95度の飽和化合物
ぼんやりとした意識の中で馴染み深い匂いを感じた。屹度横で寝ていた筈の人がするすると逃げて行ってしまって、気紛れに珈琲を淹れてくれているのだろう。本当はもう少しだけ、この暖かさに包まっていたいけれど、可愛い恋人を一人にしておくのも問題だし、何より置いて行かれた俺の方も少し寂しいので、後を追う様にベッドを抜け出した。
もう何度も見た後姿は何時もの白衣姿ではなく、ガウンに少し厚みのある羽織を羽織っている様なラフなもので、初めて会った頃の鎧を何枚も着ている様な雰囲気からは随分と気を許されたみたいで自然と頬が緩む。
「相模さん、俺を置いて起きるなんて、酷いね」
「おはようラバー君。貴方が起きるまでに珈琲でも淹れようと思って」
ゆるりと腕で身体を囲い込めば、おやおやと困っているのと嬉しいの間の様な音声で少しだけ首をこっちに捻ってくれた相模さんと目が合う。彼を見ていると酷く安心する。自分がこんなに誰かに好意を剥き出しにする事は人生の中でそう多くなくて、偶に戸惑ってしまうけど、それでもこの温度が酷く心地好くて、ずっと終りが来なければいいのにと切に願ってしまう。
おはよう、と頬や口許に接吻を落としつつ、肩口からコンロを見遣れば何時もとは違いポットではなく小鍋でお湯を沸かしているらしく、その中には温度計の様なものが差し込まれている。
「それは温度計? 今日は随分と細かいんだね」
「ええ、調理用のね。熱湯の温度を計っているんです」
小鍋の状況がなんだか普段相模さんがしているみたいな実験の様な雰囲気が出ていて思わず笑みが零れた。ただ、何時もなら大体お湯が沸いた位で火を止めてドリップしているだろうに、今日の温度にこだわる様な理由が気になってしまう。
思案の顔をしていたことを悟られたのだろう、隣から楽し気な声が聞こえた。
「偶にはこう言うのも悪くは無いでしょう? それに、どうせ飲むんなら美味しい方がいいと思って。今日は幸いお互い休みで、ゆっくり珈琲を淹れたところで咎めるようなものは何もないんだから」
ね、とまた人好きのする顔が柔らかく笑いかける。確かに、せっかくの休みならゆっくりと部屋の中で過ごすのも良いかもしれない。それに珈琲を淹れてもらえたのなら尚更だ。ただ、それと温度の関係が矢っ張り噛み砕けなくて、大人しく隣の彼に説明を求める。
「実は深い関係が有るんですよ。紅茶に適温があるでしょう? それと同じで珈琲にも豆の種類や焙煎の程度によって、適温が変わるんです。だから、好きな味にするにはコツが要るみたいです」
「へえ……成程ね。矢っ張り相模さんって色々と詳しいね」
「そんなことないですよ。僕はちょっと君より長く生きてるだけ」
冗談めかした照れ隠しをもらう。そんなこと考えている訳じゃないだろうに、俺の考えを否定せず賞賛を受け取らないでもなく、程々の距離で保つ。
今日の相模さんはとても機嫌が良さそうだ。目盛を確認するように温度計を見たり、時計を確認する仕草を見ると、本当に実験をしているみたいでくすりと笑みが零れる。成程、そうなるとこの几帳面なような計量も彼には楽しめる素養があるのだろう。普段研究で部屋に缶詰めになっている彼だけど、まさか生活でまでこんな素養を発揮するとは、本当に面白い人だ。
「それで、コーヒーの適温ってどれくらいなの? 紅茶と同じくらい?」
「そうですね、深煎りの豆なら90から95度位だとより深みを出して抽出できますかね」
「成程。相模さんも深煎りの方が好きだよね」
「ふふ、そうですね」
「チョコレートに合うから?」
「それは君も一緒でしょ」
からからと目の前の人が鈴を転がすものだから、それがとても愛おしくて、面白くてつられて喉を鳴らした。前まではこんなに簡単な会話だってままならなかった。そう思うと俺たちは随分長い時間を歩んだのかもしれない。それでもお互いにまだ壁はあるだろうけど、少しずつその壁の内側が解るようになってきたんじゃないかと思う。
フィルターから液体が落ち切って、相模さんが満足そうにそれを取り外す。カラフェに溜まった珈琲を使い慣れたマグカップに注ぐ。放っておくと当たり前のようにマグを二つ持とうとするから、他に出すものを頼んで変わりに運ぶ。テーブルに置いたマグの水面はゆっくりと渦を巻いていてミルクを注ぐと可愛いんだろうなんて逡巡する。やっぱり相模さんがチョコレートを持ってきてくれて、俺に手渡しつつ向かいの席に腰を下ろした。
ぼんやりとした会話を何往復かして、そのまま何方ともなくマグに口をつけ、内容物を胎内へゆったりといれていく。慣れた味の中に見慣れない風味を感じたが、決して厭なものでは無く、寧ろ好感を覚えるようなものだった。
「ね、やっぱり気にした甲斐はあったでしょう?」
「そうだね、凄く好みだし美味しいよ」
「そうでしょ、僕が淹れた珈琲は美味しいんですよ」
「へえ、それはどうして?」
嬉しそうに目を細めた相模さんは、ほんの少し意地悪な雰囲気で俺に視線をくれて、改めて手を組みなおしていた。尋ねれば、またにんまりと楽しそうな表情をして口を開いた。
「そもそも、珈琲は他人に淹れてもらう方が美味しいんです。それに、僕の場合は貴方限定で多量の愛情も入れてある訳ですから。ね、当然でしょ?」
「ああ、それは確かに。ふふ、成程ねそれは納得だなぁ。…そうしたら明日は俺にもお返しをさせてね、相模さん」
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