エレベーターハプニング
まさか、だった。
突然のことに、円山詩織の頭のなかは真っ白になる。手にしていた茶封筒が腕をすり抜け落下する。それすら他人事のように思えた。
――ガコン、音を立ててエレベーターが停止した。
庶務二課から持ち出した書類を各部署に提出している最中のことで、あとは残す総務部へ向かうべく乗り込んだ途端のことだった。開いたエレベーターに偶然にも左門大介がいて「あ」「左門さん!お疲れ様ですっ」なんて挨拶をした矢先に。
「大丈夫、円山さん?」
「え、ええっと……はい」
幸いにして明かりは維持されたまま。停電ではないということだろう。
思考が止まってしまった円山とは違い、左門が冷静に管理室への連絡ボタンを押す。
「すみません、エレベーターが停止して閉じ込められてるんですけど」
簡潔な遣り取りで判明したことは、午前中に故障が起きたようで急遽点検を行うために停止させたとのこと。予定外の作業だったので連絡が行き届いていなかったらしい。
通話を切った左門が壁に寄りかかった。
「ちゃんと封鎖しとけっての」
円山はどうにか平静を取り戻し、落ちた茶封筒を拾い上げる。名ばかりとはいえ課長代理なのだ、書類紛失などするわけにはいかない。
同僚である庶務二課の面々は、部屋を出る段階で飲みの話をしていたので、まだ昼を回ったところではあるがもしかしたらすでに飲み会モードに突入してしまっているかもしれない。その場合自分のことなど忘れ去られている可能性は高い気がする。
「……狭いところとか大丈夫?」
「あ、はい、特に苦手とかじゃないです、ただ……やっぱり閉じ込められてるって思っちゃうと、ちょっと……」
「まあそうだよな。俺もなんか息苦しく感じるよ」
封筒を腕に抱え、左門とは反対側の壁に背を預ける。
「そうだ、左門さんこそ、ここ階数で言うと結構高いですけど……」
「別にそれは平気。じゃなきゃこんなビルで働けないでしょ」
「ですよ、ね」
彼が高所恐怖症だとは、とあるきっかけで知った事実。最近は克服しようとしているようなのだが、なかなか上手くはいっていない様子だ。
あの時左門が口にした「君がスカイツリーに行きたいって言ったんだろ」との台詞を思い出して、円山は俯いた。うぬぼれてしまいそうで、期待してしまいそうで、でもそんな馬鹿なと思えて、どんな顔をすればいいのかわからない。
「災難だよな、ようやく会社も落ち着いてきたっていうのに」
左門が壁から背中を離し、伸びをひとつ。
「みなさんの努力の賜物ですよね……!」
「それは君もだろ」
小さな笑い含みの吐息は隣へと。床に座り込んだ左門を見下ろせば、苦笑を向けられていた。
「君、自分のことは過小評価だよな。俺のこととか庶務二課の人たちのことは、すごいすごいって言ったりしてるのに」
「そ、そうでしょうか」
「うん」
言われて首を傾げるものの、自分としてはこれが正しい評価だと思っている。会社の立て直しに関与するような仕事もしていないし、何より自分にはもともと棒高跳びしかなかったのだ。それを失ってからの日々を思い出せば、自信を持てることなど見つけられない。
「すみません……」
「別に謝ることじゃないけど」
言って押し黙る左門の隣に、ずるずると座り込む。
隣り合わせの沈黙。膝を抱えて息を詰める。彼に相応しくなりたいと思うのに、謝ってばかりの自分が情けない。
落ち込んで会話だって出てこない。服が汚れちゃいますね、だとか、そろそろ動かないでしょうか、だとか。話しかけられる要素はあるのに。
「……それにしても変に気を使う相手と一緒じゃなくてよかったよ」
「…………私でも、ですか?」
「あと、妙なことになりそうな女子社員とか」
「えっと……」
「トラブルは何であれ御免だし。誤解とか面倒臭い」
どことも知れないところを見つめた左門はため息混じりだ。
――これは、どう受け止めればいいのだろう。
一緒に閉じ込められたのが自分であったことは、彼にとってどのような意味を持つのか。気を使わない、妙なことにならない、それはどういう、
「ああ、こんなとこにいたよ」
不意に第三者の声が響いた。とてもよく聞き知った声。
驚いて見回せば、いつの間にか僅かに開いた扉。腕をかけて凛々しくも覗いているのは、やはりよく知っている顔で。
「坪井さん!?」
「出ていったままなかなか戻ってこないんで探してたんだよ。まったく、なにやってんのかね、あんたって子は」
エレベーター内に乗り込みまるで保護者のように言い放つのは、庶務二課のリーダーといえる存在の坪井千夏だ。その背後には他の面々もいるようで「ほんと世話かけさせないでよね〜」だの「だから階段が吉だと言っていたのに」だの聞こえてくる。
「みなさん助けにきてくれたんですかぁ……!?」
口は悪いがこうやって探し出してくれたことに円山は感動するものの、左門はいたって冷静に顔をしかめ立ち上がる。
「どうせ……」
「あんたの持って出たその封筒、こっちに寄越しな」
「え、はい」
素直に手渡すと左門が物言いたげに視線を向けてくる。首を傾げたタイミングで、坪井が茶封筒から原色の目立つ紙を引っ張り出した。
「やっぱりあった。一杯無料人数制限なしのサービス券」
「へ?」
「探してたの」
「円山さんが書類をまとめた際に紛れたものと思われます」
「ええっ?」
座り込んだまま見開いた目を白黒させる。隣から差し出された手を取れば引き上げられ、左門の口からため息が。
「そんなところだろうと思ったよ」
「そんなぁ……」
などと話している間に、足元がゴトンと揺れた。不安定に動き、停止する。今回は正常な停止だろう。
扉が完全に開き、左門は外へと出ていく。残された円山は、放されて支えられていたことに思い至った。
「ほらほら、さっさと出な!」
「抉じ開けたのが見つからないうちにとんずらしないとね〜」
「とんずらって……古いな」
「なんか言ったかしらァ?」
「いーえ。それじゃあ俺はこれで」
呆れた表情のまま、それでも離れていく後ろ姿が手を上げていて、「またな」と聞こえた。気がした。
「はいっ、また!」
緊急事態から脱した解放感からか、感情の振れ幅が大きくなりつい顔がゆるんでしまう。
「円山さんの顔のゆるみが普段の三割増しですね」
指摘され慌てて両手で顔を覆う。
「……あ」
結局のところ、左門は二人で閉じ込められたあの状況をどう思っていたのかわからないままなことを、思い出した。
執筆:13.10.16