悪辣ピエロ 10


「あ、おかえりなさい」
「お疲れさまです。主任」

ホテルの部屋に戻った玲子を迎えた二つの声に、なんとなく気が抜けた。事件の当事者のはずがほのぼのとした雰囲気が漂っている。所轄の刑事はもう帰っているし、緊迫感というものがない。
テーブルにバッグを置けば、菊田が冷蔵庫から缶ビールを取り出して手渡してきた。受け取ってベッドに腰を落ち着ける。

「なぁに、このゆったりした空気」
「ゆったり……してたかもしんないですけど。昔の話とかしてたんで」
「へぇ。子供の頃とか?」
「そうですね。って言っても年が離れてますから、千紗が物心ついた時には俺もう中高生なんで子供かどうか微妙っすけど」

確かにそうか。千紗の記憶には最初から菊田がいても、菊田からすれば途中から現れた存在になるのだ。

「それだけ離れてると共通する話題とかあるの?」
「うちの兄のこととか、が多い、かなぁって」
「ああ、お兄さん。菊田の幼なじみ」

妹に、頼りにならないと評される兄。それでも今見る雰囲気からして慕われてはいそうだ。どんな人間か想像つかないが。
缶を傾けつつ、玲子は和やかな二人のやりとりに身を任せる。

「プライベートでは若干の引きこもりなんすよね。最近会ってないけど変わってないみたいです」
「和くんと違っていろいろがんばってないから。私もそうだけど」
「俺? がんばってるって?」
「仕事もプライベートも……ううん、なんでもない」
「なんだよそれ」

……なんだよとは、こちらが言いたい。仲のよさ見せつけてくれちゃって。
なんとなくもやりとする思考はおそらくアルコールのせいではない。
いつになくやわらかな表情の菊田は普段の刑事の顔をしていない。見慣れない男のようで落ち着かない気さえする。

ぐびり、喉にビールを流し込む。ほろ苦さと炭酸が身体の中に落ちていく。
ちょっと疎外感、だなんて大人気ない。
菊田が千紗を気遣って穏やかな会話をしていることは明らかなのに。

「あ、すいません主任。お疲れのところ」

小さくこぼれたため息を、菊田はそう受け取ったらしい。この男は本当に、よく見てるんだか見てないんだか。ポイントが高いとも低いとも言い難い。
玲子は頭を振った。

「なんともないわよ。まだ捜査始めたとこなんだし」
「そうっすけど、ま、そろそろ俺帰りますね」
「んー、お疲れ」

このまま直帰する菊田は持ち込んでいた手荷物を持ち上げた。玲子は空いた缶をサイドテーブルに置き、立ち上がる。

「千紗、いい子にしてろよ。主任の言うこと聞いてな」
「子供のお留守番みたいなこと言わないでよー」

ドアの前まで見送る千紗に「はいはい」と菊田は手を伸ばす。頭上をぽんぽんと跳ねる手がやさしい。
玲子は思わず目を逸らす。以前髪を撫でられた時を思い出した。なんだか居心地悪い。
そうか、頭を撫でる仕草はこうやってこの子をあやしていた名残なのかもしれない。
身じろいでいると千紗は部屋の中に引っ込んで、残された二人は向かい合う。

「それじゃあこれで。千紗のことお願いします」
「わかってる」
「でも主任もちゃんと休んでくださいよ」
「わぁかってる」

軽く睨み上げれば、くしゃりと笑う顔と目が合う。

「それでは失礼します」

ドアを開けて振り返った菊田が小さく頭を下げたせいで「おやすみなさい」その声が――――近い。

おやすみ。返した声は、どこか無愛想になってしまったのだが。





遠く近い空気

――自分のどこかがざわめいて





執筆:12.05.11