よだるい


蜜の味





 雨の日は少し寂しい。そんな事を隣人が口から落としたのは何時の年だったか。思い返せるようで、記憶を拾うことが難しいような時間が過ぎて仕舞った。何時でもどんな時でも思考の中心を占めるだとか、いつでも思い合っていると謂う程の、砂糖に漬け込んだような関係では無く、時間の余白の内に、ふと浮上してくるような奇妙な友人である。
 暗く重く、空気がまとわりついて来る。一層鬱陶しささえ感じる中で、あれはどの様な回路で以て、これを寂しいと形容しているのだろうか。しんと静まり返った壁を眺めても、返事が来ることは当然なかった。

 何時だったか、雨が窓を叩く音に交じって、廊下からひたひたと静かな音が響く事があった。皆寝静まって音という音など立ちようも無く冷え切ったような頃だ。極力抑えられた音で、それが人の物と理解するのに時間は要さず、かと言って誰の物とも判別の付かない其れに、緩やかに興味が沸く。薄い壁を隔てただけの距離だ、安易に扉を開けさえすればすぐに答え合わせが出来る。身体を起こすのも酷く億劫だが、何かを得る時に対価が必要なのは世の常だ。

「矢張りお前か」

 ゆるりと扉を開ければ、想像した通りの人物が其処に居た。戸を開かれる事など想像していなかったろう顔を曝して、豆鉄砲なんぞを食らっている。

「…どうして」
「足音がしたからな。なんだ、随分と困っている様じゃあないか」
「困っている、のかは、分からない……ただ、どうにも眠れなくて」
「……眠れるかは兎も角として、一杯くらいは付き合ってやっても好い」

 足元に視線を落として曖昧な表情を張り付けて口を開く姿が、特有の物な事を認識している。仕様がない、或いは唯の口実かも識れない。又は気紛れとも謂うだろう。どうか、と返答を促してやれば、戸惑うような首肯を認めた。



 自分の気が向いたときに手を付けようと考えていた酒を戸棚の奥から引っ張り出す。容易のいい友人は、その間に洋盃₍コップ₎を二脚用意している。

「肴なんて上等なものは無いが」
「うん…大丈夫」
「何、お前の話を肴にする心算だ」
「話…? 面白い事なんて、何も。…抑々僕は下手だし…」

 おずおずと酒を口に含んでいた奴は、揶揄うように謂った俺の言葉に驚愕を示して目を丸くした後に、又視線を水面へ映した。元来の不安がりや自身の無さから来る様な言葉だった。

「何も面白い話を聞かせて欲しくて謂ったんじゃあない。単に気になる事がある。……前に話をしたろう。梅雨は気が滅入ると謂う、あれだ」
「梅雨……何か話したっけ」
「前に梅雨は寂しくなると謂ったろう」
「そうだね、雨が続くと、気分が優れないから…」
「梅雨に気が乗らないのは理解が及ぶが、お前のその寂しさと謂うのが中々如何して理解に辿り着かなくてな。実態、と謂うのが気になっていた処だ」

 合点がいった双眸が、真逆と此方を見つめる。同意をするように手を掲げれば、洋盃からカランと氷の揺れる音が鳴る。友人は観念したように居住まいを正して、僅かに緊張したような口許を動かした。

「このくらいの時期になると、空気感が冷たくて、それでいて纏わりつくようで苦手なんだ…陽が沈む頃だと、どんよりとしている空気が輪をかけて濁っていって、部屋の中が陰って青黒くなるでしょう、あの色が凄く怖かったな。昔は家に一人でいたから、刷り込みなのかも、知れない…」

 ゆったりと紡がれる音に耳を傾けて、ぼんやりと其の姿勢を眺める。成程如何して理解が及ばないことにも納得した。色の話となれば、認識を行う神経が俺とは異なるものだから、簡単に考えが付かない訳だ。其れも表現媒体の相違と謂うのが大きな原因だったのだろう。

「確かお前は母子家庭だったか」
「そう。母さん働いていたから、夜も帰って来るのが遅くて……一人で過ごすことが殆どだったかな。…部屋に落ちる影がどんどん濃くなって、色も黒くなっていって、部屋の隅から呑込まれていくような、そんな感じがあった……」
「成程な。詰まり端的に云えば、恐怖だと」
「簡単に言えば、そうなる」

 また成程、と相槌を打てば一度終終止符を打つ様に空気が分断される。曖昧な空間で友人は誤魔化すように酒を含んだ。

「それで、その恐怖心が如何寂しさに繋がったんだ」

 核心に触れないように話していたであろうことは察していたが、生憎気遣いなんて柄でもない。其処まで来た魚をそう易々と逃がす性分でもない。そうなれば、多少のリスクがあっても、確信的な、より柔らかいところを覗きたい。そんな欲は、物書きなら至極当たり前だろう。
 恐れる様に、視線から逃れたそうに、目を泳がせて、結局行きつくところを選べず力無く視線をまた手許へ落とした。洋盃に触れる指先に俄かに力が込められている。

「……じわじわと広がる黒が、僕の体の先からゆっくりと浸食しているようで、今も少し、怖い。……末端から少しずつ冷えていくようで、精神的にも、その冷えがこみあげているような感じ。……如何伝えたらいいんだろう、身体が冷え切ってしまって、とても辛くて……誰かに温めて欲しい、くらい……不安で、僕一人しかいないみたいで、凄く…寂しくなる…」

 目の前で友人は少しずつ話をつづけた。一区切りが着く頃には、泣き出しでもするのではないかと謂うほど、声が震えて一層同情さえする様子だった。今まで打ち明けた試しも無いのだろう。正に確信と謂うべき心情に、酒で潤すことのできない臓腑に一時の充足を感じずには居られない。
 憐憫を込めて力のこもった指先を撫で上げてやれば、は、とした様に漸く視線を交えた。

「其れで、今日の様な日は特に”そう”なんだろう。苦しくて、仕様が無いんじゃあ、ないのか」

 視線はすぐに外された。決して拒絶的な物でなく、恥じらいを込めて。
 たった一時、空気を真面に吸うことが出来たからとて、其の行為は何の解決にも繋がらないことは明白で、或いは自身の持て余した熱で彼を埋め尽くしてやりたいだけだったかも識れない。其れでも何時までも終わることも途切れることも無い彼の状況を、酒を呷るように神経を焼き切って仕舞って、気を紛らわせてやりたかったのかも識れない。

 後に残ったのは空になった一対の洋盃だけだった。



2021-07-08




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