった私は、大変困惑した。産まれたばかりの赤子では目が見えずに光を感じ取るだけの視界に、まず困惑一つ。周りから聞こえる、知らない大勢の声に、困惑二つ。何より一番困惑していたのは、自分の口から赤ん坊の泣き声を発していることだった。え? と状況を理解するよりも先に全身が人の温もりに包まれる。抱っこされているのだと察するには充分すぎるその温もりだけれども、いくら小柄だからと言って、既に成人した女を包むように抱き上げることなんて不可能だ。あれよあれよという間に全身を拭かれ、そして身動きが取れないもので包まれる。元より思うように動かなかった身体と、発した泣き声。包んだその正体はおくるみだった。
 これが輪廻転生ってやつかぁ、とようやっと自分の状況を理解し、受け入れ納得したころには、とっくに生まれて十年以上は経っていた。
 前世では立派な社畜となりひっそり誰かに迷惑をかけることもなくオタクをして、そして気がついたら死んでいたらしい。その時の記憶だけがすっぽりと抜けていて――あまりのご都合主義に声を出して笑ってしまった。当然親には変な目で見られた――思い出そうとしても全くだったけれど、どんな最期であれ死ぬ間際の記憶がなくてよかったなぁ、と今は思う。きっと老衰だったとしても、死ぬ時の感情はトラウマとなっていただろうから。
 前世の記憶というとんでもオプションがついてきた私の人生は、そこそこ普通だったと思う。とっくの昔に勉強したことなんて忘れているし、小学校低学年で習うようなものは退屈だったけれど、その時期を過ぎれば新鮮な気持ちで授業を受けることだってできた。時には懐かしいなあ、なんて思うこともあった。新しい両親だって至って普通。特別仲がいいわけでもなく、かといって仲が悪いわけでもなく。ごくごく普通、平々凡々な人生を、歩んでいた。――あの瞬間までは。
「……………………え?」
 流れる声は聞き馴染みがないはずなのにどこか引っかかる。引っかかりの原因を掴もうと思考する私の目の前で、テレビの画面が変わった。
 あ、と口から零れた音は、テレビ中の人物と鋭い音によって遮られる。暫く呆然と観客席が沸く映像を見つめて、まだ全然理解が追いついていない脳を放置した口は勝手に呟いていた。
「ハイキューやんけぇ……」
 思わず前世の方言が出てしまうほどの衝撃に、その場で固まっていることしかできなかった。自分の産声を聞いた時よりも大きな困惑。だけど我に帰るのは早かった。
 まさか輪廻転生をした先が、前世で好きで好きで仕方がなかった作品だなんて、想像すらしていなかった。むしろ漫画の世界って本当にあるんだ、世界って不思議だなあ、と思考を放棄した。もし私が当事者でなければ「そんな夢物語あるわけないやん」と笑っていたに違いない。しかし好きな作品の世界に生まれ変わったのならば、これからの行動は決まったも当然だった。
 ――推しに! 会いたい! 会えなくても推しが通ってた(通う予定の)学校に! 行きたい!
 悲しきかな、オタクは生まれ変わってもオタクのままだった。

 両親に高校はここに行きたいと伝えると、次中学校なのに何言ってんの? と返されてしまった。それはそうである。来年からはピカピカの中学一年生。高校を考えるにはまだ少し早い。それでも行きたい場所が場所だから、早めに伝えておく必要はあるだろう。何せ電車と新幹線で約三時間。直前でそんな遠い場所はダメだと言われたら落ち込む。それはもう心底落ち込む。早めに言っておいて「前から言ってたし受験ぐらいは……」の言葉を引き出したい。もちろんその言葉を引き出した暁には滑り止めも受けずに一択だけれども。
 行きたいと言い続け、成績もキープし両親から無事「前から言ってたし……」の言葉を引き出せた私は、今年度から稲荷崎生である。一人暮らしは危ないからと、今日から母親と二人暮しだ。さすがに一家で引越しをするには父親の仕事が許さなかった。
 やったー!! 叫びたい気持ちを押さえつけて冷静を装う。右も左も、どこもかしこも聞きなれた方言に囲まれている。つまりずっと飛び出そうになっていた方言が出てしまっても、影響されたと思われるだけでなにも不自然ではない。新しく生まれ変わった時には周りは標準語を使う人ばかりで、何気にずっと気を張っていたのだ。それが方言になってしまっても問題がないと言うだけで解放感がある。
 新品の制服を身にまとって、心が踊るままに道を歩く。今は慣れない道がどれぐらいの月日で慣れていくのか考えることさえ楽しい。冬の寒さはとっくに消え去りぽかぽかと暖かな陽気が空気を満たしている。まだ動きにくいブレザーが暑くて、歩いているとじんわりと背中に汗が浮かんでいく。学校に近付くにつれてだんだんとわたしと同じ稲荷崎の新入生が増えて、その誰もが新しい始まりに期待した顔をしていた。
 推しがいるかどうかは置いておくとして、推しと同じ学校に通えるというのはこんなにもモチベーションを上げてくれる。軽い足取りで、同じく新入生の後ろをついていく。土地勘がないせいでまだ道を覚えられていないからこれは早急に覚えなければならない。
 鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な私は、正門を潜って更にテンションを上げる。
「うおぉ……!! ここが……稲荷崎……!!」
 最初に向かうのは体育館だ。入学式を終えてクラスの発表があるらしい。発表後、簡単な挨拶をして教室に案内されるらしい。楽しみだなぁ! もしかしたら原作に出てくる誰かしらとは同じ学年になっているかもしれない。もしかしたら、誰かと同じクラスかもしれない。確率としてはかなり低いけれど、考えることは自由だ。
 周りが体育館に向かう流れに着いていこうと体の向きを変えた時だった。不意に視界に入ったものを確認するために動かし出した足を止めて、もう一度元の場所を見る。
「ヒェ……」
 喉を絞ったような声が溢れ出る。あまりの唐突さに思考が停止して、その場から目を離せないでいた。
 ぱちり。しっかりと目が合ったのは、漫画「ハイキュー!!」において一番の推し――角名倫太郎だった。突然現れた推しに混乱するよりも先に全てが停止する。角名倫太郎もこちらのことを完全に認識してしまったようで、驚いたように目を丸くしたあと、ゆっくりと柔らかい笑みを浮かべた。にんまり、と効果音がつきそうなほど口角は上がっているけれど、その顔は、むしろ――
 はく、と角名倫太郎の口が動いている。そこそこ距離があるので何を言っているのかまでは聞き取れない。しかし、その言葉は確かに私に向けられたものだと理解していた。目が合っているから私に向けているのだと、しかし、自分に宛てていると思ったのはなぜだかそれだけが理由ではなかった。
 先に目を逸らしたのは私の方。これ以上推しと目を合わせていたら自分の感情がどうなるかわからなかった。そもそも、私は推しに認知をされたいタイプでもない。多少の会話をしてみたいとは思うけれど存在を知られるのはあまり嬉しくない、良くて少しクラスの離れた同級生ポジションが一番嬉しいタイプだった。まだ突き刺さっている視線は、角名倫太郎が私のことを見ている証拠。意識してしまう体は硬いまま、ぎこちない動きで体育館へと向かっていく。気にしないように意識すればするほど視線を感じてしまって、私は足早にその場から立ち去った。手と足が同時に出ていたことは、自覚済みだった。

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