勘違い


「息抜きに付き合ってよ」と連絡があったのは香屋子にとって思いもかけないことで、こっちにだって都合というものがあるわけなのについ二つ返事で受けてしまったのは、やはり甘いなと自身で思うほかなかった。今は修羅場というような状況でもないし、惚れた弱みだ、仕方ない。







呼び出されたのは個室の居酒屋で、小洒落たところでもなんでもなくスタジオ近くの店で、一緒に仕事をしていた頃にも何度か足を運んだ場所だ。

「気分転換でアイデアが浮かぶなんてありえないんじゃありませんでした?」

席に腰を下ろしつつ問えば、

「天才じゃなくたって息抜きは必要なんだよ」

王子は不遜に言い放つ。まったく、口の減らない。
ひさしぶりに顔を合わせたというのに、そんな感じがまったくしない。彼の様子が変わらないからだろうか。

「おひさしぶりです。今日はどうしたんですか?」
「別に。有科さんどうしてるかなって」
「行城さんとなにかありました?」
「……まあそれもあるけど」

王子がテーブルの上に乗ったメニュー表を広げる。香屋子はそれを覗き込みながら彼の様子を窺った。
王子はたまにこういう微妙な顔をする。なにか妙なことを言ってしまっただろうか、まったく思い至らないのだが。

「『V.T.R.』順調ですか?」
「まあね、チヨダさんが好きにさせてくれるから。行城さんさえ黙らせられれば」
「相変わらずみたいですね」

ビールとだし巻き、漬物盛合せ、ポテトサラダを注文する。

「せっかくのチヨダ作品なんだから有科さんとやりたかったなー」

不意打ちだ。まだアルコールも入っていないのに熱が走る。どこからか。わかっている、胸の奥からだ。

「……まるで殺し文句ですね」

悪い気はしない、どころか、嬉しさのあまり声が震える。王子にそんな風に言ってもらえる日が来ようとは。
香屋子だってその気持ちは同じだ。リデルライトの三話目の素晴らしさはもちろん、王子が大ファンだと言っていたから、暇を見つけては既刊を少しずつ読破した。

あのチヨダ・コーキの作品を王子が監督して作り上げていくのだ。思わずにはいられない。誰よりそばで見ていられたら、王子をサポートできたならどれだけよかっただろう。
だが行城は仕事のできる男だ。香屋子とはタイプが違うし苦手には思ってしまうが、その点は認めている。だからきっといいものが完成すると楽しみにしているのだ。

「本心だよ。俺は有科さんとならどこまでもやれるってわかったから」

卑怯だ。香屋子の気持ちを掴む言葉ばかり並べ立てて。
顔を見ていられなくて、テーブルに揃った料理を眺めてビールを喉へと流し込む。

「あんまり調子づかせないでください、なんかいろいろ勘違いしちゃうじゃないですか」
「有科さんがそれ言う?」

呆れた物言いにグウの音も出ない。王子はすでに、香屋子と迫水の一件を知っている。漏らしてしまったのは自分だ。

「あーやだやだ。こんな人に振られたなんて」

王子がふてたようにグラスを呷る。

「ちょ、なんですかそれ。王子さんは三次元の女性は誰でも一緒なんでしょ!?」
「誰でも一緒だけど誰でもいいわけじゃないよ」

なんだその言葉遊びは。本当にこの人は困らせるのが上手い。アルコールのせいではなく頭痛がしてきそうだ。戸惑いを誤魔化してだし巻きを口に運ぶ。

「勘違いしちゃえば?」
「え」

顔を上げれば視線が絡む。淀んだ色のない、まっすぐな目がそこにある。

「勘違いしろよ。……俺も勘違いするから」

ふいと逸らされた視線。頭がついていかない。
個室の外から聞こえていたはずの喧騒が、消えてしまったかのように感じた。





執筆:16.03.23